デュアンがディに初めて自分のイラストを披露したのは、彼がモルガーナ家に移り、その後のドタバタがある程度落ち着いて来てからのことだった。その頃、ヴォーグ誌が若向けファッションの特集でデュアンのイラストを使いたいというけっこう大きな仕事をカトリーヌを通してオファーして来たのである。お披露目の後、その知名度はイヤが上にも上がっていたからそれもあったのだろうが、以前デュアンが言っていた通り、クランドル版ヴォーグ誌編集長が彼のイラストを前々から気に入っていたことも事実だ。それこれあって、カトリーヌもこのレベルの仕事なら息子の今後のキャリアに十分プラスになると考えたのだろう。それで、やってみる?と尋ねて来たのだった。
しかし、既にモルガーナ伯爵家の後継者となってしまっているわけだから、デュアンは何をするにもやはり父の許可を得ないわけにはゆかない立場にいる。ましてや、こんなふうに広く名前が知れ渡るような事柄についてはなおさらだ。それに、当時既にミランダたちには作品を見せていて、マーサの発案で"デュアンさまを応援する会"などというものが自然発生しつつもあったし、さすがに父にだけ見せずに隠しておくわけにはゆかない事態になっていたことも確かである。
そんなこんなで、大きな仕事をオファーされてこれまでより自信がついてきたこともあり、前に祖父からもぜひディに見せてみなさいと言われていたこともあって、とうとうデュアンは思い切ってその意見を聞いてみることにしたのだが、他のことはともかく、絵や芸術全般に関することについては父がどれほど厳しい人かということをよくよく知っている彼にとって、いくら回りが認めてくれ、応援までしてくれているとはいえ、それはそんなに容易なことではなかった。決心してもなかなか言い出せず、しかし、そのうち件の大仕事を受けるか受けないか、返事しなけれぱならない日が迫って来て、やっとのことで父のアトリエのドアをノックした時には"この世の終わり"みたいな気分だったものだ。
ディはその日も例によって昼過ぎからごそごそ起きだしたらしく、今はアトリエでコーヒーを召し上がっていますよとアーネストから聞いて、デュアンはよし!
と決意した。これまでに好評だったり、褒められたことのある自信作の束を抱えて、決死の覚悟での出陣である。そして、アトリエの扉をノックすると中からディの何?
という、まだしっかり目が覚めていそうにはないボケた声が返ってきた。いつもならそれについつい笑ってしまうのだが、この際はデュアンにとってまさに"笑っている場合ではない"状況だった。
「あの...、ぼくです。入っていいですか?」
「んー?
デュアン? ああ、いいよ、お入り」
ディはアーネストの言っていた通り、文字通りの起きぬけだったらしく、ナイトガウンを羽織っただけの姿でソファに沈み込んでコーヒーを飲んでいた。これまでもそういう様子を見るたび、お父さんのこんなところを見れるなんて息子ならではの特権だなと思っていたものだが、今日もいつもに増してまるで映画のワンシーンのようなその光景にデュアンはまたまた感動させられている。全く、彼の父には"絵にならない時"というものが、まるっきりないようなのだ。むしろ今のように無防備な時というのは、オーラがコントロールされていないだけ普段以上にその繊細な美貌が際立って見えた。
「何?
こんな朝から」
物憂げではあるが、決して迷惑がっているわけではない調子でディが言うと、いつもならデュアンは"もうお昼過ぎなんですけど"と突っ込みたい気分になるのだが、この時ばかりはそれどころではなかった。
「お父さんに見てもらいたいものがあって...」
「とにかく、こっちに来て座りなさいよ。見てもらいたいものって?」
息子を手招いてディが言うと、デュアンは頷いてそちらに歩いてゆき、父の向かいのソファに腰かけた。
「これ、ぼくのイラストなんです」
「イラスト?
きみの?」
「はい」
これまでデュアンが彼に作品を見せるのを躊躇っていたことを知っているディは、おや?
と思って少し目が覚めてきたようだ。
「拝謁させて頂けるとは光栄ですけどね、なんでまた今?
何かあったの?」
父の疑問も尤もだと思って頷き、デュアンは実は、と切り出した。
「あの、ママから連絡があって、今度ヴォーグ誌の春夏の特集にぼくのイラストを使いたいって。わりと大きな仕事だし、ママはやってみたら?
って言うんですけど」
「ああ、なるほど」
「お披露目からこっちもいくつか雑誌に載ってるでしょ?
でも、それはぼくがこの家に入る前に決まってた仕事だったし、そんなに大きなものでもなかったし。でも今度のは...」
そういう事情なら息子が決心したのも不思議はないと思ってディは頷いている。
「ぼく、今でもお父さんに見せるのはすっごく怖いんです。でも、そろそろ潮時かなって気もして。以前、おじいさまに見せた時には、ぜひお父さんにも見せなさいって言われてたんですよ。でも、決心つかなくて」
「そんなにぼくって、怖いですか?」
ディの冗談にデュアンは思わず笑っている。
「怖いですよ、決まってるじゃないですか。ましてや、去年の個展。あれ見てますますぼく、自信なくしちゃって...」
それにディも笑い、まあとにかく、見せてごらん、と言うと、デュアンは"人事をつくして天命を待つ"の気分で作品の束を差し出した。
カトリーヌから話は聞いていたし、ロベールも感心したようなことを言っていたから、それなり描けるんだろうなとは思っていたのだが、受け取った束の一番上のものを見てディはなにがなし納得したような顔をしている。
それからしばらくはデュアンにとって生死の境という気分だったのも無理はあるまい。こと芸術に関わるもの全てに関して、彼の父の目を小手先でごまかすことなど不可能なことくらい分かっている。自分としてはこれまでの作品に可能な限り気持ちをこめて描いてきたつもりだし、目利きの祖父がそれを認めてくれたことも事実だった。しかしそれでも、父の意見は自分がこれから先も絵を描いてゆけるかどうか、まさにその可否を決定づける判決だとデュアンには思えていたのである。
息子のそんな気持ちを知ってか知らずか、ディはずいぶん時間をかけて30枚はあった作品をひとつひとつ検分していた。デュアンはそこまで気づいていなかったが、もし彼がもう少し年を取っていたら、ディのその表情だけで自分は認められたと確信できていたかもしれない。ディにとって何より重要なのは、作品を通して作者の心がどれくらい見えるかということだからだ。それがなければ当然のことながら芸術の名に値しないし、それがあって初めてその意義を評価することも可能になるのだから、まず彼に気を入れて検分する価値があると感じさせたこと自体に大きな意味がある。次の段階としては、それが思想的にどのレベルにあるかということだが、僅か9歳でしかない少年に今それを期待するのはさすがに酷というものだろう。しかし、ディには少なくともデュアンが既に"大事なことは十分かっている"と思えるくらいには、見せられた絵から伝わってくるものは大きかった。
しばらくしてディが、いいんじゃない?と言った時、デュアンはあまりに固まりすぎていて、どういう意味か咄嗟には理解できなかったようだ。
「え、あの...」
「うん、だから、いいんじゃないかなって。なかなかよく描けてる」
「ほ...、本当ですか?」
「こんなことで冗談言ってどうするの」
「それはそうなんですけど、なんだか信じられなくて」
息子の当惑に笑ってディは改めて、よく描けてると思うよ、と言った。
「ぼくがそう言う限り、それは技術的なことだけじゃないって分かるよね?」
「ええ、それはもちろん」
「うん、だから、いいんじゃないかと言ったんだよ。少なくともぼくは絵というものは、と言うか、作品というものは、それなりの重みを持っていなければならないものだと思っている。その"重み"というのは作者がどれだけ作品に気持ちをこめているか、どれだけ本気かということだよ」
「はい」
「まあ、きみがさ。ぼくに見せる決心をするまでに、こんなに時間をかけなきゃならなかったことからだけでも分かるけど、きみは本当に絵を描くことが好きなんだろ?」
「もちろんです」
「まずはそれがなきゃどうしようもない。技術はその気持ちについてくるものだし、きみの年でこれほどのデッサン力や既に独特と言っていい色彩感覚を発揮してるのは、元々の才能ということもあるんだろうけれど、同時にこれまでどれだけ努力してきたかってことだ。それは、ぼくにはよく分かる。色も形もこれほど自在に操れるようになるには、それだけの数を描いて来なければまず無理だし、それは好きでなきゃできないことだからね」
デュアンは彼の父が自分を本当に認めてくれる気らしいと知ってほっとしたらしく、固まっていた表情がやっと緩んできた。
「カトリーヌも言ってたけど、ぼくは彼女の目も十分確かだと思ってる。それに、ぼくもきみには絵描きの才能があると思うよ。あとは、とにかく描くことだね。きみがちゃんと成長してゆけば、それにつれてもっともっといい絵が描けるようになるだろう」
"描くことだ"と言われたことがよほど嬉しかったらしく、デュアンはすっかり満面の笑みになって、はい!
と元気よく答えた。ディにはその若さがちょっと眩しい気すらしたくらいだ。自分もこの年頃のころは、こんなふうだっただろうかという想いがふとよぎって行った。デュアンが言っている。
「なんか、ほっとしました」
「そう?」
「ええ。だって、お父さんから見たらイラストなんてつまらないって思われるかなって気もしてたから」
「どうして?」
「だってやっぱり、油彩とイラストでは格違いっていう感じがするし」
それを聞いてディは、さっきまでよりちょっと堅い表情になった。デュアンや他の子供たちに彼がふだん見せている日常の顔ではなく、それが彼の画家、芸術家としての顔だということにデュアンが気づくのは、まだしばらく後になってからのことだ。
「あのね、デュアン。ぼくはきみが将来何になろうとしてもそれはきみの自由だと思うけれど、絵を描きたいと思うならこれだけは覚えておきなさい。"何で"描くかじゃなくて、"何を"描くかが問題なんだってことをね」
これはデュアンにとってまさに"目からウロコ"な発言だった。特に意識していたわけではないが、世の中には"油彩こそ芸術"とヘンな高級感でもってカン違いしているバカが掃いて捨てるほどいることはデュアンも知っている。そういう連中にとって重要なのは、せいぜいその絵にどんなプライスが付くかということだけだろう。そもそもそんな下世話なことを、彼の父が気にしてすらいないばかりではなく、芸術家として唾棄すべき傾向と考えていることは知っていたはずだ。しかしそれにも拘わらず、自分は世間のそんな風潮に流されて引け目を感じていたのかと、改めて気づいてデュアンは内心でかなりショックを受けていた。それで彼はまた力いっぱい、はい!
と答えながら、ぼくのお父さんは本当の本当にデュアン・モルガーナなんだ、とつくづく思い知らされた気分だった。
今、万が一にもディの絵が市場に出るようなことがあればドルで百万単位の値が付くことは間違いない。しかし、ディ自身はそんなことにはハナからまるっきり頓着していない。そういうところがやっぱりカッコいいと、自分の父が彼であることを誇りに思う一方で、デュアンは以前、ファーンが"油彩とイラストってそんなに違うものだろうか"と言っていたことを思い出した。兄はその時、"基本的には同じ絵なんだし、素材が違うだけで芸術的な本質からゆけばそれほど違うものだとは思えないけど"と言っていたのだ。彼は自分の意見を"素人考え"とも謙遜していたが、しかし今考えてみるとそんなことにも気づかなかった自分の方がよほど"シロウト"という気がしてくるから辛い。父や兄の炯眼に対して自分の器の小ささを悟らざるをえないからだが、同時にデュアンの性格ではこういう父と兄がいてくれて良かったという方向に考えがゆく。そこが、この子の性質的にシアワセなところだろう。
ともあれこの時からデュアンにとって彼の父は、はっきりと師でもあると自覚されたようだ。絵の描き方がどうこうというような問題ではない。それは、"芸術家としてどのような姿勢で生きるか"という本質的な問題なのだ。デュアンはそんな想いに浸されながら、真剣な表情で父に尋ねた。
「お父さん、ぼく、今度の仕事やりたいと思うんですけど、いいでしょうか?」
ディはそれににっこりして、頑張ってごらん、と答えた。
original text :
2011.2.12.-2.13.
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