そうこうするうちにも日々は過ぎ、こちらは夏も盛りとなったローデンである。
メリルは今日もスケッチブックを小脇に抱え、のんびりと散歩しながらも目に留まった光景を写し取るのに夢中になっていた。田舎なのは相変わらずだが、その何の変哲もない景色の中に美を見出すのが画家の目というものだろう。メリルにとってここは自分が日々を過ごす都会以上に、様々な驚きと心を動かされるものが潜んだ宝箱のような場所なのだ。
麦わら帽子をかぶり、肩から斜めにかけたバッグには画材と執事のクロードが用意してくれたランチが詰まっている。もちろん、飲み物もだ。そろそろ日が中天に上って来たこともあって、夏の日差しはますます強く降り注いでくるようだった。
ちょっと疲れたかなと思いながら歩いていると、ちょうどいい具合に小川のせせらぎの近くに出て来たので、メリルはほっとして暑さから逃れ、木陰にあった大きな石の上にスケッチブックとバッグや帽子を置いた。川のほとりまで歩いて行ってみると、きわめて澄んだ清流が清々しい音をたてて流れていて、冷たい水は触れただけで生き返るように爽やかだ。メリルはそこで手と顔を洗い、ポケットから小さなタオルを出して拭きながら、バッグを置いたところまで戻って行った。ランチにちょうど良い時間にもなっている。メリルは石に腰を降ろし、バッグからランチの包みを取り出した。今日のメニューはクロワッサンに生ハムやパストラミビーフと野菜、フルーツを挟んだものがいくつかと、大きめの容器にたっぷり入ったサラダだった。とても、美味しそうだ。
こういう時、メリルは、シアワセだなあ、とつくづく思う。周囲では全てが夏の厳しい日差しに晒されているとはいえ、風が大木の葉を揺らして過ぎてゆけば木陰は十分に涼しく、人ひとり見当たらないながらも、小川のせせらぎや時おり飛び交う鳥の声、どこからともなく渡ってくる風の音など、世界が生きていることを示す美しい音色が満ちていた。
こうして、かまびすしい日常から完全に遊離し、好きな絵を思う存分描き放題で過ごせるだけでも幸せなのだが、加えて、クロードや家の者は去年にも増してメリルを歓迎してくれている。彼らはもうすっかりメリルの好みや性質を呑み込んでいて、何も言わなくても日替わりで好みにぴったり合うランチを用意してくれたりするし、それでいて、彼を煩わせるほど必要以上にかまってくることもない。"芸術家"というものを、よくよく理解しているからなのだろうが、特に先年、メリルが描いた"ローデンの印象"がクランドルでも若手の登竜門とされるルネッサンス会の美術奨励賞を受賞したことは、どうやらロベールはもちろんクロード以下、この城の者たちにもその才能を前にも増して確信させる出来ごととなったようだ。口に出して過度にもてはやすことはしないけれども、皆が彼を"才能あるアーティストの卵"と認めて敬意を払ってくれていることが、メリルにも十分に感じ取れたのである。
そんなここでの毎日を思いながらメリルは幸せな気分で食前の祈りを捧げると、嬉しそうにクロワッサンサンドをパクついている。それほど信心深いわけではないし、むしろ日頃はコドモのご多分にもれず"お祈りなんて面倒"と思っている方だが、こんな時には何かにとても感謝したくなって、自然とその言葉が口に上ってきてしまうらしい。しかし、そういう祈りのみが真に神に届くものなのかもしれない。
メリルはランチを食べた後も、保冷ポットに入れられた冷たいお茶を楽しみながら、しばらくそこでスケッチしていた。今年も、ここに来てから既に何冊もスケッチブックをいっぱいにしていたが、彼にとってローデンは、相変わらず興趣つきることないパラダイスということなのだろう。
一方、その頃、城の方ではファーンとデュアンがランドルフの別荘で1週間ほどを過ごした後に、今年も兄弟仲良くやって来ていた。既にこちらに来ていたロベールや、クロードを始めとする家の者は、大歓迎で出迎えている。
「よく来たな、二人とも。元気だったか?」
「もちろんで〜す。今年もお世話になります!」
「ぼくたちは、相変わらずですよ。今年も暑いですけど、おじいさまの方はいかがですか」
「私も相変わらずだ。暑さに負けず、頑張っとるぞ。そうそう、ウィリアムはどうかな?」
「ええ、大じいさまも、お変わりなくて。夏の間は、避暑に出られますし」
「そうか、それは何よりだ。さあさあ、荷物はクロードたちに任せておいて、まずはこちらに来なさい。冷たいものを用意してあげるから」
ロベールの招きに応じて二人は祖父の部屋のある方へ歩いて行った。後ろでは、執事やメイドたちが彼らの荷物を車から降ろしてくれている。
「二人とも、ファーンの学校の先輩のところに招かれていたんだったな」
歩きながらロベールが訪ねると、ファーンが答えた。
「そうです。元は従兄のウィルのお友達なんですけど、ぼくたちにもいつも良くして下さるんですよ」
「シンプソン・グループ会長のご子息だと聞いてるが?」
「はい。あちらでは今のところ、グループの中枢企業であるシンプソン・テクノロジーの社長が、グループ全体の会長を兼任されているそうで」
言っている間に、三人はロベールの部屋に着いていた。居間に入るとロベールは孫たちにソファにかけるよう勧め、自分も彼らの向かいに腰を降ろした。デュアンがふとマントルピースの上を見ると、そこには去年とは違う絵がかかっている。それほど、デュアンにとっては昨年、長兄の才能を初めて目の当たりにさせられた例の絵が、トラウマティックなまでに心に焼き付けられていたのかもしれない。だから、描かれているのが別の光景とはいえ、それが同じ作者の手になるものであることは、そのタッチから一目瞭然に分かったらしい。何を言うにも彼も才能あるアーティストのハシクレ、そして、まだ幼いながら鋭い鑑賞眼の持ち主でもあるのだ。新しいメリルの絵が、以前よりもまたなんだか一段レベルが高くなったんでは?
ということくらい、一瞥しただけで気がついて当然だった。
「ん?
どうした、デュアン?」
「あ、ええ。その絵...」
「ああ、これか」
「メリル兄さんのですよね?」
「よく分かったね、さすがだな。そうだよ。昨年、ルネッサンス会の美術奨励賞を受賞したものだ。知らなかったかな?」
「そうだったんですか。それは、まだ聞いてなかったので」
「そうか。まあ、とにかくメリルもこうして着々と目標に向かって邁進しているということだ。しかし、それを言えばデュアンもだろう。例のヴォーグの特集、メールでも言ったが、出来も素晴らしかったし、なにしろ、どこへ行ってもみんなが褒めてくれるので、私は鼻高々なんだよ」
言われてデュアンは嬉しそうに、にっこりした。父にイラストと油彩を変に区別して考えていたことをたしなめられて以来、自分は自分の方法で表現すればよい、ということをきっちり自覚しているので、メリルの絵を見ても昨年ほど激烈にその才能に対する嫉妬に駆られるということはなくなっていたのだ。
「ぼくも、あんな大きな仕事をもらったのは初めてだったんで、これまで以上にリキ入れて描きましたから。評判よくって、本当に嬉しいんです」
「だろうな。デュアンが頑張ったことは、絵を見れば私にもすぐに分かったよ」
デュアンはそれにまた嬉しそうに笑って言った。
「あれを描く時にも、ランディにはすっごくお世話になったんです。兄さんが紹介してくれて」
「ああ、そのシンプソン・グループの御曹司だな」
「そうです。とっても面白い方で、ぼくも大好きなんですよね」
「つい先に、ウィルが大じいさまに引き合わせたんですけど、大じいさまもすっかり気に入られたらしくって、それで彼、今はウィルと一緒にうちの別荘に行ってますよ、大じいさまに会いに」
「ほお。ウィリアムが気に入るとは、なかなかだね。話を聞いているだけでも、面白そうな子だと思っていたが、そう言えば、ファーン。初のアルバイトはどうだった?
その子に紹介してもらったんだろう?」
「ああ、ええ。とても、面白かったです」
「老舗の古書店だったんだって?」
「はい。主に倉庫にある在庫のリスト作りを手伝ったんですけど、とにかく凄い本の量で。後から後から掘り出しモノが出て来るので、読みたいのを我慢するのが大変でした」
聞いて、ロベールは笑っている。
「きみは、かなりの本好きのようだからな。去年も、ここの書庫にけっこう入り浸っていたし」
「ええ。今年もそれを楽しみに来たんです」
「この一年でまた増えてるぞ」
「そうなんですか?
どんなのがあるか、楽しみだな」
「ま、二人とも、今年も存分に遊んで行っておくれ。ああ、ところで、チェスは上達したかな?」
ロベールに意地悪く言われて、二人には昨年の惨敗に継ぐ惨敗の記憶が鮮明に甦ったようだ。しかし、今年は違うぞ、と言わんばかりに、まずはファーンが自信を見せて言った。
「任せて下さい。今年は必ず雪辱を果たして見せます。ね、デュアン」
「もちろんですよ。なにしろ、ぼくたち、ものすごくいい先生にいろいろ教えてもらって来たんですから」
「アシュバだろう?」
「そうです。おじいさまは、アシュバとは対戦なさったことあるんですか?」
「あるある。実に興味深い体験だったよ。人工知能相手とはとても思えないほど鋭い手を繰り出してきてな。コンピュータを相手に対戦したことはいくらもあるが、あの鋭さは機械のものとは思えなかったね。さすがの私も、何度も負けた。それでも、実に面白かったな」
「わあ、じゃ、アシュバはおじいさまに勝ったことあるんだ」
「そうすると逆に、おじいさまがアシュバに勝たれたこともあるんですよね?」
「勝敗は五分五分というところかな」
言われて二人は顔を見合わせ、それからファーンが"喜んでいいのか、悲しんでいいのか"と言った。
「なんだって?」
「それってやっぱり、結局はワザを使いこなせるかどうかという問題だなと思って。バリエーションは随分研究してきたんですけど、だからっておじいさまの経験に太刀打ちするのは至難というか」
「それはそうだ。勝負の世界は厳しいからな。何事においても経験がモノを言うのは当然だよ。よし、さっそく今夜、一手どうだ?
きみたちの上達ぶりを見てやろう」
それで二人ともちょっと怯んだようだったが、やがてファーンが潔く言った。
「分かりました。受けて立ちます」
「ぼくも」
「よしよし、いい覚悟だ」
そこへノックの音が響いて、アルベールの、お飲み物をお持ちしましたという声が聞こえてきた。
「ああ、入りなさい」
アルベールはワゴンを押して入ってくると一礼して、それからテーブルに飲み物を配ってくれた。大きなゴブレットに入ったアイスティに、ちょっとしたお茶菓子も付いている。彼が、また一礼して居間を出てゆく横で、ファーンが祖父に尋ねた。
「そう言えば、メリル兄さんはもうこちらに来られてるんですよね」
「来ているよ。夏休みに入ってすぐに来て、相変わらず、スケッチブック片手に、あちこち歩きまわっている」
「本当に絵を描くことがお好きなんですね」
「そうだな。以前、自分でも言っていた通り、メリルにとっては絵は言葉そのものということなんだろう。実際、側で見ていると、ディの子供の頃をよく思い出すよ。あれも、スケッチブックを側から離さない子供だったから。その点、デュアンはどうだ?
きみのデッサン力には目を瞠るものがあるが、それでいて、あまりスケッチしているところを見ないように思うんだが」
「う〜ん。なんて言うか、それってやっぱりイラストと油彩の違いなのかなとも思うんですけど、ぼくの場合、絵を描くっていうのはイメージ先行なんですよね。こういう図柄っていうイメージが先に浮かんで、それを画面にしてゆくって方が多いから。目の前にあるものを実物らしく描こうとかは殆どしたことないんです。うんと子供の頃はやってましたけど、そのうちなんとなくそれって違うなって感じになってきて。だから、デッサンとかも意識的に勉強したことなくて」
「そうなのか?」
ロベールは、デュアンの言うのにちょっと驚いたように見えた。
「ええ。なにしろ、ママが絵を描いてる側で育ったでしょう?
自分でも殆ど覚えのない赤んぼの頃から、ママが絵を描いてるの見てたんで、そのせいだろうってママは言うんですけど、描き始めた頃から、ものの形とか、わりと正確に描写できてたみたいで」
「ほお」
これまた天性というか、ディの血筋というか、ディもある種のフォトグラフィック・メモリーらしきものを持っていることをロベールは知っているが、デュアンにもそれに近いものがあるらしい。
「なるほどなあ。実際、きみたちは、お母さんが三人とも違うせいなのか、それぞれ個性的でいろいろな面を持っていて、おかげで私は本当に退屈せんよ」
こうして今年も、いつもは三人揃うことのない兄弟が一同に会しての夏休みが始まることになったのだった。ロベールにとっては、昨年に引き続き、待望の孫たちとの休暇がやって来たというわけだ。
original
text : 2012.5.7.-5.11.
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