2003.9.30.-10.2.
★いるんだねえ、こういうヒトが...★
うーん...。私もたいがい現実にはいそうもないよーな小説の主人公を創出してきたもんだけど、いるんだよねえ、現実にこーゆーヒトが。1976年に出版されたフェリーさんのこと書いたREX
BALFOURってヒトの本を手に入れたので早速読んでたら、つくづく事実は小説よりなんとやらだなあって思っちゃって...。
好きだわ、こういう話。しかも作り話じゃなくて現実にこーゆー人生生きて来たヒトなのよね、フェリーさんて。私の想像力をもってしても、とてもじゃないけどこんなキャラクターは考えつくことすら出来ない。あまりにも理想的すぎて、ドラマなのよ〜、何もかもが。今読んでる本は当然彼を表向きから捉えたものでしかないけど、私が書きたいのは表と裏両方を表裏一体にしたようなお話なのね。
だからそれってもちろん単純なサクセス・ストーリーみたいのじゃないわよ。そんなのだったら書いてるわよ、私既に。第一、成功したロック・スターなんて他にもいっぱいいるじゃない。それ以外にすごくフェリーさん独特ってことがあるのだ。
ともかく私はずーっと長いこと作品の側から、つまり言ってみれば内側から彼のことを見てきたので、以前も書いてたけどそのドラマを舞台裏から見てたのも同じなのよね。で、このところ逆にこの本みたいに彼のことを外側から捉えたものを読みあさってると、今度は表舞台から見ているというか、外側からどう見えてたのかがよく分かってきて、このギャップがまた面白いんだわ。
例えば、初期のまだイーノが在籍してた頃ってフェリーさんは彼個人へのインタヴューに関する限り殆ど丁重にお断りあそばして、そういうのは全部他のメンバーに任せっきりにしてたらしいのね。彼は自分のプライヴェートなコトを語らない人って今でもよく言われてるけど、彼のもともとの内面性の方をよく知ってる私としては、さもあるだろうなとすんなり納得がいくわけ。だから余計イーノの脱退に関しても、決して彼の人気が気に食わなかったとか、そういうのじゃないと少なくとも私は信じてるんですよ。だってもし、そういう何でもかんでも自分が主役じゃないと気が済まないくらい自己顕示欲が強いヒトだったら、インタヴューなんて喜んで受けまくるんじゃないですか?
やっぱり。ホントだったらそういう回りの喧騒なんてものは出来るだけメンバーにでも任せて、自分は一歩退いたとこにいたかったんじゃないかなと思ってたけど、事実始めの頃は特にそうだったみたいね。結局やっぱりイーノを脱退させたことで、それまで以上に自分が引き受けなきゃならない部分が大きくなっちゃったんだろうな。
そもそもはそういうやかましい世界に直接関わるにはデリケートすぎるとゆーか、繊細にすぎるとゆーか、まあ詩のひとつも書こうかという芸術家サマなんて、そんなもんだと思うけど、すっごい現実社会との認識ギャップを埋めるのが心理的に大変になっちゃって当たり前なのかも。...、って、そのへん外側からだけフェリーさん見てたら、決して信じられないだろーけど。
それとか、1972年の秋頃から3年間、彼が住んでたところってのがまた小説に出したいような雰囲気の部屋なんだよ。もちろんフェリーさん自身の趣味なんだと思うけど、
「高い天井と広々としたスペースにはグランド・ピアノが据えられ、長年に渡って彼が集めて来たアールデコの家具とポップ・アートで飾られていた。しかし訪れる人たちが驚かされたのは、その高価なインテリアや趣味の良さばかりではなく、同時に少々エキセントリックだったところだ。例えばテレビはいつもつけ放しにされていたが音は消されており、たくさんの花器に生けられた花はみなプラスティックのイミテーションだった。けれどもブライアンにとってそれは気に入りの空間で、彼はそこでその後3年間暮らすことになる。」
ね?ね?ね?、もお、ダニエル・スティールかシドニー・シェルダンの小説にでも出て来そうなインテリアなんだもの〜、私好き〜、こういうの。自分の小説にパクってしまいそう!!
実際、エキセントリックって言えばそれはもう、あのメジャーなイメージからは想像もつかないくらいエキセントリックなのがご本人なんだから、私なんかはこういう趣味もすっごくうなずけてしまうんだな。らしいってゆーか。うー、いいなあ。絵になるなあ...。
それとかそれとか。この本はモノクロとはいえ今となってはめちゃ貴重な写真がいっぱい入ってるんだけど、1965年の頃のもあるの。1965年っていうと20才の頃だと思うんだけど、15才くらいに見えかねない感じの写真で、それがまた驚くことには!!
以前フェリーさんて未だに子供みたいな顔して笑ってる時があるって書いたと思うけど、そういう時の彼ってこのころの写真の面影そのままだったりするんだよな。いや、もう全くアタマが下がります。あの騒々しい芸能界の中心で30年以上も大スターやってきて、未だにここまでピュアでいられるとは。彼がトシ取らないのって結局どこまで行っても中身がコレだからなんだろうな。
まあそんな感じで、100ページそこそこの本のわりにはいろいろ分かって面白いんだけど、改めて、このアートスクール出身で、音楽の原体験にはジャズがあって、その後R&Bにハマって...、という経歴ですね。誰かに似ていると思いませんか?
そおです、グリーン・ガートサイドです。
どーいうわけかこの二人、やってることおんなじ!!
グリーンも一時ロフト・ジャズに狂ってた時期ってあるらしいし、R&Bにもハマってたし、アートスクール出身ってとこまで同じ。しかもグリーンもデュシャンをアルバムのデザイン面や歌詞にまでパクっている、それにA&Bのアートワーク、あれは当然ポップ・アートの範疇にあるものですよね?
アートワークを自ら手がけるってとこも、そう言えば同じだな。きゃはははは、どうせ本人たちはまるっきり気付いてさえいないんだろうけど、星の数ほどいるミュージャンの中で何でそーゆー人間ばっかり私がコレクションしてしまうのか、それも不思議な話だけど、ともかくフェリーさんのやってたことを10年後にすっかりそのまま知らずになぞってたのがグリーンだったわけ〜、笑っちゃう〜♪
考え方が似ていると行動や趣味まで似るものなのか?
考えてみるとA&Bって、グリーン自分で「いろいろなテイストが乗っかったアイスクリームみたいなもの」とか言ってたけど、それもフェリーさんのやってるスタイルの多様性、言ってみればポスト・モダン的方法論と通底するものなのよね。そうすると、今後グリーンがどういう作品を作るようになってゆくか...、私はおのずから予測がつくような気すらする...。
まあフェリーさんはジャズの他にも11才の頃オペラの「ラ・ボエーム」を見てボヘミアンの生き方に感動した、とかも言ってたし(オペラは今でも相当好きらしい。日常BGMにしてたりするとゆー。)、逆にグリーンはカヴァーなんてやったことないし、ジャック・デリダに影響受けたりとか、それはいろいろそれぞれちがう部分の方が多いんだろうけど、ここでこうして何故だか二人を大好きな私が比較して見ていると、なんでこう同じことするかな、ってのが面白くてね。10才近くちがえば一世代ちがうってことなんだし、外側からの受け取られ方も180度反対方向って感じなのになあ...。まあ結局、芸術や思想における根本命題なんてものは時代を超越してるからには、こういうことが起こってもちっとも不思議じゃないんですけど、時代や外見のスタイルに誤魔化される人間には、決して見えないものなんだろうな、そういうのって。
この本、面白いのでまたおいおいにその中の話が出て来たりするかも。写真もそのうちスキャンして掲載しちゃおっかな〜。
2003.9.26.
★BBCで聴けます★
BBC
Radio 6で24日にROXY MUSICの1979年 Hammersmith Odeon
でのライヴが放送されました。うくくくく、いい〜!!
1週間くらいは聴けるらしいので是非聴いてね〜。Dream
Ticket の水曜日でーす。
1979年というと"Manifesto"の頃なんで、曲目は
Manifesto
Trash
out of the
blue
Still falls
the rain
Mother of
pearl
Ain't that
so
Angel eyes
In every
dream home a heartache
Love is the
drug
Casanova (Roxyのオリジナル・アレンジじゃなくて、ソロでカヴァーした方のアレンジで歌ってる)
Re-make
Re-model
Editions of
you
と、つづくんだけど、1時間くらいあるんじゃないかな。番組の最初の方はSuedeとかのライヴも放送されてるので、1時間分くらいスキップすると聴けるよ〜。う〜、いいよね〜、BBCがリアルタイムで聴けるなんて、うれし〜。
当時のライヴはデンバーでやったやつはCD持ってるけど、こっちのがいいよーな気がする。グリーンはライヴやらないヒトだからそういう楽しみってないけど、やっぱROXYはライヴ、いいですよね〜。その時々アレンジとかフェリーさんの歌い方も変わってたりするから、ハマりこむとすっごいあれもこれも聴きたくなるの。実は今日忙しくてまだ半分しか聴けてないので、あとで、も1回始めから聴くのだ〜!!!
そおそお、昔のFMってこんなだったよな。BBCなんて聴けるんだったら、もう日本にFMは必要ないんじゃないか?
ところでJulia
Thorntonのデヴューアルバムが9月29日に出るって。"Harpistry"
というタイトルでバッハのアリアとかをハープでたっぷり聴かせてくれるアルバムになってるそうです。私もー、試聴して既にすっごいファンなったよ。もともと期待してたし、うんと子供の頃(小学生くらい)はクラシックしか聴かなかったヒトだから、こーゆーのもすっごい好き〜。(私は小学生の頃はクラシック、そこからジャズのスタンダード行って、ニューミュージックをかすって洋楽に行った。)
ジュリアさんのHPで試聴出来るので、そちらもぜひご覧になってね〜。すっごいキレイなHPだよ。(ジュリアさんて"As
Time Goes By"のツアーの時はハーピストとして、ROXYのツアーではパーカッショニストとして参加してらした方です。DVDとか見た方は既によくご存知ですよね。ロイヤル・アカデミーで4年間音楽を学ばれて、パーカッションはそれ以前の14才頃からやってらしたそうです。ロイヤル・アカデミーを出て3年後に"As
Time Goes By"のツアーに参加、その後レット・ディヴィス氏からパーカッショニストとしてROXYに参加しないかというアプローチがあったとか。...ふふふふふ、すっごいキレイな方なんだよね〜(私は美人が好き)。そのへんの話はアルバム聴いてからまた詳しくするね〜!!)
2003.9.23.
★いろいろと...★
たまには写真もいーかなー?
実はこのページ、あえてフェリーさんの写真とか使わずにやって来たんですけど、まあたまにはいいかな、と。なんでかってゆーとー、ココはこれまで世界中で一切プレスにもインターネットにも絶対出てないはずの作品の裏話とか(誰も聞いてくれないからフェリーさんも答えようがない。だから彼の歌詞が読める人しか知らないはずだ、こんな話は。)、一般に信じられないよーなことやってるから、あんまりそのへんに興味のないミーハーなヒトには来て欲しくないからです。そういうヒトには必要ない話だし、私も言いたい放題言ってるからな。
ところで彼がキーボードのとこにいる写真なんて、けっこう珍しいんじゃないですか?
DVDとか見てると時々あるけど、あんまりピアノ弾いてる写真とか見たことないし。
それにしてもフェリーさんって、やっぱり昔からすっごいバケるのうまいよね。いろいろ写真見てると、それぞれの写真で印象がまるっきりちがうんだもん。ずっと若い頃でもけっこうトシとって見えたり、逆に最近の写真で〜、恐ろしいことに40代通り越して30代にしか見えないよーなのがある!!
信じらんなーい。そういえば自分でも"I
am a master of disguise as you well know..."とか言ってたしな。自分でゆー?
けっこうこれ、皮肉もまじってると思うよ。ホントに彼が何にバケてるのか、みんな知らないと思って〜。
やっぱり役者やっても成功してただろうけど、私思うに、彼が演じている最大の役柄っていうのは「Bryan
Ferry」そのものだと思うのよね。自分でもこういう業界であえて音楽作るなんてことしてなきゃ、やらないだろうことまでやってきた、みたいなこと言ってたし。彼の作って来たパブリック・イメージってものがROXYの成功にどれだけ役立ってるかってことを考えればそれも納得いくと思うけど、そもそもは少なくとも私が作品の歌詞から見るその作者像ってのは、どうまちがっても単なるケーハクなプレイボーイなんてものじゃないもんな、当然ずっと若い頃から。
もうめちゃマジだわ、純愛だわ、芸術家サマだわ、それこそほんと信じらんなーい、わよ、あのイメージで中身これ?
いや、あるイミおどろくのは、あれだけ騒がれるからにはホントに遊び回ってたのは否定のしようのない事実だと思うのに、それで中身がコレだってことなのね〜。怖い〜。
日本ではわりとアーティストさまな側面から記事にされることが多かったようなので、私もそれほどとは思ってなかったけど、特に結婚前って未だにlounge
lizard
(女ったらし)ってのが代名詞のように使われるくらい遊び回ってた、のに?
だから私も彼が女の子好きじゃないとまでは言わないわよ。それはそれでプレイボーイの素質はあったんだろうなとは思う。でもそーゆーことやりながら、作品だけこれなんて〜。誰でもに分かるように書かれてたらそっちがポーズってこともありえるけど、一般にホントに彼の歌詞って分からないもんらしいものな。
私も自分で書いてて時々信じられなくなるけど、日本に限らず海外でも、もともと詩とか思想とか相当そういうのに詳しいヒトでない限り、イミがあるとも思われてなかったグリーンの歌詞をきっちりジャック・デリダの思想性と関連づけて読める私のCPUが、どこをどうまちがってもフェリーさんの歌詞だけ著しく読みちがえるなんてありえない。そう考えると、やはりどんなに信じられなくてもこっちがホントなんだろうな。私の知的レベルを信じられないヒトでも(あるのか、そんなもの?)、デリダ氏の知性を疑う者はあるまい。そうするとやはりグリーンの歌詞にはちゃんと思想性が歌いこまれている、ということになる。必然的にやっぱりフェリーさんの作品もそうなんだとしか結論出来ない...。
小説にしたいよー。面白いのにー。もう乗りかかった船だし、こうなったらとことん追求していつか小説にしてやる〜!!!
フィクションじゃないのよ、ノン・フィクションなのよ、これは〜♪
2003.9.18.-9.19.
★おお、これは...★
見た見た見た見た見た!!
見てきたもんね〜、BBCのグリーンのドキュメンタリー!!
デイヴ・ギャムソンもフレッド・メイハーも出てるじゃないのっ!!
まあっ、デリダ氏まで!!
すばらしいですね、これはもう絶対ファンなら見ておかなければいけませんよ!!
あんなに充実した、しかもハイ・レベルの内容だとは、なかなかやるじゃありませんか、BBCウエールズも!! グリーンって既にデリダ氏のおともだち?
パリに招かれて会ったって話は知ってたけど、テレビの取材とはいえデリダ氏のご自宅とおぼしきところまで訪ねてゆくとは、それってもー、すっごい親しいってことなの?
きゃははははは、そこまでいってたとは〜!!
デリダ氏がグリーンの作品について語っておられるところ、ご覧になった方は覚えておられるかもしれませんが、「政治的なものと、言語的なもの(linguisticと表現されてましたね)とを音楽にはめこむという方法が興味深い」というようなコトをおっしゃってたでしょ〜。そらごらん、デリダ氏のような方には!!
グリーンの歌詞の詩的側面なんか一目瞭然で分かっちゃうんだろーと以前私言ってたと思いますけど、その通りだったっしょ?
それにしてもあのドキュメンタリーでは、特にグリーンがアーティストとして如何に高い評価を得ているかということが、しっかり打ち出されてましたよね。パディ・マカローンとか、ジョフ・トラヴィス、その他グリーンのことを語ってる方たちが皆さん、どれほど彼の才能を高く評価しているかが伝わってきましたよ〜、いやー、うれしいなあ。国内のマの抜けた評価ばっかり目の当たりにさせられてるとさー、ああいうの見るとホントほっとするんだよ、私は。分かる人にはちゃんと分かるんだ〜、というか、もー、うれしくってうれしくって。うっうっうっ(うれし泣き)、やっぱり、やっばりぃぃぃぃぃ〜、グリーンはイミのないコトバの羅列を歌ってるわけじゃなかったのね〜、知ってはいたけど、デリダ氏の口からああいう評価が出るともー、私、自分の耳と目に狂いはなかったと改めて確信出来る!!
そしてまた、同時に如何に日本のレコード業界やプレスがアホか、ということも!!
あれでアタマがいいつもりなんだから怖い。己を知らんというか、いっぺんIQテストでも受けさせて身のほどわきまえさせるべきねっ!!
例えば、未だに「音楽評論家」で記名記事の出てるよーなあるライターが、かつてグリーンの歌詞について堂々と何と書いたか。アホか、この女は!!
と思ってたけど、やっぱりまちがってなかったんだわ!!
だーから、英語もよー分からんヤツにライターなんてやらせんなってゆーのよ!!
こんなものすら習得できんよーな知能レベルで、何を「評論」するんだか...。ホントにあんなんばっかりじゃないでしょーね、日本の「評論家」って!!
おねがいよ、どこかにマトモな方もいるって信じていいわよね???
デイヴやフレッドも80年代と全然変わっちゃいるけどやっぱりステキだし〜。私わりとグリーンの外見がまるっきり変わっちゃってることについては、99年に知った時でもあまりショック受けなかったんだけど、それどころか何か逆にもともとグリーンってこーゆーヒトだよな、っていう感じがしたのよね。彼の本質と掛け離れてない外見にやっとなったっていうか、まあ80年代はあれはあれで良かったし、彼のあの「容姿」がスクリッティの名前を世界に知らしめるのに役に立ったのは確かだと思うけど、今の方がなんかずっと彼らしいっていう気が私はするなー。かっこいーですよ、今の彼のが絶対!!
ギネスに哲学書?
もー、ああいうのはグリーンだからサマになるのよね〜。どう逆立ちしたって、日本にはいない!!
あれでサマになるよーな知的レベルの高いミュージシャンなんてっ!!!
作家だってムリだよ。きゃっはははは、言いたい放題ね〜!!
だって私、バカは大っっっキライなんだもーん!!!
秀才もお断りよっ!!
天才以外、興味ないんだ〜い♪
それはともかく、A&Bはやっぱりかなりクロウト受けしてたってことみたいですよね。あちらの評論家の評価はすごく高かったって話だし、それはそうだろうと思う。レベルの高い評論家ほど絶賛したくなるような作品だったしな。以前もどこかで書いたかもしれないけど、C&Pより更にいいって私は思ったから。もお私なんかから見ればProvisionのあとで、あの生命力の復活を見せてくれるなんて奇跡ですよ。彼、自分でも言ってたけど、全てやめてウエールズに戻ったのは正しい選択だったと私も思うね。だからこその奇跡だよ、これは。だからグリーンの作品の背景や、そのアーティストとしての音楽への思い入れの深さとかさ、そういうの分かる評論家はやっぱり熱狂的絶賛のひとつもしたくなって当たり前よ。あれが分からないんなら「評論家」なんて名乗るの、おヤメなさい、さっさと!!
ジャマよ!! だから皆さんも、マネしちゃいけませんよ、そういう身のほど知らずのヒトたちを!!
もうこういう時代なんだし、いずれこれからその無能さはどんどんバクロされていくんですから。お勉強さえきっちりすれば、この程度のことはちゃんと誰だって分かるようになるもんなのに、自分の先天的な知的レベルの低さを努力で補おうとすら考えない。あの無知!
無責任! 無能!!
自分が如何にバカかを悟るのは人間としての第一歩であるにもかかわらず!!
それがなかったら、いつまでたってもバカのままで当たり前!!
努力と向上心は、自分の小ささを知ることから生まれるのよっっっ!!!
ちなみに歌詞対訳なんてものが殆どあてにならないのは、ココでもあちこちで書いてるとおり。最低でも語学力ないなら"芸能レポーター"って肩書きで名乗りなさいね。
フィルムの冒頭でグリーン、Hunter.
S. Thompson の"The music business is a cruel and
shallow money trench, a long plastic hallway where thieves
and pimps run free, and good men die like dogs. There's also
a negative side."って一節を引用してたよね。"A&B"が分からない「評論家」なんてものは、しょせんthieves、
pimpsの類でしかないね、私に言わせれば。このセリフ、アップルのスティーヴ・ジョブズも引用してたらしいけど、なるほど、真にアーティスティックな資質を持ってるヒトは言うね、こういうこと。やっぱり実感なんじゃないのかな、その中で仕事してたり近くで見てたりすると特に。フェリーさんも音楽業界については似たよーなこと言ってたし(それ分かってるから苦労してんだよ、彼も。)、マルセル・デュシャンなんかも、彼の場合は美術を中心としてそれを売り買いするビジネスそのものに反感持ってたらしいけど、痛烈に言ってるもんな。デュシャンの話は、あとでまた↓でするつもりだけどね。
まあグリーンとしては、これからやっとホントに落ち着いていい仕事が出来るって感じじゃないのかな。56年生まれだから今せいぜい47だし、フェリーさん47の頃って何作ってたっけ、MAMOUNAだよね?
ふむふむふむ。いやいやいやいや、楽しみですねえ、グリーンのこの先。80年代の印象が強いファン、音的にはエレクトロポップ、それにグリーンの容姿に惚れてたとかのファンはけっこうそのへんの様変わりってショックだったかもしれないけど、だからってもうファンやめるって話も聞かないし(それはやっぱり音楽のクオリティの高さの勝利でしょう)、A&Bから時間が経つにつれて次のアルバム期待する声上がってるもんな、海外のBBSとかでは。うちのアクセスなんて3倍なってるよ。そういうの見るとみんな期待してんだなあ、と思ってうれしくなる〜♪
結局、必ず妥協のない良いもの作ってくれるという期待のできるアーティスト、どんなに時間が経っても、例え音楽的な方向性が自分の好みと変わったとしても次を期待してしまうアーティストなんてのは稀少だってことなのよね。グリーンはヴァージンにとってもキー・アーティストの一人だって言われてたけど、そういうことなんだよ。当然フェリーさんだってそういう類のヒトだけど、彼らに限らずこういう本物のアーティストさまたちがちゃんといいお仕事していらっしゃるから英国の音楽業界は根のところがしっかりしてるってことなのね。例え表面的に停滞しても、だからこそ面白くなってくる時期もいずれくるってものなんだと思う。
これから先、グリーンのあの様変わりしたって印象だって時間が経つにつれてみんな今の彼になれてくだろうし、彼ってともかく「一直線」タイプのがんこなとこあるヒトだから、ラップ使いたい〜、って思い込んだら、とことん行っちゃうでしょ?
あれ性格だよ。そのうえ神経細いわりには、めちゃ図太いとこもあるから自分を通すことにかけては筋金入り。通らなきゃ全部ヤメて去る、あの潔さ!!
知れば知るほどホントかっこいーって思っちゃうよ、私なんかは。やっぱり尊敬してしまう〜♪
カム・バックするにあたって、シングル・カット出来そうな80年代調エレクトロポップでレイディオ・フレンドリーな曲2〜3曲も入れとけばそっちも納得させられるのに、あえてやんないんだもん。今作りたいのはこれだ!!
ってとこで妥協しないのよね。それが彼の「誠実さ」でもあるんだけど、だから今後、音の部分はいくらでもコロコロ変わってくと思うよ。でも核の部分は変わらない。変わりようがない。それが歌詞や曲想に表現されてる彼の内面性、そして哲学性だってことです。なるほどグリーンもフェリーさんぽくなって来ちゃったじゃないですか〜。うれしい〜♪
そう言えば日本国内で"Songs"再発の話が流れたのは、初期作品をボーナストラックとして入れたいというレコード会社からの要求をガンとしてハネつけたためってのが真相らしいのよね。そりゃそーだよ。だいたい"Songs"とそれに先んじる初期作品、つまりパンク時代の作品との間には思想的に正反対という隔たりがあるんだし、それを"Songs"に入れろなんて、どのツラ下げてそんな失礼なことが言えるのか、全く無理解ってのは恐ろしいね。どっかの国のかよー曲と一緒にすんじゃないよ!!
愚か者!!
しかし、そこをハネつける方もカッコいいじゃないですか。確か以前聞いた話なんですけど、グリーンのお義父さまって法律家でしょ?
そういう関係もあるのか、彼は自分の作品の著作権しっかり握ってて、ヴァージンがベスト盤出したいって話持ってったこともあるそうなんだけど、ヤダって言って相手にしなかったとゆーウワサもある。そーゆー話持ってく方もなあ...、まあいいけどさ、スクリッティのアルバムなんて全部ベスト盤みたいなもんじゃない。それを今更ベスト盤ったって、どーやって選ぶつもりだったの?
って聞いてみたいよ、私は。今更ながら、グリーンって昔から一曲一曲徹底的に作りこんでるってことよね。
いろいろ言いましたが、まあそんなよーなわけでホントすばらしいドキュメンタリー番組でした。まだ見てない方は是非見てね。こちらよ〜♪
★The Bride
Stripped Bare★
さて、じゃあ今度はデュシャンの話をしましょー。えっと、Cupid
& Psyche '85の裏ジャケに使われてた写真ね、あれはデュシャンのパロだっていうのは以前お話してたと思うけど、見てなかったヒトはこちらでご確認下さいね。
で、面白いのはグリーンがデュシャンをあれこれパクってるっていうのは知ってたけど、わっはっは、フェリーさんもやってんだよ。なるほどなあ、私も例の"The
Bride Stripped Bare"がデュシャンの作品から取ったタイトルだっていうんで、おお!!
とか思ってたんだけど、やっぱ思考が近いわ、この二人。うん、これね、なんかどっちかってばフェリーさんの方が必然だったというか根が深いんだよね。って言うのは、このデュシャンの"The
Bride Stripped Bare"、これは正確には、"The
Bride Stripped Bare By Her Bachelors, Even or The Large
Glass"
というタイトルで、デュシャンの代表作だからよく知られてもいるんだけど、実物は←これです。
分っくわんなーい、よね?
何でコレが"The Bride
Stripped Bare"なのか〜♪
きゃはは。デュシャンだねえ、これも。デュシャンの作品ってのはね、「彼の作品は芸術家や美術史家にとっては神経をすり減らすようなIQテスト的存在であったが、一般の人にとっては未だに謎のままである。(ジャニス・ミンク著「マルセル・デュシャン」より)」とまで言われてるそうだし、まあムリだろうな、凡人がこんなものにイミを見出すなんて芸当は。思考の次元がちがいすぎるわ...。
これはガラス2枚の中に針金や鉛箔などを使って制作された作品で、ガラスという性質上運搬時に破損することがよくあって、何度となく作り直されてるんだって。デュシャンは未完成のままこれの制作をヤメてるんで、完成作ではないらしいけど、その「未完」というのもなんか深遠よね。で、その復元をやった中のひとりに、リチャード・ハミルトン氏がいらっしゃるの。フェリーさんの大学時代の先生だった方。タイトルがあまりに長いので一般に言われる時は「大ガラス」とされるんだけど、この詳細について細部に渡る要点を記した"The
Large Glass"という著書がハミルトン氏によって書かれてるそうです。面白そうなんで原作が手に入るなら、ぜひ読んでみたいと思ってますけど、そのへんから言ってもフェリーさん、この作品についてはもともとよく知ってたんでしょ。のみならずシュールレアリズムとかにも相当ハマりこんでるらしいからな、あのヒトは...。元は美術畑なんだから不思議でも何でもないけど、一般的なイメージとはえらいちがいよね、そのへんも。くくくくく、やっぱ天才だなあ。彼のIQって私聞きたいよーで、聞くのが恐ろしいよ。私がフェリーさんのこと天才ってゆーのは、単に音楽家、詩人としてすぐれてるとか、そんな程度の低いレベルの問題じゃなく、こーゆー次元のお話なんだけどね。それこそ常人のあずかり知らない領域の問題ってことか。"None
of them never guess, but you understand" 〜♪
ところでマルセル・デュシャンね。いろいろ調べてるとめちゃ面白いよ〜。そもそもは私そのCP85の裏ジャケの話でデュシャンが出て来た時から、彼の作品って美術における詩だなあ、と思ってたんだけど、その時はもちろん特にデュシャンについて知識あったわけじゃないんです、でもドンビシャリ。ちょっと引用するね。
「知性の感じられない芸術の形を嫌悪する背景には、デュシャンの詩に対する信念がはっきりと伺える。」
ジャニス・ミンク著「マルセル・デュシャン」より
ほれほれ、また「詩」なんですよ、これはやっぱりキーワードだね。ともかく「詩」のなんたるかが分かってないと、ヨーロッパ芸術史の主流はまず把握できまいね。
1912年、当時デュシャンは25才だったんだけど、その頃、彼が属していたサークルであるキュービズムの作家たちに自分の作品の展示を拒否されて決裂することになるの。そこで彼は「そういうことならばこのグループに属する理由は何もない。人は自分以外の誰も当てにすることはできない。皆自分一人でやるしかないのだ。」とすねたらしい。天才ってのはそういう時って必ず来るのかもしれないけど、ともかく結果として造形美術以外の分野に視野を広げる気になったんだな。そこで作家、特に言葉の実験を始めていた文筆家を重要視するようになったんだって。でね、それに先んじる1911年、サロン・ドートンヌでフランシス・ピカビアと知り合ってるんだけど、彼を通じて新しい世界を開くことになる。その交流の中で「アフリカの印象」の作者レーモン・ルッセルに大変感銘を受けて
「ルッセルは初期の頃、私が熱中した人物の一人だ。彼の素晴らしさは今まで見たことのないものを創り出す力だ。だから有名であるとか、実力者であるとかとは全く関係なく私の心の奥底から賞賛の思いがこみ上げてきた。アポリネールが最初にルッセルの作品を教えてくれた。それは詩だった。ルッセルは自分が言語学者であり、哲学者であり、形而上学者であると思っていたようだが、素晴らしい詩人でもあった。」
と、大絶賛してるんですよ。言ってみればこのへんがデュシャン独特の世界の開かれるキッカケになってるってことでしょうね。つまり彼の作品が美術における詩であるという考察はなかなか的を射てるってことなんでしょう。それは上の発言につづく部分で彼がこう語っていることからも分かると思う。
「私のガラス作品"The
Bride Stripped Bare By Her Bachelors, Even or The Large
Glass"が生まれた背景には根本的にルッセルの影響があると言える。彼の「アフリカの印象」から基本構想が生まれたのだ。アポリネールと一緒に見た彼の芝居が私の表現力の一翼を担うこととなった。ルッセルを参考にすることができることはすぐ分かったし、画家にとっては他の画家からよりはむしろ作家から影響を受ける方がずっと良いと感じた。そしてルッセルがその方法を示してくれたのだ。
私の理想とする図書館にはルッセルの全著作が収められている。それにブリッセと、多分ロートレアモン、そしてマラルメも。マラルメは素晴らしい詩人だ。これこそ芸術が進むべき方向である。つまり動物的表現へではなく知的表現へと進むべきなのだ。私は"bete
comme un peintre"(画家のように愚かな)という表現には本当に嫌気がさす。(p29)」
ついでにもう少しデュシャンの芸術に対する認識、そしてそれを取巻く環境への認識の手かがリになることを先ほどのジャニス・ミンクの著書から引用すると、
「才能や技、そして活気が多少あれば対象物はカンヴァスの上で生命を与えられる。そしてそれが洗練されたものか粗悪なものかはともかく、「絵画」として呈示される。カンヴァスの上の物を調和させることが芸術作品へとつづく道なのである。冷めて、突き放した目でそれを観賞する鑑識家は(まるで人々が綱渡りに感心するように)「技術」を賞賛し、(パテを楽しむように)「絵画」を楽しむのである。飢えた魂は満たされず、場を後にする。
大勢の人間が部屋の中を歩き回ってはカンヴァスが「良い」とか「素晴らしい」とか思う。言うべきことがある人は誰にも言わず、またそれを聴く耳を持った者も何も聴かなかった。このような芸術の状態を"l'art
pour l'art"(芸術のための芸術) と言う。
芸術家は自分の技術や発明、観察力に対して物質的な報酬を求める。彼の目的は自分の野望や貪欲さを満たすことであり、芸術家同士の親しい協力の代わりに報酬の争奪戦が繰り広げられる。競争や生産過剰に対する不平があり、憎悪や偏見、内紛、嫉妬、陰謀などは目標のない物質主義的芸術の結果、生まれるのだ。(p33〜34)」
こうした芸術を取巻く環境に対する認識は、グリーンの引用したHunter.
S Thompsonの一節に見る彼の音楽業界への認識と通底するものがありますよね。フェリーさんにしても最近のインタヴューで、彼の異常なまでの作品に対する執念(時間もお金も湯水のようにかけまくる作品の作り方)について尋ねられて「金より大事なものってあるよ」とか言ってたし、まあ本物のアーティストさまってのはこういうお考えでなきゃ勤まらないってことくらいは覚えておいた方が良いでしょうね。
そしてこういうデュシャンの「業界」に対する嫌悪感がどのような認識基盤の上に生じたものであるかと言えば、
「芸術家は自分自身を心で表現し、その心で芸術を受け入れなければならない。そのことが大切なのだ。(p77)」
「芸術家とは、己の魂で自身を表現するものだ。魂で感じなければならない。」
うんうん、まさしくその通りですわね。私もまったくそれと同じこと考えてたんだけど、それはたとえばこーゆーこと。
curve the
diamond
with heart
and soul
that's
called art
they told me
so
これは手元にある記録でも97年には存在してるから、それよりずっと以前に私が書いた一節なんだけど、したがって最近知ったばかりのデュシャンの前出の発言からは何の影響も受けてない。グリーンとかフェリーさん、それにオスカー・ワイルドとかアルフォンス・ミュシャ、レンブラントなど当時からの私のお気に入りの芸術家を見てて、うーん芸術ってのはこういうもんなんだなとすんなり出て来た一節でもある。背景には佐藤史生さんの確か「ネペンティス」って作品のストーリーが絡んでると思うけど、ともかくこれはあくまで正真正銘あやぼーにコピーライトのある一節です(パクるなよ、このあとまだつづくんだから)。デュシャンよか私のがもっと壮絶かもしれないが...。
でもともかくこういうバッティングのしかたするってことは、真の芸術を理解するためにはこれがなくてはならない認識ってことなんでしょうね。したがって芸術を取巻く環境に対する嫌悪感ってのも、私に限らずそういう人間の間で常に共有されてるものなんだろうな。宿命ですかね、これも。
さて、その"The
Bride Stripped Bare By Her Bachelors, Even or The Large
Glass"、フェリーさんはあのアルバムに、ここからタイトル付けたことについて、収録されている曲の多様性がデュシャンのこの作品で使われている素材の多様性と重なるというような説明をしてるんですけど、たぶんそれだけじゃないでしょうね。細かく説明するにはそもそもこの「大ガラス」の解釈からやらなきゃならなくなるから、分かりやすいようなとこだけ説明したんだと思う。で、これはあくまで私の印象なんですけど、この「大ガラス」の真意っていうのが、あのアルバムのテーマ性と合致してるってこともきっとあるんじゃないかと。デュシャン自身が自分の作品の解釈をされるに任せてたらしいから、それこそホントにヤブの中状態みたいだけど、たぶんそうじゃないかなっていうのはこのタイトルだけでも感じられるし、もっと詳しく彼のノートとか分析すれば分かってくると思うけど、まだそこまで私はハマりこみたくなーい!!
いま生きてるフェリーさんやグリーンの作品につきあうだけだって忙しいんだー。だからそれも老後の楽しみにとっておこう...。
それはそれとして、こう細かくデュシャンの思考基盤や作品を見てゆくと、それを引用した先生の"The
Bride Stripped Bare"というアルバムにも深遠な意図が隠されていて当然という気がする。デュシャンの真意はともかく、少なくともフェリーさん個人の「大ガラス」の解釈とあの作品は通底してると私は思えるんですけどね。
2003.9.16.
★69MBをダウンロードする根性があるなら...★
ジョン・ハイドのサイトで、今スクリッティのBBCドキュメンタリーをストリーミング再生できるそーです。しかし私は45分・69MBをダウンロードする根性なんてハッキリ言ってありません。うちは56Kbpsですから(ビンボーなんだい!!)
近いうち、どっかのインターネットカフェにでももぐりこんで見るしかないか...。
でも、もしその根性があるか、ADSLとかでアクセスできるとかの条件なら、絶対見る価値あると思うので見てみて下さいね!!
ジョンのとこは、ファイルをひんぱんに入れ替えするので、見たい人は即行かなきゃ見れなくなっちゃうかも。
★お引越しについてのお知らせ★
今回のお引越しについては、あえて個人的お知らせはしないことにしてます。ってゆーのは、なまじこんなページ始めてしまったもんで、他のページ作ってるあやぼーが虚像というわけじゃないですけど、ここってほんとに私のいちばんイケナイ本性出まくりだし、言いたい放題言ってるし、おそらく殆どの方には既にめちゃ呆れかえられてるだろうなと思うからです。だからまだつきあってやろーという、ご奇特な方は言わなくたって来て下さるでしょうし、もー、こんなやつとはつきあいたくなーい!!
と思われる方はさっさと見捨てて下さるでしょうし、何にしても皆さまの選択にお任せするのが何よりではないか、と結論しました。ということですので、お知らせもせず失礼しているのにここに来て下さっている皆さまには、心からおわび申し上げなくてはなりません。
うー。
まずいよなあ、やっぱり。健全で善良で健康的で明るく形式的っていうのが、ふつー正しいホームページのあり方みたいだし、ただでさえ逸脱してるところへ持って来てこれじゃなあ...。長いことやっちゃいけないと封印してたのに、おバカなことをやってしまったと自分でも思うが、やっちゃったもんは仕方がない。でもまあいいや。これでどうでもいい客はふるいにかけられるだろう。それに日本人から徹底的に拒絶されたって、私には英語版ページへ逃げこむという手だってある...。世界は広い!! ハッキリ言えばそっちのがヴィジター多いんだよな。
話飛ぶけどフェリーさん、10月はドイツでROXY
MUSICのコンサートするって。2001年にファイナルとかなんとか言っといて、結局2年ずーっとそのままやってるのね。いくら楽しいからって、こうなってくると新しいアルバムのひとつも作らなきゃファンがだまってないってとこまで来てる気もするぞ...。
★しかたないか...★
7月にAYAPOOでネタがなくってフェリーさんの話なんか始めたのがやっぱりいけなかった...。こんなことになるんじゃないかと思ってたが、やっばりなってしまったな〜。まあ始めからココはわるいこのあやぼーが担当しているということは言ってあったし、そういうのが気に入らないコはすぐに来なくなると思ってたし、だから未だにこんなとこを見に来ている誰かさんは、きっとあやぼーとおんなじくらい「わるいこ」なんだと思うから、もうおかまいなし状態になったっていーよねー。(すでになっているが...)
それにしても改めて思うのはココで書いてることって、一般的なROXYのファンには信じられないどころか、すっごいデタラメに聞こえかねないだろーなってことよね。もー、いいですよ、熱狂的ファンのたわごととでも何とでも思ってもらって。本当にそうとしか見えないと思うし、ハッキリ言って"More
than this"
分かんなかったら彼の作品どれもまず理解できないのが当然だから。だけど私がフェリーさん好きなのは、実際、ホントにこーゆー信じられないようなヒトだからなのよね。グリーンとちがって、たぶん哲学とか思想とかと一番縁がなさそうなイメージあるのに、その実こんなこむずかしくてややこしいことを密かにやってるとゆー、そこが多分ふつーの感覚では絶対信じられないんじゃないかと思う。私だって当事者じゃなきゃ信じないわよ、こんな話。
でもここしばらく原版のインタヴューを沢山チェックしてたんだけど、すればするほど「やっぱりか〜」としか思えなくなってくるってゆーか、その中でも彼が自分の作品について語った
このセリフ、"The problem is that I've always
seen it as being slightly esoteric. "、どうせだったら初めて"Boys
and Girls"聴く前に知ってれば〜、と悔やまれてならない...。本当に純真な少女が聴いてはならないよーなものだったのね、彼の作品ってばどれも。
このesotericってコトバ、私↓では控えめに「少数の人にしか理解出来ない」って訳したんだけど、まだもっとすごく排他的な日本語にもなるの。でも私はそこまであつかましいこと言いたくないので、調べて下さい。
ともかく彼自身がこう言うんだから、やっぱりそうなんだよ。少なくとも誰でも手放しで理解できるほどカンタンなことは歌ってないわけ。確かに今となってはそれは当然のことだと私も思う。しかしその理解しづらい内容を一聴して分かってしまった私はいったい何なのか?
初めて聴いた時は、まさか他のヒトが「こんなカンタンなこと」を理解できない脳しか持ってないなんて、まるっきり知らなかったんだもん!!!
マトモに日本の学校教育で育ってるから初期教育なんて完全に失敗されてるし、だから当時こういうことに関する教養も知識もあるわけないし、おまけに私の語学力なんて今とは比べものにならないくらい壊滅的だったのに〜。なんで分かったんだ〜。ああ哀しい...。
ヘンだヘンだと思ってたけど、ほんっとーおに、分からないんですよね?
理解出来ないんですよね?
からかってるんじゃないですよね?
..だとしたら全部私の単なる誤解だった方がよっぽど救われる。
そう考えると、私はやっぱり世の中の無理解な「解説」だの「対訳」だのに怒ってはいけないのね。怠慢の結果としての無理解に対してなら「怒る」のは正しい。しかし不可抗力からくる先天的要因による無理解は怒るに怒れない。とはいえ、このまま野放しにしておいたらフェリーさんの作品だけじゃなく何もかもひっくるめていつまでも何も変わらないし、向上は望めないし、私個人はそれでも何も困らないけれども、少なくとも教える努力くらいはしてやるべきだ。15年前ならともかく今はタダで読めるホームページだって普及してるんだから、コトのついでなんだしお金もかけずにやれる!!
ということで、まあどう思われてもいいけど、つづけて努力だけはしてゆこー。10000人のうち一人くらいは何とかなるかもしれないから...。そういう問題なのよ、これは。...100000人にひとりかな、もしかすると...?
2003.9.2.-9.12.
★A SONG
FOR EUROPE★
1. 「Europe」が象徴するもの
今日は兼ねてから話題に登ってました"A Song For
Europe"のお話をしたいと思います。ここしばらくやってた話が前置きだったりするので、おりに触れて思い出しながら読んで下さいね。っても、ホントこれ何てことない歌詞なんで、殆ど皆さんもう分かってらっしゃるんじゃないかと思うけど、要するにフェリーさんが失恋したのは一言で言って「Europe」なんですよね。だってそれしかないじゃん、タイトルこれなんだし。
でも、ここに来て下さる方みたいに、ちゃんと英語のひとつも理解して、洋楽の本質にくわしい方ならともかく、一般にはこう言っても私が彼のコトを「そんなにスケール小さいヒトじゃない!!」っていう理由が分からないかもしれない。そもそもだからこそ、彼のラヴ・ソングの本質そのものが理解できないんだろーし。
まずね、人間にはある観点から見ると二通りあって、ひとつは目の先三寸しか見えてなくて、「自分の日常が全世界」という、いわゆる「小市民」タイプ、もう殆どの人間ってのはコレだから、特にそれが悪いわけでもないし、正常ってばそれのが正常だわね。だから「失恋」って言っても、せいぜい実在の、人間の女性しか連想できないのも道理なわけなんだよ、つまりはそれがふつー。
でもフェリーさんは、残念ながら思考レベルがそういうふつーなヒトじゃないの。彼のようなもうひとつのタイプの人間ってのは、これはもう多分に、ふつーに生きるにはアタマが良すぎる、もしくはクレイジーすぎるっていうのか、自分のいる社会から更に透過して全世界の混沌を俯瞰してしまう視野を持った人間。これが、ごく少数とはいえいるんだな。だから"Cruel"や"Heart
Still Beating"みたいな作品も出て来るのよ。当然グリーンなんかもそのタイプよね。フェリーさんだって、彼の本質を理解してないヒトには意外かもしれないけど、60年代に興味持ってたのはケネディみたいな人たちで、だからアメ車乗り回して(スチュードベイカーだったとか言ってたな)、ビシっとスーツで決めたりとかしてたこともあるって言ってるもん。ってことは、ああいうスタイルって芸能人やりはじめてから身につけたもんじゃないってコトね。
芸術家、それも論理芸術である哲学や、それを含む一部の文学に優れた資質を持ってる人間は大体このタイプ、と言うより、そもそもそうでなきゃ、ことに哲学的資質に恵まれてるとは言えないわけ。だからデリダ氏なんかも、言うまでもなくそういうヒトだってことよね。二流以下の哲学者、いや、そういうのは単なる「哲学研究者」でしかないと私は思ってるけど、そういうヒトたちって元来その視野を持ってないから、「論理のための論理」に埋没してしまう傾向を示してしまうわけ。
なんでフェリーさんがそーゆー人種だって私に言い切れるかと言えば、そもそも"More
than this"なんて無常観を「肯定的」に受け入れた詩作品なんてものは、そういう人間以外に描き出せるものではないし、また例えば"The
Bride Stripped Bare"の中の"This Island
Earth"には、まるっきりそのまま
through
the air and underground,
everywhere this
sound
screams and
whisper 'I can't breathe'
(空気や地面を通して、どこからでも聞こえて来るこの音、叫び、囁き、「息ができない」と)
などという歌詞がありましてね、世界の現状なんて日常、意識のどこにもない「小市民」な皆さんには理解できないかもしれませんが、今、この時だって世界中で戦禍や飢餓、そういった非人間的な災厄に苦しめられている人たちがどれほどいると思ってるんです?
そういう実際には聞こえないはずの阿鼻叫喚が、日常イヤでも聞こえてしまうとゆー、これはそういう世界の上げている悲鳴をモロに受け止めてしまう不幸な種類の人間の嘆きの歌なんです。確かにこの曲、ラヴ・ソング的な内容も含んでますけど、それも基本的にこの部分に表現されている認識があるから生まれてくるものです。だからこの"This
Island Earth"なんかは当然"Cruel"だとか"Heart
Still Beating"なんかに通底する曲なわけで、こんなもんが入ってる"The
Bride Stripped Bare"の、どこがジェリー・ホールと関係あるのか、私の方が知りたいですよ、全く。こういう先生の美しくも哀しい想いをですね、分かりもしないで誤解していーかげんなコト言ってるヤツらに、私がどれほど怒ってるか、こう言えば多少は分かってもらえるのじゃないでしょうか。
さて話を"A
Song For Europe"に戻しますけど、この「Europeへの失恋」っていうのは、もちろん象徴的な言い方であって、つまりはじゃあ「Europe」って何?
ってことになりますよね。
思想哲学というものは、世界の現状、それから認識される不条理への怒りとか改善への希求とか、そういったものを発端としているって前にも書いたかもしれませんが、それなくして思想の世界に入っても、まず哲学の何たるかについて理解することは不可能でしょうね。そうである以上、「Europe」が象徴するもの、それは当然そのヨーロッパの精神的バックボーンである思想性、即ちWestern
Moral Philosophy(西洋倫理哲学)と不可分なものです。そもそもこのWestern
Moral Philosophyにしたって(結論を言えば全くまちがった論理ではあるんですが)、目的は「世界の現状の修復」であることにちがいはない。そして、その総本山ってば、当然バチカンに代表されるキリスト教そのものってことよね。だーかーらっ、この歌詞は最後で「ラテン語」と「フランス語」まで持ち出して、離別を告げてんですよ。「ラテン語」ってのは何ですか?
神学における最も神聖なコトバ、つまりは神に届くとされてる言語ですよね。いわばそれはヨーロッパにおける倫理社会の公用語とも言えるものなんです。そしてラテン語が第一公用語なら、フランス語は第二公用語みたいなもんですわね。それをわざわざ持ち出して、あれだけしつこく「きみとは終わった」って歌ってんですよ、彼は。フェリーさんの作品、全てはココ、この離別に原点があると言ったって過言じゃありません。
ヨーロッパ世界を精神面から支配しているこのWestern
Moral Philosophy、これは当然ヨーロッパ人だって重く見ないひとは見ないでテキトーにやってるんだろうし、それほど重くのしかかってくるようなものでもないだろうけど、一時でもそれに理想を見出すような人間、つまりは全世界の混沌を日常として目の当たりにしつづけているような人間にとっては、そんなに軽いものじゃないんじゃないかな。彼の「恋」っていうのは、まさにその混沌とした世界を作り変えるという理想(だから若い頃はケネディとかに傾倒してたのよ。ケネディには私だって今でもロマンを感じるけどね。)、そしてその方法論としてのWestern
Moral Philosophyそのものへの「恋」だったわけです。まあ、だから私は彼がまだ十代とかの子供の頃(これに関して言及してる歌詞もある)、Diamond
Lady(=Western Moral Philosophy)に何の負い目も疑問もなく恋してた頃は、まさに光の中に居ただろうって言ってたの。
話飛ぶけど、例えばU2のボノなんかは「聖人」とまで言われちゃって、つまりはこのWestern
Moral Philosophyの体現者みたいなものよね。そのへんイーノが絡んでるってことも、私なんかから見ればちゃんと符号してくるコトなんですけど、確かに気持ちは分かる。でもダメなの。あれでは一時的対処にはなっても、どうやったって方法論として根本的解決にならないのは分かりきってるから。問題を甘く見すぎてるということね。なんで私がそういう結論下してるか、それはもう言い始めたら一大論文になっちゃうから今は書かないけど、フェリーさんにしたって、それがいかに救いをもたらさないものか、いやそればかりか、諸悪の根源である大ウソであると気付いたあとでは(別の曲で歌ってるよ、それも)、それが支配的であるだけに逆に嘆きの対象にしかならなかったんだな。しかしそれでも、あくまでもそれは「正義」なんですよ、ヨーロッパ社会においては。いや、おそらくそれはどこの世界でも通用する「正義」だろうね。だからこそ、その欺瞞に気付いてしまい、次に手に入れた最終的な解答に執着するがゆえに、「Europe」への「恋」を捨てなきゃならなかった自分を、例えば後の"Boys
and Girls"の中の一曲で、"I'm nasty(ぼくは不道徳だ)"なんて言ってこれまた自分で嘆いていたり、タイトル曲では"you know it's all in my song, all
the sin I can take(ぼくの歌の中には、犯せる限りの罪が宿っている)"なんて告白してみたりしてるんです。また、例えばこの"Europe"は"Dream
Home"では"Inflatable Doll"という象徴句で歌われていたし、表面的な呼び方は変わっても、彼の作品のいたるところで同様の失恋の対象として顔を出して来ます。
ともあれ小市民タイプの方にとっては、ホントに好きだった女性に失恋するとかいうのは、すごく大きい問題なのかもしれませんけど、こっち側、ってゆーか、大理想をおっかけてるようなタイプの人間ってのは、あるイミ壮大な「ご大儀」しょってるだけに、そっちの方が大問題になっちゃうのよね。だから、その失恋は当然、プライヴェートで結婚しようが子供が生まれようが、何が起こってもそんなこととは関係なしにアーティストとしての彼の中では「失恋」でありつづけるわけで、だからどこまで行ってもフェリーさんのアルバムの中では、その種類の歌詞がコトあるごとに出て来るってことになっちゃうわけ。それは本当に起こった「失恋」ではあるけれども、人間の女性とかそーゆーのじゃないと、まあそういうことです。こういうのがフェリーさんの作品の中に表現されている「内面性」の真実だってコトになりますか。もちろんこんなの単なる一部でしかないですけど、ひとりの人間の中にある内面性を作品につづっている以上、きっちり見てゆけばそれは一貫した作者の精神世界を物語るものになっているのが当然ですよね。だからこそ、それ見てればどういう性質の人なのかもおのずから分かる、それも不思議なことじゃないでしょ?
でも、以前書いてた"Bete
Noire"とか"Just one look"なんかは、これはまた別のテーマの歌詞なんで、この「失恋」とは別ものなんですけど、それはそのうちお話する機会もあるかもね。
こういう「人間とモラル」、そして「社会」との関係は、例えばサロメだとかファウストだとか、ヨーロッパ文学史においていくらでも提起されているテーマのひとつでもあるわけです。だからもちろん文学史上の詩作にも取り込まれていて、その手法も確立されたひとつの方法論になっているってコトね。まあ、どうせね、例えばアルチュール・ランボーでさえ、一般にはたいていその本質読めなくて、タダの失恋の詩と思ってるんだろうから、それが娯楽音楽の範疇で出て来たりしたら更に読めなくて当然よね。うんうん。その方が角立たないし、そういうことにしとこうね。
2.
「正義」の有効性
さて、↑でフェリーさんはWestern
Moral Philosophyに代表される「正義」と、それが理想とする人間の姿をあえて否定しているといったよーなコトを書きました。なんでそんな誰もが信じてる「正義」に対して別れ告げなきゃならないんだって思うヒトもいるだろうけど、それはね、当然「正義」の方がまちがってるからなの。人間も世界も、実際にはそんな単純な方程式で成り立ってはいない、だから思想界でもディコンストラクションなんてものが出て来るんじゃないの、分かってくんないかなー。↓でも書いてるけど、ヨーロッパにこのWestern
Moral Philosophyというバケものがはびこる前は、古代ケルト民族のように真理に通じたとされる人たちもいたわけなんだな。つまりもともとはキリスト教の方がヨソもので、ヨーロッパでこれがバックボーンになったのは歴史的時間軸に照らし合わせてみれは比較的「最近」のことだ、と前にも書きましたよね。つまり現在言われている「正義」が、永劫の過去から存在したものではないということは年代的にも明らかだってコトです。それは歴史的に見て後から来たひとつの概念でしかありません。そしてその概念は何百年もはびこりながら、本当に人間を幸福にしたでしょうか?
否、人間の元来自由であろうとする精神を縛りつけ、欲求不満に陥れる役にしか立ちませんでしたよね?
だから"Cruel"なんじゃないですか。そんな欲求不満から生まれるものが本当の「愛」であろうはずもありません。
ともかく、私の見るところフェリーさんて、一人の人間には負いきれないようなもの抱えてるヒトだし,大変だなあとは思うけど、この"A
Song For Europe"にしたって、離別を告げてる相手が単なる女性か、ヨーロッパの精神的バックボーンである「大正義」そのものであるか、そう考えると、後者がどれだけスケールでかいか分かりません?
ましてや日本の歌謡曲みたいに、架空の女性に対する架空の失恋歌っただけの歌なんてものは、このスケールから比べたら問題にもならないよね。理解されてるかどうかは別として、フェリーさんのアーティストとしての成功は、こういうスケールの精神性あればこそとも言えるか...。つまり彼のはより大きなイミで「啓蒙の砦」としての芸術への献身と言ってもいいよーなもので、とことん不利な条件背負って...っていうのは思想的にってことだけど、そこにこうまでつながれて生きてかなきゃならないわけだから(ほんっとーおに、Slave
to Loveなのよね。)、私なんかは他のこと何でもしたいようにする権利があるって思っちゃうの。彼だって、なんでそんな生き方しなきゃならないのか、自分でも分からないままにやってると思うよ。もうそれって、宿命みたいなものよね。それっほど、しつこいまでに、彼の内面性ってのは核の部分で殆ど変わらず30年以上来てるってコトです。変わりようもないんだろうけどね、ここまでなっちゃ。
ま、生きてれば失恋のひとつやふたつなんてあるのが当然なんだし、当時、あれだけ遊び回ってたヒトなんだから(今でもか...)、その、たかだか人間相手の「失恋」なんてどれほどホントにこたえてたか分かったもんじゃない。そんなのいちいち歌にするほどフェリーさんってアタマがヒマじゃないのよ。ましてやこういう大スケールの視野持ってて、こんな種類の「失恋」の歌うたうような男がさ、どこをどうまちがったってプライド許さないよ、それは。そういうのはどこぞの国のかよー歌手の方々みたいに、スケールの小さい小市民な皆さまに任せとけばいいことね。別に表面どう思われようが、どうせ意に介するような神経持っちゃいないだろうけど、少なくとも自分の作品、それもあの何から何まで望みうる限り徹底的に創りこんである、しかもデヴュー当初から一貫したテーマ性を示してる作品群に、例え一時的にもせよそんな瑣末な内容を盛り込むなんてこと、まず出来るヒトじゃないと私はずっと思って来たし、このページ、次の項目で書いてるけど、彼自身そんな歌は作ったことないって言い切ってるインタヴューだってあるんだもん。
で、↓がそのA
Song For Europeの歌詞です。何のヒッカケもない、まるっきりタダの失恋の歌なんで、あえて訳しませんけど
Roxyの"Stranded"などが手元にない方のために掲載しておきます。
A SONG
FOR EUROPE
Here
as I sit
At this empty cafe
Thinking of you
I
remember
All those moments
Lost in wonder
That we'll never
Find again
Though
the world
Is my oyster
It's only a shell
Full of memories
And
here by the Seine
Notre-Dame casts
A long lonely shadow
Now
- only sorrow
No tomorrow
There's no today for us
Nothing is there
For us to share
But yesterday
These
cities may change
But there always remains
My obsession
Through
silken waters
My gondola glides
And the bridge - it sighs ...
I
remember
All those moments
Lost in wonder
That we'll never
Find again
There's
no more time for us
Nothing is there
For us to share
But yesterdays
Ecce
momenta
Illa mirabilia
Quae captabit
In aeternum
Memor
Modo dolores
Sunt in dies
Non est reliquum
Vero tantum
Comminicamus
Perdita
Tous
ces moments
Perdus dans l`enchantement
Qui ne reviendront
Jamais
Pas d'aujourd'hui pour nous
Pour nous il n'y a rien
A partager
Sauf le passé
2003.9.11.-9.12.
★それみろ★
誰か一人が何かカンちがいしたことを言い出すと、作品の歌詞なんて理解のはるかかなたなヒトたちは、こぞってそのセンで駄文を書き散らしたがる。それは日本に限らずそうなんだと思うけど、それにしてもいいよなあ、それで商売になるんだから...。最近は更に程度の低いシロウトがそのマネして分かったよーなこと書くし、これじゃどこまで行っても救われないわよね。
言い過ぎ?
じょーだんポイよ。フェリーさんの方は、このテの失礼な誤解を延々されつづけて今日まで来てんだよ。どっちが失礼か、そんなの一目瞭然じゃん。何のコトかとゆーと、それはもう当然、例のジェリー・ホールの話ね。未だに英国でもそんなことがまことしやかに囁かれてるとゆー、あの一件。しかし!!
私はちゃんと見つけだそ。しっかり先生が否定してるインタヴューを!!
そればかりか、この中ではフェリーさん珍しくキツいことも言っちゃってたりして、暗に彼女のことをどう思ってるかまでほのめかしてるのよね。
1985年4月、Boys
and Girlsリリースの頃に行われたロング・インタヴュー(Face誌とのもの)の中で、ジェリー・ホールが回想録を出すという話をどう思いますか、って聞かれてるんだけど、それに関連して、"Manifesto"の中の"Trash"という曲が彼女について書かれたものですかって質問があるのね。しっかし、ほんとどーしよーもない女だな、あのジェリー・ホールってな。まあそれは後で書くとして、
★Was
"Trash" on "Manifesto" written about
Jerry Hall?
"No.
One line in various songs might refer to a particular
person, but I've never written a song like that."
ふんっ。訳すまでもないけど念押しのために訳しておくぞ。先生の答えは
「ちがうよ。いろいろな曲の中には特定の人に言及した一節もあるかもしれないけど、ぼくはそういう歌は書いたことがないからね。」
ね?
"Manifesto"
は、ジェリー・ホールへの想いをつづったのなんのとよく引き合いに出される"The
Bride Stripped Bare"
の後に作られた作品だけど、I've never written a
song like that. なんだから、当然"The Bride
Stripped Bare"
の中にだって、そんな曲は入ってないんですよ。まさしく私の言ってたとおり。
当たり前のことだけど私はあの作品の歌詞見ただけだって、そんなウワサでたらめだって即座に分かった。でも、なんでそういうコトをまことしやかに信じつづけてるヒトたちがいるか、それは自分で作品の本質を判断するだけの実力がないからでしょ?
だからウワサをうのみにして分かったよーなコト書くしか出来ないんでしょ?
いや、それはね、単なるファンとかならいいのよ、別に。でもプロがそんなことも見抜けんでどーすんだよ。小学生の古典観賞感想文じゃないんだから、音だけ聴いて何が分かるの?
これだけ言う限り、当然私は"The
Bride Stripped Bare"の歌詞の面からの全貌だって殆ど把握してるから、フェリーさんのお答えがまごうことなきホントのことだって言い切れるわよ。ちなみにあのタイトルはマルセル・デュシャンの作品から取られたもので、そのへんにも深遠な意図があるのよね。ついでに言えば"Trash"が何についての歌なのかも私は知ってます。いつでも説明してあげるけど、教えられて理解出来るかどうかは聞く方の知能レベル次第だな。
それからもうひとつ、さっきから資料にしてるインタヴューは、ちょうど結婚して数年した頃のものってことになるけど、そういう回想録をもしフェリーさん自身が書くとしたら、ジェリー・ホールとの経緯にはどんなタイトルを付けますかと聞かれて...
★Will you
ever write your own story?
(自分でそういったものを書こうと思いますか?)
No, I don't
think so. Certainly not in that way.
(いや、思わないよ。少なくともそういう形ではね。)
★If you
did, what would you title the chapter dealing with the Jerry
Hall period?
(もし書くとしたら、ジェリー・ホールのくだりにはどんなタイトルを付けるでしょうか。)
Oh,
something like... "All that Glitters is not Gold."
You know, people who mention that name always look at me as
if I was going to be terribly upset, but anyone who knows
her and knows my wife would realize how lucky I am, being
involved with a real person.
(んー、そうだな、「光るもの必ずしも金ならず」ってとこかな。ぼくの前でその名前を口にするヒトはたいてい、ぼくがひどく動揺するだろうと思うらしいけど、でも誰でも彼女とぼくの妻の両方を知っている人だったら、ぼくが誠実な女性を選ぶことが出来て幸運だったと分かるだろうね。)
うんうんうん。まあたまには、このくらい言ったっていいよね。私はルーシーさんて、望みうる限りフェリーさんの理想に近い女性だと思ってたし(離婚されちゃったけどさ)、私がそう思ってただけじゃなくて彼女が誠実で心の温かい方だというのはファンにも伝わってたみたいで、ジェリー・ホールがてってー的に嫌われてたのと反対に、ルーシーさんは好意的に受け入れられてたって感じですよ。まあ実際ね、日本のどーでもいーよーな、クビのすげかえいくらでもできる単なるタレン連中とちがって、ROXY
MUSICまでなると、あれはもうひとつの王国みたいなものってゆーか、ファンってば臣民っていうか、そういう図式があると思う。だからその総帥の結婚なんてことになったら、それはもうロイヤル・ウェディングよね。これうまく受け入れられないと辛いよー。例えばリンダ・マッカートニーってファンからすっごい嫌われてて、可哀相なくらいだったっていうじゃない?
でさ、そのジェリー・ホールだよ、問題は。
私、ふつーの場合ならまあ結構カワイイ女だと思うよ、あれは。野心丸出しでキレイな以外に才能のないぶん男ひっかけて芸能界で生き残ろうって、それはそれであっぱれな根性だよ。しかし!!
それをだな、うちの先生踏み台にしてやったってのが、とことん気に食わないんだよ、私は!!
おかげで彼の作品、ただてさえ"Lover
come back to me"
系の曲が昔から多いから、今に至ってなお失礼な誤解されてるじゃないか〜!!!
私はいつか絶対、このいわゆる"Rock
Legend"とまでなってると言われる話、決着つけてやらなきゃおさまらないくらい怒ってるんですよ、マジで。なんであんな値打ちのない女に、そんないい役やらせとかなきゃならないんだか、先生も寛大すぎるよな、全く。まあ、他にもこのテの回想録なんてものは、いろいろ書かれてるらしいから、いちいち相手にしてらんなかったのかもしれないけど、けっこうそのへん"Kiss
and Tell"
とかに経験出てるのかもね。そもそもは自分がプレイボーイなんてやってるから、そういうコトになるって言えば言えるけど、...それについては学習してないな、未だにおんなじよーなことやってるよーでは。
しかし、ともかくこの話の真相はこーゆーコトらしいんで、今後、失礼なコトを言うヤツを見つけたらやっぱり往復ビンタね、まちがいなく。
★ついでに★
で、ついでにもうひとつ。
イーノの話でフリップがマの抜けたことを言ったって私怒ってたでしょ。でね、私としてはマジで言ったのか、いやがらせのつもりだったのか、どっちなんだろー、って考えてたんですよ。いくらなんでもフリップともあろう者がマジでそこまでマが抜けてるとは信じられなかったから。
そもそもはフェリーさん、1970年にキング・クリムゾンのオーディション受けてて、パートがベースだったから受からなかったらしいんだけどフリップには気に入られたんだって。でクリムゾンのマネージメント・チームに推薦したのもフリップだったって話。知ってる方も多いよね、そのへん。
クリムゾンねえ...。全くイギリス人ってな、なんでもかんでも無意味に名前付けるってことが出来ないのかね。もうなんか私気がついて笑っちゃったけど、フリップでしょ?
イーノでしょ? でそのへんつながりでU2でしょ?
ずーっと思想的につながってんだよね、あれ。そっち側の思想性ってのは、めちゃ分かりやすいから支持されやすいんだけど、しかしまあ先生もその中で30年、よく戦ってきたと思うよ。こっち側は最悪の条件背負ってるっていうのに、誤解はされまくるわ、事情は説明できないわで。
ともかくそう考えると、やっぱりあれはフリップのやろー、いやがらせだったな...。十中九は分かってて言ったとしか思えない。やなやつー。まあ、確かに気持ちは分かるってゆーか、結局目的とか見てる先は同じなんだけど、そこに辿りつくまでの方法論がまるっきり正反対だから、フリップはKing
Crimsonで、先生は"Red Ruby Lips, Don't touch me
eyes"なわけですよ。いいけどね。マジで間の抜けたこと言われるよりゃ、救いはある。でもそれ、うのみに信じるヤツのが多いからなあ...。
★このページって、やっぱりヘンよね?
★
ちまたに出回っているROXY
MUSIC関係のページ、「サイト」と言うほど内容のあるものって日本では今のところ見当たらないんだけど、そういうページを見ていて一様に思うのは、マトモだなあってコトなのよね。大抵、よくあるタイプのページで、アルバム紹介とか、どの曲が好きとか、もちろんそういうのが当然あたりまえのファンのページなんだということもよく分かっている。しかし、そうすると、フェリーさんの性格がどーのこーの、哲学がどーのこーの、作品の背景がどーのこーのって言ってるこのページは、相当ヘンということになるんだろう。第一、私フェリーさんのこと殆ど他人とか芸能人として扱ってないしな。
でもなんでそんなことになるかってゆーと、それはもう先生の方が発端を作ってると言うしかない。だって私、おんなじくらい好きなグリーンに関して、こんなページ絶対作れないもん。彼のは確かに理解されにくい哲学性を含んではいるけど、あくまで世の中に作品として提出されるという前提をふまえたマトモな「音楽」。だからそれ聴いててグリーンが哲学的にどういう考えを持ってるとか、それに関連してある程度の性質までは分かっても、プライヴェートと呼応してくるような例えば好みの女性のタイプとか、語られざる夢とか(そのへんだって哲学性と当然、不可分なんだけど)、まさかそんなところまで全然見えて来るわけがない。それはグリーンがそこまでプライヴェートな思考を作品には入れてきてないからなのね。
ところがフェリーさんの場合、「自分の感情を表現する努力をしていくしかない」とか「My
lyric content tends to be more personal things.(ぼくの歌詞は個人的な事柄を含みがちな傾向にある)」とか、「It's
my work that I'm proud of. The problem is that I've always
seen it as being slightly esoteric.
(ぼくが誇りに思っているのは自分の作品だよ。ただ問題は、それが少数の人たちにしか理解できないような傾向にあるということだとずっと思ってはいるけどね」とか、要するに彼のは、詩や哲学にある程度の造詣や思い入れがある人間には「個人書簡」に近いようなものとして作用してしまうんだー。「詩」が読めない限りは例え英語圏の人たちにでも、それこそアンビエント的に流されてしまうわけで、それはもう単なる「音楽」でしかない。ところがそのへん分かってしまうと、...誰が一番あわてると言って作ってる方よか聴いてる方がよっぽどあわてるぞ。自分のアタマがおかしくなったのかと思って。まさかそんなはずは...、と思うんだが、どのアルバム聴いてもそういう分析解答しか出て来ないだけに、ほんとーおに、あわてる。でもそれはやっぱり作者がそういうコトをやってるから、こっちがそれをマトモに受け取ってるだけのことらしい。
で、まあ、私は長年、先生の「内緒ばなし」をずーっっっ、と聴かされつづけて来ただけに、どうしてもこんなページになってしまわざるをえないわけ。いくらヘンでも、仕方ないのよ...。
2003.9.5.-9.6.
★ふしぎな世界...★
なんだかなー。よくよく考えてみると、本当にあの英国の音楽世界というのは、ふしぎな世界ですよねえ...。確かにフェリーさんほど、音楽至上主義とまで言われながら実はふつー考えられている「音楽」から著しく逸脱してるヒトも珍しいとは思いますが、それにしても、あんなポップな音作りながら内容的に哲学がどーのこーのいう歌を歌っていたグリーンなんかも、やっぱりすっごいヘンだし、イーノにしたって「環境音楽の大家」とか日本では言われてたけど、人間性は全然軽くなさそうだし(ってゆーか、あの時先生がイーノを脱退させなくて、しかもフェリーさんの方が変節させられてたりしたら、もしかしてもしかしてROXY
MUSICは!! U2みたいなバンドになってたかも〜、きゃははははは、って思うとまた可笑しい。それじゃ"Avalon"は作れんな。)、私の特に好きな3人の残りひとりであるポール・ウエラーだって、スタカン以降も単に軽い音楽やってただけじゃなかったし、ともかく日本の芸能界からは考えられないよーな、めちゃくちゃヘンな人たちの集団なんだなと改めて思いますよ。いや、たぶんイギリスでは、ああいうヒトたちでなければ根本的にミュージシャンで通用しないのかもしれません。その場合、彼らから見たら、日本の方がヘンなんでしょうね。
ところで以前"Frantic"のリーフレットにfor
TARAって書いてあるって言ってたんだけど、これは三番目の息子さんへの献辞だったみたいですね。で"As
Time Goes By"は次男のIsaacくんへの献辞が入ってました。しかしなー、私思うに、先生のこのTARAってコトバへの思い入れは、やっぱりすごく強いんだなと、4人の息子さんの名前知って改めて思いましたよ。確かに彼のケルト伝説への傾倒って、単に"Avalon"をタイトルに使ったというだけのことでは留まらなくて、作品全体に古代ケルト民族の思想性とか、伝説とか、いろいろ合致する部分が盛り込まれてるんですけど、それに、「詩」そのものがケルト民族のお家芸みたいなものですしね。ゲルハルト・ヘルム氏という方が書かれた「古代ヨーロッパの先住民族・ケルト人」という歴史書には、
「その(ケルト人の)秩序の責任を持っていたと思われるドルイド神官は、学問的知識に詩的な装飾を施す人としての姿を明確にしてくる。カエサルもそのことを裏付けている。"ガリア戦記"の中で彼は、ケルトの秘教の精髄は詩句に封じ込められてあることを確認しているのである。(p253)」
「驚いたことに彼(ディオドルス)は、その神官(ドルイド神官)たちをケルトの名で呼ばずに「哲学者」と表現し、彼らには驚くべき能力があると記している。彼らは"神事に熟達"しており、"いわば超地上的な神々の言葉を語る"ことが出来たというのだ。(p101)」
「ディオドルスは突飛な説を持ち出す。"彼ら(ケルト人)の間には霊魂不滅と死後の再生を信ずるピタゴラス的な考えがなお生きているからである"。(p97)」
「ケルト人が神、自然、死及び生について何を知っていたかということを、実に種々様々の知的レベルで、多くの懐疑家、夢想家、真理探究者がなおも追及している。たとえばジェラルド・B・ミラーは、その著作の一つで"ドルイド神官が信じ、教えたことを、もしわれわれが本当に知ってさえいたら!"と歎息しているが、彼はこのとき、ドルイド神官が超感覚的な現実の世界へ入るためのカギを手にしていたと考えているのである。(p249)」
注:ディオドルス・シクルス...紀元前1世紀の人。30年間「歴史文庫」と名付けて、様々の資料を集大成した世界史を書いた。(p86)
と、まあね、古代ケルト民族というのは、端的に言えばローマの隆盛とともに衰退した民族なんですけど、それ以前のヨーロッパではローマから「蛮族」と呼ばれながらも怖れられ、文化的にも多くの資産を残した人たちなんです。やはりその最大のものは「詩」とそれによって語られる「真理」かな。日本では世界史でも大きくは取り上げられていないし、多くの人にはあまり馴染みがないと思いますけど、ヨーロッパのあるレベル以上の知的階層においては、今なお神秘の対象として研究されている民族でもあるってことみたい。私が詩句を「神々のコトバ」と呼ぶのは、まあこんなよーな背景があってのことです。とにかくこの「詩句」を見て、その表現するところを直感的に理解するというのは、実際、超感覚的なものがありまして、フェリーさんなんかも、もともとそういう特殊な脳持ってるから、ってゆーか、もっと分かりやすく現代的に言えば、ぶっちゃけた話
IQレベルがめちゃ高いってだけのことなんですけど、古代からのそうした遺産を凡人とはちがった視点から正確に把握してしまう、したいと思わなくってもしてしまうってことなんでしょう。この「詩句」というのは、ケルト民族の他、ユダヤ教においても、お家芸と化している手法だと思うので、言うまでもなく聖書だとかそのへんもぜーんぶ、ひっくるめて、先生なんかはふつーのヒトとまるっきりちがう理解をしてしまうんだろうと思いますよ。"Avalon"に表現された哲学性そのものが、それを物語ってますから。自分でもその詩の手法を駆使出来るのは、だからこそなんですけどね。
ふつー、日本に限らず、一般の歴史認識は西暦元年以降を中心とするものなので、せいぜい紀元前からのローマの隆盛期くらいは意識にあるかもしれませんが、ローマがまだ必死になってケルト民族と戦ってた時代なんてものは、もー、アトランティスかムー大陸くらい突拍子もない、ホントにあったのか?
とゆーよーな大昔ってことになっちゃうんじゃないかな。でもケルト民族は実在の民族だし、アイルランドの歴史も4000年は遡れると言いますからね。皆さんが一般に知っておられる以上の歴史が人類にはあるんだということです。
例えば現在ヨーロッパで支配的な宗教であるキリスト教は実はもともとヨソもので、これがヨーロッパ社会の精神面でのバックボーンになったのは歴史的時間軸に照らし合わせてみれは比較的「最近」のことだとも言えるわけ。西暦2003年というのはどういうコトか知ってます?
紀元前のことをB.C.と言いますけど、これはBefore
Christ(キリスト以前)というイミでイエスが現れる前ということです。そして西暦元年とは即ちイエス生誕の年なんですね。そして、そこから紀元後のことをA.D.と略記しますけど、これはanno
Domini(アノ・ドミニ)つまり「わが神の世に」というラテン語から来ているんです。そこから言っても、イエス生誕からでさえ、たかだか2000年そこそこ、アイルランドの歴史は4000年は遡れるわけですから、言ってみればキリスト教なんてそれ以前からの古代史に遡る時間軸の中で見れば、新興宗教と言っても過言ではない。宗教史を徘徊すると分かると思いますけど、現代で言われる「世界四大宗教」は全て、このイミで「新興宗教」だと言えるでしょうね。それがあつかましく現代のヨーロッパを、いえ、おそらく四大宗教全て合わせれば、世界のかなりな部分を支配してるわけです。
こう考えると後から来たヨソ者に今の世界は精神面から支配されているってコトなんですけど、だからこそ、それに満足できない真理探究者たちは、もともとあったはずの真理への手掛かりをケルト民族に求めようとするのかもしれません。フェリーさんの場合、"Cruel"の冒頭でも、これに基づいた歴史認識が歌われていたり、"Boys
and Girls"でもお話したような、「失われた概念大系の復活」への希求も生まれる、と、そういうことです。
ただ神学においてはアリウス派、つまり「神の子キリストは父なる神と同質ではない」、これもまあ詩的な表現と言えば言えますけど、そういう学説もあることから言っても、イエスそのものは一概に否定できる存在ではないんです。もちろん釈迦も同様の理由で否定さるべき存在ではありません。で、この学説を有効とすれば、キリスト教とは、即ち十二使徒の思想であるということでもあり...、ああいけない。そこまで講義しちゃ墓穴を掘る。ココからはあまりつっこまない方が無難ですから、言わないでおこっかなっと。でも、先生ってごていねいにこんなとこまで言及してる詩句だって歌ってるんだな〜。怖いよお...。バレたらどうすんだろ...。(日本語でしか書けねーな、こんなコト。英語で書いたらクビ飛びかねないのに〜。)
で、たぶん彼自身が若い頃構築しかかってた思想体系と、ケルト民族のそれが酷似してるということもあってケルト伝説に惹かれたんでしょうけど、だからこそそれへの思い入れも深い、そしてアイルランドの4000年の歴史を経てなお、現代でも聖なる地とされている「The
Hill Of TARA」への思い入れも同様に深いってことなんでしょう。なにしろ3番目の息子さんにTARAと名付けるわ、4番目にはMerlinと名付けるわですから。マーリンって、言わなくても分からない?
アーサー王伝説に出て来る魔法使い。あのマーリンは元来ドルイドで、ドルイドには「魔術師」「賢者」という別称もあるんですよ。ちなみに長男はチャールズ・オーティス、チャールズっていうのはフェリーさんのお父さまの名前で、オーティスは彼の好きなオーティス・レディングからもらったって話です。アイザックくんの方はユダヤ系の名前ですけど、これは旧約聖書への思い入れから来るものじゃないかな。(キリスト教に否定的なのに、なんで旧約に思い入れを持つかというのは不思議かもしれませんが、これも旧約をどう解するか、そしてイエスと旧約聖書の関係、またイエスと十二使徒の関係を正しく把握すれば分かることです。)ともかくホントに、コトバをおざなりにしておけない性格というか、4人のお子さんの名前見ても、特に後の二人は作品と関連するんだから、あれあれあれ、って感じです。奥様の方がアイルランド貴族の血を引く方だそうなので違和感ないのかもしれませんけど、それにしてもおとーさんの好みで付けてるのは確かですね。
どうせこういうとこは、ヨーロッパでさえ彼の作品の「知られざる」背景だと思うけど、それだけに私はこのまま彼の作品を音楽史、芸術史の中に埋もれさせてしまいたくないな。そりゃ歴史には当然残ってくでしょうけど、これまでの多くの芸術作品と同じに真意を明らかにされないままになってしまうというか、このままだと、確実にそうならざるをえないものなあ...。やってることがあまりにもハイブロウすぎて...。それだけは何としても止めたいぞ、私は。
ところで、実はこのあと"A
Song For Europe"の解説をするつもりだったんですけど、めちゃ長くなっちゃったので、まとめ直してから出来れば次回の更新で掲載したいと思ってます。
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