「大じいさま」

「お、ファーン、帰ってきたな」

居間に入って来たファーンをウィリアムは嬉しそうな顔で出迎えた。

「ええ、ついさっき帰りました。お母さんから大じいさまがお話があると仰ってると聞いたんですけど?」

「ああ、そうだ。例の、ロベールの跡取りの件でな。まあ、座りなさい」

「ええ」

春休みを終えて寄宿学校に戻ってから、ファーンは三週間ぶりに家に帰って来ている。ディが言っていた通り、彼の学校では"休暇中の勉学の成果を測る"という名目で、新学期が始まるとすぐに二週間に及ぶ試験週間が始まるのが常だ。生徒たちはその多くが将来的に政治や経済の中枢へ進むことを期待されているとあって、特に学問の面では普通の学校より厳しい環境に置かれている。それで休暇中と言えども、うかうか遊び呆けてばかりはいられないのだ。

「学校の方はどうだ? 試験はうまく切り抜けたかな」

「まあ、なんとか」

「なんとか、とはおまえらしい答えだな」

ウィリアムはファーンの答えに笑って言った。なんとかどころか、たいていの場合ファーンは"難なく"と言った方が正しい成績を修めているからだ。もちろん、それは彼が常日頃それだけの努力をしているからではあるが、その気があれば2、3学年スキップすることも可能だろう。しかし、その程度のことで驕るほどこの子は愚かでもない。曽祖父の言うのへ微笑を返し、ファーンが言っている。

「それで、お母さんが言ってたんですけど、ロベールおじいさまがいらっしゃったとか」

「うん。跡取りのことでな。改まって挨拶にということで親子揃って来てくれたんだよ。私も久しぶりにロベールと会えてとても楽しかった」

「そうですか。では、いよいよ本決まりになったと思っていいわけですね」

「そういうことだ。一応、体面ということもあるし、できれば今年中にお披露目だけはしたいそうだが、ロベールは私たちの気持ちに配慮してくれて、おまえがあちらに行くのは成人してからでよいと言ってくれている。だからしばらくはこのまま ということになるが、しかし、これからは学校の長期休暇の半分はあちらで過ごすように計画を立てなさい。そうするうちに、向こうの状況も把握できるようになって来るだろうしな」

「分かりました」

「まだ先の話だが、見聞が広がることでもあるから大学はヨーロッパを選ぶのもひとつの選択肢だろう」

「そうですね。今からそれも視野に入れて考えておきます」

ファーンの答えに頷いてから、ウィリアムは言った。

「ロベールに再会出来たことも嬉しかったが、おまえの父親、モルガーナ伯もなかなか興味深い人物で、話しているうちにすっかり好きになってしまったよ。あれだけの芸術家ともなれば当然なんだろうが、さすがに教養も深くてな。それに、おまえはアンナによく似ているとばかり思っていたが、こうして見ると、なるほど確かに彼と似たところもあるようだ」

「大じいさまもそう思われますか? お母さんにはよく言われるんですけど」

「ああ。なにはともあれ、これでもうおまえのことは安心だな。昔、私が言った通り、アンナの選んだ男は、やはりつまらない奴ではなかったろう?」

「はい」

曽祖父の言うのへ、ファーンはにっこりして答えた。

今でこそファーンは笑って父と初の対面を果たすことが出来るほどに成長しているが、実は、まだうんと幼い頃には、自分に父親がいないということにいくらか負い目を持っていた時期もある。それは、彼がまだディを自分の父だと知らなかった頃のことだ。例え母を尊敬し、彼女の息子であることを誇りに思っていても、立派な父を持つ従兄弟たちに回りを囲まれていて、自分だけが私生児であるということに負い目を持たないで済む子供など稀だろう。

もちろん、叔父たちはファーンのことも自分の子供のように、いや、彼に父親がいないことを気遣って自分の子供たち以上に可愛がってくれていたし、叔母たちにしてもそれは同様だった。それでも、まだ幼い頃は従兄弟たちの中に、自分の両親がファーンの方を可愛がったり、贔屓したりするように見えることに嫉妬して、何かとからんでくるヤツもいないではなかったのだ。

今では、その従兄弟も成長して理不尽な攻撃をしかけてくることも無くなったので仲良くやれるようにはなったが、子供によくあるように昔は決まって言われるのがファーンに父親がいないということだった。もっとも、クロフォード家ではそういう種類の非啓蒙的な発言は一のご法度とされていて、その子はそれがバレるたびに両親からひどく叱られていたものだ。しかし、言われたファーンがそのたび口惜しい思いをしていたことも確かで、けれども、母思いの彼は父のことを聞けば母が悲しむか辛い思いをするのではないかと気にして、どうしても母との間でそれを話題にすることが出来なかったのである。そんな時に、自分のそういう気持ちを聞いてくれ、いつも的確なアドヴァイスをしてくれたのが、家族全員に平等かつ公正な立場で接することの出来るウィリアムだった。その頃から、ファーンにとってこの曽祖父は何があっても自分をしっかりと支えてくれる、誰よりも頼りになる父親代わりだったと言っていい。

「ああ、そうだ。ロベールから預っているものがあってな」

言うとウィリアムはテーブルの上から小さな包みを取り上げてファーンの方へ差し出した。

「これだ。おまえに渡してくれと言っていた」

「ロベールおじいさまから? でも、さっき母さんから山ほど渡されたばかりですよ?」

ファーンが戸惑って言うのへ、ウィリアムは笑って答えた。

「それは後から届けさせてきたやつだろう? これはその前に彼がここに来た時、渡しておいてくれと言って置いて行ったものだ」

「そうですか...」

「あけてみなさい。なにやら、おまえの兄弟たちともおそろいのものらしいぞ」

言われて頷き、ファーンは何だろうと思いながら包みをあけてみた。もちろん、中から出て来たのは例の時計である。この子のような環境で育っていればそれがどういうものかは一目瞭然というもので、彼は見たとたんおっと、これは、という顔をして、さっきよりもなお戸惑った表情をウィリアムに向けた。

「どうした?」

「これはちょっと...。本当にもらってもいいんでしょうか」

「見せてごらん」

彼は手近に置いてあった眼鏡をかけると、ファーンから渡された時計を見てなるほどという顔をしている。彼の曾孫が戸惑うのも無理はないと思ったからだ。

「これはなかなか大変なものだな」

「でしょう? ぼくなどにはまだもったいなさすぎる品じゃないかと」

「いや、しかし、これにはモルガーナ家とシャンタン家の紋章が入っているぞ。そうすると、これはロベールとしては単なるプレゼントではなく、自分の血を引く者として持っていて欲しいものだということなんではないかな?」

言われてファーンは納得したようだ。

「ああ...。そうかもしれませんね」

「だったらこれは彼の気持ちでもある。受け取って、大切に使いなさい」

それで決心がついたらしく頷き、ファーンは改めて手渡された時計を見た。精緻に施された細工に、美しい意匠の紋章がさりげなく配されている。こうして眺めているとファーンにとってもそれは単なる時計ではなく、自分が継ぐ血の歴史とその重みを感じさせるものに思えてくる。父がいないまま育って来た彼にとって、それを改めて実感することはなかなか感慨深いものであるようだ。その様子を優しく見守りながら、ウィリアムが言っている。

「ロベールはマゴというオモチャが出来て嬉しくてたまらんようだな。アンナがそのプレゼントの山のことで礼の電話をかけたら、ディが、あまり手放しであまやかすなとクギを差してはいるが、しばらく止まりそうにないからつきあってやってくれと言ってたそうだ」

それを聞いてファーンは笑って言った。

「嬉しいですね、そんなふうに思ってもらえているなんて。ぼくも、ロベールおじいさまのことは大好きですし、跡継ぎとして自慢してもらえるようにこれからもっと頑張りたいと思いますよ」

「そうだな。ロベールにとっては念願の孫で、しかも跡取りだ。おまえのことだから何も心配はないだろうが、彼の期待に応えられるよう今まで以上にいろんなことに精進しなさい」

「ええ」

「ロベールと会ったのはかれこれ二十年ぶりにはなるのじゃないかと思うが、相変わらず陽気で気持ちのいい男だな。まあ、私同様、トシはとったが...」

ウィリアムが懐かしそうに言うのを聞いて、ファーンは微笑を浮かべている。

「シャンタン家と言えば、今でもあちらの基幹産業に大きく食い込んでいる家柄で先代も相等なやり手だったが、ロベールの若かった頃、クランドルに比べて向こうの経済界は停滞していてな。しかし、彼はもともとあるものの他にいくつも新しい事業を起こして新風を吹き込み、その余勢を駆ってクランドルにも進出してきたのさ。あの頃は、二十代の後半くらいだったかなあ。今で言うならちょうど、アレク・ロウエル卿のような存在だったよ。年は離れていたが、ベアトリス嬢が夢中になったのも無理からない話ではあったな」

「そうなんですか」

「うん。まあ、そんな男だったから、彼を狙う女性はこっちの社交界にも山ほどいたが目もくれんといった様子でな。忙しかったのもあるだろうが、あの頃の彼は確かに女より仕事、だったよ。しかしそれがベアトリス嬢を見出すなり一変したものだから、回りは面白がったものさ。しかも、年の差が年の差だったろう? これは見ものだってことでな。しかし、我々の大半はいくらロベールが好男児でも、さすがにまだ十代半ばのベアトリス嬢の方で相手にすまいと高見の見物を決め込んでいたんだ。それが油断というもので...」

ファーンは曽祖父の話しぶりに、とうとう少し声を上げて笑ってしまった。

「ごめんなさい、でも、ちょっと想像してしまって」

「いやいや、構わんよ。ともかくな、つきあい始めてしばらくは先代のモルガーナ伯の手前もあって二人ともその事実を隠していたようなんで、我々が知った時には既に婚約が決まったあと。いきなり結婚式だったものなあ。あれには全くもって驚かされた」

「凄いですね、年の差十五でしたっけ? 尊敬してしまうなあ、ロベールおじいさま」

「だろう? いやまあ、後で話を聞くと、ロベールはもともとが女性に関して相当理想が高かったようでな。無関心だったわけではなく、これと思える理想の女神をずっと探していたんだそうだ。それを見つけたと思ったものだから、もう一直線だったんだろう」

「なんだか羨ましいですね、そんなふうに思える女性と巡り会えるなんて」

「おまえにも、そのうち見つかるさ」

「そうでしょうか」

「もちろんだよ」

「じゃ、その日に備えて、ロベールおじいさまのように頑張らなくては」

「そうだな」

さすがにこの子が理想の妻を迎える日までは見届けてやれそうもないが、と思いながらウィリアムは微笑んで言った。しかし、それは代わりにロベールが見届けてくれることになるだろう。考えながら彼は、改めて自分が若かった頃から長い時間が経っていることに深い感慨を感じている。95年も生きているといろいろなこともあったが、総じて満足のゆく人生だったことには何の疑いもない。

ファーンにも、そして他の8人の曾孫たちにも、これから自分のような素晴らしい人生が訪れるようにと、ウィリアムは心から祈りたい気持ちだった。     

original text : 2009.5.5.+5.8

  

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