「ママ...」
カトリーヌが電話で話しているのを側のソファにかけて聞いていたデュアンは、彼女が通話を終えてもそのまま動けないでいる様子なのが心配になったらしい。昨日までにいろいろと話し合って、どうやら母が自分をモルガーナ家に行かせる決心をしたようだと感じてもいたし、今の電話の話もある。息子の再度の呼びかけに答えてやっと彼女はそちらを振り返ったが、もうすっかり目が真っ赤だった。それを見てデュアンはあわててソファを立ち、母のところに歩いて行った。
「デュアン、私、ディに言っちゃった...」
「ママ」
「デュアンをあげるって、ディに言っちゃった!」
電話では淡々と話していたカトリーヌだったが、受話器を置いたとたんに気が抜けたのだろう。最愛の息子を抱きしめると、とうとうわんわん泣き出してしまった。
「どおしよう。もう私、生きてるのいや!」
「ごめん、ママ。ぼく...」
「デュアンのいない毎日なんて...。可哀想よね?
ママが一番、可哀想よね?」
「うん。ほんとに、ごめん。でも、ぼく絶対、ママのこと淋しがらせないようにするから。近いんだから、学校帰る時には絶対寄るから。泊りにも来るから」
「絶対よ?
約束よ?」
「約束する」
これまでは話も話だったので半信半疑で、ある意味、自分が本当に母から離れる日が来るなんてデュアン自身も実感してはいなかったのだろう。しかし、本格的に話が決まった今となっては、ああ、これでいつもママの側にはいてあげられなくなるんだということが悲しくて、カトリーヌの涙につられるようにしてデュアンも泣き出していた。
「ぼくだって、本当はママの側にずっといたいよ。でも、お父さん、本当に困ってるし、メリル兄さんが前言撤回してくれない限り、ぼくしか助けてあげられないし...」
「分かってるわよ、分かってるからデュアンを行かせてもいいって言ったんじゃない。だけど、これで本当に、ほんっとーに、デュアンがいなくなっちゃうんだって思うと...」
「ぼくがいなくっても、ご飯ちゃんと食べなきゃダメだよ」
「うん...」
「それからあんまり夜更かししないでね。仕事も無理しちゃイヤだよ」
「仕事なんて、もうどうでもいい〜」
ハタで誰か聞いていたら、これではどっちが親だかと思ったかもしれないが、本人たちにとってはきわめて深刻な事態なのである。たかだか1時間そこそこの距離しか離れていないと二人とも分かっているはずなのに、これまで長く離れたことがないものだから、どんどんそれが永の別れのような気分になってきたのだろう。
「どうしよう。本当にもう、仕事する気力なんか一生戻って来ないんじゃないかって気がするわ」
「ママ...」
二人はそれ以上は何も言えないまま泣いているしかなかったが、しばらくするとさすがにカトリーヌの方がしっかりしなきゃと思い始めたようだった。気が向く向かないは別として、もうディに承諾を伝えた限りは後戻り出来ないことくらいハナから彼女にも分かっているのだ。
「でも、昨日も言ったけどディの跡取りになるなんて大変なことよ?
大丈夫? ホントに頑張れる?」
それへデュアンは、泣きながらではあるがしっかりと答えた。
「...うん。一生懸命頑張ってみる」
カトリーヌは頷き、もう一度息子を強く抱きしめてからソファにかけるよう促した。自分も一緒に腰掛けて、涙を拭いながら言っている。
「楽しかったわよねえ、これまでずっと」
「うん。ぼく、お父さんいなくてもママだけでいいと思ってたもん。そりゃ、友だちはみんなお父さんいるから、時々は、ぼくにもお父さんがいたらいいなって思ったりしてたけど、でも、ママのこと、ふたり分大好きだったから」
「私もよ。ディがいなくっても、デュアンさえいればいいって思ってた」
「ねえ、ママ、聞いていい?」
「いいわよ、何?」
「それでもママはやっぱり、今でもお父さんのこと好きなんだよね?」
デュアンの言うのへカトリーヌは微笑して答えた。
「それはそうよ。それくらい好きじゃなかったら、子供なんて欲しいと思わないじゃない。でも、それはディには内緒よ?」
「はい」
「とにかくね、こうなった限りは仕方がないんだし、私も出来るだけ応援してあげるから立派な伯爵さまになるのよ?
いいわね?」
「頑張ります」
「あ、そうだ。ディのことだから心配はないと思うけど、あなたがイラストレーターになりたいって話、この前したって言ってたわよね?」
「ディナーの時でしょう?
言ったよ、お父さんと、それからおじいさまにも」
「モルガーナ家の跡取りってことになっても、それは何も問題ないのかしら。ディはともかく、おじいさまは反対なさらなかった?」
「全然。おじいさま、ぼくの絵が見たいって言ってくれて、自信作が描けたら見せるって約束してるくらいだもの」
それを聞いてカトリーヌは安心したように笑顔になった。
「ディやあなたの話を聞いているだけでも、いいおじいさまって分かるけどね」
「もちろん。ぼくもう、大好きだよ」
もともと彼女は、なんだかんだ言ってもディがここ一番というところでは頼りになる人物だということをよく知っているし、その父であるロベールのこともデュアンがすっかり懐いていることから信頼の置ける方のようだとも思っている。そして、息子が頑張り屋の強い子だということもよく分かっているのだが、自分の気持ちは置くとしてもなお、未だ十歳にもならない幼い息子がこれまでとまるで違う環境でちゃんとやってゆけるのだろうかということは、母として心配しないではいられない。確かにそれを考えると、早いうちから新しい環境に馴染んだ方がいいというディの言い分は、やはり返って正しいのだろう。そう思って彼女は深い溜め息をつき、もう一度デュアンを抱き寄せて、しばらく愛しそうに髪を撫でてやっていた。
*****
一方、ディの方はカトリーヌの承諾の返事を得て電話を切ると、ほっと一息ついている。どうやらこれで、本当に跡取り問題は落ち着きそうだ。
アリシアに子供たちのことをどう伝えるかという大問題は残っているものの、逆に言えばこれでもう父も結婚しろのどうのとはうるさく言わなくなるだろうし、ある意味、今後の彼の自由は保障されたも同然ということになる。半分はそれ目当てでデュアンをもらえるように頼んだ手前、ディにしても実際に話が決まってしまうとやっぱりカトリーヌに悪いよなあという後ろめたい気持ちは拭えない。ましてや、デュアンはあんなに可愛いのだ。どんな子供でも、離れて暮すとなれば母親にとってはそれ相応に辛いものだろうが、それがデュアンのような子ならばカトリーヌの心中は推して知るべしだった。
デュアンの他に家族のいない彼女でもあるし、やっぱりちょっと強引になってもうちに呼んだ方が良かったのかなという気もしないではないが、一も二もなく断られたことでもあり、しかも彼女の"伯爵夫人なんてしちめんどうなものにはなりたくない"という気持ちはディにもよく分かる。なにしろ、彼こそが貴族なんてしちめんどうなものには生まれたくなかったと常々思っているくらいなのだ。似たもの同士だけに、返ってカトリーヌをそんな窮屈な立場に置くのも気の毒な気がして、ディはやっぱりここはこれで良かったのかもと考え直していた。彼にしても好きな女性だけに、自由にやりたいことだけやって生きていて欲しい気がするのもまた本当のところなのだ。
ともあれ、話が決まったということならすぐにも父に知らせてやる方がいいなと思い、ディは今度はそちらにかけてみることにした。モルガーナ家同様、多岐に渡る事業を傘下に置いている彼の父は、今ではグループ全体の会長職というところに納まっていて、特に年を取ってからは日常の業務も自宅で取ることが普通だ。そして、その下には指示ひとつで手足のように動いてくれる有能な若い衆が沢山いる。
息子であるディが画家として非凡な才能を持っていることが幼い頃からはっきりしていたので、ロベールは少なくとも自分の事業を継がせるのは無理と判断して、その頃から若く有能な人材を育てることに熱心だった。今では、それが効を奏して、シャンタン家のみならず、モルガーナ家の事業を面倒みているのも元は彼の部下だったルドルフ・アシュレーを中心とするチームだ。ディもまるで経済に疎いというわけではないが、それに専念するには芸術家として大きな才能を背負わされ過ぎている。歴史や芸術に造詣の深いロベールに、それがどれほど重要なことか分からないわけはなかった。
クランドルとは大して時差がないこともあって、その日もディが思った通り彼の父は家にいて、書斎で仕事していたらしい。
― ああ、おまえか
「ええ」
― どうした?
何かいい知らせでもあるのか?
ロベールは大して期待しているようでもなく言ったが、ディの方はこれを伝えたらまた思い切り盛り上がるのに違いないなと思いながら答えた。
「ありますよ」
― お?
「でも、落ち着いて聞いて下さい」
― 私はいつでも落ち着いてるぞ
言いながら、今度は声に並みならない期待感が含まれている。今の彼らにとって"良い知らせ"とはたったひとつしかないからだ。
「喜びすぎて倒れられでもしたらコトですから」
― と、言うことは、デュアンのことだな?
「そうです」
― カトリーヌさんから何か言って来たのか?
「いえ。ぼくがデュアンに電話をかけて、たまたまだったんですけど彼女がそこにいたので。それで、跡取りの件、承諾してくれるということで...」
― ほんとか?
「はい」
自分の念押しに息子の肯定的な答えを聞いて、ロベールはちょっと信じがたいという様子ながらも大喜びで叫んだ。
― やったな! そりゃ、素晴らしい!
「ぼくもこれで肩の荷が下りました」
― 何を言ってる。私なんかな、おまえの脳天気のおかげでこの二十年来、日増しにその重さが増す一方だったんだぞ。おまえはいつまで経っても遊ぶばかりで結婚しようともしないし...
言っていることはいつもの愚痴だが、その声はすっかり舞い上がって響いてくる。
― しかし、デュアンなら大丈夫だ。あの子なら、おまえよりずっといいモルガーナ伯爵になる
「ぼくも、そう思います」
― それにしても、カトリーヌさんがよく決心してくれたものだ。私だって彼女の立場だったら、あんな可愛い子を手放す気にはとてもなれんぞ
「ええ。これは彼女に返しきれない負債を負ったということになりますね」
― ああ、確かにそうだ。私からも重々礼を言わねばならんだろうが、ともかくそういうことなら、今度は早々にお披露目の話を詰めてゆかんとな
「そうですね」
― なにしろコトがコトだから、あまり手間取るとお披露目の前にこの話がメディアに流れることにもなりかねん。全く、おまえがそんなだから、こんな心配までしなきゃならんのだ。こっちから自己申告する前に表沙汰になったら格好がつかんだろう?
子供たちやお母さんたちの立場もあるし...
文句を言いながらも、どんな表情をしているかは手に取るように分かる声でロベールが言うのへ、笑いながらディは答えた。
「それはまあ確かに。さっさとオープンにしとくに越したことはないでしょうけど」
― よしよし。じゃあな、近いうちそっちに行くから。そろそろまた子供たちの顔も見たいし、プレゼントもたまってきていてな
それを聞いてディは、またですか?
と呆れた声を上げた。
― まだまだ私は買い足りんくらいだ。十年分だぞ、十年分。知ってさえいたら、その間もずっと楽しめたものを。送っても良かったんだが、近々行くつもりだったし
「まあ、母親たちも一応は納得してくれてることだからいいですけど。じゃ、続きはお父さんがこちらに来られてからということですね」
― ああ。しかし、スケジュールが空き次第、すぐすっ飛んで行くぞ
「はいはい」
これは、また父がこちらに来てデュアンと会ったら大騒ぎだろうなと笑ってディは答え、じゃ、予定が決まったら連絡下さいと言って通話を終えた。
父に子供たちのことを知られてからそろそろ四ヶ月が過ぎようとしているわけだが、紆余曲折はあったものの、こういうこじれやすい問題としては比較的短期間で解決がついた方だろう。
このところ自分が跡取り問題に関して表立って動いていることでもあり、確かに父の言う通り、このままでは彼に子供がいることをどこかのスキャンダル雑誌にスっぱ抜かれないとも限らない。ディ自身はその程度の騒ぎは毎度のことで慣れっこだが、子供たちやその母親たちにしてみればちょっと耐えられないような騒ぎになるのも目に見えているし、それにメリルのこともある。先に二人をこちらからお披露目してしまえば、それ以上に子供がいるかもとまでは疑わないのが世間というものだ。
それにモルガーナ家とシャンタン家の跡取りが決まったということでオープンにするなら、それは社交界ではどちらかと言えば祝うべきこととして好意的に受け取られるはずだ。従って、タブロイドよりは遥かにクオリティの高い雑誌や新聞がそのノリで扱ってくれることになるだろう。"隠し子発覚"よりは、"上流階級の後継者決定"の方が見栄えは良いのに決まっている。
対外的な戦略としてはそれが一番だろうなと考えながら、しかし、彼には昔の恋人のお怒りやスキャンダル騒ぎよりも輪をかけて恐いものがあるのだ。残る問題はアリシアだよなぁと、これまでとは比べモノにならないほどの困難な現実に直面させられているディなのであった。
original
text : 2009.7.7.〜7.19.+7.22.
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