爽やかな朝の陽光が一面の大きな窓から降り注いでいる。屋敷の主寝室であるここには、白大理石の床にアイボリーの支柱を持つキングサイズのダブルベッドが据えられ、窓には軽やかな生地をたっぷり使ったシルクのカーテンが流れ落ちて、今は少し開いた窓から入る優しい風に静かに揺れていた。ふいに微かなノックの音がしたが、昨日の夜が遅かったマーティアは目を覚ます気配もない。もう一度ノックしても答えがないので、どうやらそれくらいでは起きないようだと思ったらしく、ドアを開けて入ってきたのはリデルだった。
昨日は客たちと初対面ということもあってロイヤル・ブルーのシルクのドレスを着ていた彼女だが、今日は小さな花の刺繍が生地全体にちりばめられた柔らかなモスリンのふんわりしたドレスにエプロンをかけている。この年でもう、けっこうなオシャレさんなのだ。
リデルは持っていた紙の束をベッドにおくと、マーティと声をかけてみたが相手はそれでも起きない。もう一度声をかけても起きないので、とうとう彼女はその頭をポカっとはたいた。
「マーティってば、起きなさいよ」
「アタマを叩いたなー」
「声かけたくらいじゃ、起きないからじゃないの」
「頭は叩くな、頭は。これ以上、悪くなったら困るじゃないか」
「何言ってるんだか。はい、お仕事よ」
言って彼女は持って来ていた書類の束を、やっと起き上がったマーティアの膝にドサっと乗っけた。
「朝っぱらから持ってくるんじゃないよ、こんなもの」
「お客さまたちは休暇中だけど、マーティは違うでしょ?
アリシアが逃げちゃってる分、仕事はどんどんたまってってるみたいよ?
だから、プリントアウトしてきてあげたのに」
「昨日の晩はみんなと宴会で盛り上がっちゃって、寝たの遅かったんだ」
「私のこと、途中で追い出したくせにぃ」
「それこそ何言ってるんだかだよ。第一、リデルは九時過ぎたら起きてられないだろ?」
「ぶー」
「こらこら。あと十年経ったらフルで参加させてあげるから、そんな顔しないの」
言いながら、マーティアは膝の上の書類の束を面倒そうに払いのけ、ベッドに放り出してあったローヴを引き寄せた。彼がそれを羽織る横でリデルが言っている。
「ね、マーティ」
「ん」
「ファーンって素敵ね」
「ああ、そうだね」
「デュアンは可愛いしウィルもハンサムだけど、私はファーンが一番気に入ったわ」
言われてマーティアはちょっとイタズラ心を起こしたようで、自分を指さして、おれは?
と尋ねた。
「何言ってるのよ、今さら。第一、兄妹じゃない」
「血は繋がってないだろ?」
「それを言っちゃあオシマイよ」
その答えにマーティアはいきなり気が抜けたらしく、すっかり呆れて言っている。
「どこで覚えるんだよ、そんなセリフ」
「いろいろよ。勉強してるもん」
「そんな勉強はしなくていいの」
「とにかく、私はファーンを狙うわ」
「狙うって...、それはどういう」
「あんなに紳士で、オマケに美形で、末は伯爵さまなんて条件最高じゃない。だから、将来の夫として狙うのよ」
「あのねえ...」
マーティアはそれにますます呆れた様子だったが、子供の言うことと思って受け流すことにしたらしい。
「まあ、狙うのはいいけどさ。でも、競争率は高いよ?」
「分かってるわよ、そんなこと。それくらいじゃなきゃ、頑張りがいがないでしょ?」
「はいはい。ともかくも、気に入ったんならそれはそれで良かった」
「なんか投げヤリね。可愛い妹の将来の大問題なのに」
言われて、ふと何か思い当ったようで、マーティアはリデルをベッドに引き上げると彼女をまじまじと見つめて、そう、大問題なんだよ、と言った。
「でしょ?」
「いや、だから、将来の夫とかそういうことじゃなくて、きみがおれやアリシア以外に誰かを気に入るなんて殆ど初めてだろ?」
「かもね」
「テディが友達を作ってあげようとあんなに努力したのに、リデルはことごとく蹴っ飛ばして相手にもしなかったんだから」
「だって、ママが見つけてくるコってみんなバカなんだもの」
ストレートに言い放たれて、マーティアは頭を抱えている。テディというのは彼女の母、セオドラの愛称だ。親しい者からは、昔からそう呼ばれている。
「だーかーらー」
「なによ」
「それこそ、"それを言っちゃあオシマイよ"なんだよ」
「なんでよ。事実じゃない」
「じゃ、ファーンたちのことは"バカ"とは思わなかったわけだな?」
「そうよ。だから気に入ったんだし。昨日ね...」
「昨日?」
「うん。私が"お勉強って楽しいよね"って言ったじゃない。覚えてる?」
「ああ」
「そしたらみんな、すんなり賛成してくれたんだもの。嬉しかったわ」
言われてマーティアは、なるほどという顔をしている。
「ママが仲良くしなさいって言うコたちは、私がそんなこと言おうものなら"ヘン!"とか"うっそ〜"とか、いーかげんにしてよねって反応しか返ってこないのよ。オマケに私の髪や、お洋服を引っ張ったりとか平気でするし。失礼だったら、ありゃしない。あれこそ、"躾がなってない"と言うべきなのよ。あんなのと、つきあってなんていられないわ」
このトシの子にしてはあまりに厳しいご意見だが、それでマーティアには彼女がこれまで同年代の子供に馴染まなかった理由が十分に理解できたようだ。
「なるほどね。それは、おれがきみのママにも言ったことではあるけど...。だから、リデルと他の子たちでは、意識基盤が違いすぎてギャップが大きいんだろうというようなことはね」
「その通りよ」
「まあ、だから分からないでもないけど...」
どうやら彼が思っていた通り、彼女の母がつきあわせようとした子供たちが、ことごとくリデルとは合わない種類の子たちだったのだろう。しかし、だからと言って全人類で0.1%以下しかいないIQレベルじゃなあ...、とマーティアは溜息をついている。それを考えると、一概にセオドラの選択がまずかったとばかりも言えない。そもそも、絶対数が少なすぎるのだ。
それに、知的レベルばかりではなく、更に問題はおそらくリデルの容姿にもあることはマーティアには容易に想像がついた。あまりに美しい容貌というものは、時としてそれだけで周囲の反感を買ってしまうものなのだ。本人が意識していなくとも、周りの劣等感を煽ってしまうからである。相手が女の子なら、なおさらだろう。そこへ持って来て"お勉強なんてしたくない"と思っているような子たち相手にそれが"楽しい"などと言うわけだから、"なによ、いい子ぶっちゃって"と思われても仕方ないかもしれない。
セオドラからリデルのことで困っているという話を聞いた時、マーティアが最も心配したのは、このままにしておくと妹がかつてのアリシアのパターンを踏襲しかねないということだった。アリシアもマリオが引き取るまでは孤児として育てられていたのと、そのズバ抜けた知性と容姿が災いして周囲とうまくゆかず、結果的に思う存分ひねくれガキに成長してしまっていたからだ。人間性の最も忌むべき負の側面に晒されて育たなければならなかったアリシアにとっては、マーティアやマリオと出会って初めて自らの知的レベルに合致する理解者を得ることができたと言える。以来、徐々に周囲に馴染むようにはなったものの、子供の頃の経験から今でも人間全般に対して手厳しい見解を持っていることに変わりはない。それは確かに必要な現実認識だが、特に広く社会的に影響を及ぼしうる天才児の場合、それが行き過ぎるのは大きな問題でもある。
逆に、マーティア自身はマリオに大事に囲い込まれて、やたらに知性的な大人たちの間で育ってしまったために、未だにディから現実社会に対する認識が甘い"あまえんぼ"だと頻繁にコケにされるほど"脳天気お坊ちゃま"な性質から抜け切れていない。そのあたりがアリシアから"彼って未だにどうかすると天使だからね"と揶揄される所以でもある。要するに、この二人の場合は一緒にいることでお互いの負の要素を相殺してバランスが取れているのだ。ある意味それは、天才児の初期教育における両極端な失敗例と言えるかもしれないが、マーティアは自分たちがそうであるだけに、出来ればリデルにはもっと性質的に均衡の取れた大人になって欲しいと思っていた。それは将来、彼女を円卓会に迎えるにあたって不可欠な要素でもあって、そのためにはまず、より適切な環境を整備してやることが必要なのだが、どうやらファーンたちのことが気に入った様子だし、彼らと合わせたのはまずは正解だったということだろう。
リデルのようにIQ値が高く出る原因は少なくとも二つあるが、そのうちでも円卓会が必要とする条件は、本来の脳機能において、情報の収集、分析、展開能力が優れていることの方だ。教えられてやっと理解するのならそれは単なる通常人であって、独自の純粋理論展開により正解を導きだす能力が無ければ、未だ大系立てられていない未知の要素に対して有効な判断の基盤を有しているとは言えるまい。しかし、円卓会、更には賢人会が処理しなければならないことの多くは、過去において歴史的に全く手つかずで放置されている問題なのである。リデルにはその稀な展開能力があると今既に見受けられるし、それはIGDにとって非常に重要なことだ。マーティアが彼女の成長に気を配っているのは可愛い妹だからということももちろんあるが、円卓会主席という立場からもリデルには理想的に育ってもらわなければならないという意図もある。そして、彼女をいずれ円卓会に加えるためには、能力以上にその人間としての性質の方が重要になってくる。こういう種類の天才児は知識などは教えなくとも勝手に覚えるが、性質の方は環境次第でどうにでも転んでしまう。それはマーティアやアリシア自身が良い例だし、従って、このような子供に対する最も重要な初期教育とは所謂"英才教育"のような知識伝達を主体としたものではなく、より理想的な人格に育てるための"人間教育"であると言える。
「そうだな。じゃ、あの子たちのことが気に入ったんなら、クランドルに帰ってもつきあえるようにしてあげようか?」
「ほんと?」
「ああ。ディとは長いつきあいだし、マリオは今のクロフォード公爵や先代とも面識があったはずだからね。家どうしのつきあいという点では、全然問題ない。それにクロフォード家にはファーンの従兄弟がウィルを含めて8人もいて半分は女の子だそうだから、リデルと気が合う子もいるんじゃないかな」
「そう願いたいわね。なにしろ、将来は親戚づきあいすることになるかもしれないんだから」
リデルがあまりに真面目に言うものだからマーティアは内心笑いながらも、もしかしてファーンを狙うというのは本気なのかなという気がしないでもなかった。
「まだまだ先の話とはいえ、リデルを嫁に出すなんてことになったらマリオが大変だろうな」
「そうかしら」
「そうだよ、決まってるじゃない。おれやアリシアが大人になって手を離れた時ですら、彼の淋しがりようと言ったら見てられなかったよ。だから、テディが側にいてやってくれると助かるなって思ったわけだし。それが今度は、実の娘だからなあ...。マリオがああまで激甘パパになるとは、さすがに予想外だったけどさ」
「何言ってるの、パパはもともと子供に甘いのよ。マーティだって散々甘やかされて、挙句の果てにグレたんでしょ?人のことが言えて?」
ズバリと痛いところを突かれて、マーティアは言葉を失っている。
「少なくとも私は、グレてパパを悲しませたりはしないわ」
「はいはい」
「だけど、パパに比べればママは私の天敵ね。私は、あんな母にはならないつもりよ」
「こらこら。ママはさ、リデルのことが心配だからいろいろ考えてくれるんだよ。それにパパがああだから、ママとしては厳しくしないとってとこもあるんじゃないか?
おれもアリシアも彼女とは長いつきあいだもの。厳しいけど情の深い、尊敬できる女性だよ。おれとしてはむしろ、きみにママみたいな人になってもらいたいと思ってるんだ」
「う〜ん」
「でもまあ、これで彼女の心配も解消されるんじゃないかな。マリオもテディもお披露目の時にファーンやデュアンに会ってるし、最初から彼らのことは気に入ってたからね。きみが仲良くなったと聞いたら、喜んでくれるよ」
それへリデルも嬉しそうに、うん、と答えた。
「さて、おれもそろそろ起きなきゃな。シャワー浴びてくるから、チャーリーにコーヒー持って来てって頼んでおいてくれる?」
「いいわよ」
マーティアがベッドを下りてバスルームへ歩いてゆく横で、リデルはベッドサイドの受話器を上げてチャールズを呼んでいる。窓の外では陽が既に高く、そろそろ、お約束の飲茶ブランチの時間が近づいてきているようだ。
original
text : 2011.5.28.-5.31.
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