夏休みも終盤に入ったころ、ディは子供たちの様子を見がてらロベールの城に顔を出した。アリシアを宥めるというのがこの夏の彼の最大の大事業ではあったが、その上に、秋に開く予定の個展の準備もあって大忙しだったからだ。しかし、それも一段落ついたので、この後は残り少ない夏を子供たちと過ごして一緒にクランドルに戻ろうかと思っている。
いちいち列車やクルマに乗り換えるのは面倒だから空港からはヘリを飛ばさせ、一時間ほどでローデンの城に着くとクロードとアルベールが揃って出迎えてくれた。
「お久しぶりでございます、モルガーナ伯爵」
「うん。みんな、元気だった?」
にこやかに言うクロードにディも微笑を浮かべて答えている。幼い頃からよく知っているこの執事は、ディにとってもう一人の父か祖父のようなものだ。
「はい。みな、つつがなく」
「そう。で、子供たちはどうしてるかな」
「どなたもすっかりここに馴染んで下さって、楽しそうにお過ごしになっておられますよ。ファーンさまとデュアンさまは、今日はだんなさまとご一緒に遠乗りにお出かけですが、メリルさまは庭でスケッチしてらっしゃるようです。しかし、そろそろ夕方ですから、皆さまじきにお戻りになるでしょう」
「そうすると、今はみんないないのか。それなら、ぼくは先にちょっと休ませてもらおう」
「では、荷物はすぐにお部屋にお運びいたします。お茶をご用意いたしましょうか。それともコーヒーを?」
「そうだな...。じゃ、きみ特製のコーヒーをお願いするよ」
「かしこまりました」
ディの好みをすっかり心得ている様子で老執事は笑って答えた。
城の中にはもちろんディの部屋もあるので、彼がそちらへ歩いてゆく後ろでクロードはアルベールにヘリからスーツケースを降ろすよう指示して、自分はコーヒーを煎れに厨房へ向かったようだ。それほど頻繁というわけではないがディはここにも年に数回は来るので、日常必要なものはたいてい部屋に置いている。従って、わざわざ持って来なければならないようなものは少なかったから、スーツケースと言っても小さなものだ。
アーチを描いた高い天上のゆったりした廊下をディが歩いてゆくと、ちょうどメリルが向こうの角を曲がって来るのと出くわした。クロードが庭でスケッチしていると言っていたから、城の裏手から戻って来たのだろう。
ディが二、三日のうちにはこちらに来るとはメリルも祖父から聞いていたが、あまりにいきなり顔を合わせることになったので、一瞬戸惑った顔をして立ち止まった。どうもまだ、この親子に限っては最初の出会いからこっち、ぎくしゃくしたものがわだかまっているようだ。もっともそれは主にメリル側の拘りによるものだったので、ディの方はさほど気にしてもいないらしく、にっこりして彼の長男にやあ、と声をかけた。メリルはそれに、反射的にこんにちわ、と答えている。ディは、その戸惑った様子には構わず近づいてゆき、庭にいたの?
と気軽な調子で尋ねた。
「はい。スケッチしていたので」
「そう」
そこで一旦沈黙が落ち、メリルの方は場が保てないようなちょっと困った表情になった。しかし、ディは微笑を浮かべて、もしかするとこれは、この子と二人きりで話す初めての機会じゃないかな、と思いながらそれをしばらく見守っていた後で、どう?
ここは、と助け舟を出してやった。それにほっとして、メリルが答えている。
「あ、ええ。とても静かで落ち着けるところなので、楽しく過ごさせてもらっています。おじいさまにも、ここの皆さんにもよくして頂いていますし」
「いい絵が描けそうかい?」
「...、えっと...」
メリルはそこで一度黙り、まあ、ぼちぼち、ですけど、と続けた。彼としては、ここに来てからというもの、日がな一日絵を書き放題のパラダイス状態で過ごしていることもあって、自分でもこれまで以上になかなかいいぞ、と思えるものがビシバシ描けているのだが、なんと言っても相手は自分の父とはいえ、同時に当代随一の大画伯である。それを相手に自信を持って、この質問に肯定的な返事をする勇気も根性もまだ今のメリルにはないようだった。
ディはそれに少し笑って頷き、じゃ、後で、と言って、そのまま自分の部屋へ歩いてゆこうとしかけたのだが、意外にもメリルがそれを止めるように声をかけた。
「あの...」
「え?」
「あの...。秋に個展を開かれるそうですね」
「ん?
ああ、やっと点数が揃ってきたからね。二年...、いや、どうかするともう二年半ぶりになるし、いい時期かと思って」
メリルがそれに頷きながらまだ何か言いたそうに見えたので、ディは黙って待っている。その間が不自然になるのを気にしてか、メリルは意を決したように父を見ると言った。
「見に行っても、いいですか?」
思ってもいなかった質問を受けて、ディはメリルが彼の絵にかなりショックを受けたようだと父から聞いていたのを思い出した。それで、なるほどそういうことかと思ったらしく、ちょっと嬉しそうに笑って答えた。
「どうぞ。ぜひ」
「はい、じゃ」
ディの笑顔に釣りこまれるように微笑を返し、それからメリルは自分の部屋の方へ歩いて行ったが、その後ろ姿をしばらくの間見送ってから、ディはもう一度笑ってメリルと反対の方向へ歩き始めた。メリルがどういうつもりで自分の個展に来たいと言い出したのかはともかくとして、作品に興味を持たれていることそのものがなんとなくいい気分だったからだ。
二人が話していた一画からもうしばらく奥に入って、ロベールの部屋ともそう遠くないところにディの部屋はある。ここに来るのは年に数回とはいえ、もちろん部屋の中は彼がいつ来ても良いように整えられてあった。それに、今日は特にディが着くと連絡が入っていたためか、部屋のそこここに庭で丹精された瑞々しい花々が生けられて、既にその芳香が部屋中にほどよく満ちている。
彼は部屋に入ると次の間を通り過ぎ、アンティークで飾られた居間に入って行った。一面の窓から陽光が降り注ぐ明るい居間は、ディの好みでオール・ダン・イン・ホワイトに仕上げられている。他の部屋は代々シャンタン家に受け継がれて来た調度がそのまま使われていることが多く、いくつかの部屋では最初にそこに据えられたまま、何百年にも渡ってそのままの状態で鎮座ましましている家具も少なくないほどだ。しかし、ここに置かれているのはアンティークと言っても、ディが主にオークションやのみの市で気に入ったものを集めたもので、そうしながら部屋自体を長いことかけて今の状態にまでしたのである。
大きなゆったりとしたアイボリーのソファが中心に置かれ、それとマッチングの良い白に金糸を織り込んだジャガードのカーテンは、今は両側に分けられてマクラメ細工のタッセルで留められているので、シルクの薄いカーテンを通して向こうに緑の庭が見渡せた。部屋の中は、テーブルからコンソール、マントルピース、シェルフに至るまで全てがそれぞれ微妙に異なった色調を持つアイボリーで、その相互のコントラストの掛かり具合いは既に一枚の絵のようだった。そして、窓に寄せては、ディがもう十何年も前にこの城の庭をテーマに描いた大きな絵が、彫刻を施したアンティークの白い額に入れられ、特にそのために作らせた優雅なアールデコ調の足を持つイーゼルに乗せて飾られている。画面には今を盛りと咲き誇る繚乱の花々と快晴の蒼天が描かれており、白一色の部屋に最後の仕上げの見事な色彩を添えて存在感を放っていた。居間ばかりではなく、もちろん寝室もこの調子で白を基調にまとめた、目を瞠るほどの仕上がりになっている。
ディは居間に入ると着ていた麻のスーツの上着を脱いでソファに放り、寝室の奥にある洗面室で手を洗って来てソファに身を沈めると、ほっと一息ついて部屋を見回した。久しぶりに見るが、何一つ変えられずに完璧に保たれているところは、さすがにクロードだなと思う。それから煙草に火をつけているとアルベールが荷物を運んで来てくれ、その後にクロードがコーヒーを持って来てくれた。彼特製のブレンドで、ディがとても気に入っているやつだ。
「メリルさまが、先ほど戻られたようで」
「うん、会ったよ。さっきそこで」
「左様でございましたか」
それからコーヒーを一口飲んだディが、相変わらず美味しいね、きみのはと言うと、クロードは嬉しそうににっこりした。
「年季が入っておりますから」
彼の冗談にディは笑って言っている。
「よく、お父さんも言ってるけど、きみたち一家なくしてシャンタン家は成り立ちませんよ」
「何をおっしゃいますやら」
「いや、本当にね。それでどう?
やっと決まった後継者は。きみのおめがねにはかなった?」
聞かれてクロードは少し考え、そのようなことは私などが口を出す事柄ではございませんが...、と断ってから続けた。
「あの方でしたら、立派にだんなさまの後をお継ぎになられるのではと考えております」
「そう?」
「はい。アルベールも、今後お仕えすることになるのがファーンさまのような方で良かったと喜んでおりましたし」
「ああ、そうか。あの子がここを継ぐ頃には、どうしたってきみは引退してるだろう。そうすると、最終的にはファーンはアルベールに頼ることになるね。うん。ぼくの時と同じで相当早くここの当主としてやってゆかなければならなくなると思うし、アルベールに、ぼくからも宜しくお願いすると伝えておいてくれるかな」
「それはもう。そう仰って頂けると、あれにとっても励みになるかと」
話しているところへノックの音がしたので、ディが入っていいよ、何?
と尋ねると、一旦下がっていたアルベールがドアを開けて入ってきて一礼し、だんなさまがお戻りになりました、と言った。
「ぼくが来てることは言った?」
「はい」
「ん、じゃあ、一休みしたら部屋に顔を出すとしようか」
「そのように、お伝えいたします」
「頼むよ」
アルベールが、もう一度一礼して部屋から出て行くと、クロードは、他にご用は?
と尋ねた。
「いや、今のところは」
「それでは、私も下がらせて頂きます」
「うん」
クロードも一礼して出て行ってしまうと、また部屋の中は静かになった。ディはコーヒーを飲み終わるまで、久しぶりに訪れたお気に入りの部屋の出来栄えを眺めて楽しんでいたが、しばらくして、では、お父上にご挨拶申し上げて来ようかなと立ち上がった。
ロベールの部屋はすぐ近くにあるので、扉の前まで行ってノックすると中から父の何だ?
という声が聞こえてきた。
「ぼくですよ」
「おお、おまえか。入れ入れ」
答えに応じてディが入ってゆくと、奥からまたロベールの声だけが聞こえて来た。
「着替え中だ。居間で待っててくれるか」
「ええ」
言われてディは扉が開かれたままの父の居間に入って行ってソファにかけようとしたのだが、その前までゆくとちょうどマントルピースの上の絵が目に入った。そこには長年、レンブラントが掛けられていたはずなのだがと思って注意を引かれ、それから彼はそれがメリルの絵であることにすぐに気がついたようだ。前に父が感動しながら話していた、そのままの画面だったからである。
ディはそこで立ったままその絵を検分しながら、何かしら納得した様子で頷いている。それで少しの間、父が居間の入り口で意地の悪い微笑を浮かべてそれを眺めていることにも気づかなかったくらいだ。しかし、ロベールが近づいて行くと、ディはふいに後ろに人の気配を感じたようで振り返った。
「どうだ?
なかなかいい絵だろう?」
「ええ、まあ」
「レンブラントより気に入っていてな」
それに頷いてみせ、それからディは、わざと見せましたね、と言った。
「何のことだ?」
「メリルの絵でしょう?」
「ほお、さすがだな。分かったか」
「あれだけ手放しで褒めちぎっておいて、分かったか、もないでしょうに」
息子が呆れ気味に言うのへ、ロベールは自慢げに答えた。
「弱冠十二歳でこれだ。おまえのこの年の頃に比べて、一段上だと思わんか」
「そこまで言います?」
「いや、客観的に見てもね...」
言ってロベールは昔のことを思い出しながら続けた。
「おまえが十七歳で画壇にデヴューして以来、長いこと批判的な評論家は口をそろえて"才気走った作品"と酷評のネタにしたもんだったがな。しかし、私はそうは思わなかった。おまえの絵は、十代の半ばを境にして激烈に変わったことを知っていたからね。だが、十二歳の頃と言えば、まだまだ理論先行で、これでよくダニエル・バーンスタインともあろう天才の目に留まったものだと不思議だったものだ。確かに、あの頃はおまえの絵はまだ"才気走っ"とったよ」
ディは自分でもそう思っているだけに、父の言うのを否定できなかった。確かにこの絵を見ると、彼の言い分も納得はできる。
「しかし、その後のことを考えれば、バーンスタインの目はやはり確かだったということか。ま、十代の頃はともかく、今のおまえにはまだまだあの子はかなうまい。この先、どこまで行けるかだな」
「落としたり、持ち上げたり」
息子の文句にロベールは笑って、いやいや、それだけおまえを認めているということさ、とフォローした。ディは頷きながら話半分の様子でそれを聞き流し、でも、どうしてこの絵がここにあるんです?と改めて尋ねた。
「メリルがプレゼントしてくれた、時計のお礼だと言ってね。絵と、それからこの絵の何倍も値打ちのあるものを描いてみせるという約束と一緒に」
「なるほど」
「あの子は、これからが楽しみ、ということだ」
それからまだしばらくの間、二人はメリルの絵を眺めてそれぞれの想いを追っているようだった。窓の外ではそろそろ陽が傾き始めているが、落ち行く太陽の光の元で、その絵はまた一段と見る者に深く真価を伝えてくるように思われた。
original
text : 2009.12.27.-2010.1.5.〜1.8.
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