久しぶりの休暇を終えて、また仕事に戻らなければならなくなったマーティアを乗せてクランドルを出港したアークは、その後、ジブラルタルを越え、地中海に入って来ていた。この後は、スエズから紅海、インド洋を経て、洋上で執務を取りながらのんびりと太平洋を目指す。その、簡単には場所を特定できない無数の島々の中に、マーティアたちの現在の実質的な陸上の本拠があるからだ。

アークがペロポネソス半島の沖合いに差し掛かかると、上空にヘリが一機近付いて来るのが見えた。それにはアリシアが乗っていることが分かっているので、その知らせを受けてマーティアはデッキに出てきている。紺碧の海と快晴の空、実に美しい光景だ。その背景の中で、白いヘリはしばらく海鳥のように遠く小さく浮かんでいたが、やがてその本来の形を取ってデッキに舞い降りた。ローターが止まり、アリシアが降りてくるのが見えると、マーティアは微笑を浮かべてそちらに歩いてゆく。アリシアはヘリの中へ向けて笑って何か言っているが、どうやら顔見知りのパイロットに礼を述べているらしい。それから彼はマーティアに気づき、にっこりしてその方に歩いて来た。

「おかえり」

「ただいま」

「なんか大変だったみたいじゃない」

「アレクさんから聞いた?」

「まあね。それに、地中海まで足を延ばすとは思ってなかった」

「それもあって、気分変えたかったからさ」

二人はそこで屈託なく短いキスを交わし、それからマーティアは、フィディウスは元気だった? と尋ねた。

「うん。相変わらずだよ、あのオジさんは」

クランドルでディと会い、子供たちのことを知らされてアリシアが機嫌の悪かったこともあって、ディはその気をそこからそらそうと、この二週間ほど地中海にアリシアを連れて遊びに来ていたのだ。ディはその後、ローデンに飛んだというわけである。

元々はアリシアが"この季節だし、地中海はいいだろうなあ"と言い出したのが発端だったのだが、それでディはギリシアの友人、フィディウス・オシアヌスに夏の招待を受けていたことを思い出した。この夏はいろいろと忙しいことが分かっていたので、時間があればと保留にしてあった申し出だが、ちょうど都合が良いので受けることにしたのだ。

フィディウスは元はギリシア十指に入るとも言われる大富豪の家の出で、兄弟の中では末弟ということもあって、自由で優雅な生活を終生保障されている身である。しかし、同時に優れた芸術家でもあり、特に彫刻家としてはギリシアのみならず世界的にも高い評価を得ていて、その他に絵も描けば、若い頃は一時、映画を撮るのに凝っていたこともあったりと、なかなかの才人なのでディも気に入って長年つきあっているのだ。ディよりは二十歳近く上だから、従って、そろそろ六十代ということになるだろう。長身だがギリシア人としては大柄で、その見た目に相応しくアバウトな性格の大らかな人物だ。

ただ、フィディウスにはひとつ難点があって、とにかく美しい男の子が好きなのである。その年齢になった今でさえ始終キレイな少年や青年を周りに侍らせているような男だったから、特に、画壇にデヴューした頃の十代のディが、彼にどういうアプローチを受けていたかは想像するまでもない。当時のディにはそんな話は珍しいことですらなかったが、事実、その頃から二十代の始め頃まで、ハタ迷惑なまでにうるさかったほどフィディウスはディに夢中だった。しかし、悪気はないとはいえ、あまりに強引な行動に出られるに至って、ディもとうとう本性で対応しなければ仕方なくなったのである。

その優しげな容姿と、どちらかと言えば貴族らしく穏やかなもの言いのせいもあって、当時はフィディウスもまだディを甘くみていたのかもしれないが、それは彼ばかりのことではなかったから、ディには身を守るためにそれなりの策を講じておく必要があったのも無理はなかった。だから彼は、その頃いつもデリンジャーを身に着けているのが常だったのだが、その時もそれで救われたようなものだ。

自分を理不尽に害そうとする者に対して、昔からディは容赦がない。だからその時もデリンジャーの照準を相手に合わせ、諦めるか死ぬか、どちらか選んで下さい、と詰めたのである。その様子が大して動じた様子もなく淡々としているので ― ディにとっては、またか、と言いたいようなことだったから仕方がないが ― コトそこに至ってフィディウスは、ディがそう簡単にペットになるような青年ではないと悟らざるを得なかったようだ。だが、それで返って彼はディに惚れ直し、謝罪した上で絶交だけは勘弁してくれと潔く頭を下げて頼むものだから、ディの方も芸術的資質と才知は認めている相手でもあり、その謝罪を容れてそれからもずっとつきあっているのである。

そんな男だったから、もちろんあちこちの集まりで何度か顔を合わせたことのあるアリシアのことも大の気に入りで、それがディと一緒なら大歓迎となるのは当然だった。例え自分のものにはならない二人とはいえ、美しいものならなんでも来いというところのあるフィディウスは、アリシアとディが恋人どうしであるという事実と、その二人をしばし身近に眺めて暮せることに至上の歓びを感じているらしかった。まあ、筋金入りの芸術家、ということだろう。

「フィディウスのところに行くって言うから、ちょっと心配してたんだけどね」

部屋へ歩きながらマーティアが言うと、アリシアは笑って、まさか、と答えている。

市街と地中海を一望に見渡すことの出来る丘の上の豪邸はアラブの富豪もかくやというほどのものだったし、二人の姿を見て喜びまくった主は下へも置かないほど歓待してくれた。そのおかげでアリシアはこの二週間、ディともども王侯暮らしを満喫して、かなり機嫌も良くなっているようだ。今のアリシアにしてみればそういう種類の浴びるほどの贅沢も、しようと思えば雑作なく出来てしまうこととはいえ、"王子さまごっこ"はなかなか楽しかったらしい。

「ぼく一人ならそれはちょっと危ないかもしれないけど、あのオジさんは今でも絶対、ディに嫌われたくないんだよ。だから、その目の前で、ぼくにちょっかい出すとは考えられないでしょ?」

言われてマーティアは頷いている。

「それはそうなんだけどさ。昔はおれも散々コナかけられたからなあ、あのオヤジには」

「ああ、聞いた聞いた。ディにも聞いたし、フィディウスも言ってたよ。マーティが近くに来てるって言ったら、呼べ呼べってうるさくてさ。でも、ぼくも王子さま暮らし二週間も続けたら、かなり飽きてきちゃってたんで、ぼくたち三人が一堂に会しているなんてことになったら爆弾投げ込まれるよって言ったの。そしたら、彼、さすがにビビってたよ」

アリシアの言うのを聞いてマーティアは大笑いだ。事実、それはアリシアの単なる脅しではなく、これまでも似たようなことはありがちだったので、フィディウスが蒼くなったのも無理はない。しかし、マーティアたちの方は、それくらいでビビっていては、こんな仕事つとまりませんというところまで、既に開き直っている。

「でさ、だから今度はマーティも連れて、ぜひ"お忍びで"遊びに来いってさ」

「懲りないオヤジだね、彼も」

「美しいものが根っから好きなんだよ。微笑ましいじゃない」

「まあ、それはおれも彼のことは昔から好きだけどさ。でも、いくらグレてたとはいえ、さすがにギリシアくんだりまで出張ってって、ペットになる気はなかったからね」

それにはアリシアも笑っている。そうするうちに二人は自分たちの部屋がある一画まで来ていた。

船の一室なのだから"キャビン"と呼ぶべきなのだろうが、ここに限ってはそれは全く相応しくない。最上級のスイートルームと言って良いほどのスペースは、既にそれだけで船上ということを忘れさせるほどで、アーク自体のデザインの基調をなす純白を基本としたモダンな調度と内装、洋上にいるというのにふんだんに飾られた生花、居間に連なるいくつもの豪華な続き部屋、大きな窓から降り注ぐ陽光と空間を満たす静寂。それはまるで、どこかの屋敷のサロンにでも迷い込んだようにすら思える光景だ。その上、部屋の中にはそこから二階のデッキに出ることのできる螺旋階段と、少し高いところから部屋を見下ろせるテラス仕立ての中二階まで見える。

ついでに言えば、この船は客をもてなすためのボールルーム、シアター、プール、テニスコートなど、およそこのクラスのクルーザーに盛り込めるありとあらゆる施設を持ち、どこにいても世界の各都市にほぼ最大12時間以内に到達できる機動力を持つ機体まで搭載している。もちろん、通信施設や様々な装置から成る防衛システムも完璧だ。つまりアークとはまさにホワイトハウスに匹敵する贅と力を、船一隻に集約したような存在なのだ。

「う〜ん、今日からまた仕事だなあ」

部屋に入って来て小さなスーツケースをテーブルに置くと、アリシアはそう言いながら部屋の中央に円形に置かれた柔らかなソファに勢いよく沈み込んだ。マーティアはその後ろで扉を閉めながら言っている。

「王子さま暮らしは飽きたんだろ?」

「やっぱり続くと退屈だよね、あれも。アタマがヒマしちゃうし」

「ご期待通り、山ほど仕事が待ってるよ?」

「もお、意地悪なんだから」

横に座ったマーティアと今度はちょっと長いキスを交わし、それからアリシアはでも、ぼくはマーティの側にいるのが一番だもん、と言った。

「じゃ、仲良く一緒に仕事しよう」

「はいはい」

確かに、たまの王侯暮らしは楽しいものだが、高い啓蒙度に恵まれた彼らのような賢人にとっては、愚かな覇王が延々と続けたがるような酒池肉林の宴のようなものには大して意味がない。それは今回もてなしてくれたフィディウスも同じで、だからこそお互い敬意を持って長いことつきあい続けていられるのだろう。

ディやアレクにしてももちろんそうだが、こういう連中にとって過ぎた贅沢は日常のちょっとしたジョークのようなもので、それなり続けば飽きてくる。そうそうマジでそんな時間つぶしをしていられるほどバカではないのだ。そんなものはいつでも無雑作に手に入るということもあるのだろうが、芸術的創造や世界と歴史を思い通りに動かすゲームの醍醐味に比べれば何ほどのこともない。それが王道をゆく者の、本来の娯楽というものである。

「あ、アレクさん、元気だった?」

「ん、相変わらず」

「ディも相変わらずだったよ」

「いきなり子持ちになったこと以外は、だろ?」

言われてアリシアは、しばし忘れていたその話を思い出したようだ。

「それ! そうだよ、それ。まるめこまれてすっかり忘れてたけど、ほんっとーに腹立つよね。いるんならいるとさっさと言っとけばいいのに"忘れてた"んだってさ、自分に子供がいること」

「ディの場合、それは言い訳じゃなくて正味だと思うけど」

「それは、ぼくもそう思うよ。そうじゃなかったら極刑モノだし」

「で、結局、許してやったわけ? おれは、今度こそ別れるかなと多少期待してたのに」

「それはさあ...」

アリシアはマーティアの手前、別れなかったことにいくらか後ろめたい気分になったらしく、ちょっと言い澱んでから、だって、泣いて頼むんだもの、と言った。マーティアにはさすがに"泣いて頼む"まではアリシアの冗談だと分かったので可笑しかったが、しかし、ディがここ二週間、アリシアのご機嫌取りに徹していたことくらいは簡単に想像がつく。

どちらにしても、マーティアにとってはディにアリシアを半分取られていることが不本意な反面、ディを自分のまるっきり知らない誰かに持ってゆかれてしまうのも悔しいという気持ちが残っていないではない。今となってはアレクとアリシア、二人ながら手の届くところに置いて、ただでさえディに"欲張り"と言われる状態を押し通しているわけだが、そもそもディと別れたのはアレクとディ、両方をキープしておくことが絶対に不可能だったからでもあった。それで自分が留守の間、アリシアをディに預けておくことはマーティアにとって許容範囲内なのである。

ともあれ、また今日からは二人とも、てんこもりの書類と秒単位で走る数字に埋もれる多忙な日常に戻ることになるようだ。アークがこれから向かう太平洋の島々は年中夏の陽気だが、ヨーロッパの夏はそろそろ終わりに近づいている。

original text : 2010.1.13.+1.18.

  

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