夏も半ばを過ぎた頃、アリシアとしばらく休暇を過ごした後にディもローデンにやって来ていた。どうやら夏のローデンでの集まりは、普段はバラバラに暮らしている三兄弟とディやロベールにとって一同に会する良い機会らしく、恒例行事となりそうだ。しかし、今日の昼下がりのサロンには、今のところディとデュアンしかいない。メリルは例によって部屋で絵を描いているし、ファーンは書庫で本に埋もれて知的探索にいそしんでいて、ロベールはと言えば、書斎で書類に目を通すのに忙しかったからだ。お互いにすっかり仲良しとはいえ、長い夏休みの間には、たまにそんな午後もある。

おかげでデュアンはディと二人きりで話しながら、妙にほのぼのしたシアワセ気分に浸っていた。休みに入ってからこっち、擦れ違うことが多くて一緒にゆっくり過ごすことがなかったせいか、気持ちが下火になったような気もしていたのだが、顔を見れば見たで、やっぱり好き〜と実感してしまうのは止められない。口に出してはとても言えないことながら、諦められるわけもなく、想いはつのるのばかりなのだろう。それを考えると辛いなあと思いつつも、こうして近くで顔を見て、お喋りしていられるだけのことですら嬉しくてたまらないのだ。

「でさ、ママが言ってたんだけど、峰岸さんはお父さんの絵を持ってるんだよね?」

そこはかとなく浮き浮きした気分で宇治金時をさくさくつつきながら、デュアンはディに尋ねた。今やすっかり日本づいているデュアンは、わざわざ小豆と抹茶、それに白玉粉まで取り寄せてもらい、日本で食べたのとそっくり同じの盛り付けを絵に描いて見せて作ってもらっているのである。こちらでは珍しい味わいのフラッペだから、子供たちのみならずロベールや家の者たちにも好評で、テーブルの上にはディの前にも同じものが置かれていた。

「そうだよ」

「どの絵?」

「『祝祭』だったかな」

「あ、あれ本モノは峰岸さんのところにあるの? ぼくが、すっごい好きなやつ」

「きみは、ぼくの絵なら何でも好きだろ?」

「それはそうだけど、あれは中でも特に好きなんだもん。お父さんの絵でああいう明るい雰囲気のって珍しいし」

「ああ、それは確かに」

「あの絵は、ぼくだけじゃなくって特にファン多いと思うよ? お父さんが、あれを売るなんて、よっぽど峰岸さんのこと信頼してるんだね」

「まあね。彼もだけど、彼のお父さんともつきあい長いし」

「へえ、そうなんだ」

「そもそもうちの先代と、達哉のお父さんが親しかったんだよ。それに、あの絵は売ったというより、トレードと言った方がいいな。彼が持ってた峰岸貴人と交換したんだから。なにしろ、峰岸貴人の絵は美術館にあるものを除いて、一枚残らず峰岸家が買い戻して殆ど門外不出のコレクションにしててね。そうでもしなきゃ、まず手に入らなかったんだ」

「え、それって、もしかして峰岸さんは、あの峰岸貴人のお孫さんだってことっ?!」

「あれ? 会ったくせに聞いてなかったのかい?」

「ママに"おじいさまが画家"とは聞いたけど、それがまさかあの峰岸貴人のことだとは思わなかったんだよ。ママが画集持ってるから、彼の絵はよく見てたのに。じゃ、うちにはその峰岸貴人があるわけ? 保管庫にはなかったけど?」

「ああ、イレーネに持ってったからね。そもそも、そこに飾りたくて手に入れたんだから」

「見た〜い、見たい見たい見たい!」

「はいはいはい。分かったから。そう言えば、イレーネに連れてってあげるって言いながら、いろいろあってまだだったよね。じゃ、近々、ヒマを見て行こうか」

「うん。で、どの絵があるの?」

「『流月』だよ」

「え〜っっっっ、ほんとっ?!」

聞いて、デュアンはまた目を丸くしている。なぜなら、ディが手に入れたというその絵は、件の画家の作品の中でも代表作中の代表作だからだ。比較的小ぶりなサイズのものが多い峰岸貴人にあっては異例の大作で、確かに古城にでも飾られるのが一番似合うだろうと思われる絵だった。そもそもコレクションしている峰岸一族は一枚たりとも手放す気がないし、万が一にも手に入れるチャンスがありさえすれば、蒐集家なら万難を排してもと思うのが当然だろう。そんなわけで、ディが自分の絵を手放してでもと考えた理由はデュアンにもよく分かった。ましてや、相手が芸術の何たるかを十分に理解している人物なら、ディが節を屈して数少ない例外を作ったのも頷ける。

「あれがあのお城の中にあるのかあ...。それは見たい。絶対、絶対、見たい」

「いいよ。じゃ、帰ったらヒマを見て週末にでも」

「わ〜い、楽しみ〜♪」

デュアンが言うのを聞いて、ディは笑っている。

「時々思うけど、きみは本当に絵が好きなんだな。描くだけじゃなくて見るのも。きみの年で峰岸貴人までよく知ってるなんて珍しい」

「ママにも言われるよ、殆どマニアって。あ、じゃあさ、峰岸さんに頼めば、その門外不出のコレクション見せてもらえるよね?」

「ああ、それは彼に頼めばね」

「よし! 今度日本へ行ったら、おねだりしちゃうぞ」

「なんか、もうすっかり彼と仲良くなったみたいじゃない。きみがお世話になったって言うから、お礼もかねて久しぶりに電話したら、達哉もずいぶんきみのこと気に入ったようなこと言ってたし。今度クランドルに来たら、うちにも顔出すってさ」

「ほんと?」

「うん。まあ、ぼくも、きみと彼はウマが合うタイプだとは思うけどね」

「もお、バッチリだよ。だって、ほんとステキな人なんだもん。ね、峰岸さんのお母さんってさ、女優さんだったんでしょう?」

「そうだよ。今はもう、引退してるけど」

「おじいさまがね、昔の映画、見せてくれたんだ」

「へえ、何見たの?」

「"ソング・バード"」

「ああ、アンの女優デヴュー作だよ。良かっただろ?」

「うん。すっごいキュートで個性的な女優さんなんで、ぼく、すっかりファンになっちゃった。それにストーリーも華やかで面白かったし」

「そう。じゃ、原作も読むといいよ。あれは彼女のご主人、つまり達哉のお父さんが、彼女のために書き下ろした作品の映画化だったらしいんだけど、原作も素晴らしいから」

「へえ、そうだったんだ。じゃ、読んでみる。ここの書庫にあるかな」

「あると思うよ。全集で揃ってたはずだ」

言ってから、ディはテーブルに置いてあった宇治金時を一口食べて続けた。

「美味しいね、これ」

「でしょ、でしょ? ぼく、気に入りまくってるんだ。お父さん、今まで食べたことなかった?」

「大昔に、京都で食べたことがあったんじゃないかなあ。でも確か、あの時はアイスクリームなんって乗っかってなかったような...」

「ぼくが食べたのには乗っかってたよ? でも、ママが言うには、アイスクリームとか甘いの乗ってないあっさりしたのもあるんだって」

「ああ、じゃ、ぼくが食べたのはたぶんそれだ」

「日本って、おいしいものいろいろあるよねえ」

「あるある。それに比べるとクランドルは、昔から文化的にどうも食べるもののセンスだけはいまひとつ...」

「それって、ある意味、世界の常識。くやしいなあ...。まあ、いまは世界中からいろんなものが入って来てて、こっちでたいてい何でも食べられるけど、でもやっぱり本場モノって違うよね」

「うん。きみがさ、日本でお刺身食べたって言うもんだから、それ聞いて以来、ぼくも食べたくて食べたくて。どうせなら本場で食べたいし、秋になったら行って来ようかなと」

「ぼくも行く!」

「きみは食べてきたとこじゃない、美味しいの」

「だ〜って、峰岸さんとも約束してるんだもん、すぐまた行くって。陶芸の体験教室っていうのがあってさ、今回はスケジュール立て込んでたから無理だったんだけど、すっごく興味あるんだよね」

「ああ、なるほど。日本は焼きものも素晴らしいからね」

「キレイだったなあ、清水焼き。ママもすっごく気に入っちゃってさ。今度、ショップにママのオリジナル・デザインで数量限定スペシャルのお皿とかティ・ボールとか、いろいろ入れるんだって言ってた」

「へえ、それはぼくも見てみたいな」

言っているところへ、書類仕事を終えたらしいロベールがサロンに入ってきて二人に声をかけた。

「おや、美味しそうなものを食べてるじゃないか」

「あ、おじいさまだ。お仕事、終わったの?」

「なんとかな。まあ、目を通してサインする程度のことだから、それほどはかからんよ」

「お疲れさまでした。ね、おじいさまもフラッペ食べるでしょ?」

「おお、食べたいね」

答えを聞いてデュアンは頷き、サイドテーブルの上にあるインタコムの受話器を上げて厨房を呼び出し、ロベールの注文と、ついでにみんなに冷たいグリーンティを持って来てくれるように告げている。横ではデュアンの側でソファにかけながら、ロベールがディに言った。

「何を話してたんだ?」

「日本に刺身を食べに行きたいねなんてね。デュアンは次は焼きものの体験会にも参加してみたいようだし」

「ほお、焼きものか」

通話を終えたデュアンの方を見てロベールが言うと、デュアンはにっこりして、作らせてくれるところがあるんですって、と答えて続けた。

「おじいさまにも、ティ・ボール作ってあげるね。それとも、お皿とか花瓶の方がいい?」

「今既に自信満々だな。そりゃ、作ってくれるのは嬉しいが、焼きものはあれでなかなか最初に形を作るのが難しいんだぞ」

「ああ、そうでしょうね。簡単そうにやってたけど、あれも職人芸なんだろうなあと思いながら見てたの。でも、あれがそもそもやってみたいんだ」

「そうか。まあ、デュアン作なら、私にはどんな形でも宝ものだがね。そうだな、じゃ、茶碗でもリクエストしておこう。楽しみにしてるよ」

「分かりました。頑張ります!」

ほどなくして執事のクロードが自ら注文の品を持って来てくれて、いつもに変わらぬ和気あいあいな午後の時間が流れてゆく。それはあまりにも慣れたいつもの午後だったので、デュアンもまさか自分がそれから数日のうちに、あんなとんでもない大事件を引き起こしてしまうことになろうとは、予想することすらできなかった。しかし、デュアンの抱えているディへの気持ちは、やはり彼が思っていた以上に大きな爆弾だったのだ。

original text : 2012.8.1.-8.25.