<洋楽ファンのひとりごと>

2003.11月

 

歌詞については、私もかなり信を持って言えることだけしか書かないつもりですけど、

ただ、ココで書いてることは、あくまで私個人の歌詞解釈にもとづいてますので、

絶対それが正しいとは現時点では言い切れません。

その点どうぞあらかじめ、おふくみ下さいませ。

 

 

 

 

2003.11.30.

★ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい...★

以前11月にリリースされるカイリー・ミノーグの"Body Language"にグリーンが参加してるって話を書いてたと思うんですけど、はい、確かに参加しております。でも曲を書いてるというわけではなくて"Someday"にアディショナル・ヴォーカルとして参加しているのでした。訂正してお詫び申しあげます。

こういうのって私、自分の信用にも関わるんで、だいたい事実を確認するまで確定的には流さないようにしてるんですが、今回は迂闊なことをしてしまいました。お許し下さい。でもまあ救いなのは、ちゃんとグリーンが参加してくれてたことで、今まで流さないで済ました話の中には、まるっきりデマというのもよくあったんです。それで気をつけてるつもりだったんですけど、今後は必ずきっちり確認してから流すことにしたいと思います。申し訳ありませんでした。

とは言え、この"Body Language"自体は、なかなか聴きごたえのあるアルバムで私は気に入ってます。全体に80年代調の雰囲気で、オシャレなサウンドがすごいいいです。あの時代にディスコで踊り狂った記憶のある方は、きっと気に入るんじゃないでしょうか。あやぼー的には毎日のエクササイズに使えるCDが増えたって感じです。それにカイリーのヴォーカル自体、グリーンを意識したような声になってる曲もあって、私の記憶では彼女ってもともとこういうヴォーカル・スタイルではなかったように思うので、今回のグリーンの参加はそのへんも含んでのことなのかな、とちょっと思ったりしてます。"Someday"もいいんですが、私は"Chocolate"も特に気に入りました。この曲とか"Someday"のヴォーカルなんてグリーンのスタイル絶対意識してますよ、カイリー。聴かれた方、そう思われません? もともとのカイリーのヴォーカルって"Obsession"みたいな曲の方だと思ったし。

ってことで、お詫びして訂正させて頂くとともに、改めて"Body Language"、オススメしたいと思います。

 

 

2003.11.29.

★歌詞★

今、ここでお話してる作品の原作が見れるように、ちょこちょこフェリーさんの歌詞を入力してるんですけど、とりあえず今回の更新で↓に取り上げた"Gemini Moon"、 "The Right Stuff"、 "Cruel"、 "Mamouna"、 "Bitter -  Sweet"、 "A Really Good Time" を見て頂けるようにしました。そのうち、アルバム全部の歌詞を見れるようにするつもりですけど、興味がおありなら参考になさって下さいね。

 

2003.11.25.-11.29

★何が彼を幽閉しているか★

"Mamouna"の"Gemini Moon"という曲に「The Hanged Man Card」というコトバが出てきます。これってタロットカードのことで、その中に「(The Hanged Man)吊られた男」というカードがあるんですけど、絵柄としてはさかさまに吊り下げられた人間が描かれてます。まあ、先生自身がそういう状態だってコトなんですよね、これは。このカードのイミについては後でお話するとして、なんで私が「幽閉」なんてコトバを持ち出すかっていうと、ともかく「手も足も出ない」のが今の彼の状況だからなんです。だからホントにThe Hanged Man状態。

以前"Boys and Girls"のタイトル曲について細かくお話した時に、この曲の冒頭の「きみの街ではぼくはヨソ者だ」っていうのは、彼の持つ概念大系が少なくともここ数百年がとこの世界では一切通用しない状態になってて、それとは全く正反対の概念大系に支配されているのが今のこの世界、つまり「きみの街」なんだってコトを言ってたと思います。そして今この世界を支配してるのはまさしく「The Right Stuff」、まあ言えば「Europe ("A Song For Europe")」であり、「Inflatable Doll ("Dream Home")」であり、「Diamond Lady ("True To Life")」だってことなんですよね。そういう理想主義的な「正義」が現在の世界を支配しているが故に、人間は解放されないで、のたうちまわってるわけ。それがどういうコトで、どうしてそうなるのか、というのはまた長い話になるので今はしませんが、ともかく先生としてはそれを解放してやりたいんだけど、でもあまりにその「正義」が絶対的に信じられているので、おかげて彼はなにも出来ない。

でね、"Frantic"の"Cruel"、これ誰に対して"Why in the world, are you so cruel(どうしてきみはそんなに残酷なんだ)"って言ってると思います。もちろん「The Right Stuff」ですよ。"Cruel"そのものの歌詞の中の表現で言えば"iron horse"の方、つまり"Buffalo gone"のあと"iron horse come"ですから、後からやって来ていついた方ですわね。それが続いて歌われてるように"Like blades of grass they cut us all down(草の葉の如く、それらが我々を酷い状態に切り分けた←敢えて直訳してるんですよ、これ。)"、この場合のbladeは「刃」ではなくて「葉」、blades of grassで「草の葉」、それで辞書にも載ってますよ。対訳するのはいいけど元々のイミ変えるのヤメて下さい、お願い。これなんて全体の起承転結分かってないから、分かってりゃ直訳で済むものを文法的にどうやっても不可能な意訳を無理矢理しなきゃならない例ですわね。それともbladeに「葉っぱ」ってイミがあるのを知らなかった、とか? cut downにしてもcut down 〜、とcut 〜 down ではビミョーにニュアンスがちがって来ちゃうんですけど、ひとつふたつならともかく、この意識で何もかもをやられると総合して全体のイミはむちゃくちゃになるんですわ。こんなの今に始まったコトじゃないし、赤信号を集団で渡って平然としてるヒトたちは他にもいくらでもいるから今更だけど、こういうの商売にするんだったら、せめてもっと英語、勉強してね。原作書いてるヒトの知能レベルがレベルなんだからさ。ああ...。

ともかくココのイミは、Buffaloに象徴されている何事かが去った後にやって来た"iron horse"が、草の葉でもあるかのように我々を分散させたってコトです。楽園伝説っていうのあるじゃないですか。昔はみんな仲良く一緒に暮らしていたのに、ある時世界は引き裂かれて、その後この地獄のような混沌が現出したってゆー。言ってみればその我々をバラバラにしたのが現在の世界を支配しているこの"The Right Stuff"即ち"iron horse"で、"The Right Stuff"の歌詞の中に出てきますけど"She's the queen of the Nile"であり、"it's mountain high-river deep"つまりとても抗しきれないほど大きな存在、そのものですよね、「正義」って。絶対的に正しいと誰からも信じられてるから、ものすごく強いわけで、みんなから崇められてて、だから「ナイルの女王」なんですよ。先生もコレと戦ってはいるけど、あまりに大きな存在なのでとても打ち負かせない(hard to beat)、ですから彼を幽閉状態に置いてるのは、他の誰でもないこの"The Right Stuff"だってコトになりますね。殆ど誰にも見えないこの問題と対峙してるから"Nobody knows the trouble I see, nobody cares - nobody but me("Cruel")"なんですよ。

まあ確かに、例えば"The Right Stuff"の歌詞だけ見て、どうしてそこまで深読みが出来るのかと思うと思うけど、私がよく言ってるみたいに、こういう歌詞っていうのはその作品だけ見ても真意というのは把握しきれないんです。他の作品において表現されている作者の基本哲学をまず知ってること、でもこれはそういう概念大系が存在していると知識として知っていなければ、まず根本的にそれ自体が把握出来ませんよね。ましてや他の場合ならともかく、この彼の基本としてる概念大系そのものが、歴史上、思想史に何度も現れながら、ことごとく認知されずに歪曲されてしまっていて、その結果としてどんなに学問として思想史を学習しても知識として得るのはムリ、そういうとんでもないもんなんです。様々な分野の知識を総合して、独自に組み上げるよりないのがこの概念大系で、だからたかが英語が分かるくらいで、こういう歌詞を訳そうとするのは無謀だと言うんです。訳されたもの見てると、その英語力でさえ危ないらしいしね。第一、どんな日本人よりよく英語知ってるはずの英語圏のヒトが、ふつーこういうの分かんないんだから何をか言わんやでしょ? けれどもそのへんの知識を持ってる人間が見ると、こういうふうに作品相互が関連して、「作者の思考世界」というひとつの絵が組み上げられるようになってる、つまり連作のジグソー・パズルみたいなものなんですよ。逆に言えば、ヨーロッパあたりのあるレベル以上の知的階層にとってはこんなの説明するまでもないタダの「常識」。その共有されてる「常識」をバックにしてるから「詩」というものはこういう書き方でいーの。分かるもんには分かるようになってるから。それが先生も言ってた「ヨーロッパ文学の伝統」ってヤツなんですわね。ところが日本人って、そもそもそういう「常識」とか「それをベースにした意識世界」があることを一般に知らないじゃないの。どこかの大学のシェークスピアの権威とかならともかく。逆に言えば、こういうのふつーの人間が理解しようとすれば、最低そのレベルの知識が必要ってコトです。

このことそのものを教えてくれる文化人が、明治維新以来、今まで一人もいなかったってのが情ないよなあ...。ヨーロッパにおいて数百年の歴史を持ち、その間に洗練された文学的手法、そんなもの、たかがちょっと英語が分かった程度の漱石みたいな当時の作文屋さん風情にとっちゃ、理解の遥か彼方の世界だったのは仕方ないけどさ。第一、今でさえどんなに日本人が英語分かってないか。国レベルで分かってないんだから、100年前の知識なんてタカ知れてて当然よね。そんなのを「文豪」とか祭り上げて、そのまま未だに続いてるから程度の低いところで凡人が分かったつもりになれるんだな。...って、また暴言だな、これは。失礼しました。

でもね、先生はマジなのよ、何もかも。こういう「幽閉状態」にあるのはですね、例えば他にも"Country Life"の"A Really Good Time"なんかでも分かる。この中で彼は"You know I don't talk much、 Except to myself、 'cos I've not much to say, and there's nobody else、 who's ready and willing, And able to know me, I guess(知ってるだろ、ぼくが自分以外にはあまり話しかけたりしないって。だって言えることは多くないし、それに他には誰も、ぼくを快く理解出来る人はいないと思うからね)"...、なーんて、ゆーんですよ、先生ってば。まあ確かに「淋しい」でしょうね、これは。実際マジでそういう状態なんだし。だってみんな「The Right Stuff」を絶対的に正しいと信じてるんですから、"there's nobody else、 who's ready and willing and able to know me, I guess"、つまり誰も喜んで自分の言うことを聞いてはくれないだろうし理解も出来ないだろう、ってコトになるんでしょ? ちなみにこの"Country Life"、このタイトルはそういう名前の雑誌から取ったものなんだそうですけど、これにしたって彼のイメージとしては「隠棲」だと思いますね、私は。"Street Life"の反対で田舎での隠居暮らしというか、隠者暮らしというか。そうすると「幽閉」ってのも近いと思わない? まあ"Country Life"には、"Dream Home"のことを考えると、もうひとつ別のイミが掛けられてるかもしれませんけどね。

ところでこの"Cruel"、笑っちゃうけど最悪の場合、歌詞気にせずに曲だけ聴いてたら、それこそもう自分を振り返ってくれない女に対して、「なんできみはそんなに残酷なんだ」と訴えてるよーに聴こえちゃうんだ。なにしろ失恋の歌大好きの先生が歌ってるから余計みんなそう思うんじゃないかという気もする。実際"Goddess of Love"の方は、まちがいなくそういう歌だしね。だけど、これだってその"Goddess of Love"が何なのか、というのは当然、ひとすじなわではいかない問題です。でもともかく"Cruel"は歌詞の内容読めば、そんな単純なもんじゃないって分かるヒトには分かるでしょう。

さて、The Hanged Man Card、このタロット・カードとしてのイミなんですけど、タロットは正位置と逆位置でイミがちがうってご存知の方は多いと思います。正位置では「試練に耐える、修行中に出会う難問題、逆転する問題、よみがえる魂、改めてみる」などで、逆位置では「無意味な犠牲、不本意な仕事をさせられる、社会還元の考え方なし、我欲、悪あがき」なんてイミになるそうです。まあ先生は、これに関しては特にイミを持たせたつもりはなくて、彼自身の手も足も出ない状態と、このカードのイメージとが重なるので使ったんじゃないかと思いますけど、でも「試練に耐える」とか「悪あがき」なんてのは、けっこう重なるなあと私なんかは思ったりします。

 

★戦争★

"Still Falls The Rain"を解説した時に、このタイトルの由来を書くのを忘れてましたね。これは1979年のライヴなんかでもこの曲を紹介する時に先生ちょっと言ってるんだけど、1973年の"These Foolish Things"でカヴァーした"A Hard Rain's A-Gonna Fall"、この時に「激しい雨が降ろうとしている」だったものが、1979年になってもまだ"Still Falls The Rain"だってコトらしいんですよ。何年もの間、ずーっと「雨」が降ってるってコト。

でね、この"A Hard Rain's A-Gonna Fall"のヴィデオ見て、私はすんなり納得したんですけど、このヴィデオでは、戦車が発砲している戦争映像が曲の間に挿入されてるんです。そして1985年の"Slave To Love"で"Give Me Help Me"って歌ってるバックで嵐が吹き荒れてるようなサウンドが入ってるの気付いてます? だから"the sky is burning, sea of flame(燃え上がる空、炎の海)"なんだよね。更に2002年の"Hiroshima"、これも私なんかはモロだなと思って聞いてたんですけど、これは映画から取ったタイトルで、当然「戦火」が暗示されてますよね。この映画っていうのはアラン・レネ監督の「Hiroshima mon amour」という作品のことらしくて、邦題は「24時間の情事」。このへんが彼の実情モロだと少なくともその4番目のテーマを把握してる私としては思ってしまうんですけど、いや、だからね、つまりまさに「24時間の情事」。もちろん比ゆ的なイミでですけどね。

それはともかく、この他にもそういう「戦争」を暗示した音やコトバが作品のあちこちにあって、それが何を意味するかというと、彼自身が↑でも書いたように長年にわたって"The Right Stuff"と激烈な戦争状態にあるってコトなんです。回りからはとてもそうは見えないだろうけど、アーティストとしての彼は両手両足もがれて逆さに吊られてるような状態でも、ずーっと長い長い間、降り続く雨と戦火の中で絶望的な戦いを戦ってるってコトです。今でもね。分かるヒトには分かってることだから今更言う必要もないと思うけど、「ロック」っていうのは、そういうコトなんですよ、実は。

私、ひとつ言っときたいのはね、彼が実質、現役でプレイボーイだからって、まるで女にしか興味がないような男だって思わないでくれるってことなんだ。フェリーさんの作品の邦題とかキャプションとか見てると、そういうふーにしか取れないのかコイツらは、ってよく思うんだもん。彼ってさ、表に出てる時ってすごくフレンドリーな顔してるけど、確かにそれだって彼の性質から出てることで決して虚像というわけじゃないんだけど、でも一旦スタジオ入ったら緊張感バリバリだって知ってる? 70年代でも、Roxyのメンバーと仕事しててさえ、音が出来上がって彼がヴォーカル入れるでしょ。その時に、明らかに自分で歌ってて気に入らなかったな、とそういうマズい状況を周りが察知すると、その場が固まったってさ。で、しーん、としちゃった中で、彼が口開くまで誰も何も言えません状態。それっほど、裏の顔っていうのは超ド級のアーティストさまなの。それだってそれほど自分の作品にこだわりまくるのは、自分が何やってるかよく知ってるからだよ。「戦争」やってんだから、気が抜けるわけないじゃないの。のー天気に女のケツおっかけまわすことしか考えてない連中と一緒にすんじゃないわよ。少なくとも、私はそういう男でなきゃカッコいいなんて思えませんね。グリーンだって同じなんだけど、スケールの問題よ、スケールの。本当の「いい男」なんてものは、自分の信念と仕事に全生涯と全存在かけれるくらいのド根性なかったらつとまらないんだから。

 

★余計わからなくなってるかも...★

私、彼のこと「天才」って言ったり、「おっきなコドモ」って言ったり、「戦争してる」って言ったり、けっこう矛盾してるように聞こえるかもしれませんけど、それって全部、ふつーのスタンダードでは信じられないくらいビュアなハートをお持ちだってことなんですよね。以前から言ってると思うけど、あんな世界で30年も大スターやってて、でもそんなのちっとも意に介してなくて、どんなに社会的に成功しても核のところが全然変わらない。30年ですよ、30年。ハンパじゃないですよ、これって。

私、思うんだけど、ある種の、まあ例えば彼くらい才能のあるヒトね。ああいうヒトの場合、個人的なことに関する限り、ものごとってのはたいてい何でもかんでも可笑しいくらいに思い通りにゆくもんで、「社会的な成功」なんてものは、その気になったら向こうの方からすり寄ってくるってゆーか、やりたいようにやってて何も困らないってゆーか、そりゃ、そのためには凡人の想像もつかないくらい多大な努力はもちろんしてるんだけど、そういう「星」みたいなものの下に生まれついてる「神々の寵児」とも言うべきヒトがたまーに、いるんですよ。そういうのが「天才」だと言うのよね、私は。その中でも、彼のはホントに超がつくくらいの愛され方だと思うけど、逆に言えば、それっていくら才能あってもタダの人間でしかない身には、見方によっては大不幸だったりもするんだな。どれだけ多くのものを手に入れても、どれほど成功しようが家庭持とうが、そんな現世的なもの全て無意味になるくらい、芸術史の核の部分につながれてる。それって文字通り"Slave To Love"だよね。それが「ミューズの寵児」っていうコトなんだと私は思います。うん、そう、自分でも言ってたけど、「音楽を愛しすぎてるから」家庭こわしちゃったのよね、結局。

まあ確かに「強情」ってのも原因だとは思うけど、その彼が愛してやまない「音楽」っていうのは、単に表現形態としての音楽にとどまらず、それにかかわってくる全て、表現者として彼が表現したいことの全てが含められてると思いますね。結局のところ、彼にはそれ以外、世の人々に彼の想いを伝える術がないんだから。だって、「人間」っていうのは、ほんっとーおに理解できないんだよ、この何よりもパーフェクトな哲学を。それは今に始まったことではなくて、↑でも書きましたけど、数千年に渡って、これまで思想史で何回も浮上して来ながら、今でさえまるで理解されてないことなんで、そういう過去の状況を認識してる数少ない者には「人間」に対してストレートに何を言ってもムダ、ただ伝わるのを祈るしかない、そういう種類のコトなんです。彼のようなヒトでさえね。

こんなことバラしたら先生に叱られるかもしれないけど、あの対訳とか邦題とか見てると情なくって仕方ないから、敢えてゆー。それに洋楽の本質をよく知ってる音楽ファンにくらい、彼のそういうとこ分かってて欲しいからね。どういうコトかというと、フェリーさんの「音楽を愛しているから」というのは私、「人間を愛しているから」というのと同義だと思うな。何故って、なんだかんだ自分では理屈つけてポーカーフェイスしてるけど、そのくせ未だに"Cruel"なんか作っちゃうんだから。彼の作品の中、ああいう救いたいのに救えないっていう自分の無力さに対する嘆きでいっぱいですよ。あれほどの成功見てれば、誰だって彼が自分を"another loser ("Casanova")"なんて言う心境、理解出来ないと思うけど、先生自身は手も足も出ないってことをよく知ってるから"loser"なんだ。ただ彼には音楽があるだけで、だからそれに託すしかない以上、音楽に対する思い入れが何よりも強くなるのも当然でしょうね。三つ子の魂なんとやらで、理想主義、いえ、人間そのものに失望して"Bitter-Sweet"の冒頭で歌ってるように"I've opened up my heart so many times, but now it's closed"、つまりすっかり心を閉ざしてしまった今でも、世界も人間も、愛するのをヤメられないんですよ、彼は。だから"A Fool For Love"。しょせん自分だって小さい人間の一人に過ぎないんだから、我欲に従って生きてどこが悪い、って自分に言い聞かせつつ、その一方で"So you say, you're living just for fun, isn't it enough?(では、きみは楽しく生きれればそれでいいというのか、それでは十分ではないのではないか?)"、 これは"Mamouna"の歌詞ですけど、こんなふうに「よいこ」が「わるいこ」のジャマをしようとコトあるごとにちょっかいかけてくる。だから"Still falls the rain."。でもそれはフェリーさんだけじゃない、グリーンにしてもポール・ウエラーとかにしても、他の優れた多くのミュージシャンにしても、基本的な心境は同じなのよ。

それにこの「音楽」には、彼の未だ「かなわない夢」も賭かってるしね。それが30年やって未だにかなわないから、もうこの先かなうこともないかも知れないって、"Frantic"なんでしょうよ。先生、このタイトルについて聞かれるとジョークだとか何とか曖昧な答え返してるけど、私はマジ今の心境だと思ってますけどね。そりゃ言えないよな、ホントのこと。コレばっかりは...。ともかく思考の次元、志とか望みとかが彼の場合は、ふつーのスケールでは測れないようなところにあるんだ。だから、そういうものが音楽の中でだけ語られてる。なんでそんなやり方を、って思う? 彼には「心を閉ざ」さなければならない理由があったからですよ。それは何かひとつの具体的なキッカケがあってというのじゃないけど、あらゆることを総合して、それしかやりようがなかった理由がね。だけどそれから後、あるイミ彼の思考の中では時間なんか止まっちゃってるよ。あまりにも壮大なスケールで世界を俯瞰してるから。だから"While my heart is still beating, will it never stop bleeding?"なの。

おおっと、またもお私ってばベタほめだな、これは。反論したい方もあるかもしれませんが、私のフェリーさん崇拝ってのは、「心酔」通り越して「信仰」まで行ってるから、まあこんなもんでしょう。でも、彼が熱狂的ファンからは神サマ扱いされてるってのはよく言われてることで、世界中にそういう作品を通してしか見えない部分、それにこそ心酔してる私のようなファンがいっぱいいるってことなのよね。タダの「大スター」なんかじゃないんですよ、うちの先生は。たかが「音楽」に、って思う? 政治や経済でなければ大きな力はないと思う? もしそうなら、「文化」というものについて、基本から勉強しなおすべきだね。

 

 

2003.11.23.

★何がクールなもんかい★

フェリーさんて、「英国で一番クールな男」とか言われてるって? そう言えば「A King of cool」とまで言われてたしな。きゃははははは、そうかあ、無理してんなあ、先生。

インタヴューなんかでそう言われて、自分でもびっくりしたりしてんの。「ぼくはホントはラテン・タイプの人間なんだけどね」とか言って。いや、全くその通りでね、確かに本国でのインタヴューとか見てると、けっこう気難しく構えてたりとかしてて、確かにクールに見えるんだろうな、それが。でも作品よくよく知ってたら、とんでもないわよ。何がクールですか、あれだけ言いたい放題、日記みたいな歌詞書いて恥ずかしげもなく歌ってて。"Nobody Loves Me"の次は何言い出すか、私次のアルバム楽しみなよーでいて怖いわよ。

 

★Still Falls The Rain★

以前ちょこっと"Still Falls The Rain"の話をした記憶があるんですが、この曲はジギル博士とハイド氏に、フェリーさん自身の中の「よいこ」と「わるいこ」が重ねられてるって言ってたんですよね。この「一人の人間の中で分裂してしまった人格」っていうのは、この他にも至るところでテーマにされていて、一枚まるごとそのテーマを中心にすえたアルバムまであるんです。それがどれかは、おいおいにお話するとして、「わるいこ」99%の私としては「なんでそんなに気にしなきゃなんないの〜」と思うくらい、彼の中ではその自分の中の半分の「わるいこ」が、すっごい負い目になって仕方ないみたい。どうも根がマジメすぎるのか、フェリーさんのみならずグリーンとかも、この「半分のわるいこ」のことは、すっごい気にかけてるのよね。

世の中、このテの理想家、というか、世界の混沌が気になって仕方ないってタイプのヒトは、当然彼らばかりじゃないわけで、古今東西、昔から哲学者だの芸術家だのにはよくいるタイプと言ってもいいかもしれない。それは大半の「小市民」な方々には考えもつかないような志とか思考とかいうもので、別世界ではあるでしょうけど、そういう人間も世の中には少なくない数いるってことです。まあ、こんなページを未だに見にきて下さるような方の中にも、たぶんそーゆータイプのヒトが多いんじゃないかと思いますが、言ってみれば「そういう人種の系譜」が芸術史だの思想史の核の部分であり、それゆえに文学においても、この種のテーマの作品は数限りなくあるということにもなるんですね。その系譜から日本は明治維新以来キレイにはずれて、視野の狭い小市民中心化しているので殆ど芸術とは何の関係もない世界ですが(漱石がマトモにシェイクスピア理解してなかったなんてのも、その原因作ってるんですけどね)、ともかく英国なんかはやっぱりそのへんの系譜をイヤでも継いでて、ブリティッシュ・ロック界ともなると、最低そのくらいの知性はないとミュージシャンつとまりませんって世界なんでしょう。スケール全くちがいますわ。目には見えないけど、そのスケールの差が当然音楽的表現にも出てるのよね。それに以前、フェリーさんの作品の中には、少なくとも4本の主要なテーマがあって、そのうち3本は決して芸術史の中で奇異なものではない、と書いてたと思いますけど、それもこういう事情を反映してるってことでもありますか。

で、まあ、私なんかはパタリロなみの良心しか持ち合わせがないもんで、世界情勢が悲惨なのはよくよく分かってるけど、そんなの人間自身が愚かだから因果応報なだけで、何も気にしてやることないじゃん、バカにつけるクスリはないわよって既に見捨てきってます。つまり、「よいこ」「わるいこ」半々の状態じゃなくて、ほぼ「わるいこ」化しているというコトですね。だから全然苦にもしてませんが、いちおー、そっち側のヒトではあるんで、このテの生まれつきの理想探求者が、どこで挫折して人格分裂を引き起こすか、そういうのはパターンとして見ることくらいは出来るわけです。どこでひっかかって、完全「わるいこ」化が出来ないかも大体分かります。ほぼ完璧に「わるいこ」化を遂げている私としては、それゆえ半分の「よいこ」を捨てきれないフェリーさんとかグリーンが愛しいのかもしれません。世の中、こーゆーヒトたちばっかりだったら、もっと住みやすいのになあ...。

私は哲学っていうのは芸術史の中枢にあるものだと思ってるんですけど、それはあらゆる表現形態が感覚ベースなものであるのに反して、哲学のみが論理ベースなものであるからです。文学者の多くも含めて、哲学以外の表現に従事するヒトたちっていうのは、ふつう理屈で動きませんよね。でも実はそれでも芸術史の中心にあるテーマと不可分ではないんです。オスカー・ワイルドは「全ての芸術の中にはイエスがいる」というようなことを書いてたと思いますけど、それはイエスが象徴として芸術の中核にあるべきもの、即ち「愛」の本質を説こうとした哲学者だったからです。私に言わせれば、「芸術史の中核」とはイエス個人ではなくて、イエスが追っていた問題そのものだと思いますけどね。イエスを「外国の神様」程度にしか認識していない大半の日本人には、あまりに突飛な話かもしれませんけど、「イエス」というのは歴史上ひとつの顕著な「現象」であって、だから当然彼の抱えていてた問題そのものが、我々現代人にとっても、どこの国に属するかは関係なく、意識しようとしまいと根底で関係しているものだとも思います。日本人だったら、お釈迦サマを例に出す方がまだ近いんでしょうけど、結局のところ、ここらあたりの最上級の哲学者が追っている問題というのは、いつの時代も同じものだってコトですね。

文学者には哲学的資質を内抱しているヒトも多いので、文学と哲学はよく混同して認識されてしまうんですけど、でもあらゆる文学者が全て哲学的資質を内抱しているかというと、そうじゃない。論理性やテーマよりもストーリー展開そのものの中に、我知らず何かしらの真理を表現する方も多くあって、そういう方の作品は、むしろ感覚的表現に近いものだと思います。で、ひるがえって例えばフェリーさんやグリーンなんかは、ミュージシャンとしての資質に恵まれながら、同時に哲学的資質まで抱え込んでるから、詩的表現を通して論理性を持ち込まざるをえない、ってことなんでしょう。イギリスのミュージシャンには、このタイプの方、けっこう多いようです。

長々書いてしまいましたが、そういう芸術史の中核に時代を問わず流れている問題と、それに関わらざるをえない生まれつきをしてる人間の思考展開について知ることは、ロックのみならず、芸術史の系譜につらなるあらゆる表現を理解する上でも有用じゃないかと思うんですね。それでしばらくそのあたりの話を書こうかなと思ってまず"Still Falls The Rain"を持ち出すことにしたわけです。ごくごく分かりやすいしね、これ。

私思うにね...、そりゃ確かにそういう問題を追いかけざるをえないっていうのは、もうこれ殆ど生まれつきの資質だとは思うけど、実はそれは万人にとっての問題だとも思うわけですよ。私としては「世界を変えるには人間を変えるしかない」とも思ってるんで、いわゆる「問題意識」ってやつですかね。こんなマジメぶりっこなコトは言いたくないってば言いたくないんですけど(めんどくさいし)、でも結局のところ「誰かが良くしてくれる世界」ではなくて、「自分たちで良くして行かなくてはならない世界」という意識の欠落が、世の悲惨と混沌の根源であり、状況が根本的に改善されえない原因でもあるだろうなと思ったりもするんだな。ともかく何で理想探求者が挫折して人格分裂引き起こすかって説明は後でやりますんで(こんなの文学だの芸術だのに関わろうと思ったらタダの初歩だが)、まず"Still Falls The Rain"から見てみて下さい。

 

"Still Falls The Rain"

*Dear Hyde

no more can I 

explain, I've tried

with words in vain

they pass you by

like falling rain

from perfect skies

inside

 

*親愛なるハイド

これ以上どうやって

分からせればいいのか

努力はしてきたけれど

どんな言葉も役には立たなかった

ただ完全な天空から

降る雨のようにきみに注ぐだけ

 

Hey brother don't be square

here it is not over there

I'm your man - I've got it made

you feed my fire you need my shade

 

兄弟、固いことを言わないでくれ

きみの必要なものは

そこじゃなくてここにある

私はきみのもの- 私には成し遂げられる

私の炎と加護がきみには必要なのだ

 

*You're here, Hyde

once more inspire

this strangely tied

uncertain frame

so torn inside

still falls the rain

two mind, one vein

still falls the rain

inside

 

*きみはここにいる、ハイド

また干渉するんだね

この奇妙なつながりと

内側で引き裂かれた

不確かな心の中

今も雨が降り注ぐ

ひとつの血の流れに二つの心

今も雨が降り注ぐ

この心の中に

Hey doctor don't be scared

It's you and me so where's my share?

I'm the man just move aside

call me mister call me Hyde

 

博士、恐れることはない

ここにいるのは私ときみだけ - 何をすればいい

私はきみの側にいるよ

私を呼びたまえ、ハイドと呼びたまえ

 

Hey love don't be shy

I'm single minded guy

better watch me - boy I'm rough

half a man ain't strong enough

 

ねえ、きみ、臆病にならないでくれ

私に腹蔵はない

私をごらん - 私は辛いんだ

人は半分では十分に強く在れないのだから

 

Hey brother don't be square

here it is not over there

I'm your man - I've got it made

you feed my fire you need my shade

 

兄弟、固いことを言わないでくれ

きみの必要なものは

そこじゃなくてここにある

私はきみのもの- 私には成し遂げられる

私の炎と加護がきみには必要なのだ

 

ごらんの通り、ハイド氏に呼びかけてるのは「博士(doctor)」で、この二人のやりとりで構成されている歌詞だということは分かりますよね。*の部分が曲想から言っても「博士」で、それ以外がハイド氏の呼びかけになってるんです。ヴォーカル聴くと分かりますけど、*の部分は確信の持てない精神状態に戸惑う「博士」の弱さを表現してるのと反対に、ハイド氏の部分は確信的に歌われてます。彼の「芸が細かい」って私が言うのはこういうとこなんですけど、ともかくこの作品は一人の人間の中で、「尊敬される立派な人間として生きるべきだ」というスクエアな考えと、「いやそうじゃない、もっと自我に忠実に生きるべきなんだ」という考えが戦っていて、どこまでもひとつにまとまらずにいるという歌なんだと分かってないと、字面では正しいように見えて実はマの抜けた訳になってしまいかねません。

こういう作品の場合、必ず一番最初にやらなきゃならないのが「起承転結の把握」と「代名詞の特定」で、それをやらないとコトバだけ日本語にしても全体にイミが通らなかったり、ひとつの単語が相互には全く関連のない複数のイミを持つという英単語の特性上、最悪の場合、コトバそのものの選択も誤りやすくなるという問題が起こってきます。逆に、全体の流れさえ掴んでいれば、日本語なんて辞書にある言葉をそのまま使う必要は全くないですし、流れに添った意訳もしやすくなるわけです。英語を理解するという観点から言えば、コトバではなく、そこに書かれているイミを把握することの方が先だということですね。日本の英語学習法は、その意味から言っても全く逆で、方法論としてきわめて非効率的かつ非実用的であると言わなければなりません。日本人に速読即解、速聴即解ができないヒトが多いのは、知識がどうとかいうより先に、そういう学習法で一旦日本語に置き換えるヘンなクセをつけられているせいでしょう。

それはおいといて歌詞の方に話を戻しますが、この作品で更に重要なのは、単にハイド氏が誘惑に負けやすい弱い人間を堕落に誘っているというありがちな図式にとどまらず、ハイド氏の方が何よりも人間にとって必要な存在である、言ってみれば人を一見悪い方向に引きずろうとする「わるいこ」の方が、より人間には必要であり、腹蔵のない忠実な僕であり、重要かつ最終的に人を幸福に導き得る存在だという所なんです。弱い人間だから堕落してそれで終わりっていうんじゃなく、人間的に真に向上するためには、その「わるいこ」にこそ向き合わなきゃならないってとこを分かってるのが、実はこの歌詞の作者の一番すごいとこのひとつなんですけどね。まあその彼でさえ、最後のとこ抜けきれずに長いこと分裂したままの自我引きずってるんですから、「よいこ」ってやっぱり人間にとっては捨て難いものなのかな。どちらにせよ、だからこそハイド氏の部分は確信的に歌われてるってコトです。

さて、部分的に説明しますと、まず一節め

Dear Hyde

no more can I 

explain, I've tried

with words in vain

they pass you by

like falling rain

from perfect skies

inside

ここは「博士」の方が彼を誘惑しようとするハイド氏に向かって、これまでずっと説得の努力を試みてきたけれども全てはムダだった、とサジを投げつつあるところです。それを受けてハイド氏は

Hey brother don't be square

here it is not over there

I'm your man - I've got it made

you feed my fire you need my shade

スクエアなこと言わないで私が必要なんだと認めたまえ、本当にきみが必要としているのは私であるはずだ、と更にたたみかけてるわけです。そして3節目ではまた「博士」が、自分の中にハイド氏がいて干渉してくること、それを断ち切れない不確かな状態に自分の精神状況があることを嘆いてます。

You're here, Hyde

once more inspire

this strangely tied

uncertain frame

so torn inside

still falls the rain

two mind, one vein

still falls the rain

inside

ここで、このframeなんですけど、これには辞書にも「心の状態、気分」というイミのってます。この歌詞の全体テーマが分かってれば直訳で「不確かな心の状態」で済むコトなんですが...。だから torn inside(内側で引き裂かれている)、two mind, one vein(一つの血管を共有する二つの心)ってことになるんですね。ちなみにこの「vein」は一節目の「in vain」と韻を踏むために使われてるわけです。そしてこの「博士」の泣き言に対して、残りの3節でまたハイド氏は繰り返し確信的にたたみかけてきます。

Hey doctor don't be scared

It's you and me so where's my share?

I'm the man just move aside

call me mister call me Hyde

 

Hey love don't be shy

I'm single minded guy

better watch me - boy I'm rough

half a man ain't strong enough

 

Hey brother don't be square

here it is not over there

I'm your man - I've got it made

you feed my fire you need my shade

 

ここでまず「shy」、まあ確かにshyは「恥ずかしがる」ってイミありますけど、自分相手に「恥ずかしがる」もないと思うんですよね。で、これには「びくびくする、臆病な」という前節の scared と同じイミもありますし、その他にも「いやがる、気が進まない、疑い深い」など、否定的な態度を表現するイミもあるわけです。

また「rough」にも様々なイミがあり、確かに「乱暴な、荒っぽい」というのもありますけど、「辛い、苦しい」なんてのもちゃんとある。ここでsingle minded guy つまり自分には腹蔵がないんだ、と誠実さを主張してるハイド氏が、乱暴だったり荒っぽかったりすることに何かイミありますか。腹蔵なく「博士」のことを思いやってるから、自分を受け入れるのを躊躇する博士に対して「辛い」と言ってるんじゃないですか。だって自分の半身である「博士」が同調してくれない限りハイド氏は一人の中の半分でしかないから十分強くはなれない、つまり 「half a man ain't strong enough」なんですから。もっとストレートに言えば、一人の人間が二つの選択の間で悩んでれば、確信を持てないから当然弱いですわね。そういうゆらゆらと確信の持てない精神状況こそが、この歌詞全体を通して語られてる作者の内面性なんです。だからそのへんの細部をきっちり訳し出してゆかないと、全体が歪んでしまいます。

ということで、この歌詞は特に難解なところはないんですけど、こういう比較的分かりやすい作品から入って、それが彼自身の精神状態を語っている内容だってことを知ってれば、"Both ends burning"とか"Mamouna"とかのより分かりにくい作品群も容易に真意を把握できるようになると思います。

けっこう長くなったので、どうしてこういう人格分裂が起こるかについては次回の更新でということに致しましょう。

 

★なんで王サマって言っちゃうかっていうお話★

よく私、先生のことを「うちの王サマ」って言ってると思うんですけど、それって単にROXYの総帥だからってだけのイミじゃないんです。実は、もうずーっと前から、ってゆーか、たぶん"AVALON"を聴いたあたりから、あのアーサー王のイメージが先生と重なっちゃっててね。それにいろいろ歌詞とか読んでるせいもあって、どうにも私にはフェリーさんが、あらゆる権利を剥奪されちゃって、幽閉の身にある王サマってイメージ抜けないの。誰が聞いてもすっごい突拍子もないイメージだって思われるだろうけど、あの"AVALON"のジャケットのアーサー王は、当然"AVALON"、つまり死後の休息の地にある王サマのイメージですよね。それと、あの肩に止まってるのは単なる鳥じゃなくてマーリン、つまり魔法使いであるドルイドのマーリンが姿を変えたものなんですって。

で、以前、TARAの丘っていうのは現在でもアイルランドの聖地とされてる所だと書いたと思いますけど、ここは古代ケルト民族の諸王の中の王が君臨した地でもあるんです。当時のケルト民族っていうのは一人の王のもとに中央集権を敷いてたわけじゃなくて、各部族に王がいて、またそれをたばねる王がいて、その上にそれら全ての王を束ねる諸王の中の王がいるっていう形態だったんだそうです。だからTARAに君臨したのは、その王の中の王、だったわけですね。で、そういう場所ですから、TARAは政治と同時に文化の中心でもあったらしい。そんなところで王サマやってられるヒトってのは、それはもう「賢帝」じゃなきゃつとまらないだろうなと思わない? 政治にも文化にも通じ、そして何より臣民の安寧に尽力できるような、知性も教養も兼ね備えて文武両道に秀で、慈悲深く愛情深い出来すぎみたいなヒトをイメージしちゃうな、私は。ましてやケルト民族は後にローマ人から「哲学者に率いられる国家」とまで絶賛されたわけで、そういう「知」によって治められる国家の、王の中の王と言ったらば、それはもう「賢帝」の中の「賢帝」でなきゃ実質つとまらないよ。

まあそんなことを考えてるとね、そのイメージが、何故だかフェリーさんと重なっちゃうって話です。だって彼ってば、ずーっと世界のあげてる悲鳴を聞きつづけてて、しかもそれを苦にしつづてるようなヒトなんですもの〜♪ きっとTARAに君臨した王サマも、そういう"A Fool For Love"だったんじゃないかなって思っちゃったりしてるところへ、そうそう、この"A Fool For Love"ですよ、"Frantic"の。この曲は"In days gone by, there was a king、A fool for love, and all it brings (過ぎ去りし日に、一人の王が在った、愛してやまず、そしてその全てが受け継がれている)"、そりゃもう、こういう場合私は"A Fool For Love"と言われたらば、先生が実質どーゆーヒトか知ってるだけに、その「愛」ってのは臣民とか、世界とか、そういう壮大なスケールで注がれる愛情の方だと思っちゃいますね。だって先生自身、作品以外では口に出して言うことはないけど、そういう愛情がどう切り捨てようとしても切り捨てられないで、世界の混沌が気になりつづけてる"A Fool For Love"なんですもの。だからこそ"Cruel"で、"Everywhere I go there's a world full of heartbreak"なんて歌ってんじゃないですか。だからさあ、こういう歌詞をね、その一曲だけ見て対訳書こうなんて無謀なことはヤメとけってゆーのよ。訳す人間の問題意識のレベルを反映してるんだと思いますけど、この"A Fool For Love"の対訳なんて、言っちゃなんだけど私呆れかえるしかないわ。もう長年にわたって毎度のコトで怒る気力も失せてるが、うちの先生のこと一体何だと思ってんのよ、って言いたくもなるわね。

とりあえずそれはおいといて、そのへん考え合わせるとフェリーさん自身も、けっこうあのアーサー王と自分とはマジで重ねてたかなと、過ぎ去りし日にTARAに君臨した王サマと自分とを重ねてるから、TARAにも並ならない思い入れがあるし、その王サマが持っていただろう世界に対する限りない愛情が、そのまま自分の中に受け継がれてるなんて感じもしてるんじゃないか、なーんてね。これは私の単なる空想ですけど、そういえば"AVALON"のヴィデオで、あのマーリンに見立てた鳥を腕に止まらせてたのは先生自身だったな。あの「マーリン」も実はけっこう問題なんですけど、それはともかくそうだとすると、この混沌を目の当たりにしながら何も出来ないのは辛いだろうな。だけど彼は今「囚われ人"Ja nun hons pris"」だからね。だから「幽閉の身の王サマ」。

まあ何にせよ、私にはフェリーさんって、そういう王サマの器っていうか、類まれな王の魂を持ってるヒトに見えちゃってね。だからついつい「うちの王サマ」なんて言っちゃうんですよ〜ん♪

 

2003.11.15.

★フェリーさん、なぜか地味...★

11月、あやぼーんちは「大掃除月間」なので、今週はあちこち掃除したおしていたんです。それでブラインドをふきふきしたりもしてたんですけど、あれはもー、一年一回のコトとはいえ本当に面倒でイヤになりますね。

先月末は、サーバーの移動でパソコンに向かいっぱなしだったこともあって、「しばらくパソを見たくなーい」状態だったもんですから、お掃除は良い気分転換にはなりましたがブラインドはやはりめんどい。で、まあそんなこんなで忙しかったもので、今週全く何も書いてなかったんです。

ホントは "Both ends burning(1975)" から、以前お話しかけていた"Still Fall The Rain(1979)" 、それに"Momouna(1994)"を経て、更に"Nobody Loves Me(2002)"あたりまでしつこく繋がってるテーマのお話をしようと思ってたんですけど、結構長くなりそうなので、それはまたそのうちということにしておきましょう。"Both ends burning" か...、そうだなあ、これもライヴとかでよくやってる曲だから先生気に入ってんだな。でもコレ発表が1975年だけど、この歌詞のイミにしたって30年近く知られないままに来てるんじゃないか? たいてい "both ends"の両側にいるのがホントは誰なのか分かってないようだし。だから、コレと"Still Fall The Rain"や"Momouna"に横のつながりがあるなんて....。 また全世界初かもなあ、このへんの話すると。彼の作品としては、まだずっと分かりやすいテーマなんですけど、それでもハズすもんな、みんな。

で、まあそれはおいといて、今日は今年の夏のニューヨークでのコンサートの写真が手に入ったので、ちょっと掲載してます。

でも何故か今回、フェリーさん地味なのよね。シックと言うべきなのかもしれませんけど、ステージ・ファッションとしては、普段とあんまり変わってないっていうか。ステージ背景もライヴDVDの時なんかよりは、わりとシックな感じだし(↑)、ヴァイオリニストもドレッシーな雰囲気だし、そのへん合わせてたのかもしれないけど。まあ、私は彼が何着てても全然かまわないんですけどね、何でもお似合いになってしまわれますから、うちの王サマは(きゃはは)。

このあと確か10月にドイツでROXYやったのよね。それで次は来年の2月にオーストラリアでソロのコンサート・ツアーやるって。メルボルンのフェスティバルに参加するのと合わせてオーストラリア行くんだな。いいなー、2月のオーストラリアなんてイギリスいるよかずっといいよね。

ところで以前フェリーさんってシュールレアリズムにも相当ハマりこんでるらしいって書いてたでしょ? やっぱり本マジそうみたいで、最近読んだ本で知ったんだけど、70年代にはわざわざダリに会いに行ったとゆーくらい大ファンだったとか。なるほどなあ...。

シュールレアリストなんて哲学者と似たりよったりだと思うけど、そうするとやっぱりこれも誰かさんが後に似たよーなことやってるんだよな。...うーん。そう考えると世の中怖いなあ...って。何でかってゆーと、私、当初はフェリーさんの"Boys and Girls" にしてもSPの"Cupid & Psyche"にしても、単に何の変哲もない音楽CDを買ってきたつもりでいたんだ。で、他の沢山のCDと同じように右から左に聞き流して「いい曲ね〜♪」で終わるはずのものだったのよね、そもそもは。...それが何故こんなことに...。

で、よくよく知ってみると、グリーンにしてもフェリーさんにしても経歴が経歴じゃないですか。オマケに、このヒトたちってばリチャード・ハミルトンの門下生だったり、ダリのファンだったり、コンサート・ツアーに出るのにシェークスピアを持ち歩くとか(フェリーさん)、ジャック・デリダのファンだったり、若い頃の一時期とはいえマルクス主義に傾倒してたりとか(グリーン)、それで一筋縄でゆくような脳天気な「かよー曲」作れりゃ不思議よね。そういう文化的影響っていうのは、ずーっと連鎖してゆくものだと思うし、こっち(彼らの音楽を聴く側)にも素地があれば間接的に影響してくるから。

私は基本的にはまるっきり無害でのーてんきなぷーたろーですけど、いちおー素地が素地なもんですから、こういうヒトたちにヘンに反応してしまって、その後の人生に多大な影響が出ることになってしまった。いや、それはそれで良い方に転んでるから、いいってばいいんですけど、単なる娯楽音楽のはずがそれほど他人に影響を及ぼしうるというコトが凄い怖い、と。それもこっちは哲学書読むとか、何かそういう人生の指針を求めてるわけでも何でもない所で、単に音楽聴いてて、ですよ。著書も読まないのに、間接的にジャック・デリダに影響されてる、なんて、後で知ったらえ〜???、でしょ? 怖い、怖い。

以前グリーンが、「自分の音楽が人にパワーを与えられるものであれば嬉しい」というようなコトを言ってたと書いてましたけど、フェリーさんも「ぼくの音楽で人生が変わったなんて話を聞くと嬉しいね」なんて言ってたし、まあ作る方もそれだけ根性入ってるってことなんでしょうけど、いやー、危ない危ない。どこで何にひっかかるか分かったもんじゃないですね、世の中。私の場合、もともとこのテの哲学大系を自己構築しかかってるとこへ持って来て縁というか何というか、彼らの音楽と出会ってしまったわけですけど、他に作家だとリチャード・バックとかオスカー・ワイルドもその系統で、私は何故だか相前後してこのへんも読むようになってたんです。だから、そういうのも含めて行き着くべき所へ行き着いたってことで、まあめでたしめでたしですわね。でもこれは極めて幸福な例だと思う。これもどこかで以前書いてたと思いますけど、「思想」っていうのは劇薬と同じで、生まれつきの免疫がない場合それで一生あやまっちゃうってこともあるくらい恐いものなんです。洋楽の世界って内容の差こそあれ、そういう思想性がごろごろ転がってますから、どこで何にひっかかっちゃうか分かりませんよね。うーん、でもまあそれが芸術の効用と言えば言えるか、良い影響の場合は、だけど...。ロクでもないもんは悪い影響出しちゃうこともあるから、よけい怖いんだよなあ...。

 

★ROXYの語源★

ところでROXY MUSICが始めは"ROXY"にするつもりが、アメリカに同名のバンドが既にあったためにMusicを付けることになった、って話はよく知られてると思います。でも、そもそもこの「ROXY」が何なのかって皆さんご存知でした? 私は最近知ったんですけど、そもそもは映画のスターレット(特に若手の女優)のことで、そこから派生して映画館によく付いてた名前なんですって。そう言えば日本にもそういう名前の映画館ってあったような気がするな...。

フェリーさんの子供の頃っていうと特に映画が最大の娯楽っていうような時代で、そのせいもあって彼はすごく映画からも影響を受けてるんだとか。創作とプロモーション展開の上で、音楽的、文学的なものの他に美術的、視覚的なものも大事にするところにも影響してるようだけど、後にプロモ・ヴィデオなんかの企画をやるようになったりしたのも映画作ってみたいと思ってたことと関係してるらしいのね。で、バンド名の話なんですけど、このMusicを付けるについては結果的によりバンドの性質をハッキリさせることになって、より良くなったとフェリーさんは思ってたみたい。なんでかってゆーと、映画館で上映される映画って、さまざまなスタイルのものがありますよね。それを彼らは音楽でやろうとしていたわけだから、"All kind of MUSIC"のイミで、「ROXY」だけより更にピッタリだったってことらしい。インパクトとしても、その方がずっと強いと私なんかは思うし、響きがキレイですよね、この方が。まあ、そんなわけでそもそもの始め、バンド名からして、そのポストモダン的な音楽の折衷主義を物語っていた、というのが真相のようです。このROXYには、この他にいくらか"Rock"をイメージさせるっていうのもあるらしいけど、メインは映画の方みたいね。当時の映画館ってすっごく豪華なりになってるものが多かったとかで、この名前っていうのは、ともかくスーパーモダンなイメージがあったんだって。このへんはREX BALFOURの受け売りですけど、なるほどねって感じでしょう?

この折衷主義ね。これ今考えてみるとすっごい不思議なんですけど、私はそれを小説でやろうとしてた、というか、やってるんですよ、実際に。小説っていろいろなジャンルに分かれてるもんだと思いますけど、ふつージャンルごとに作品は別々のストーリーでしょ。でも私は、ひとつの作品の中にそのさまざまなジャンルを複数入れてしまう、ということを既にやってて、いや、ジャンルだけじゃなくて、そもそも私の小説って哲学書が娯楽小説の体裁を取ってるっていうものなんですけど、ふと気がついたらそれって本質的にフェリーさんが音楽でやって来たコトとすごい近いような気がするのね。つまりジャンルをクロスオーバーさせて、しかもその器に思想性を放り込むという点で。私はそれに関しては、まるっきり影響受けたとかでは全然なくて、自分が書きたいように書いてたら自然にそうなっちゃったんだけど、それってやっぱりすっごい思想的なものが影響してるなと、最近よくよく分かって来た。何ゆえ、こーゆー思想性を持ってる人間はポストモダン的な傾向に走りたがるか? という話ね。本人、無意識だったりするのに、そうなっちゃうっていうのは何故なのか? グリーンにしても、始めからそういう傾向ってあるのよね、考えてみると。

で、何故かを考えると、一言で言って、「何かに規定されるのがキライ」というかイヤというか、このワクの中ではこれしかやっちゃいけません、というのが、すっごい性に合わないという性質と不可分では絶対ないと思うな、それは。そこで思想性以前に性格が「全体主義」とか「構造主義」を否定してるのよね。フェリーさん、確か"Manifesto"で歌ってたけど、あのヒトはマジで「何かに縛られるくらいなら死んだ方がマシ」、ってヒトだから、音楽のみならず外見のスタイルでもコロコロ変えてないとイメージ固まっちゃうのがイヤとかも言ってたし、「構造」に甘んじてられる性格じゃないから、それ自体のカベを壊そうと無意識にせよ意識的にせよしちゃうんだな。だからと言って全く何の規制もなかったら、私たちのような人間は自分で理性のブレーキきかせられるけど、通常多くの人間にはそれが出来ないってコトも分かってるから無政府主義みたいに極端じゃないんですけど、「構造優先」、つまり「自我」よりも「全体」を重んじよというのが気に食わないわけ。だから思想的にも「自我優先」ってコトになっちゃって、結果として"Love is the drug"などとゆー、すさまじく通常の理念と正反対な概念を成立させてしまう、ということになるのよね。そのへん本人が意識してようといまいと、全部ひとつらなりなんだと少なくとも私は最近思ってますけど、お分かりいただけます? 

まあ要は、概念大系のために人間がいるのか、人間のための概念大系なのか、という根本的なところが、全体を優先させようとするヒトたちは前者だし、自我を優先させようとするヒトたちは後者、って具合に正反対なんだろうな。私は当然、後者ですけどね。前者は、私に言わせれば単なる本末転倒でしかない。単純思考で困難からも逃げてると思うけどな。「人間」がバカなのは分かってるけど、それを囲いで囲って教えてこの通りしなさい、ってそれは「飼う」のと同じじゃないですか。それってあるイミ「家畜化」ですよ。「人間」に考えさせ、自ら改善させなければイミがないんじゃありませんか? だからこそ「まず自我を重んじよ」だと思うんですけど? それとも「人間」ごときに、そんな高度なコトを期待しちゃいかんということですかね? それもなあ...。

あれれ? また話がヘンな方向に来ちゃったな。まー、宇宙的視野から見れば絶対どっちが正しいってもんでもなし、要はどっちを取って生きるか、ってだけの話なんですけどね。ただ、「人間」って一般に視野が狭いから、規則とか規定を作ったらそこだけで凝り固まっちゃうじゃないですか。柔軟性がないというか、そっちを軸にして人間を全てその型にはめてそれで良しとしようとする。それが一番問題なんだよな。

 

2003.11.8.

★ネタが...★

先週はサーバー移転騒動で更新してるヒマなくってすみませんでした。今週からまた頑張りたいと思いますが、しかしさすがに5ヶ月目ともなるとネタがね。いえ、あるのはあるんです、いくらでも。ただ言っちゃいけないコトとか、言っても信じてもらえないだろうコトとか、そういう危ないコードに引っかからないような話題を選ぶとなると、なかなかむずかしい。私だってバラしてやりた〜い♪ コトっていうのはいっぱいあるんですけど...。いずれ全部バラせる時が来るのを祈るしかない...。

 

★このくらいなら大丈夫かな?★

さてフェリーさんの歌詞には、よく「lonely」とか、「alone」とかゆーコトバが出てきます。コレに気がついてるのは私だけじゃなくて、彼の作品をよく知る海外のライターの方の中には、dream home と同じように lonely もオブセッションになってると言う方があるくらい、ともかくよく出て来るんです。それはもうオリジナルだけじゃなくて、もちろんカヴァーでも。

で、なんで彼は「失恋」の歌とか、「淋しい」なんてコトバがこんなに好きなのか。...考えてみると暗いですよね。自分でも、ゆわえるjolly song(陽気な歌)は作れないとか言ってたし、ともかく彼の歌って、確かに曲想からして暗鬱なのよね("Boys and Girls"にしても"Mamouna"にしても)。ホント、ぱーっと明るい歌ってソロでもROXYでも全くと言っていいくらいなくて、"More than this"でさえ、どこか憂いがつきまとってますもん。それで歌ってるのが「失恋」とかLover come back to me系、「淋しい」くらいならまだしも、長年「淋しい、淋しい」と歌いたおした挙句の果てに"Nobody Loves Me"。

確かにタダの歌で、そーゆーマイナーなのが好きとかだけの理由だったらいいんですけど、彼の作品の場合、歌詞にマジ入ってるっていうのは私だけが思ってることじゃなくて、やっぱり長年彼の作品をよく見てる前出のマーク・エドワーズ氏なんかは同じことおっしゃってるし、親しい友人の方でも、そういう見方をされてたりするのよね。ただ、そういう方でも、私から見るとアルバム全体のテーマが分かってないために、イミとりちがえてるなって思うことがよくありますけど。ほんのたまに彼の歌詞が記事とか本の中で話題に登っても、その殆どは一曲の中の一節だけ取り出して、そこだけでイミ付けしてる程度で、一曲そのものの起承転結、更にアルバム全体の曲同士の横のつながりから全体のテーマ、そして彼の全作との相互の関わりまで考慮してるなんて例は私の知る限り絶無です。私から見れば、そういう論理的解析が可能なくらい、フェリーさんの作品は首尾一貫してるんですけど、なかなか皆さんそこまでは考えてもみないみたい。それでも、彼の歌が決して実際の感情と無関係なタダの歌ではないっていう点では一致してるようです。もちろん私もそう考えてるわけですが...。

そうすると、この「lonely」ってのは何なのか? だいたい社会的にあれだけ成功して、才能ありすぎるヒトって家庭には恵まれなかったりするもんだけど、それもクリアして、あんないい奥さんもらって子供4人で、一体何が「淋しい」のっ? って、ふつー、そう思うじゃないですか。でも始末が悪いのは、それでもホントに「淋しい」ってコトで、彼の持ってる哲学っていうのはあまりにも特異なために理解してくれるヒトが殆どない。歌詞にしたってその通りの扱いしか受けてないわけで、例えば"Love is the drug"- "More than this" - "Slave To Love"に横のつながりがあるなんて殆ど誰も分かってやってないと思う。でも、彼としてはその哲学にこれだけ執心してるだけに分かってもらえないのはやっぱり淋しいだろうな。"Avalon"の"True to life"に"too much luck means too much trouble, much time alone"って一節があるんですけど、これは「幸運がトラブルを招く、そして殆どひとりぽっちだ」って歌詞じゃないですか。彼の持ってる哲学は一旦理解すると手放しがたい最終的なもので、これを手に入れることが出来るっていうのは人間としてすっごい幸運なんですけど、同時に大変危険でもあって、結果としてそれがトラブルや孤独を招くことになるって、そのまんま歌ってるんですけどね、これなんか。言いたかないけど、あの多岐に渡る才能から言っても、この孤独ってほんと「天才」のもんだと思う。ただ、彼の場合それをなんとかしようとはしてて、でもその「ユメ」は未だにかなってないらしいですけどね。

ともあれ何でそういう哲学を持つようになると孤独に埋没してしまうかというと、通常の意識基盤と掛け離れたところに自分の考え方の基盤が立脚するようになっちゃうからです。以前、社会というのは「一定の概念大系を基盤にして成り立っている」っていうようなコトを書いたと思いますけど、その社会に属する人間は殆どが意識していようといまいと当該社会の基盤となる概念大系に影響されているものです。だからその影響を敢えて断って、自分の信じる概念大系を基盤にして生きようとすると、回りの人間から掛け離れてしまわざるをえない。生き方も考え方も、まるきっきり違っちゃうわけですから。回りと共通の意識基盤がない所で生きるっていうのは、それはもうある種の真空の中で生きてるようなもんで、例えばコトバも通じず、生活習慣もちがうような全く知らない異国で生活しなきゃならなくなったら、人間って一時的にもせよけっこう孤独に苛まれたりしますよね。あれがもっと壮絶なレベルでずーっとつづいてる状態だと言ったら、先生が lonely とかalone を、はからずも多用してしまう原因は少しは分かってもらえるでしょうか。まあ、彼はもともとプライヴェートなことは語らないって言われてるヒトですけど、作品の中だけでは言いたいだけ言ってるってことですよね。でもそれが詩句に封じられているために、こんなに広く聴かれていてなお、その本心を知る者は少ないってことなんでしょう。

ところで同じコトを理解しててもグリーンなんかは田舎にこもって気がついたら8年たってましたってヒトだから、こちらは不思議なくらい「lonely」なんてコトバ殆ど使ってなかったと思う。これってすっごいなあと思うんだけど、彼の場合は一人でいるのがそんなに苦にならないヒトなのかも。それ考えると根本的にフェリーさんて淋しがりなんだな。あの才能で、それはやっぱり辛いだろうと思う。そういえば、私思うに、プレイボーイって少なくとも二通りあって、ひとつは単に「女のこが好き」なんだと思うけど、もうひとつは「淋しがり」ってのもあるよーな気がする。そうするとフェリーさんのは明らかに後者か...。

それはともかく、それでもつい最近まで私は彼の作品の世界ってその実生活とはもっと離れた所に置かれてるものだと思ってたんだけど(ふつー、分別のある大人ならそうする)、よくよく知るとどうやらそうじゃなかったらしい。だいたい私が彼の存在を知った時には既に結婚してたし、お子さんもあったし、だからどんな歌作ってても、それは作品の中だけに封じ込められてる世界なんだなと、プライヴェートではちゃんとおとーさんやってんだな、と思いこんでいたんだ。しかし今考えると迂闊だった。そういう点では私も彼の外見やイメージに、だまされてたうちの一人だな。最近とみに思うけど、あれはホントに「おっきなコドモ」だ。でもまあ、あるイミそのへんが彼の最大の魅力なのかもね。

 

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