2010.9.24.
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あったかいお茶が恋しい季節。
朝の紅茶タイムが戻ってきたよ♪
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★ル・シュクルうさちゃん、最新情報★
その後もウサギ軍の侵略が続いている橘家ですが、巷ではル・シュクルうさちゃんシリーズ、秋の新作が続々登場しているもよーです。←写真は、いち早くゲットして来た新作マグなのよん♪
↓↓裏はコチラ♪
特にピンクのお洋服を着たチビうさがまたカワイイのだ♪
12ヵ月マグを揃えたので、もうマグはいらないぞと思ってたのについつい買っちゃう、この可愛さ。特に白うさちゃんの方は写真よりピンクの色合いが甘くて、めちゃ好きな色味なんです。周りに描かれてる赤いのはイチゴ。茶うさちゃんのは"たまごいろ"という感じの薄いイエローでこれまたぐー。緑のは四葉のクローバーね。どうしてもセットで欲しくなっちゃうよ♪
この秋は、他にも和食器風のお皿&おそろいマグとか、カレー皿とか、欲しいぞと思わせるグッズがいっぱい出ているので、ぬいに続いて食器もずいずいずいっと増えてしまいそうなんですが、それに加えて!
なんと! とうとう出るぞ、待望の着せ替え!!!!
販売店さんのウワサでは、10月下旬頃発売だそうですが、入荷予定は遅れる可能性もアリ。でも、とにかくついに登場なのだ!!
いつかは出ると思ってましたが、なかなか出ないもんだから、発売元に直訴しようかと思ってたくらい私はコレを待ってたんです。
お洋服の種類は6種類で、下着だけ着ている着せ替え用のウサぬいも一緒に出るみたい。でも、これまでのバージョンのコでも薄手のお洋服を着てるコには上から着せられるものもあるんじゃないかな。サイズは大サイズか小サイズかまだちょっとはっきりしないので、分かり次第お知らせ致しましょう。
とゆーことで、ますます発展のル・シュクルうさちゃんたちですけど、この先はお洋服だけ新バージョンが次々出てくることになると思うので、うちの本体増殖はなんとか止まりそう。ちなみに、現在うさぬいは118体、ぱぺ8体で(わはははは)、これに昨日は4体、通販で注文しちゃったから計130体まで来てます。注文した4体のうち1体は、とうとう買ってしまった超特大サイズのコで、高さなんと85センチ。超Bigハボぬいに匹敵するデカさのようです。しかし!!
先日、通販では高さ120センチという超々特大サイズが発売されてしまい、私としては、そっ、それだけは許してっ、状態なんですけど、果たして我慢しきれるかどーか自分でも分かりません♪
それにつけても凄い人気だなと思うのは、白うさ、茶うさ限定5体ずつ入荷したという超々特大サイズのうち、半分の5体が僅か1日で売れちゃってたこと。120センチなんてそんなデカいもの買ってって、皆さんどーなさるんでしょうね?
やっぱり、飾っとくんでしょーか?
抱きマクラになさる?
とにかくこの状況から見るに、どう考えてもおそらく世の中には、うちよか大量のウサぬいに埋もれてるとか、全バージョンコンプしてるとかゆーヒトが、絶対存在するはずだと思うんですけど...???
ま、そんなこんなで待たれる着せ替えなんですが、ちなみに2011年カレンダーも既に出回っています。
では、最後に先日手に入れたパペをお見せしておきましょう。これは前に写真出したチュニック着たコより前に発売されてた最初のパペで、初期バージョンだったせいか、次に出たのよかぷくぷくしてます。ちょっと手は入れにくいけど、それもまた良し♪
そして、ご覧下さい。大サービス、ミニうさつきつき♪
本体も可愛いけど、これがまたキュートなのだ♪
こちらだけでもマスコットとして商品化できそうじゃないですか?
ブローチにしてあったりしたら、
私は絶対買ってしまうぞ!!
★カビブロック365★
この夏、庭掃除と同時に盛り上がってやってたのが、お風呂のカビ取り。
と言っても、いつも換気には気をつけてるし、床面は折にふれて掃除してるので、そんなに酷くカビてたというわけではないんですが、前回、徹底的にタイルのメジカビ退治をやってから既に6〜7年は経ってると思うので、壁面メジにぼちぼち黒ズミが目立ってきてたんです。で、買ってあったメジカビ取りでキレイにしたんですけど、壁面全部やるとなると、これがけっこうテマかかるのよね。
せっかくキレイにするんだからこのままの状態を保ちたいが、定期的にやるってめんどいよなあと思っていたちょうどその時、通販カタログで約1年間カビをブロックしますとゆー、写真の溶剤を見て購入を決意しました。お値段は1本1760円(2010/9月現在)で、一般的な広さの浴室なら、壁面、床面全部塗って十分足りるくらいです。
床面なんかはよく水を流すので、さすがに1年はもたないでしょうけど、あまり水のかからない部分の場合、換気さえしっかりしておけば定期的に塗布し直すだけでメジカビそのものを防止できる可能性ありそうですね。壁面上部なんかは掃除しにくいけど逆に水はあまりかからないから、コレ塗っとくとお掃除かなりラクになるかも。床面にしても、何もしないよりは遥かにキレイが長持ちするんじゃないかな。使い方はカンタンで、掃除のあとスプレーして塗りのばすだけだから手軽です。ただし、塗ってから最低6時間は水を流してはいけません。
やるとなったら徹底的にやらないと気がすまないタチなんで、今はお風呂全体、すっかりキレイになっててすっごく気持ち良いんですが、これがどのくらい持続するか、三ヶ月ごとくらいに使用感をレポートしてみたいと思ってます。お楽しみに。
2010.9.23.-9.24.
★理想のじーちゃん像★
・この話について初めて読まれる方、登場人物等についておさらいしたい方は主要登場人物、用語等解説をご覧下さい。
・また、この話については2005年8月からAyapooで断片的にプロットをご紹介しています。メインストーリーの小説本文はまだ公開していませんが、興味がおありの方は専用のSTORY
INDEXをご参照下さい。Ayapooの過去ログ内の記事を順を追って読むことが出来ます。
前回は、あやぼー理想の女性像について書きましたが、今回は"理想のじーちゃん像"について考えてみたいと思います。人間誰でも必ずトシを取る。これはもー、いくらアンチエイジング技術が普及しても避けられない現実であって、そうすると問題はどのようにトシを取るかとゆーことではないかと思うんですね。
私は"原点0定義"という概念を持ってまして、それは"人間はどのような生まれつきをしようと、生まれた時点の社会的価値は0である"という定義づけなんですけど、本来、これが"平等"という概念の基本でなければならないと思ってます。"平等"という概念は、封建意識の撤廃に役立つものではあるんですが、そもそも封建制の何がいかんかったかとゆーと、本人には何も責任のないこと、つまり親がどうとか、身分がどうとかで、その個人の努力に基づく発展が阻害されるという点が大きい。私に言わせればこれは"自我の圧殺"であって、そんな制度の中にいて人間の幸福が促進されるわけはないじゃないですか。そこで、"個人に由来しない事柄で差別はしない"という社会的取り決め、つまり"平等"という概念が"人間の幸福を促進する"という目的に適うと考えられるわけです。
しかし!
問題は昨今、この"平等"という概念を不当に拡大解釈している連中がいることで、彼らのリクツは"原点0"ではなく、人間の価値は"どんな生き方をしようと、ず〜っと死ぬまで100"なんだな。これは本人が気づいていようといまいと"人間だったらどういう生き方しても、この世で一番価値があるんだ"みたいな傲慢かつ不当な意識を基盤にしていて、結果として短絡に"人間の価値をず〜っと死ぬまで100"とするから"人間ひとりの生命は地球より重い"などとバカげたことがホザける(ついでに言えば、そんな根性で生きてるから環境問題なんか引き起こすんだ!)。他には、こんなのもあるな。"この世に必要ではない人間などいない"、これも典型的情緒的バカの発言だと思うけど、私に言わせれば、"この世に、最初から必要とされる人間などいない"だ、
バカ者!! 社会で必要とされている人はみな、自己の努力によってその位置を獲得したんだとゆー、明々白々なことすら理解せず、雰囲気と自己陶酔だけで発言するから"情緒的バカ"というのだ!!
"生まれた時に原点0"ということは、その後、どのような生き方をするかによって、その人の社会的価値はプラスにもマイナスにもなるということで、だから、その生き方の結果として、この世に必要じゃない人間なんてヤマほどいるし、ゴミも山ほどいるとゆー、それが現実というものじゃないですか?
そして、その"現実"の蓄積が"歴史"なわけです。確かに歴史にも感動的な逸話なんてものはあるが、それは全体の中のごく一部でしかないのも事実。現実無視して、何を改善しようというのかね?
全く、バカは手に負えない。
先ほど、封建制は"自我を圧殺する"という点において"人間の幸福を促進しえない"ものだと書きましたが、これは基本的には社会、共産主義も同じ(ただし、これらは施行方法により機能する可能性はある)。突き詰めて言えば、全体主義に属する思想は概ね"自我を圧殺する"という点において、"人間の幸福を促進する"という哲学の根本命題に適わないと私は考えています。だから、個人主義に基づき"個人がその努力によって発展できる社会"であれば、リーズナブルかつ公平だと思うんですけど、どっか間違ってますかね、この考え方。
ともあれ、これでやっと当初予定のテーマに入れるわけですが、"理想のじーちゃん像"。それはやはり同時に"価値ある老人像"であるわけで、例を挙げればこれはもう、あやぼー的にはウィリアムじーちゃんとかロベールさんのような人たちですね。なれるもんならああなりたいと思うヒトは決して少なくないと思うんですけど、どんなもんでしょう?
"老人の現状は、その生き方の結果である"、これも私の持論ですけど、あのじーちゃんたちがああなのは、やっぱりきっちりするべき努力をして生きてきたことの当然の結果だと思う。お話では二人とも、元々が大富豪で貴族でって恵まれた生まれつきってことになってるけど、もしそうじゃなかったとしても彼らのような人なら"一代で財を築いた立志伝中の人物"になってたでしょう。だから結局人間、"精進努力"。
それに、いくら大金持ちだの貴族だのって身分に生まれついても、その器じゃなかったり、金に飼われるような性質しか持ってなかったら尊敬どころか蔑まれる老人になっちゃうだろうな。大きな資産だの身分だの持って生まれると、それを御するだけの人間的器が必要になるわけで(金目当てのバカも山ほど群がってくるし、心眼開いてないとやっとれんぞ)、それ無かったら、どんなに恵まれた立場に生まれても良い形で現状維持はできないしね。その器もないのに金だけ盛り上げれば尊敬されるとカン違いしてるような低レベルの成金どもは、その金のためにハイエナ呼び寄せてロクなことになってないって現実にだっていくらもある話でしょ?
お金もナマモノなんだから、あんまりタメこみすぎると腐るのよ。そもそもが、金に群がるようなサル集めてチヤホヤされて嬉しいか?
連中がチヤホヤしてるのは、あんたじゃなくてカネなのよって、誰か教えてやってよ。
そんなわけで、逆に言えばそういうゴミを集めやすい身分に生まれついて、それでもウィリアムじーちゃんやロベールさんが情の深い家族に恵まれてるのは、それに値する努力をコツコツやってきたからだと思うな。ま、現実にも、そういう羨ましいご老人は実在するでしょう。そういう人たちは高いレベルで学問を修める(実質カラの学歴だけじゃ代用にもならん)ことにより社会で役立つ人間になるとか、自分の生き方そのものでもって子供たちに範を垂れるとか、客観的見地に立ってやっていいことと悪いことの躾をきっちりするとか、身分や経済力と関りなくデキの良い伴侶を迎えるとか、それにまず自分が他人さまのご厄介にならないで済む知力、財力を蓄え、余剰ができれば楽しく人助け(余力でやる楽しみなんだから"自己犠牲の精神"なんてカンケイないよね。そもそも自分を犠牲にして幸せな人間なんているか?
不幸も伝染するんだ。余力がないなら、まず自分が他人さまにご厄介かけないで済むところから始めてくれ、頼むから。自分のことも出来ないのに、他人に気を回して自己とーすいしてる場合じゃないでしょって!)
そういう生き方の積み重ねの上に、ウィリアムじーちゃんとかロベールさんみたいな人たちの"羨ましい老後"って成り立ってると思うわけね。ま、"幸福なヒトには、ワケがある"ってとこでしょうか。何事も、やっぱり結果にはそこに至る過程があるわけで、そう言えばこれまたバカのよくやることのひとつに"過程を無視する"というのがある。妬みの激しいヤツってたいていこのテのバカで、そういう連中は"恵まれた人がそこに至るまでどんなに努力してきたか"をまるっきり考えないから、いい状態にいる人を見ると、大したことはやってきてない自分のことはタナに上げて妬むのよ。羨ましい状況に対する人間として正常な反応は、"ああなりたいから自分も努力しよう"なんだ。うちのお客さんには、努力もせずに妬みばっかり振り回すバカなんていないと思うけど(そんなのは入れないないように結界張ってあるもん)、そういうのは先天性、後天性問わずビョーキだから、さっさと治療してもらわないと困るよね。迷惑だもんね?
で、まあコトのついでにちょっとキツい話になりますが、昨今、何が情けないと言って日本の老人世代。もちろん以下は一般論であって、きっちりやることやって生きてきた尊敬すべきご老人も例外的にいらっしゃることは踏まえた上で言わせてもらいますけど、一般に、日本史上で彼らほど甘えた世代もおそらく他にはないだろうと思うのね。まず、現代の60代前後って「戦争体験者ですらない」という事実を忘れないで欲しい。つまり彼らは、その前世代のように、どん底状態を殆ど経験してないってことで、これは人格形成上、人間的な幅や大きさに影響する。そう書くと、彼らの育てたコドモ世代が校内暴力、家庭内暴力、ついでに若年層の非行など、ロクな問題起こしてない原因もおぼろげに見えて来ませんか?
つまり、彼らの多くには子供をマトモに育てられるだけの人間的な器が無かったのよ。実際、高度成長期に"今どきの若いもんは"と言われ始めたハシリのような世代でもあったわけだし。
では、以下にその罪状を記す。
・"高度成長期"という日本にとっての未曾有の歴史的好機を一代で食い潰した世代である
・ジジババはうっとおしいからと言って核家族化を進めた世代である
・自分のミエのために子供を有名大学にやろうとして受験戦争を激化させ、結果として教育の空洞化と破綻を招いた世代である
まさにこれらの張本人世代だって忘れてもらっちゃ困る。これだけやっといて、次世代にボロボロの状況しか引き渡せなかった老人を、いったいどーやって尊敬しろとゆーんだ、どーやって!!
"親の面倒を見なければならなくなるので長男と結婚するのは不利"だとか、コドモに向かっては"大学に入ったら遊んでもいいから"だとか、こういうセリフを一度でも吐いたことのあるヤツは全員極刑!!
なぜならば、こういう根性が日本の現状を招いた大きな要因の一部になってるからよ。
まあ、だからね、年金が減額されようが、老人福祉が行き届かなかろうが、少なくともロクな生き方して来なかった老人には文句言う資格ないと思うんだけど、そもそも誰が今の日本をこんなふうにしたんだ、誰が!!!
んで、結局てめーで育てたデキの悪いコドモがアテにならないからって、今度は国にタカろうってかい?
いい加減甘えるのヤメなさいよねって思いませんか?
第一、"老人を尊敬しない社会"を作ったのは、あんたたちなんだよって誰か言ってやって!!
そして、あんたたちの育てたバカなガキが、"大学入ったら勉強しな"かったために、どれだけ多くの一流企業が傾いたと思ってんの?
いや、もうこれはね、風潮に流されず、それなりきっちり生きてきた、モノの分かったご老人ならば、おそらくご自身でこそおっしゃりたいことだと思う。
そういう、前世代に破綻させられた日本社会の負債を、ぜっんぶおっかぶされてなんとかしてかなきゃならないのは若い人たちなんだから、せめてごめーわくにならないように小さくなってて欲しいというのは、マトモな若モノの語られざる本音ってヤツじゃないですかね。しかし、はっきり言わない限り、こんな明々白々なことでさえ甘えた根性のヤツらほど自覚せんのだよ。全く、困ったもんだ。
賢明な我々としてはせめてこの前世代の轍を踏まず、いずれトシを取った時に自分が生きやすくなるように現在を積み重ねてゆくしかないでしょうね。遊ぶのもいいけど、老後考えたらやっぱりそれなりの経済力は必要だし(別にそんな大金持ちになる必要ないけどさ)、そもそもトシ取ってコドモに経済的におぶさるというのはコドモが可哀想だと思いませんか?
老人が無能だと負担は後へ後へ先送りされてしまう。しかし、老人が有能なら後の世代に負担をかけずに済むんです。若いうちから準備するほど先に行くにつれてラクになるもんだし、尊敬される老人とは、"若い人たちより経験を積み、多くのことを知り、様々な意味で力を蓄えて助言を与えられるような人"のことで、それも出来ないでトシだけ取って"お年寄り"に成り上がれるわけないでしょう?
そこんとこ、もーちょっとよく考えなきゃいかんのじゃないかと思うんですけど、だから結局、私にとっての理想的な老人像ってさっき書いたように"経験を積み、多くのことを知り、力を蓄えてワカモノに助言を与えられる人"ってことなんだろうな。それってまさに、ウィリアムじーちゃん&ロベールさんみたいなヒトだと思うけどね。ああいう老人だったら、私は尊敬する。
★クロフォード家の事情★へ
2010.9.10.
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やっと秋晴れの雰囲気。
芸術の秋だ!!
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★浮世絵展★
ご贔屓のフィデリティさんが"特別鑑賞会ご招待"とゆーのをくれたので、今、神戸で開催されている浮世絵展を見に行って来ました。なんでも、フィデリティさんの本拠地はボストンなんだそうで、今回の展覧会はそこのボストン美術館に所蔵されているレアな140点を集めたもののようです。たぶん地元ってことで、美術館の後援とかやってるんでしょう。昨今、特にアメリカとかでは"文化に貢献してます"というのが良い企業イメージに繋がりますからね。
私としては浮世絵って積極的に興味持ってたわけではないので、これまで本モノを見たことって無かったんですけど、結論を先に言えばなかなか良かったぞってゆーか、思ってた以上に楽しめたって感じです。美術館の方の話によると、その前日は日曜日だったんですが、お客さんが二千人もつめかけちゃったようで、浮世絵って意外に人気あるんだなあと再認識しました。特別鑑賞会は休館日のとこを貸切って行われたのでそこまでヒトは多くなくて、おかげさまでじっくり見ることが出来ましたけどね。おまけに図録もプレゼントしてくれたし、喫茶室ではお茶に軽食まで出してくれたし。ありがとう!!
フィデリティさん!!
またこういう機会があったら、ぜひヨロシク!!
とゆーことで、この浮世絵展。何がそんなに良いかというと、まず何よりも二百年以上前のものにしては保存状態が良好で、描かれた当時の色彩がかなりはっきり残っているというとこでしょう。周知のように浮世絵は明治時代にかなりの量が海外に流出していて、ボストン美術館のものは日本からコレクションとして収集家が持ち帰ったものなので最初の状態からして良好だったんでしょうけど、中には「絵」として流出したわけではなく、ひどい話ですが輸出用の陶器など、ワレモノの包み紙にされちゃったなんてこともかなりあると聞いたことがあります。当時の日本人にとって江戸時代の浮世絵なんて、それこそ古新聞程度の価値しかなかったのかもしれませんね。
そんなわけで、我々が日本にいて日常目に入る浮世絵ってけっこうハゲちょろけとゆーか、状態が良くないものの方が多いらしく、結果として私のように現物をよく知らない者には、あまりキレイじゃないとゆーイメージがついちゃってたりするんでしょう。しかし、きっちり色彩が残ってるものを見ると、おお!、なかなかキレイなものなんだなと感心するとゆーか、感動するとゆーか。
浮世絵は特に使われている絵の具自体が退色しやすいものらしく、そのためボストン美術館本体でも一般公開は殆どしてないらしいです。今回、特別に公開されたものも、今後5年間は門外不出になるとかで、そこまで徹底して管理してないと現状維持すら難しいってことなんでしょうね。
明治時代に海外流出したことについては、それってけっこう理解できる事態かもと思ったんですけど、そもそも当時の日本人は文明開化に湧いてたわけで、江戸時代なんてそれそのものが過去の遺物、西洋のものが何でも良くて、昔のものなんてもー見たくもないわ!
って風潮だったとしても不思議はない。それに、当時の日本人にとっては江戸時代って"近い過去"だったわけで、従って珍しくもなんともなかったんじゃないかな。でも、現代の日本人にとっては江戸は既に"遠い過去"となりはてているので、明治の頃に夢中で集めて持って帰った外国の人たち同様に、浮世絵に描かれているのはエキゾチックな別世界ってことになるし、それで今では返って見たいと思う人が多いのかもしれない。
今回の展覧会では、主に鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽をメインに、その周辺の画家の作品も集めてあって、140点という量ですから見ごたえ大アリ。本気で見るなら朝一番から行って、一日仕事で見て回るくらいの根性入れてもいいと思う。半日じゃ、ちょっと見きれないくらいの量ですからね。内容的には、美人画、役者絵、それから当時の風俗を描いたものが殆どなので、"江戸の暮らし"を偲ぶ気分になれますよ。付属展では開催地である神戸市立博物館の所蔵品も見れますが、やはり保存状態がボストン美術館ほどではないというのは、そちらの学芸員さんもレクチャーで言っておられました。ちなみに、"浮世絵の出来るまで"を紹介したコーナーもあり、当時、どのようにして版画が制作されていたかも細かく知ることができます。
それにつけても思うのは、錦絵って今で言うカラープリントだったんだなあ、ってこと。しかし、現代の機械印刷は確かにキレイですが、テマヒマかかってる版画って作法そのものが美術なんだなってことで、元絵を描く画家さんも凄かったかもしれないけど、版画に仕立て上げる技術者も職人さんだったんですね。図録ではキレイにプリントされたものを見ることが出来ますが、やはり本モノを間近で見ると、その経てきた年月ともあいまって、う〜ん、迫力あるなあって思いますよ。9月26日まで神戸市立博物館で開催されているので、本モノの浮世絵を見たことない方はこの機会にぜひ、ご覧になってみて下さい。オススメ♪
(※↓↓ 本物の色は画像よりぐっと風情があってキレイです♪)
2010.9.15.
★今年の夏★
今夏、日常最大の楽しみは一杯やりながらDVDを見ることでした。はっきり言って、今年は例年になくよくお酒を飲んだとゆーのが特筆すべき点で、夏の間にカンパリの小瓶2本+大瓶2本とカルーア大瓶1本空けましたから。
っても、私の場合、日常そんなにお酒が飲みたいという方ではないので、これまでは夏だけ缶カクテルをたまにって感じだったんですけど、今年は自家製カクテルにしようと思って、カンパリとカルーアを買ってみたんです。そしたら、カンパリオレンジソーダとカルーアミルクがことのほか美味しくて、これまでは夕方過ぎてからしか飲まなかったのに、暑いもんだから昼間から酒食らって昼寝とゆー、オヤジみたいなこともやってしまったが...、それはそれで楽しかったぞ。で、日が暮れるとシャワーを浴びて、おもむろにDVD鑑賞会となるわけなのだな。それもお気に入りのうさぬいを抱いて、一杯飲みながらDVDってもー、さいこー♪
しかし、DVDは主にチャーリーズ・エンジェルを生声、字幕なしで見てたから、酒飲んでてもちゃんと英語のお勉強になっていたのだ♪
ナイト・ライダーは始め全部日本語で見てしまったんだけど、チャーリーズ・エンジェルはほぼ全て英語で見て大体のストーリーは分かったもんね。遊んでても、私だってそれなり進歩はしているのよ♪
ちなみにカンパリオレンジソーダは、基本的にカンパリ1
: オレンジジュース2 : ソーダ1の割合、カルーアミルクはカルーア1
: ミルク2の割合で混ぜれば作れる。自家製だと自分で加減して好みの味に出来るのもぐー。
ところで、お盆からこっち、なかなか暑さが去らないので日中少しクーラーのお世話になりこそしましたが、それ以外では扇風機だけで十分過ごせたのでふと思ったんですけど、クーラーが普及し、温暖化が進む前の昔の日本って、要するに扇風機だけで凌げる程度の気温だったってことなんじゃないのかな。うちあたり山の中は、十年くらい前は扇風機すらいらないような気候だったんですから、今でギリギリ昔の日本の街の中くらいなんでしょう。それ考えると、なんだかなー。クーラーの電気代使って、そのぶん街を暑くしてるとも言えるわけで、全日本的に(いや、全世界的に?)クーラー使うのヤメたら返ってもーちょっと涼しくなるんじゃないか?
まあ、温暖化には他の原因もあるから一概には言えないけど、なんかムダなことやってんな〜というか、涼しく暮らそうとして返って暑くしてるとも言えるわけだから、根本的に何でもかんでも究極的に便利だったり快適だったりしなくてもいいじゃないかとゆーか。
地球環境やエネルギー問題を論じるとよく、"人類は原始に返らなければならないのか"とか極端な意見が出てきてしまうけど、それって程度問題だと思うのよね。省エネっていうのはだから、とりあえずはいい傾向なんだと思うけど、もっと積極的に"ちょっとは不便でもいいよね〜"っていう余裕が人間全体に出てくれば、いろんなことが変わると思うんだけどなあ。まあ、二十世紀って進歩と発展の時代だったから、全人類的に快適さとか便利さをとことん追求するクセがついてるんだろうな。でも、二十一世紀の人類は一段余裕をもって不便さを楽しむとか、それでスロー・ライフとか言われてるのかもしれないが、中庸ということを意識すれば人間もっとずっとラクに生きれると思うぞ。
それにつけても、晩酌とDVDとウサぬい(&扇風機)、これだけあれば私はこの夏、十分シアワセだった...。人生とは、これでいいのかもしれないと思う今日この頃である。(←既に悟りの境地)
2010.9.15.-9.16.
★マイラ★
・この話について初めて読まれる方、登場人物等についておさらいしたい方は主要登場人物、用語等解説をご覧下さい。
・また、この話については2005年8月からAyapooで断片的にプロットをご紹介しています。メインストーリーの小説本文はまだ公開していませんが、興味がおありの方は専用のSTORY
INDEXをご参照下さい。Ayapooの過去ログ内の記事を順を追って読むことが出来ます。
夏の間、昼間は暑くてアタマがヒマだったんで大昔に買った文庫本を漁ってボケボケ読んでたりしました。中でも某作家の作品を何冊か読み返してみたんですけど、基本的には本買うくらいだから好きな作家さんだったのに、当時から何か違和感を感じるところがあったんですね。で、今回読み返してみて、やっとそれが何か分かってきた気がする。それは、この方の書く"女性像"がことのほか気に入らない、と言うよりもっと積極的に私が大キライなタイプの女だったんだなってこと。
この作家さん自体はとてもシャープな感覚を持ってらして視野も広い方なんですけど、それが一旦女性を描くと、特に"とてもいい女"として描かれる女性像が、私にとっては"つまらん女"にしか見えないとゆー、だからこの人のアメリカを描写したようなストレートなエッセイは好きなんだけど、特に売れ出してからの小説は好きになれなかったんだろうと改めてよく分かった気がした。
で、それはどんな女かというと、一見"有能そう"に見えはするんだけど、その有能さはせいぜい行ってそれなりの有名企業の中間管理職止まりだろうとゆー、そして、こういう女がまかりまちがってそれ以上の地位についてしまうと、能力超えてしまうので余裕なくなって、眉間にタテじわ寄せて、ヒステリックになって、最後はロクな結果を招かんだろーとゆーよーな、その程度の女を"有能でいい女"として描くから私としては、ウンザリ、になっちゃったらしい。まあね、自分よか有能な女を好きな男も少ないと思うから、要するにこれがこの作家さんの許容限界ってことだったんでしょう。それでもこの時代には、それくらいの女性が分不相応なまでのプライドを持つとこまでバカじゃなかったからまだ許せた。しかし、これが現代にまで下ってくると、"その程度"ということに自分で気づかず、自意識肥大化して結果的に"レディコミの主人公"みたいな薄っぺらいものになってしまうだろう、と思われる種類の女ね。上には上がいるということをまるっきり理解しないどころか、意識することすら出来ないので自分が相当なもんだとカン違いしてるよーなバカ女。私は大キライなのよ、そーゆーの。
それでは、私が"有能な女性"を描くとすればどーなるかとゆーと、既にお見せしたようにそれはマイラとかカトリーヌみたいになるわけ。"Dialogue"の加納綾、あれは、まーやアリと同類の"人外"だから女の域に入れてはいけません。一般に"女性"という範疇で納得しうる限界を超えてますからね、綾は。しかし、マイラやカトリーヌ、それにアンナみたいな女性は、まだ人間の範疇にあると少なくとも私は信じているので、あれが私の"有能でいい女"像だと言えるでしょう。まず、他人にマネの出来ない個性とそれに基づく才能、人の上に立ってもやってゆける人間的余裕や確固たる信念、つまりは人間的な大きさよね。そーゆーものが前述の作家さんの描く女性像には一切、欠落していて、私としては結局"なんだ、こんな女"みたいになっちゃって、彼が一生懸命"いい女"として描写しているのがいっそ滑稽に思えちゃったんだろうな。ちなみに、キツいこと言ってますが、自分自身に関しては思いっきりタナに放り上げてますので悪しからず。ま、小説なんてものは、作者の希望とかユメとか、一方的で勝手な理想とかで成り立ってるもんですからね、ふつー。
さて、今回はその"あやぼー版いい女"の中でもマイラについて、お話したいと思います。以前も書いてたように息子のメリルに輪をかけて分かりにくいキャラだったんですが、上で書いたようなことを考えているうちに、そういう"低レベルのいい女像"ともいうべきものに徹底的に対抗してやりたくなってきてしまったのだ♪
で、これを描くにはマイラとディが出会って、どういう経緯でメリルが生まれることになったのかとゆー"発端"という話が良さそうだと思い、更に、ディの視点からじゃなくてマイラの方に視点を置いて書くと面白いかもしれないという気もしてきた。"発端"は、私にしてはわりとマトモなラヴ・ストーリーになりそうな要素だけは揃ってるしね(何を言うにも、とりあえず二人の性別がマトモだ!
)。当初予定ではEpisode3になるはずだったんですが、今書いてる"告白"の後にどうしても"秘密"を入れたくなったので、今の感じではEpisode4になるんじゃないかな。
ではまず、マイラの亡くなったお父さんですが、彼がそもそもブックエージェントだったんです。この"ブックエージェント"という仕事、これは日本にないものなのでご存知ない方のために説明しておきましょう。辞書引くと"本を売り歩く人"とか書かれていることもあって、お〜い、大丈夫か〜ってくらいハズレてるんですけど、少なくとも現代のアメリカなどでは芸能人が所属するプロダクションの作家版というか、つまり作家の作品を出版社に売り込むプロダクション的なものと認識すると分かりやすいかと思います。
そういう仕事なので、マイラのお父さんは現代のクランドルで大作家と認められてる人を何人も発掘して世に出した人でもあったわけね。だから、もともと出版界に広い人脈を持っていて、マイラは日常的に著名な作家とか詩人とかと交流があるという環境で育ちました。アレクが言ってましたけど、現在では一般に"鉄の才媛"なんて呼ばれたりしてるくらいだから極め付きの才女。ずっと幼い頃から小説とかも書いてたし、それに父親の仕事にも興味があって、高校から大学に入るあたりで既に自費出版で雑誌とかも作ってた。そこへ集まってくる友達の作品を、父親のようにベストセラー作家を出すというわけにはいかないけど小さな出版社に売り込んだり、自分もあちこちで雑文を書かせてもらったりとかして、将来の足がかりを少しづつ築いてたんだね。お父さんの方は多少親バカもあったかもしれないけど娘の才能はけっこう認めていて、でもマイラが"売り込んでくれ"みたいなことは一切言わずに、自分は自分でというスタンスでやっているのを楽しく眺めているという感じだったらしい。
こう書くと少しは見えてくるかと思いますが、こういう種類の才女はやっぱりめったな男には惚れないよね。堅いと言うよりも、周りの男がバカにしか見えないタイプだから。それに、まだ十代半ばの頃に、かなり年の離れた、たぶん三十くらいは年上の作家と密かにつきあってたことがあったりするので、元々の性質に加えて、そのレベル以上の才人でないと男とは思えないとゆーとこもあったと思う。
で、そうこうするうちに大学時代にお父さんが亡くなって、彼が抱えていた仕事を放り出すわけにはゆかないこともあって、スライド式に彼女が父の地盤を受け継いだ形で活動することになります。ディと出会うのは二十代半ばに差し掛かる頃のことで、大学は卒業し、仕事もそれなりうまくいってるという状況でしょう。ディの存在はもちろん知ってたけど、実際に会うまで"才能はあるけど女に節操のない危ないやつ"とか思ってたので、それほど個人的に興味を持ってたわけではなかったようです。でも、実際に会ってみてちょっと話をすると、ディがそんな軽いやつではないということは簡単に分かるので興味持っちゃって、な〜んとなく、また会いたいな〜みたいな?
ま、ディですからね、相手は。
これはいずれ本編で出てくると思いますけど(何年先か分からんが...)、マイラがディと出会うのはレイ・ロクスター侯爵夫人のサロンでのことです。新進の作家であり、そればかりではなく既にそれなりの若い人気作家を何人も世に出してるブック・エージェントでもあるマイラが、その人脈繋がりで芸術のパトロンを気取っているレイと顔見知りだったとしても少しも不思議じゃない。ディはディでまだ三十そこそこだったし、なんだかんだ言っても母の親友だった(しかも、一時は自分の愛人だった)レイには弱いので、たまには遊びに来なさいよとか言われるとヒマなら顔を出すくらいはしてやってたんだな。
その時は他にも何人も人がいたし、ただ、思ってたよりディが遥かに紳士で才人だということを知って認識を改めたマイラは、後になっても"あんな素敵な人だとは思ってなかったなあ"とぼーっと思い出したりとかして、それが自分でも珍しいことなので、あら?
私なんかヘン?、みたいな?
要するに、これは恋ですね、恋。で、一目惚れだったわけです。しかし、基本的に"男なんてつまらん"と日常思ってる彼女のことなんで、自分がディに恋してしまっているとはかなり後になるまで自覚がない。でも、そんなある日。
道路の石畳にマイラがクツのかかとを引っ掛けて折っちゃって困ってるとこへ、たまたまディのマセラーティが通りかかる。おや?
あれは先日、レイのところで会ったお嬢さんじゃないかな?
と気づいたディは、何やらお困りのご様子なのでクルマを路肩に寄せて、どうしました?
と声をかけてみる。ディは基本的に女性に優しいので、顔見知りがお困りの様子なのに知らん顔できないというだけの理由だったんですけど、だからこれは純粋な厚意だったわけね。そもそも彼はちっとも女性に不自由していないから、いちいちひっかけて回る必要もないんだし。で、マイラは思いがけずディと再開できたことに内心すごく嬉しい気持ちになるんですけど、それでもまだ、それがディが好きだからだとは自覚してない。とりあえず"クツのかかとが折れちゃって"みたいなことで、それ聞いたディは、じゃ、近くに知ってるクツ屋があるからそこまでお送りしましょう、ということになる。
しかし、女性を店の前まで連れてってそこで放り出すというよーな、無責任なことを紳士な伯爵さまがするわけはないのであって(男性諸君は、後学のためによく覚えておきたまえよ)、店の中までエスコートしてくれて、クツ選びにもつきあってくれて、お店の人とも顔見知りだから、じゃ、壊れたかかとは修理して届けてあげてね、というところまで手配してくれて、更には通り道だからとマイラの部屋まで送ってくれて、んでもってマセラーティで颯爽と去ってゆく。ああ、なんて♪なんて素敵な王子さまなの〜、と、まだ若いお嬢さんのマイラが舞い上がっちゃっても仕方がない状況だな、これは。ディにしてみれば大したことじゃなかったんだが...。ちなみに、彼女は当時はまだ市内のアパートに住んでた。ただし、ここで言う"アパート"とは、日本式に言えば"高級マンション"のことなのでそれなりオシャレな住まいだけどね。
そういうわけで、その時はそれで済んだんですけど、マイラにしてみれば、もう一回会いたいな、でも、相手は伯爵家の当主で大画家で、今の自分がそう簡単に近寄れる人物でもないのよね、と、どうしよう、どうしよう状態。それでもまだ、それがディを好きになってるからとは自覚がない。ないもんだから返って、"お礼に行くくらいは"とかこつけて、ついついモルガーナ邸まで押しかけて行っちゃう。せめてもう一回だけ会いたというのが自分でも気づかざる本音なんですけど、この行動がそもそもマイラとしては"らしく"ないわけね。確かにお礼するべき状況ではあるんですけど、だからと言って相手が相手だけにいきなりおしかけてゆくというのは返って失礼、もしくは迷惑?
くらいの気は本当なら回る女性ですから。しかし、こういうふつーの女の子がやるような、しかも他の場合なら自分は絶対しないと誓えるようなことをやってると後で気づいて、そのあたりから、もーしかしてこれは恋?
とか自覚が芽生えてくるのであった。
一方、ディの方は彼女に訪ねて来られて、ああ、あの時のこと?
そんなの気にしなくていいのに、とか言いながら、マイラの様子見てて、まあ、こっちは飽きるほど自分に恋しちゃった女性なんて見てますからね。決して自意識過剰ではなく見飽きるほど見てるから、あ、これは惚れられちゃったかな?
と分かっちゃう。どっちかってゆーと、マイラ自身よかディの方が気づくの早かったかもしれない。ディとしては、なかなかアタマも良さそうな美人とくれば基本的に好意はあるわけで、相手も自分が好きそうだって、それ分かって断るようじゃプレイボーイやってないよね。レイからは、"男嫌いというんではないらしいけど堅いのよ"とは聞いてたし、それで面白そうだなと思うもんだから、この辺りから意図的に、しかし軽い気持ちで"いただいちゃおうかな"みたいな?
それでアポイントもなくいきなり訪ねて来られたことも気にせず鷹揚に受け流し、じゃ、またね、と機嫌よく送り出して、その後かなり経ってから、つまり、不自然には思われないくらい時間が過ぎて、ディが自分を狙っているなどとはユメにも気づかれないくらい経ってから(その間は他の女の子と遊んでた)、実は友人がリサイタルを開くことになったんですけど、先日好きだと言ってらしたのでご一緒できないかと思って、とさりげなく声をかける。マイラの方は私のことなんてもう忘れられてるわよね、いいユメみたなと殆ど諦めてたのに思いがけなく彼からのお誘い、しかも、まさかのことにディのような人物が自分にキョーミ持ってるとは思わないから純粋な厚意と考え、でも内心はまた会えると喜んじゃって警戒もせずご一緒しちゃうと。
ま、このへんはよくあるパターンですけど、マイラが若いながらも自分の信念や哲学を持ってて、そのあたりによくいるタダの才女程度のものではないから、この先の二人の関係がディの思ってた以上に深いものになってくとゆーか、その結果が要するにメリルなわけだ。でも、ディがマイラにも思想的に関与するので、後に彼女が興す出版社Web
Art Instituteも二人の関係が生み出した産物だとも言えるでしょう。ディは、まーやアリの成長にもずいぶん影響を与えましたが、マイラもそれと同様の影響をディから受けるというか。天才と才媛が出会うと歴史が動く、くらいまでスケールでかくないと私は面白くないんだもん。だから、最初に書いたように"その程度"の低レベル女とそれと絡んでる程度の男では、そもそも歴史なんか動かんのだから、私としては小市民的でつまらんと思っちゃうってことだろうな。
で、この話のラストシーンですがもう決まってて、それはディがマイラと別れ、でもメリルが生まれることになるとはまだ知らない時期のことなんですけど、これがまたけっこう"やっぱりディっていい男"と思っちゃうようなエピソードなんだな。何がどうなってそこまでゆきつくのか、それは何年先か分かりませんがいずれ本編書くので、その時までお楽しみにとゆーことでヨロシク♪
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