<洋楽ファンのひとりごと> 2004. 4-5月

 

 

歌詞については、私もかなり信を持って言えることだけしか書かないつもりですけど、

ただ、ココで書いてることは、あくまで私個人の歌詞解釈にもとづいてますので、

絶対それが正しいとは現時点では言い切れません。

その点どうぞあらかじめ、おふくみ下さいませ。

 

 

Taken from Roxy Music 2001 Tourbook 

 

   

 

2004.5.8.

★最近のオジさまたち★

4月は前半、春だ春だと浮かれて騒いでいたら後半でどっと用事が押し寄せて来て、まるっきりヒマがありませんで更新出来ず申し訳ありませんでした。5月にもなったことですしトップの写真を変えてみたんですが、これは確か2001年のツアーの時のだと思います。やっぱオジさまたち3人ともステキですよねっ♪トシ取ってもカッコいいって、そういうのいいよねえ...。やっぱりずーっとみんないい音楽を創り続けてて、「自分の仕事」ってのをきっちりやって来たヒトたちだからなんだろうなあ。ま、それが本来"アーティスト"ってことなんですけどね。

成功とか、名声とか、そういうのは地道にそうやっていい仕事を積み重ねて来たヒトたちのものであるべきで、結局そうでなければ入れ替わりの激しい芸能界で30年以上もトップクラスのアーティストではいられないんじゃないかな。フェリーさんにしても、大スターってそれは当然基本に作品あってのことで、それ作るのに彼がどれだけ苦労して、時間も労力もつぎ込んでるかってとこが分かるヒトには分かるから、単なるポップスターじゃなくて「芸術家」と認識されてるの。

オジさまたち3人ともそうだと思うけど、ホントもう"アーティスト"だもん。まず一番先に「いい音楽を創りたい」ってのがあるのよね、始めから。芸術家ってのはそれですよ、それ。そういう精神性はどこまで行っても変わらないから、トシなんて根本的に大した問題じゃないんだな。いや、年取るほど作品の深みってのは増してくわけで、だからいくつになってもカッコいいってことなんじゃないですか。

 

2004.4.29.-5.8.

★賢者の宿命★

ちょっと暗い話になりますけど、フェリーさんってたまに「ぼくの属する場所なんて、どこにもないんだよ」なんてコトを口走ってる時があります。今まで私が読んだインタヴューなんて全体からしたらそんなに多くはないと思うんですけど、その中ですら2〜3回はおんなじこと言ってるんですよね。ごくごく最近も言ってたし。

作品の中でもよく"淋しいよー"とか歌ってるという話も前にしましたが、わりと明るそうなイメージあるくせに、実はけっこう落ち込みやすい性格らしい。70年代の話、75年頃って言ったらROXYが絶頂期にあった時で、いちおー表向きジェリー・ホールが一緒にいたりして、それこそもうふつーだったら幸せで舞い上がってるよーな時期じゃないですか。それがその頃でさえ、なんか落ち込んだらどん底状態で、それはホールさんがいようといまいと全然関係なくって、最近本人が言ってたところでは、「全くジェリーの手にはおえなかったと思うよ。もっと大人の女性でなければ、どうにもならなかっただろうね」、だったって。それとか結婚する前後の80年頃、コカインでボロボロなっててそれをルーシーさんがまっとうな道に引き戻したとか、まあ芸能人ってただでさえプレッシャーすごいし、あまつさえあの芸術家体質ではそうもなるかと納得ゆくような気もするけど、そういうのってやっぱり彼の根本のところに巣喰ってる疎外感と無縁ではないと思うのよね、私は。彼だけじゃなくて、不思議とロック・スターにはそういうヒトがたまにいるように思うけど。

"Frantic"の"囚われ人の嘆き"、あの短い中世の古詩は原文フランス語で、こういう英訳が付いてるんですけど、

Indeed, no captive can tell his story properly

unless it be sadly

But with an effort, he can make a song

I have many friends, but poor are their gifts

これだって彼の心境と当然重なってると少なくとも私は思う。ディランのカヴァーにしたってオリジナル曲にしたってそうですけど、このアルバムもご多分にもれずフェリーさんの日記みたいな歌詞が並んでるわけで、私なんかは相変わらずだなあと呆れつつ愛しかったりするんですねえ...。

まあたぶんこういう、才能に恵まれて、誰の目から見ても立派な成功者で、おまけに美形っつーヒトがですね、疎外感に苛まれつつ生きてるなんて信じられないって思うヒトのが多いんでしょうけど、裏を返せばそれが命取りってコトもままあるもので、まだ芸術家として優れてるって程度なら救われたかもしれないけど、フェリーさんの場合、哲学的にも天分恵まれすぎってのが一番辛いんじゃないですかね。

彼って、根本的に人間が好きなんだろうなって思うんですけど、例えばオーディエンスの質がよくて、すごくいいステージが出来た時なんかは「この人たちはみんなぼくのことが好きなんだなー」ってすっごく嬉しくなるんですって。翻ってインタヴューなんかは、概してそういうわけにいかないから苦手らしいんだな。だからそういう人間が好きで、人が楽しんでるのを見るのが単純に嬉しいとか、そういうヒトが決してその人間と相容れないところに自分がいると認識するのは、つまり社会的にどれだけ成功しようが、無数のファンに囲まれてようが、山ほどの友人が回りにいようが、「ぼくの属する場所なんて、どこにもない」とどうしても言わざるをえないところに自分がいると認識するのは、それはもうやっぱりすごく辛いと思うんですよ。前にも書きましたけど、彼の基盤とする概念形態が、一般社会の基盤となっているそれと全く違う、というか正反対なものである限り、「"I'm a stranger in your town"(きみの街では、ぼくはよそ者)」という1985年の"Boys and girls"で歌われた心境は、そのまま今になっても変わりようがないんですね。何故なら、つくづく残念なことだとは思いますど、どういうわけか大半の人間には、例えば何故釈迦が「唯我独尊」なんてコトバを残したか、これが何千年たとうが絶対、っに、理解できないものらしい。分かるもんにとっては単純極まりないことなんですが、反面、理屈を言えばさまざまな事柄の相関性の上に成り立ってる考えなんで、それを総合して理解しようとするとケタはずれな演算能力とか、直感力が必要とされるらしい。それもあって「歴史は繰り返す」と言うか、歴史上、何人おんなじコトを言うヒトが現れようが、まるっきり一般には理解されないままに現在に至ってるんです。もちろん思想と宗教は大いに関連がありますから、それが余計コトを厄介にしてて、特にキリスト教なんかは、あのバチカンってとこも結構怖いとこなんで、ヘタに口出したらこっちの命が危ない。そうなるとホント分かってても二進も三進もゆかないわけで、イスラム教だって触らぬ神になんとやらだし、当然それは仏教もそうで、まさかお坊さんがマシンガン担いで襲っては来ないでしょうけど、まあ黙ってる方が無難ですわね。そういう現実を見てれば、「賢者」と「人間」の間の溝がどれほど深いか、それはもうこっち側に生まれついちゃった身の不幸と諦めるよりない。「賢者」が往々にして「隠者」と通底するのは、この絶対的な溝が決して埋まらないものだからなんでしょうしね。大いなる傍観者であらざるを得ない、というのが、「賢者の宿命」と言えるかもしれません。

ところで、「賢者」、「隠者」というのは古代ケルト民族の社会ではドルイド神官の代名詞でもあったわけで、このドルイドがどういう役割を果たしていたか、どういう存在だったのか、これはなかなか興味深い考察でもあります。神官と言っても、後のローマや他の宗教における神官のイメージとはまるで違ってて、神殿や寺院に隔離された閉鎖的な存在ではなかったんです。ってゆーか、本来、神官たる者は神の名のもとに衆生を救い、導く存在なわけで、それが寺や神殿にこもっちゃったら用を為さない。あるイミ、現代の多くの宗教における欺瞞は、そんな所からも垣間見えるって私なんかは思いますけどね。で、古代ケルトにおいては、もちろん部族ごとに王様も貴族もいましたが、それとワン・セットで必ずドルイドもいて、ただ単に宗教的な存在であるばかりでなく、一般に流布していない科学を始めとするあらゆる学問に通じているところから「賢者」とも「魔術師」とも呼ばれていたようです。これはあくまで私の想像ですけど、それだけの全人的な学問を修めようと思ったら、根本的に頭脳の出来もふつーではダメですよね。そう考えると古代ケルト社会のシステムそのものが、私にはなかなか画期的なもののように思えたりするわけです。まあそれも当時のドルイドの思考基盤を為す「哲学」がどんなものであったか、そこに全てかかっていると思いますけど。...だからそのへんが、ヨーロッパなんかでは知的レベルの高いヒトたちの興味を誘うということなのかもしれません。「哲人によって支えられる、秩序ある理想社会」、ま、理想家のユメのユートピアですわね、そりゃ。

何はともあれ、表面どう見えてようと、うちの先生はやっぱり現在の地位に相応しい才能の持ち主、とゆーか、私としては今でもまだまだ正当評価されてるとは思いませんけど、それはTime will tell ということで、この先、歴史が語ってくれるでしょう。でも、その才能の代償は結構彼のような淋しがりなヒトにはしんどいかもしれないなあ...。

 

★才能の試金石★

世の中、いろいろ皆さんクリエイティヴな職業に就きたいと考える方も多いと思うんですが、芸術家ってのは「なる」もんじゃなくて「生まれつく」もんなんで、そう生まれついてるんじゃなかったら努力するだけ時間のムダです。で、他のことやってりゃ、そこそこなんとかなったかもしれなかったのにってゆー悲劇を防ぐために、自分に才能があるかどうか一発で分かる方法を教えます。例えばミュージシャン。先生のよーにですね、プライヴェートぶちこわしても、絶対に自分の思う通りの作品を創り上げるんじゃなきゃやだ、こういう何よりもいい音楽を創ることが最優先、つまり音楽をやりたい、と思うんだったら○。単にミュージシャンという職業に憧れて、ちやほやスター扱いされたり、お金持ちになりたいとかの俗物な考えが先にくるようなら×。画家なら、「絵が描きたい」なら○、単に「画家という職業に就きたい」というだけなら×。小説家なら「小説が書きたい」のか「小説家という職業に就きたい」のか、その他、応用を効かせて頂いて自問自答してみて、作品を作ることを最優先に考えられるようならトライしてみる価値は十分にありますが、その職業に就きたいというだけなら、始めからヤメておいた方が無難です。

よく言われることですが、人間が芸術を選ぶんじゃないです。芸術が人間を選ぶもんなんで、表現に対する純粋な愛情がない者は始めから当然選ばれません。あやぼーは哲学に関する以外の芸術的才能なんて大してありませんが、ワイルド直系の(つまり日本のカン違い純文学なんぞとゆー傍系からは一滴の血も引いていない)唯美主義、芸術至上主義者(それと、ついでにもちろん個人主義者)なんで、才能もないもんが土足で芸術史に踏み込むよーなマネは許せないんです。ARTという言葉を詐称されるのも我慢なりませんね。だから敢えて言うんですけど、そういう芸術に対する純愛を持てないよーなもんは、結局ロクなモノ作れっこありません。ジャマなだけなんで、寄ってこないで下さい。J-POPなんかは少数の例外を除いて元々タダの論外ですが、90年代、どーも洋楽の世界にもそういう非芸術家が増えてるような気がする。それであんなに壊滅的に面白くなくなったんだな。

まあ確かに、俗物ご用達の芸能界でなら、まかりまちがって社会的に成功出来ることもあるかもしれません。そもそもそういうヒトたちは、お金もうけになって、有名にでもなれればご満足なんでしょうから、それでめでたしめでたしなんでしょうけど、たまさかそういうことになったとしても、当然芸術史に残るってコトはありえませんので悪しからず。別にいいよね、生きてる間だけそういう職業に就けて、お体裁保てればいいだけなんだから。けけけけけ♪

でね、問題は、そういういちおー社会的体裁だけは保てる程度の立場になれるならまだしも、たいていそういう人間の辿る末路ってのは、挫折と不幸って相場が決まってるんです。逆に、ホントの芸術家ってのは、社会的に成功出来なくても、芸術から離れられないんだから仕方ない。例え生涯認められることがなかったとしても、ヒトからどう見えても、また例え自分では認められないことを不幸だと思ったとしても、芸術と共にあるというだけで、内的には充実した一生が送れるでしょう。そういうヒトの作品というのは、後世認められることもあったりするわけだし。いっちゃん不幸なのは、身のほどを知らずに芸術に近づく愚か者、ってコトでしょうね。

別に芸術家ばかりが偉いわけじゃなし、世の中には他にいくらも様々な分野があるわけですから、そのへん自分の適性を見誤りさえしなければ、より充実した一生が送れると思います。皆さま、将来の目標を決めるにあたって、ひとつそのあたり自問自答してからにしてみて頂きたいと、常々思ったりしてたもんですから、言ってみました。もちろん、↑の問題に、社会的成功より芸術における自己表現の方が重いと答えられる方がありましたら、是非頑張ってみて頂きたいと思います。だからって当然社会的に成功したりお金儲けしたりしちゃいけないってことじゃないですよ。芸術に対する純粋な愛情あっての社会的成功なら、それはそれで素晴らしいことだと思います。でも、根本的に大多数が俗物で構成されている世界で、芸術と社会的成功を両立させるってのは、結構大変ですけどね。ま、年令関係ありませんし、60が80でも努力は始められますので、よし、トライしてみようと思われる方がありましたら、影ながら応援させて頂きます。

 

★芸術性とエンタテイメント性の両立★

さて、芸術と社会的成功を両立させるという話が出ましたので、そのあたりをつらつらと...。

フェリーさんなんかは、それを見事にやってのけてるヒトですよねえ、これまた。エンタテイメント性しか見えない多くの方々には、もお全然タダの大スターで、イミのある歌を歌ってるとすら思われていない...。しかし不肖、私などのようにですね、あれこれ実用性のない理屈っぽいことばっかり考えて生きてる者には、それこそもう神サマのように「芸術家」だったりするわけです。

でもそれって彼の場合は無理して合わせてると言うより、元々その両方の側面を持ち合わせてるというか、彼自身がエンタテイメントそのものを好きなんだってコトが大きいんじゃないでしょうか。自分でも「みんなと同じ嗜好を持ち合わせてるってことについてはラッキーだと思ってるよ」って言ってたし、そういうのもまた楽しってコトなんじゃないかな。当然それだけじゃないから「芸術家」なんですけど。

で、翻ってイーノって、そういうヒトじゃないじゃないですか。実際、分かりにくいってば分かりにくさではいい勝負してるフェリーさんが、あの脱退騒ぎ当時「イーノ流の分かりにくいやり方」って言ってたくらいなんだから、どんなにアバンギャルドなヒトかは、その後を見たって想像するまでもないですよね。それもまたひとつの方法論であって、どっちが良いと言えるものでもないと思いますけど、たぶん根本的な思想性と同時にそのへんの方法論的なものが、芸術性を内包させながら幅広く受け入れられうるエンタテイメント性を捨てないというフェリーさんのやり方とぶつかったというのも私には想像のつく話のように思えるんです。これは、あくまで私の想像でしかありませんけど、彼としてはROXYがより複雑で分かりにくい方向に走ってしまうのは、なんとしても止めたかったんじゃないかという気がする。後にグリーンがパンクの閉鎖性や目的の無さに失望したと言ってポップ・ミュージックを作り始めたのも、同じ危険性を感じたからだと思うんですけど、そういう閉鎖性に繋がる分かりにくさを許してしまうと、狭い範囲の人間にしか到達出来ないで終わるという危険性が当然出てくる。 先生はよく「より多くのオーディエンスに到達しようとしている」とか言われるんですけど、それは単に彼個人の社会的成功のためというより、表現者としてより広い範囲の人々に届けたいものがあるからだと思うんですよ。そうでなければ、「ぼくの音楽で人生が変わったなんて話を聞くのが嬉しい」なんて思うわけありませんから。

多くの人間が囚われている軛、それから既に解放されてる者にとっては、どうして誰もがそういう自由な生き方が出来ないのか(as free as the wind, hopefully learning..."More Than This")、どう説明しても分かってはもらえないことかもしれないけれども、出来るなら救われて欲しい。世界が上げている悲鳴が聞こえ続けてるようなヒトなら、それはもうどうやっても捨てようがない「祈り」のようなものだと思いますね。前にも書きましたけど、彼にとって音楽はそれを人々に届ける唯一の方法でもある。まあもちろん、他にもとんでもない目的も持ってますけど、それはそれとして、だからこそ閉鎖的になる危険性は避けたかったんだろうと、少なくとも私は思ったりしてます。救いたいのが何の変哲もない普通の人々であるなら、その人間たちを離れて小さい世界で議論のみ先走っても必要な結果は出ない。アバンギャルド偏重というのは、大変その危険性を含んでる方法論でもあると思うし、例えば実際デュシャンがどのくらい広く理解されてるか、とゆーよーな?、それと同じくらい「分かりにくすぎるやり方」というのは、一般から離れすぎる方法でもあるわけですよね。

ところでいきなりですが、サイコロ賭博を始めたのは、お釈迦サマだったとゆー話があるのをご存知ですか。なんでも、ヒトを集めて自分の話を聞かせるために、そんなことをやってたってゆー、まあウソかホントかは知りませんが、それってこのテのエンタテイメントの原点かもしれません。いや、そう言えば、イエスも本当は豪快によく笑った陽気なヒトだったって話あるし、なんか私は、そういう人間としての彼らを思うと、とっても親しみを持ってしまうんですね。人間から掛け離れたワケの分からない聖人や偉人にまつりあげられるより、お二人とも本当は人間を幸せにしてやりたかっただけなんだろうなあ、とか。実際、もし彼らが生きてて、今の世界を見たら...。そのお怒りいかばかりかと。だって、彼らが一体何に対して怒ってたと思ってんですか。いやいや、これ以上は言うまい、言うまい。

 

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