「お〜い、メリル!」

メリルが学校帰りの道を家へ歩いていると、後ろからお隣りに住むトマス・マロリーが追いかけて来た。彼も今が帰りらしい。メリルは足を止め、にっこりして、やあ、トミーと言っている。

「おまえも、今帰り?」

「うん。美術サークルの人たちにさっきまでつかまってたから。トミーはクラブだったの?」

「そう」

トマスはメリルよりひとつ年上だが、お隣りさんのよしみということもあってメリルがうんと幼い時に祖母のところから母の家に移った頃から仲良くしてくれている。彼は一人っ子なので、ひとつ年下のメリルのことを当初から弟みたいに思っていたようだ。おっとりしていてどちらかと言えば人づきあいがうまいとは言い難いメリルが、学校でそれほど浮き上がりもせずにいられるのは、バスケクラブのエースで人気者のトマスが弟扱いしているお気に入りとみんな思っていることもあっただろう。背はメリルよりも少し高く、ブロンドに明るいブルーの瞳を持っている。父が弁護士だから、今のところは自分もゆくゆく大学の法科へという希望があるらしい。

「美術サークルって、メリルは入ってなかったんじゃないの?」

「入ってはいないけど、今度の文化発表会で作品を展示しないかって言われてて」

「ああ、それよく頼まれるよね。おまえの絵って別格だから」

「そんなことないよ。みんなの作品だって面白いし。ただ、ぼくはサークルとかじゃなく、一人で描く方が好きだから」

「だけど、去年だってさ。ルネッサンス会の美術奨励賞なんて、おまえの年ではちょっと取れないよ? うちの父さんも母さんも感心してた」

トマスの言う通り昨年の冬、メリルが祖父の城に滞在中に描いた作品"ローデンの印象"が、それまでよりかなり大きめのコンクールで入賞することになったのだ。これに主に出品するのはアートスクールや美大生が多いのだが、出品に年齢制限は設けられていないので誰でも参加することはできる。しかし、だからと言って入賞は別モノで、受賞するのはたいていそれなりの背景を持つ学生ばかりだ。そんな中で、まだアートスクールに至るまでさえ2年もあるメリルの受賞は、もちろん最年少のことだった。トマスは彼の絵の才能に小さい頃から肩入れしていて、"おまえは絶対画家になれる"と太鼓判を押してくれているほどなので、このことは非常に嬉しかったようだ。ロベール以前にメリルの才能を確信して"ファン"を自認していた者があったとすれば、それはトマスだと言っていい。

「それは、ぼくも嬉しかったけど...」

二人は並んで、また家の方へ歩き始めた。

「嬉しかったけど、何? また一歩、夢に近づいたじゃないか。ああいうのを取っとくと、美大に入る時も有利なんだろ?」

「それはね。どうせ入るなら国立芸術学院って決めてるし、そのためには実績があるに越したことはないから」

「にしては、なんか歯切れ悪くない?」

「んー、って言うか...。それは賞をもらったことは嬉しいんだけど、去年、おと....」

うさん、と言いかけてあわててメリルは黙り、モルガーナ伯爵の、と言い換えた。

「モルガーナ伯爵の個展を見に行っちゃったんだ」

「モルガーナ伯? ああ、そう言えばやってたっけ? 行ったの?」

「うん」

「おまえ、あんまり好きじゃなかったのに」

トマスは真実を知らないので、メリルがディを嫌っているように見えていたのかもしれないが、事実は無責任男の父に怒っていただけで、その作品や才能そのものは彼だって認めている。

「そうなんだけど、招待券もらったから、ちょっと後学のために」

「ああ、なるほど。それで?」

トマスの質問に、メリルは深いため息をついて、それが凄くってさ、とつくづく言った。

「あんなに凄い画家だと思ってなかったんだよね。でもやっぱり、現代美術の最高峰って言われるだけあると思って」

「へえ、そんなに良かったの?」

「衝撃的。本モノがどんなかは、印刷なんかじゃ全然分からないと思う」

「絵に関しては、いいかげん厳しいおまえがそれほど言うとはね」

「だって、とにかく凄いんだもの。それでぼく、これまで以上に自分の才能に自惚れられなくなったというか、入賞は嬉しいけど、これくらいで喜んでいられないよねって気がして。母さんは、自分とモルガーナ伯のような人を比べること自体が身の程知らずだって言うし、ぼくも、それはそうだと思うんだけど」

メリルの心底落ち込んだ様子にトマスは笑って、そりゃ、まあね、と言った。

「だけど、トシ考えてごらんよ。モルガーナ伯爵って、まるでそうは見えないけど確かもう四十代じゃなかった?」

「うん、そう」

「おまえがその年になったら、もっと凄い画家になってるって」

「無責任に受け合わないでよ。どう考えたって無理だよ」

「そんなことないさ。でも、モルガーナ伯って言えば、それこそここんとこ凄かったよなあ、例の騒ぎ」

言われてメリルは無関心を装って、ああ、あれねと言ったが、うまくトボけられたかなと内心少し心配だった。しかし、トマスはまさかメリルがディの知られざるもう一人の息子だとは思わないものだから、気に留めた様子はない。

「メリルはどうせそんなこと興味ないんだろうけど、うちじゃとにかく母さんがあの話ですっかり盛り上がっちゃってさあ。あれこれ聞きこんで来ては夕食のたびに披露してくれるもんだから、こっちまですっかり詳しくなっちゃったよ」

「そうなの?」

「ああ。二人の子のお母さんが誰々だとか、どっちがどっちの家を継ぐことになったとか、お披露目のパーティに出席者が何百人とか、誰が招待されたとか、料理がどうだったとか、ヨーロッパでの披露がまた盛大で世界の政財界のオオモノや芸能人が山ほど集まったとか」

聞いてメリルは、へえ、と言いながら笑っている。普通ならそういう種類のゴシップにまるで興味のない彼だが、この件に関しては、なにしろ内緒とはいえ密かに当事者の一人であるわけだから、たまたま雑誌や新聞に記事が載っているのを見かけると、目に止まったりしてあらかたのことは知っている。それに、祖父からメールなどでいろいろ話を聞いてもいた。

「まあ、確かにあれは主婦連にとっちゃ、久々に美味しいネタだったよね。で、また、よせばいいのにうちの父さんが"羨ましい"とか口滑らして大失言で、そしたら母さんがマジになっちゃってさ。"これだから男は"とかってもう夫婦間争議に発展してんだよ。モルガーナ伯がいくら超・有名人だからって、日常、縁もユカリもないヒトの隠し子騒動であれだけ盛り上がれるんだものなあ。全く、平和だよね、うちも」

トマスが呆れかえって言うのを、メリルは可笑しそうに聞いている。

「もう去年の話だから、さすがに最近は下火になって来たけど、まあ、母さんたちの面白半分の盛り上がりはともかく、ぼくは、ああいう人の子供でいるって、どういう気持ちなのかなあってミョーに考えちゃったよ。なにしろ、母さんによるとモルガーナ伯、これまで子供たちのことなんてほったらかしだったらしいし」

実際、きっちりほったらかされていた"ああいう人の子供"の一人であるメリルは、そうなんだよねえ、と思っている。今となっては、父に会う前に持っていた一方的な反感こそ影を潜めてしまったものの、それで返って今までのぼくの心の葛藤はいったい何だったんだろうと、それが彼としては大マジメな怒りだっただけに宙に浮いてしまった形になっている。"どんな気持ちなのか"と問われれば、要するに"そういう気持ち"としか言いようがないのだが、未だ、メリルの父に対する拘りが解消されたわけではないことも確かだ。しかし、弟たちに関しては彼らが自分のような反感や気持ちのわだかまりを持っていないことも知っているから、少なくとも、あの子たちは前向きに受け止めてるよね、とは思えた。メリルが側でそんなことを考えているとは少しも気づかずに、トマスが言っている。

「いくら資産家だと言っても、ああいう騒ぎに巻き込まれること考えたら、ぼくは平々凡々たる生まれつきで良かったかもという気すらするよ」

その発言はメリルには堅実なトマスらしいと思えたし、それにまさに彼のその両親揃った"平々凡々たる"家庭にこそ小さいころから憧れを抱いていたので、それは同感、と言った。トマスは、それへにっこりして続けた。

「大変だよね、ああいう家の跡継ぎって。まあ、片方の子はお母さんも貴族だっていうし、もう一人の子もカトリーヌ・ドラジェの息子らしいから、もともと普通の環境で育ったわけじゃないんだろうけど」

「大変だと思うよ、ぼくも。ぼくなんかには、とても真似られないと思う」

それは正にメリルの本音だった。だからこそ、彼は跡継ぎの話を断ったのでもある。トマスは頷き、それからふと何か思い出したように言った。

「あ、そうだ。メリルは今度の文化発表会の時のダンス・パーティ、どうする?」

「どうするって、あれは全員参加じゃないでしょう?」

「それはそうなんだけど、女子連からおまえのご都合に関して、お問い合わせ殺到してるんだよ。誰と行くか決まってないなら、紹介してっていうコもいるし」

「えー、まさか。からかわないでよ」

「からかってるわけじゃないよ。前から思ってるんだけど、メリル、自分が分かってないねえ。けっこう憧れてる子とかいるのに」

「それは、トミーにでしょう?」

「違う違う。ぼくあたりなら、そんなお問い合わせなんてしてないで、直接アタックしてくるよ。事実そうだし。メリルはやっぱり、近寄りがたい雰囲気ってのがあるじゃないか。ヘンにうるさくしたら、それだけで嫌われちゃいそう、とか。アーティストさまだからね」

「何言ってるんだか。ぼくだって自分のことくらい知ってるよ。それって単に、とっつきにくいヤツって思われてるだけじゃない。母さんにも、よく言われるよ」

「あのねえ」

「でも、いいんだ。ぼくは絵が恋人だから」

言われてトマスは処置なしという顔で呆れている。

「だーかーらー、絵が恋人なのは知ってるけど、ちょっと本気で考えてよ。おまえが行くか行かないかだけでも教えてって詰め寄られてるんだから、ぼくは」

トマスが困ったように言うので、今度はメリルがため息をついて答えた。

「ぼくが例年不参加なのは知ってるじゃない」

「でも、今年は7年生なんだし。ちょっとはそういうこと、興味持ってもいいと思うよ?」

「だって踊れないんだもの」

「そんなの今からだって。ぼくが教えるよ」

「だめ、つけ焼刃で恥をかくのはごめんだからね」

そう言われて、トマスは仕方なく諦めた。しかし、メリルが"踊れない"と言うのは全くの大ウソである。母に習っていて、ワルツくらいワケはないのだが、騒がしい場所に出て行くのはとにかく好きになれないので、これまでもそう言っておく方が重宝だっただけだ。ともあれ、それこれ話しながら歩いているうちに二人の家が見えて来た。

「ね、メリル。良かったら後でうちにおいでよ。昨日、母さんがチーズケーキ焼いて、そろそろ食べごろになってる頃だし、マイラさんにも持って行くって言ってたから」

「あ、嬉しい。トミーのお母さんのチーズケーキって、ぼくも母さんも大好きなんだ」

「だろ?」

「じゃ、着替えたらお邪魔するよ」

「うん。じゃあ、後でね」

二人はメリルの家の門の前で、そう言って別れた。マイラはまだ帰っていない時間だが、通いで来てくれている家政婦のモーリンがいるからドアは開いている。メリルは、ただいま、と言って家に入って行った。モルガーナ家周辺の騒ぎをヨソに、彼の日常は相変わらずのようだ。

original text : 2011.2.26.-3.1.

  

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