デュアンは、悩んでいた。
諦めなきゃ、諦めなきゃ、諦めなきゃとナケナシの理性が叫ぶのに対し、でも、好き好き好き好き好き、諦めきれな〜い!!!
と叫ぶ正直な自分もいて、ちょっとぼんやりする時間があろうものなら、その間を右往左往する反復運動が止まらなくなってしまうのだ。こんなことでは、カンのいいお父さんにバレちゃうぞと思うのだが、さすがのディも実の息子にまで恋されてしまうとは予想だにしない事態のようで、まだ、それほどデュアンの様子をおかしいとは思っていないらしいのだけは幸いだった。
そんな毎日を送るデュアンに、夏休みに入って母と二人で旅行に出かけることは、ちょうどいい気分転換の水入りとなったようだ。行く先は以前話していた通り、京都である。カトリーヌのショップは日本各地にもあるので、お忍びでその視察も兼ねているのだが、どちらにとっても一番の楽しみは東洋の異質な文化を多様な側面から眺めることだろう。特にデュアンは初めてなので期待度も大きいらしく、早くから熱心にあれこれのガイドブックやネットで情報を集めては、母とスケジュールを詰める相談に忙しかった。京都とその周辺の観光で一週間ほど過ごしてから、デュアンはファーンやウィルとシンプソン家の別荘で合流することになっている。その後は、デュアンとファーンはローデンへ、ウィルとランドルフはウィリアムのいるクロフォード家の別荘へ回るのである。ちなみにメリルは、今年も休みに入るとすぐにローデンに赴き、そこで夏中絵を描いて過ごすつもりらしい。そんなスケジュールで、いよいよ子供たち待望の夏休みが始まったのだった。
カトリーヌとデュアン母子のことだから、旅行などに出かけるということになるとその賑やかなことこの上ない。デュアンばかりではなくカトリーヌも、お披露目前に最愛の息子をモルガーナ家へ行かせて以来、久しぶりに親子水入らずでのんびりできるとあって大はしゃぎだ。クランドルから飛行機に乗ること十数時間。夜が明けたら、そこは日本だった。
空港からホテルまでタクシーを使ったが、京都市内に入るとちょうど祇園祭の最中とあって、車窓からでさえいつにない街の熱気が感じ取れた。通りを行き交う人々の中に舞妓さんを見かけ、二人して歓声を上げているところなどは、古今東西から京都を訪れる人々の一律標準的な反応だろう。お気楽親子はどちらもすっかり、異邦人の旅行者になりきっているのだ。
日本に行くのならやはり、日本的なホテルに泊まりたいという二人の希望で、今回は市内からは離れた所にある閑静な旅館を予約してある。カトリーヌは日本語も日常会話くらいできるし、今回は絶対デュアンと二人きりで楽しみたいという気持ちが強かったので通訳もガイドも用意していなかった。京都はどこへ行っても安全極まりない土地柄だから、むしろ、ガイドなどを通してではなく、直に街の雰囲気に触れるという旅行の方が二人の性格にもかなっている。もし必要なら、観光客慣れしているタクシードライバーに案内してもらうのもいいだろう。それに、公式にカトリーヌが来日ともなると、マスコミが放っておいてくれるわけがないという問題もあった。彼女のショップはこちらでも人気だし、ここしばらく親子して全世界的に"渦中の人"だったのだから尚のこと、取材だ、インタヴューだと忙殺されるに決まっている。そんなわけで彼女の会社、カトリーヌ・ドラジェ・ライフスタイル・コーポレーションの日本支社にすら今回のことは知らせていないので、本当に全くの"お忍び"なのだ。ただ、万一にも何かあった時のために、支社長であり友人でもあるライラ・ミラーにだけは言ってあるから、滞在中に彼女とも食事を共にする約束はしていた。
予約しておいたのは京都で指折りの旅館だけあって構えからして立派なものだったが、打ち水された気持ちのよい玄関から中に入ると、築百年を超えるという建物の風格がずっしりと伝わってきた。そう何室もはないこじんまりした旅館ではあるが、日本の内外を問わずセレブリティ御用達で、それなりの紹介がないと一見では予約も取れないところだ。今回は幸いなことにライラの友人で、ディもよく知っている日本人がここの常連だったため、その紹介を得ることができた。
「おこしやす。女将の藤乃と申します。遠いとこ、お疲れになりましたやろ」
着物姿の品のいい女将と仲居が出迎えてくれるのへ、カトリーヌはきれいな日本語で答えている。
「こんにちわ。お世話になります」
「こんにちわ」
カトリーヌが日本語を分かるということは聞かされていたが、見るからに西洋人形のようなデュアンの口からまでそれが出て来たので、藤乃はちょっと驚いたようだ。
「まあ、坊ちゃんも日本語お話になりますのん?」
「日本に来るからと言って、ほんの少しですけど覚えたんですの」
「そうどすか、それはそれは。ほな、お部屋にご案内しますよって、お上がりやして。お荷物はそれだけどすか?
お車の方には?」
「いえ、これだけですわ」
「安代、お荷物、お預かりしてな」
「はい」
デュアンがこの旅行にどれほどリキを入れていたかというと、話が決まってからこっち「日本の習慣」、「日本の文化」、「日本の歴史」、「日本建築」など、東洋通の著者が書いたシリーズ本を何冊も読み、ネットであれこれ調べて、旅行日本語会話なども覚え、既にひらがな、カタカナ殆どクリアといった具合である。母もディも東洋贔屓なところがあるから、聞けば何でも教えてくれたのも幸いした。道ならない恋のせいでかなりヨレヨレになっているとはいえ、そのへんはやはりまだまだ若い彼のこと。それすら目先の楽しいことから気を逸らせるようなものではないらしい。むしろ、そういうことは帰ってからまた考えようと気持ちを切り替えてしまえるあたり、両親ゆずりの楽天的な性質が効を奏してもいるのだろう。
庭に面した縁側の廊下を歩いてゆくうちにも、見事に手入れされた石庭の美しさにどちらも感嘆している。
「素晴らしいお庭ですわね」
「はあ。明治の頃からこの通りでしてな。なあんも変えんと来とりますのんえ。お部屋からもたんと楽しんでもらえますわ」
しばらく歩いて通されたのは、建物の中でもかなり奥まったところにある静かな一室だった。藤乃の言った通り、濡れ縁の向こうに風情豊かな石庭も見渡せる。ゆったりとした十畳ほどの居間の奥には、寝室になる部屋もあるらしい。
「さあさあ、お座りやして。すぐに、お茶お持ちしまっさかいな。日本のこと、よおご存じやて聞いとりますんやけど、坊ちゃんも日本茶、召しあがれはりますか」
「もちろんですわ。大好きですの」
「そしたらすぐに。そうそう、峰岸はんからも大事のお客さんやさかい、案定頼む言われとりますんえ。見えはったら、よろしゅうお伝えしといてて」
「まあ。峰岸さん、お元気ですの?」
「それはもう、あの方は相変わらずどすわ。せやから、なんでも気軽う言うとくれやす。ほな、ちょっと失礼して」
言って藤乃が丁寧に頭を下げ、お茶の用意を命じに部屋を下がるのを見送ってから、デュアンは回りをキョロキョロ見まわして言っている。
「すっご〜い。こ〜んな本格的な日本の部屋なんて、ぼく見るの初めてだよ」
「気に入った?」
「うん!」
寝室との間には見事な花鳥を描いた襖が立てられ、見上げれば凝った細工の欄間、床の間に飾られた軸にも対を為すかのように凛とした鶴が描かれている。そこに飾られているのは、大きく生けられた瑞々しい季節の花々だ。そして、今はいっぱいに戸が開かれた縁側の向こうには、それ自体が絵画かと思わせる石庭が広がっていた。聞こえて来るのは、時折の鳥と蝉の声ばかり。
「典型的な日本の伝統的インテリアね。歴史を感じさせるわ」
「ぼくが本で見たのとも、そっくり。あれって、イケバナだよね?
日本のフラワーアレンジメント」
「そうよ。西洋のものとは随分雰囲気違うでしょ?
そうね、ああいうのを"風流"と言うんだと思うわ」
言われてデュアンも頷いている。
「そこの絵もキレイだよねえ。家の中でそんなにおっきく絵を描いちゃうなんて楽しそう。それに色使いもいいなあ」
「これも歴史のあるものでしょうね。襖絵とか障壁画とか呼ばれるもので、古いものは何百年も前に描かれたものまで残ってるから。これから見る寺院とかにも、そういうのがあるわね」
「へ〜え。楽しみだな」
デュアンは感心してまた部屋の中をしばし見回していたが、それからふと何か思いついたらしく、カトリーヌを見て言った。
「そうだ。ね、峰岸さんて、ここを紹介してくれた人だっけ?」
「ええ。ライラのお友達なんだけど、ディとも親しいのよ。私も前に来た時に何度か会ってるし、息子さんがこっちに来た時にはお世話したことがあるの」
「そうなんだ」
彼らが話しているのは峰岸達哉という人物のことで、画商が本業だが他にもいろいろと余技のある才人だ。父が作家、母は女優、大叔母が画商で更に遡れば茶道家元の血を引く祖母と、祖父は夭逝したとはいえ天才画家。極めつきの家系である。そろそろ六十代には入るのだろうが、行ってせいぜい四十代くらいにしか見えない。日本人とはいえ、両親が若い頃から活動の本拠をヨーロッパに置いて来たから彼もそちらで育っていた。現在は仕事柄、いちおう東京に一軒構えてはいるものの、長野にも広大な別邸を持っていて、本人はそちらの方が遥かに気に入りのようだ。
「それにしても、暑いわねえ。聞きしに勝る"日本の夏"ね。まだ7月だから、これからますます暑くなるんでしょうけど、京都の夏は特に蒸すんですって」
「ママは今まで、夏来たことなかったの?」
「ないのよ。春と、冬には来たことあるんだけど」
「でも、いいじゃない。夏!
って感じで。こういうの、ぼく好き」
「まあね。こういう中だと、お祭りも盛り上がるし」
「そうそう、それそれ。祇園祭りっていうんだよね」
「そうよ。ライラが鴨川沿いのお店を予約してくれてるはずだから、お祭りを見て、夜は川辺のレストランでお食事」
「う〜、楽しみ〜」
「あ、言っとくけど、あんまりお酒、飲むんじゃないわよ」
「え〜っ、なんでよ?!
いいじゃない、いいじゃない。日本のお酒って美味しいんだよ」
「全くもお」
言っているところへ藤乃と仲居の安代が、お茶の支度を運んできてくれた。
「お待たせしてしもて。お茶が入りましたえ」
お茶と一緒にテーブルに出された和菓子を見てデュアンが、わあ、キレイ!
と歓声を上げると、藤乃は満面笑みになっている。この子の可愛さなら無理もないかもしれないが、相変わらずデュアンの屈託のないパワーは、初対面の相手も一気に自分のペースに巻き込んでしまう。
「和菓子、お好きどすか?」
母の通訳を受けて、デュアンはにっこりして頷くと、好きです!
と日本語で答えた。
「そやったら、たんとおあがりやす。一言で和菓子ゆうてもいろいろありますよって、後で珍しいもんもお持ちしましょな」
カトリーヌが殆ど同時通訳してくれるので、デュアンも間を置かずに、有難うと言っている。時差の関係もあって疲れているし、今日はゆっくり休んで、いよいよ明日からは日本を満喫!
の二人なのであった。
original
text : 2012.3.6.-3.12.
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