いつもの日常にすっかり落ち着き、その日もデュアンは学校から帰ると長い廊下を部屋へ戻ろうとしていた。ふと気づくと、サロンの方からピアノの音が流れてくる。あっと思った様子で彼はそちらの方へ歩いて行ったが、扉が近づくにつれて音を立てるのを憚るのか抜き足差し足になっている。サロンに辿りつくと、今度は自分の姿が向こうからは見えないように開いた扉からそおーっと顔を出してみた。果たして、ピアノを弾いているのはディである。デュアンはそれに満足したようににっこりし、それから床に座り込んでなかなか巧みな演奏に聴き入り始めた。曲はどうやらリストらしい。

ディがピアノを弾けることをデュアンが知ったのは、モルガーナ家に移ってからのことだ。なにしろ"画家"というイメージが強すぎるものだから、まさか音楽まで堪能とは想像だにしなかったのである。デュアンばかりのことではなく、ディの友人や熱心なシンパでも知っている者はごく僅かだろう。

何カ月前のことだったろうか。今日のように学校から帰ってくると、どこかからピアノの音がしていた。誰が弾いているんだろうとサロンを覗いてみたらディなのだ。えーっ、と一瞬ひどく驚いたものの、その音色が実に美しく、うっとりするような演奏なので、邪魔をするのを恐れてついつい今日のようにその場でそっと聴き入っていたのである。しばらくしてアーネストがそこを通りかかり、それに気づいたデュアンがしーっと指を立てて見せるものだから、彼は不思議に思ってそちらに近づいて行った。

「どうなさいました?」

アーネストの問いに、デュアンはサロンの中を指さして小声で言っている。

「ピアノ、ピアノ」

「はい?」

「お父さん、ピアノなんて弾けたんだね」

デュアンが何に驚いているのか分かった様子で、アーネストも小声で答えた。

「左様でございますよ。なかなかの演奏でございましょう?」

「うん、驚いちゃった。すごーい」

「お小さい頃から、ベアトリスさまに習っていらっしゃいましたからね」

「おばあさまに?」

「そうです。ベアトリスさまも大変素晴らしい弾き手でいらっしゃいました。先の旦那さまが、身体さえもっと丈夫でらしたらピアニストにしたいとまで思われて、そうできないのを残念がっておられたほどだったのですよ」

「へえ、そうなんだ」

「旦那さまはお忙しいですから、練習不足だと言ってあまり人前ではお弾きになりませんが、画家でなければピアニストにおなりだったかもしれません。もっとも、ご自身では少しもそんなことをお考えになったことはないようです。ずっと一貫して絵の方に夢中でらしたので、私も実にもったいないとは思っておりますが」

「だよねーっ、こんなに弾けるのにぃ」

アーネストの言葉の中に、ある種の誇らしさが感じられることにデュアンは内心微笑ましい気分になっている。何かにつけディの話をする時の彼は、こんなふうにいつも嬉しそうなのだ。ある意味この二人、二人ながらディの熱狂的ファンどうしと言っていいかもしれないが、それもあってアーネストにはデュアンの父への心酔ぶりが特に可愛く映るのだろうし、デュアンはデュアンでこの執事にことのほか懐いているのだろう。"同好の士"というやつである。

その後、何かの時にデュアンはディにピアノを聴かせて欲しいと頼んでみたのだが、どう頼んでも応じてくれなかった。

「弾いてよ、弾いてよ」

「だめ!」

「どうして?」

「ヘタだから!」

「ヘタじゃな〜い!! ヘタじゃない、ヘタじゃない!! この前聴いたもん。アーネストだって、お父さんは画家になってなかったらピアニストになってたかもって言ってたよ」

「冗談だろ? もう何年もロクに練習してないし、人に聴かせるようなものじゃないんだから」

「けちけちけち」

「とにかくダメ。よし、もう、金輪際、きみのいる時には弾かないように気をつけよう」

あんなにうまいのに、どうしてこんなにイヤがるんだろうとデュアンは不思議で仕方なかったが、完全主義傾向があるディには、たとえ専門外であってもベストな状態にない演奏を人に聴かせるなどはプライドが許さないのかもしれない。例え相手が息子だとしてもである。

そんなわけで、それ以来めったに彼がピアノを弾いているところになど出くわすことが出来なくなっているのだが、ほんのたまにこういうことがある。自分が聴いていると分かったらディはヤメてしまうので、うまく行き合わせた時にはこうして物かげに身を潜めて密かに鑑賞することにしているのだ。

今日のディは、今弾き始めたばかりだったのか、それとも興に乗っているのか、デュアンが聴き耳を立てていることには気づかず、その後も何曲もリストやショパンなど春の昼下がりに相応しいクラシックの名曲を弾き続けていた。その演奏は華やかでありながらも底力を感じさせるもので、どこか彼の描く絵と通底するところがあるように思われる。それはディのふだん穏やかなくせに、一朝コトあった時にこそ表面に現れる本来の果断な性質の反映であるかのようだ。それでデュアンは、こういう美しい音色の優しい曲もいいけれど、もっと重い大曲だったらどんなふうに弾きこなすんだろうと考えてみたりもして、聞きながらわくわくした気分になっている。

そうするうちに小一時間経って、ディはサティの小品を弾き終ると今日の演奏は終わりにしたようで、椅子を立つ音とピアノの蓋を閉める音が聞こえてきた。それに気づいたデュアンはココで見つかったらえらいことと思ったらしく、素早くその場から逃げ去ってしまった。どちらにしても、今夜はこれから客が来て一緒に食事することになっているから、デュアンもその席に座る準備をしなければならないのだ。ただ、客と言ってもそれほど堅苦しい相手ではなくて、それはディがモルガーナ家傘下の企業群の運営を任せているブレインチームの筆頭、ルドルフ・アシュレーである。デュアンは彼とお披露目の時に初めて顔を合わせたのだが、ディが信頼を置き、個人的にも親しくしているだけあって快い人柄だし、その後もここでディナーを共にしたことがあるから、今ではデュアンもすっかり好きになっていた。それにビジネスマンとして世界中を飛び回っているルドルフが来ると、いろいろ面白い話も聞かせてもらえるのが楽しみだ。

ルドルフはそれからしばらくして到着したようで、ディナーまでディとアトリエで仕事の話をしていたらしい。デュアンはその間にバスを使い、着替えていると待つほどのこともなくディからお呼びがかかった。親しい友人を迎えての家での食事だから、それほどフォーマルにする必要はないのだが、しかしやはりモルガーナ家のお坊ちゃまはお坊ちゃまである。一応そういう自覚は持ちつつあるので、今夜のデュアンはおろしたての半袖のシャツにタイをしめ、ちゃんと丈の長いベージュのズボンと革のクツできりりとキメていた。そうしていると、モルガーナ家に入った半年ほど前に比べてちょっとオトナになった雰囲気がして、デュアン自身も気に入っている。ふだんはこの年のコドモらしくショートパンツにTシャツなどが多いし、カトリーヌのところにいた時は出かけると言うと母のリクエストで可愛らしい服装が多かった彼だが、最近、どうやら父ゆずりらしくタキシードやスーツなどもけっこう似合うということを発見して、自分的に新境地のファッションを切り開きつつあるのだ。そろそろ、そういう年頃になってきているということなのだろう。ちなみに、お坊ちゃまスタイルのお手本は、もちろんファーンである。

「いらっしゃい、アシュレーさん」

デュアンがダイニングに入って行きながら言うと、既にディと一緒にテーブルについていたルドルフがにっこりして、やあ、デュアン、と答えた。彼は元はロベールの部下だった男だが、十八歳という若さで祖父から爵位を継いだディを、先行きサポートしてやって欲しいとロベールに頼まれて先代モルガーナ伯の元に移ったのである。当時、ディはもう既に画家として脚光を浴びつつあったので、将来的に祖父の築いてきたビジネスを受け継いで運営してゆくことは実質的に不可能ということが分かり切っていたからだ。当時はルドルフ自身がまだ二十代後半と極めて若かったものだが、それから既に30年近くが経った今では、いつの頃からかたくわえた口髭のせいもあって、すっかりダンディな紳士になっていた。十代の頃、つまり彼が父の部下だった時代から親しくしているディにとっては、ちょっと兄のような存在でもあるらしい。

アーネストが椅子を引いてくれた席に落ち着いたデュアンに、ルドルフが言っている。

「デュアン、ちょっと背が伸びたんじゃないか?」

「え? ああ、そうですね。前にいらした時よりいくらか伸びたかも」

「この年頃の子は、少し見ないうちに変わるねえ」

「それはこの前、おじいさまにも言われましたよ。自分ではあんまりそうも思わないんだけど」

ルドルフはデュアンの答えに頷き、それからディを見て言った。

「ロベールは相変わらず孫に夢中なのかい?」

「それはもう。相変わらずプレゼント魔の本領発揮で全開モード。こっちに来た時だけじゃ飽き足りなくて半月と空けずに何か送ってくるんだから」

ルドルフはディの言うのに笑っている。

「その上、孫三人とメル友だよ? すっかり若返っちゃって、息子としてはもう何をか言わんやですよ」

「彼は子供が好きだからね。その上、実の孫ともなれば舞い上がるのは当然だな」

「ぼくもおじいさまが大好きですもん。メールもらうのも書くのも楽しくて。それにこの夏もローデンに行く予定なんですよ。今からすっごく楽しみ」

「じゃ、今年はチェス、勝てそうかい?」

「えー、う〜ん、どうだろう。この前の旅行の時もファーン兄さんと一緒にずいぶんいろいろ研究したんですけど、なにしろ相手はおじいさまだからなあ...」

「アシュバに必勝法をあれこれ伝授してもらって来たらしいんだけどね。果たして使いこなせるやら」

「へえ」

「あ、アシュレーさんは、アシュバのこと知ってるんですか?」

「ああ、知ってるよ。彼の必勝法となれば、そりゃ最強だろう」

「なんですけどね。使える態勢に持ちこめるかどうかが問題で...」

「ロベールは強いからな」

「でしょう? ぼくらは去年、それを知らずに身の程知らずな挑戦をして散々だったんですから。でも、今年こそは一矢なりと報いたいです」

シャンパンのアペリティフを楽しみながらそんな話をしているところへ、アーネストたちがオードブルを運んで来た。春野菜とオマール海老をたっぷり使った爽やかなサラダ仕立ての一品だ。ナイフとフォークを取り上げながらデュアンが言っている。

「ねえ、アシュレーさん」

「何?」

「アフリカに行ってらしたんでしょう? どうでした?」

「ああ。知っての通り、昨今のあちらの変化には目を瞠るものがあるよ。かつてのアフリカ = 貧困というイメージは徐々に変化しつつあると言っていいね。IGDが手を入れ始めてからのここ七、八年で何より活気が出てきているし、このぶんでゆけばいずれ消費地としても世界経済に大きな影響を与える地域になるだろう」

「でも、ぼくが小さい頃...、って五、六年前かな。その頃はまだ悪いイメージ強かったですよね」

「そうだね。我々も昔からアフリカ各国への経済援助には熱心に取り組んでいたけど、実際、あれはマーティアの指摘した通り、内部的な問題が非常に大きくわだかまっていたから焼け石に水だったことは確かだ。それについては、マーティア以前にディが20年も前に言ってたことなんだけど」

「え、お父さんが?」

ちょっとびっくりして、デュアンはディを見た。ディが世界情勢や経済通だということはここ当分の間に知るようになっていたが、これはさすがに意外だったのだ。

「って言うか、もともとマーティアにそういうことについて示唆したのはディなんだそうだよ。20年近く前と言えばマーティアだってきみくらいの年だったんだから。彼のそういう方面の認識は、いろいろとディに影響されたところが大きいと言ってたな。そうだろ、ディ?」

話の水を向けられて、ディは、さあ、どうだったかなあとトボケている。それにルドルフは笑ってデュアンの方へ視線を戻した。

「きみのお父さんはね、まあ生粋の芸術家ではあるんだが、この通り、画家にあるまじくいろんなところへ目の効くひとだからさ。ある意味、"IGD"という組織に構想以前の段階から関わっていると言ってもいいくらいなんだよ」

兄やウィルから、マーティアやアリシアがディから影響を受けているということくらいは聞いていたが、それがこういうことなのだとまでは理解していなかったデュアンは目を丸くしている。しかし、ディの方は例によって柳に風だ。

「あんまり本気で聞くんじゃないよ、デュアン。ぼくのは無責任な純粋理論、理想論のブループリントでしかないんだから。それをどうやって現実に適用するかという点については無能無策でね」

「おや、ずいぶん謙遜するじゃないか」

「だって、現実に関与するなんて不粋なこと、ぼくは真っ平ごめんだもの。そんなのはアレクあたりに任せておくよ」

言われてルドルフは可笑しそうに笑っている。ディらしいリクツだと思ったからだろう。しかし、デュアンは今の話になんとなく納得させられるところがあったらしい。こうしてディの周辺の世界に接すれば接するほど、デュアンには事情通の評論家などが彼の父を"単なる画家ではない"と言うのがなぜなのかよく分かってくるような気がする。確かにディは絵描きだから直接に経済や政治に関わるようなことは殆どないけれども、彼の思考に影響されている者は芸術世界のみにとどまらず、あらゆる方面に遍在しているのである。もしかすると、それってとんでもなく凄いことなんじゃ、と考えて、デュアンはかつて母が"哲学は天地を創造する"という一節を教えてくれたことを思い出した。その時はなんとなく納得したような気分でいただけだったが、どうやらこれがその真意なのかもしれないと思えてくるのだ。

21世紀も後半に向けて思想界は非常に大きな転機を迎えており、それはマーティアの存在を抜きにしては考えられないことだと言われているが、そのマーティアに影響を与えたのがディならば、彼も明らかにそれに関与していると言っていいのだろう。いや、芸術家としては当然関与しているのだが、現実問題として、例えばIGDも確かにディが作品に表現していることと不可分ではないところに存在し、機能している。逆に、そのような思想基盤があるからこそ、IGDと、ある種の宗教世界との間では底のところで避け難い確執がわだかまっているとも言わざるをえない。もちろん、マーティアはその辺りを十分に心得ていて、相手を刺激するような極端な発言は差し控えているし、表向き如才なく受け流してもいるが、時おり不協和音が表面化するのは仕方のないところだ。

ともあれ、そんなふうにしてこのところ、デュアンは知っていると思っていたはずなのに実際はこれまでまだまだ見えていなかったらしい彼の父の真価を垣間見る機会が多くなっているのだが、知れば知るほど凄いなあと思い、それなのにディがふだん、そんなことはおくびにも出さないところもますますカッコいいと思うようになっていた。要するにデュアンの父への心酔度は、イヤが上にも増す一方なのである。

テーブルの話題はしばらくアフリカの現状を行きつ戻りつしていたが、そこから派生して今度はアジアへと話が移った。"伯爵さま修行"にいそしんでいる今のデュアンにとっても、それらは非常に興味深いテーマだ。ことに先日の旅行以来、ますますそういった方面に関心を持つようになっていて、自分でも本を読んだりネットで調べたりすることが多くなっている。

ルドルフは、その夜は泊まってゆくことになっていたから、食事の後も三人はサロンに席を移し、夜遅くなるまで様々な話題を楽しんでいた。利発ながら可愛らしいこのモルガーナ家の後継者を、ルドルフもずいぶん気に入っているようだ。

original text : 2011.10.2.- 10.19.

  

© 2011 Ayako Tachibana