確かに、その危険性が前々からモルガーナ邸に内在していたことは否定できないが、そもそも屋敷にいればディはたいていアトリエか自室にいることが多いので、それ以外の場所ではそううかうか、うたた寝してしまうこともない。しかし、今は休暇でゆったりした気分だったのと、最近では忙しくてなかなかローデンを訪れることができないこともあり、夏の午後をサロンの本棚に並べられている貴重本でも眺めて過ごそうかという気を起こしたのがいけなかったのだろう。
クロードにアイスティを持って来てもらってテーブルに置き、興味のある本も何冊か持って来てその横に積み上げると、ディは久しぶりにのんびりした気分で読み始めた。なにしろ昨年は二年半ぶりの個展を開いたことだけでもいつもに増して忙しかったのに、その上、それに引き続いて子供たちのお披露目という大事業まで通過しなければならなかったのだ。もちろん、世間にそれを告知するだけではコト足りず、それから春先に至るまでの数カ月、なんだかんだと世論対策と情報操作に忙殺されることになってしまった。ロベールの方は、可愛い孫が出来たことと心痛のタネだった跡取り問題が一気に解決したことのダブルで舞い上がりまくっていたが、ディはその裏でいろいろと苦労させられていたのである。それでも騒がしかった周囲がやっとおさまってきて夏休みともなれば、さすがの彼も気が緩んで当然だったかもしれない。そんなわけで、読み始めてしばらくはそんなに眠いと感じていたわけではないのだが、いつのまにかうとうとし始めてしまったようだった。
一方、その日、デュアンは早朝の皆がまだ眠っているような時間にファーンと二人で厩舎から馬を引き出し、盛夏の早朝のまだひんやりとした空気の中、爽快な朝駆けを楽しみに出かけていた。昨年の夏、乗馬の手ほどきを受けてから一年が過ぎているし、モルガーナ家に移ってからは様々な種類の馬も、馬の扱いに長けた馬丁もいるのでいろいろと教えてもらって、今ではファーンと並んで走っても後れを取らずに済むくらいに上達していたのである。そして、泉のほとりでピクニックランチを済ませてから、午後には城に戻ってきていたのだ。
帰って来てから、兄は朝早かったためか眠くなったらしく、ちょっと昼寝と言って自室に下がったが、デュアンはそうでもなかったので、シャワーを浴びてから一緒に午後のお茶してくれる人材を探そう思って部屋を出た。歩いていると廊下でアルベールを見かけ、聞いてみたら祖父は来客中だという。メリルについては、デュアンも今では彼の習性を熟知するまでになっているから、今頃の時間は城の中にいたとしても、お絵かきタイムの真っ最中だろうと見当がついていた。そうすると残るはディだけなのだが、部屋の前まで行ってノックしてみても応えはなかった。
結局、空振り状態で、だからといって一人で部屋でお茶するのもつまんな〜いと思いながら、デュアンはサロンの前を通りかかった。この城には一般に来客をもてなすための大きなメインサロンの他にも、ごくプライヴェートな用向きで使われるこじんまりとしたサロンがいくつもある。デュアンが通りかかったのはそのうちのひとつだが、ここはオープンスペースになっていて、具合よく立てられた支柱が廊下からいくらか視界を遮ってはいるものの、中の様子がなんとなく見えるようになっている。廊下を道なりに歩いてゆくと辿りつくようになっていたし、デュアンはここにはあまり入ってみたことがなかったから、何か面白いものでもあるかなと興味を引かれたのだった。始めは人がいるとは思っていなかったが、奥に進んでみると、どうやら誰か読書中らしく、テーブルに本の山が置かれているのが見えた。今は、自分たちの他に滞在客はいないはずだから、たぶんお父さんだと見当をつけ、これでやっとお茶できると喜んで、ソファの前に回ってゆきながら声をかけてみようとした。そして、声を出す前に、ふと、相手が眠っているらしいのに気づいたのである。
ディはすっかりくつろいでソファに両脚を上げ、大きなクッションに埋もれてよく眠っていて、持っていたらしい本は床に滑り落ちていた。その光景にデュアンは、いつも思うことだけど、お父さんて何やってても絵になるんだよね、と溜め息をついて、またまたうっとり見とれている。本当に美しいのだから仕方がないが、見ているうちになんだかどんどん切ない気分になってきたのは、こ〜んなにキレイなのに、ステキなのに、大好きなのにっ、実の息子であるばっかりに告白もできないぼくってなんて不幸!
と、つくづく思えてならなかったからだろう。実の息子でさえなかったら、どんなに可能性が低くても万にひとつでも、チャンスは残されていたかもしれない。ディがアリシア以外で相手にするのは全て女性だということくらい知っているが、当のアリシアと、それにマーティアの前例があるのだから、絶対に無理とまでは決めつけられないはずだ。それでもデュアンにだけは、その万にひとつのチャンスですら残されてはいない。まさに、オープン・アンド・シャットの恋だった。
後から考えてみて、その時のことはデュアンにも魔がさしたとしか思いようがない。ずっと抑えていたディへの気持ちが自分でも思ってもみなかったくらい強いもので、それが、本当の本当に、絶対にかなわない恋なんだなあとつくづく悟ったとたんに、その絶望感からタガが外れてしまったのかもしれない。デュアン自身にすら、その時、自分が何をしようとしているのか、やってしまうまで分からなかったほどだ。まるで夢の中で動いているように、現実感が伴っていなかったのである。
デュアンは、殆ど意識しないままに眠っているディに顔を近づけると、起こすのを怖れるようにそっとその額に接吻した。唇でなかったのはまだしもだったかもしれないが、無意識のうちにもそれはあまりに畏れ多くて出来かねたらしい。しかし後になってから、なんてことをやっちゃったんだろうとパニクって右往左往しながらも、ふと、一生に一回かもしれないチャンスだったのに、唇にしとかなかったぼくってバカ!
とヨコシマなことも考えてしまったりして、それでよけい蒼くなったり赤くなったりを繰り返すハメに陥ったのだ。
ともあれ、キスされたディの方は、誰かに触れられた気配で浅い眠りを覚まされたらしく、デュアンの唇がまだ側にあるうちに目を覚ましてしまった。それでデュアンは正気に戻り、自分がやってしまったことの重大性に気づいたとたん、きゃ〜っと叫んでいきなり遁走した。彼としても、他にどうしようもなかったのだろう。一方で、何があったのかさえ分からずに取り残されたディは、まだ半分寝ボケている頭で眠ってたのかと思いながら、デュアンがいきなりそこから駆け出して行ったことについては、なんだったんだろうと首を傾げるばかりである。まさかのことに、自分の屋敷と同じくらい安全なはずの慣れた父の城の中で、こともあろうに息子に襲われるなどは、彼にも考えてみることさえ出来ないことだった。なにしろ、しばらく後になってもディの結論は、デュアンが眠っている自分に何か子供っぽい悪戯でもしようとしてたんだろうという程度のもので、それに何か深い意味があるかもとすら考えなかったのである。これは、父親としては当然の結論だったかもしれない。
ディはそれで済んだが、デュアンはとうてい笑って済ませられる気分ではなかった。部屋に入ると寝室に駆け込み、ベッドにもぐりこんでアタマを抱えている。
「ばかばかばかばかばか、あ〜ん、ぼくって、ほんっとーに、バカ!」
一人の寝室で誰も聞いている者がいないのは分かっているが、何か声を出していないとどうにかなりそうだったのだ。
「だって、お父さんが悪い!
なんで、あんなとこで昼寝してるわけ?!
自分を何だと思ってるんだろう。超・美形のくせに、あんなとこで呑気に昼寝してるの見たら、誰だって魔がさして当たり前じゃないかっ。誰だって、襲っちゃうよね?!
ぼくだけじゃないよねっっっ?!?!?!」
ひとしきりそうやって一人で騒ぎまくっていたが、それも尽きると今度はガバッとベッドに起き上がって呆然とした表情で宙を見つめている。これから、いったいどうやって生きて行ったらいいんだろう、と、殆ど完璧に自分の悲劇に浸りこんで真剣に悩み始めたからだ。これまでは告白すべきか、せざるべきか、漠然と悩むのが楽しいこともなかったのだが、コトここに至って、とうとう自分の恋は決して報われることがないのだということを決定的に自覚させられてしまった。そうなるともう、あんなことをしてしまった後で、どんな顔をしてお父さんと顔を合わせればいいのか分からない。しかも、諦めきれないこの恋を抱えて、これからぼくはどうしたらいいんだろう。このまま生きてゆくなんて、あまりにも切なすぎる。絶対に絶対に絶対に自分のものにはならないのに、それなのに彼とこれからもずっと一緒に暮らすなんて辛すぎる。
窓の外ではそろそろと陽が暮れていったがそれには気づかず、更には部屋が真っ暗になってしまっても灯りをつけることすら思いつかないで、デュアンはベッドに座り込んだままだ。そして、自分がずっと泣き続けていることにも気づいていないのだった。
original
text : 2012.9.25.-10.5.
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