「残念。ちょっと逸れたかな」
1番ボールに当たった手球が1番をポケットに叩き込んで反転したまではディの狙い通りだったのだが、9番の手前にある2番に当てて9番を落とすつもりが、更にその手前にあった8番をかすってしまったのがいけなかった。手球は僅かに角度を変えるとクッションに当たって跳ね返り、しばらく戻ってから転がるのをやめた。
11時を回ると、子供たちがさすがに眠そうになってきたので、ディは部屋に引き上げさせることにしたのだ。二人ともちょっと名残惜しそうな様子だったが、アレクとは明日もランチで一緒できるとあって、素直にベッドに入る気になったようだ。アーネストを呼んで子供たちを任せると、ディとアレクはしばらくそのままお互いの近況を話し合っていたが、その後、サロンの奥に置かれている9フィートのポケットテーブルでナインボールを始めたのである。
遊戯室としてもよく使われるこのサロンの奥には、1万冊程度の書籍を天上まで届く書架に並べた小ライブラリーがあり、その一画にこのビリヤード台が置かれているのだ。ちなみに、ここにある本は比較的新しくコレクションに加えられたものが殆どで、それ以前のものや、ここに置ききれないものは元からの図書室に収められている。多くの希少本を含むその総数は、ここにある十倍では利かないはずだ。
「逸れるのはいいんだけど、この配置はちょっと酷いんじゃないか?」
手球の止まった位置を見てアレクが文句を言ったのも当然で、まだブレイク直後で1番と5番がポケットインしただけのテーブル上には、邪魔な球が6個も転がっている。しかも、9番の手前に2番があるのはさっきのままだが、手球にかすられた8番が手球と2番の間を遮ってしまい、どこをどうやっても8番に触れずに次の的球である2番に当てるのは難しい状態にあった。
「それが作戦なんじゃないですか」
「客に花を持たせようって気がないんだな」
「とんでもない。長いつきあいだし、きみの腕はよく知ってますからこのくらいではね。どうせ入れちゃうだろ?」
「へえ。そんなに期待されてるんなら、芸のひとつもお見せしないと。ただし、ラシャの安全は保証しないよ」
笑って言うと、アレクは持っていたウィスキーのグラスをエプロンに置き、キューにチョークを付けながら手球のある位置に移動した。この位置から2番に当てるには手球をジャンプさせるか、スピンをかけて8番をかわさせるしか方法がない。それでアレクは、殆ど垂直に近い角度にキューを構え、ボールの頂点に近い位置から瞬間的に強烈な圧力をかけることによってジャンプさせ、8番を飛び越えさせて2番に当てる方法を取った。マッセと呼ばれるテクニックである。
彼の狙い通り、手球は見事に8番を超えて2番をはじき、絶妙の角度で9番に当たる。ポケット近くにあった9番は、すんなりポケットインした。ディが残念そうな声を上げている。
「あーあ」
「お粗末さまでした」
「全く。きみとやってると、あっという間に1ゲーム終わっちゃうね」
「もう一回やる?」
「やりましょう」
さっきから3ゲームめなので、これでアレクが2勝、ディが1勝ということになる。公式戦ではなく遊びでやっているから、もともとゲーム数は決めていない。
今度はアレクがブレイクし、ブレイクで3番をポケットインした後、ほんの僅か外して狙った5番を落とし損なった。ここで5番を落とせれば、9番を狙うのに丁度良い位置になったのだ。それを見てディが言っている。
「有難う」
「お互いさまだけどさ。ミスするとなあ、チャンスないよね」
「それはどうかな?」
ディはまず、邪魔な1番をさっさと落とし、2番、4番、5番と連続してポケットに叩き込んだ後、良い角度に来た手球で6番をワンクッションさせて9番に当てた。もちろん9番は難なくポケットインする。
「お見事」
アレクが言うのにディはにっこりして見せて、エプロンに置いていたオールドファッションドグラスに手を伸ばした。なにしろ実力が伯仲しているので、どちらかがミスする確率は非常に低い。従って、アレクの言う通り一旦ミスったが最後、2度とチャンスはないという場合が殆どなのだ。
「しかしほんと、久しぶりだよな。きみとこんなにのんびり遊べるなんて。前に会ったのは確かクリスマス時期で、半年以上も前になるよ。しかも、あの時はうちのパーティでだったから、人も多くてのんびりどころじゃなかったし」
「きみが忙しすぎるんだよ。まあ、IGDの規模から考えると当然なんだろうけど」
「最近はおれも、それには本気でウンザリしてるよ。自分で好んで始めたこととはいえ、まさかのことにここまで急激に大きくなるとは思ってなかったものな」
「それはまあ、あの二人が一緒にやってるんだから仕方ないんじゃない?
きみの人望と商才、あの子たちの頭脳と展開力。これだけ揃えばはっきり言ってまさに無敵艦隊だからね」
ディの言うのにアレクは笑って、そういえばさ、と思い出したように言った。
「おれ、さっき食事の時にも思ったんだけど、"あの子たち"ってトシでもないよな、本当は二人とも。なにしろマーティアがいよいよ三十代に入ろうかってとこなんだし」
「まあね」
「きみの子供たち、デュアンとファーンを見ててつくづく思ったよ。おれたちもそろそろトシヨリの仲間入りかな、ってね」
「まだ"トシヨリ"はないでしょう?
うちの父も、きみのお父さんも大元気で健在な上、ファーンの曾おじいさまがあんなにお元気じゃ、我々はまだ"青年"で通ると思いますよ」
「違いない」
ディの反論にアレクは納得したようで頷いている。
「それにしても、そのファーンね」
「なに?」
「いや、実際、おれたちはあの二人、マーティアとアリシアのおかげで天才ってものに慣れきってるからさ。きみが改めて考えてみないのも分かるけど、あの子、IQは相当高いんじゃないか?
話してて思ったな。あの子にしてもデュアンにしても、普通に十歳そこそこのコドモとはちょっと思えない感じだ。まあ、きみの子なんだから当然って気もするけど、マーティアたちが子供だった頃のこと思い出してみなよ。なんか近いものがあるぞ」
「そうかな」
「うん。第一、普通、十歳やそこらでマーティアの論文なんて読むか?
読もうと思うだけでも奇跡だけど、どうやらファーンにはそれがそこそこ理解出来てるようだし。あのトシの子から"多元的なものの見方"だの、"方法論"なんてコトバが口はばったくなくすんなり聞こえてくるなんて、久々の感動だったよ、おれは」
ディはそれに笑って答えている。
「そういえばね。ウィリアム...、ファーンの曾おじいさまの方だよ。彼がこの前お邪魔した時にいろいろあの子のことを話して下さって、スキップすれば数年で大学は軽いだろうと仰ってた」
「なるほど、やっぱりね」
「あの子はそんな気、ないみたいだけど」
「その方がいいよ。そんなに急いで大人になる必要なんかないんだから」
話しながら二人はビリヤード台を離れ、それぞれ元いたアームチェアに腰を降ろした。
「で、さ。きみの言ってた"成り行き"ね。十年以上も子供たちがいることをロベール叔父さんにまで隠してたってのは何故だったんだい?」
「ああ、その話?
まあ、いろいろな状況が重なったってだけのことなんだけど、そもそもぼくに"子供がいる"って自覚がなかったのが最大の原因なんじゃない?
だから、父にも意識的に隠してたわけじゃないし、単に"言ってなかっただけ"っていうか」
「それは分かる気もするけどね、なにしろきみのことだから」
「で、話さないでいるうちに"話さない方がいい"事情が重なってきたってことで。まず、ぼくは知っての通り"結婚"なんてハナからするつもりがないし、したって責任取れないからね。出来ないものを無理矢理やって、ぼくも、相手の女性も不幸になるなんてリクツになってない。だからそう言い続けてたんだけど、跡取りの問題があるもんだから父もうるさくてさ。だけど、最初の子が生まれた時も、もちろんぼくが結婚するつもりないのはその子の母親にも分かってたことで、なにしろあちらのリクエストは"結婚なんてどうでもいいけど子供が欲しい"ってことだったから」
「やっぱり?
まあ、きみが好んで無責任なことをするとは思えないし、そんなとこだろうなとは思ってたけど」
「うん。で、その子が生まれた頃にはもうぼくと彼女は別れていて、生まれてから知らせてはくれたけど、それでどうして欲しいということでもなかったし。以来、外で顔を合わせても、一言も子供の話なんて出なかったしね。一応、ぼくもそれとなく気は回してたんだけど、もともと子供一人育てるのに経済的な問題があるような女性でもないし、仕事も、子供ともうまくいってるようで...」
「ひとつ聞いていい?」
「いいよ」
「その子のお母さんて誰?
差し支えなければ」
「ああ。たぶんきみも知ってると思う。マイラ・スティーヴンスだよ」
その名前を聞いてアレクは意外そうな顔をした。
「それって作家の?」
「うん」
「Web Art
Institute の社長の?」
「そう」
「びっくりだな。あの"鉄の才媛"にそんな柔らかい話が隠れてたとはね。子供がいるなんて話そのものが初耳だぞ」
言っているうちに、アレクは子供たちの母親全部に興味が湧いたようだ。
「で、ファーンのお母さんは今のクロフォード侯爵のお嬢さんだって言ってたよな。じゃ、それってジェファーソン夫人?」
「そうだよ。ファーンが生まれることになってからはクロフォード家に戻ったようだけど、表向きは今でもそういうことになってるね」
「それじゃ、デュアンのお母さんは?」
「カトリーヌ・ドラジェ」
名前を聞いて、アレクは心底呆れたように言った。
「全く、腹の立つ男だな、きみは。みんな名だたる美女ばかりじゃないか。これは、表沙汰になったらクランドル中の男から恨まれるぞ」
「だって、仕方ないじゃない。ぼくが頼んだわけじゃなく、三人とも向こうのリクエストだったんだから。第一、腹が立つって、それはこっちのセリフだよ。きみこそ、ぼくからマーティアを奪った張本人のくせに」
「いつの話だよ。十五年以上も経ってるのに、今さらそれ言う?」
「言うよ。あの子をきみにあげちゃったことについては、後からじわじわこたえてきてるんだもの」
「分かった。おれが悪かった。話を元に戻そう」
ディがマーティアをどれほど可愛がっていたかをよく知っているアレクは、藪ヘビにならないうちに話題を変えたいらしい。もっともディの場合、その"可愛がり方"が問題だったのだが、今さら本気で恨み言を言うつもりでもない彼は頷いて、それ以上追求するのは許してやることにしたようだ。
「で、そのスティーヴンス女史の息子がきみに怒ってて、跡取りの話を断ってきたって子だな?」
「そういうこと」
「それも凄い話だけどさ。なにしろ、モルガーナ伯爵家の跡取り話なんだから、普通はラッキー♪で"とりあえずもらっとこう"にならないか?」
「普通だったら、なりかねないね。それでまた父が感動しちゃってさ」
「さすがに、あの女史の息子だよ。なんか分かる気がする」
「それで父はメリルのこと気に入って...、ああ、だからメリルってその子の名前なんだけど、ぼくに内緒で会いにはゆくわ、天才だのなんだの言い出すわの騒ぎで...」
「天才って、なんで?」
「絵描き志望なんだよ、メリルは。で、この前、ぼくに内緒でマイラのとこに押しかけてって、ついでにその絵を見せてもらって来たらしいんだ。なかなか良かったみたいなんだけどね」
「そういうことか。しかし、それなり才能がなきゃ、ロベール叔父さんがそうまでは言わないだろう?
あの人だって相当な目利きなんだから」
「うん、それはね。話聞いてると、そこそこ才能はあるみたい。ぼくはまだ見てないから何とも言えないけど」
「面白そうな展開だな。でも、その子、絵描き志望なのに?
きみに見てもらおうとは思わないのかな」
「全然。ぼくなんて最初から無視されてますから」
それを聞いてアレクは笑い、なかなか凄そうな子だね、と言った。
「見た目は優しげなんだけどね。自分なりの拘りっていうのは、簡単に曲げない子みたいだよ」
「そりゃ、きみとあの女史の子じゃね。ハンパじゃないでしょう。しかし、その口ぶりじゃ、お怒りを買ってるわりには、きみはその子のことけっこう気に入ってるようじゃないか?」
ディはそれには微笑を返しただけで、何も答えなかった。実際のところ、メリルのそういう潔癖なところは、ディには自分の子供の頃を見ているようでなかなか憎めない気がする。従って、回りが何をどう言おうとも、自分で納得しない限りメリルの態度が変わることもあるまいと彼も思っているようだ。それならそれで言い訳よりも有効なのは、自分自身が今まで通り信念を曲げない生き方を続けることの方だろう。
「で、まあ、そんな経緯だったんで、母親たちはみんな子供たちと幸せにやってるようだったし、そうなると逆に父に知れるとマズいかもという状況になってきちゃったんだよ」
「ああ。ロベール叔父さんが知ったら、当然、引き取るのどうのって話になったろうからね」
「そういうこと。実際、あの人の耳に入ってから僅か4ヵ月で跡取りの話決まっちゃったわけだし。これまでのことがあるから引き取るのはデュアンだけってことで納得してくれたけど、産まれた時に知ってたら、そうはいかなかったと思うよ。それは確かに、ぼくが彼女たちのうちの誰かと結婚していれば良かったんだろうけど、それはまず出来ない相談だったし、かと言って、彼女たちに可愛がってる子供をこちらに渡せとはやっぱりちょっと」
「言えないよな」
「うん。だから、あの子たちがもっと大人になるか、それなり時期がくるまで伏せておいた方が良くなっちゃったんだよ。それに、そういう問題だけじゃなく、うちみたいな家には面倒が多いだろ?
きみもぼくも、それでいろいろ苦労してるし、だからファーンはともかく他の二人は特に、彼女たちのところにいる方が伸び伸び暮せるだろうという気もしたしね。ま、世間にはそれもプレイボーイの言い訳に聞こえるかもしれないけどさ」
アレクはそれに笑って頷いている。ディが基本的に"言いたいヤツには言わせておけ"なのは、子供の頃から彼をよく知るアレクには先刻承知だ。相手がアレクだからこそこうして真相を話しもするが、事態が公になって、うるさい世間からよしんばバッシングを食らうことになっても、ディはまず一言の言い訳もするつもりはないだろう。メリルがロベールに"世間になんて恩もギリもない"と言い切っていたが、図らずもそれは父であるディの信念が立脚するところでもあるわけだ。
「なるほどね。その三人が母親なら、ファーンやデュアンがああなのも頷けるな。おれ、さっき笑っちゃったけど、デュアンはモルガーナ家を継ぐことになったとはいえ、ここの財産のことなんてまるっきりアタマにないようじゃない。ワイン倉だけじゃなく、この屋敷まるごと、美術品や調度、宝石も含めて何もかも自分のものになるなんて、意識すらしてないんじゃないか?」
「みたいだね」
「それに、ファーンはさすがに"大家を継ぐ"ってことの重責が既にちゃんと分かってるようだし。なかなかどちらも、それぞれに天晴れな子供たちだよ。気に入ったな」
言ってアレクは、またバランタインをグラスに注いでいる。
それからライブラリーの大きな柱時計が1時を打つ頃になっても話は尽きず、そのうちもうひと勝負ということになって、二人はまたビリヤード台の方に立って行った。夜はまだまだ長いが、これは明け方まで、勝負はつかないかもしれない。
original
text : 2009.9.18.
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