「中でも、私があの子の才能を決定的に確信したのは、廃屋を描いた作品を見せられた時だ。あれはもう、十二やそこらの子供の感性とはとても信じられんぞ」

ロベールの私室の居間に落ち着いて父と一杯やりながら、ディは彼の口からちょっとした感動とともに語られる、メリルの絵とその才能について聞いている。二人ともそれぞれゆったりとしたアームチェアにくつろぎ、テーブルには美しく飾られたオードブルと上質のブランディが並べられていた。

「私をして、知らずに見せられたら名のある画家のものと思い込んだろう。廃屋の窓からこんな風に光が差し込んでいて、その光の透明感がまた絶妙なんだよ。実に美しい絵だった。そのくせ、破れたカーテンとか汚れた床、そしてすみっこの陰には打ち捨てられた人形やら玩具やらが描かれていて、それがまた切ない気分にさせるんだ。あれには終末と創世が同時に見える、なんとも奇妙な魅力があったな」

聞きながらディは、ふだんには珍しく"画家"の顔つきになっていた。

「それは、なかなか面白そうなテーマで描いてますね」

「ああ。それに技術的には既に文句の付けようのない域にあるよ。しかし、まだまだ伸びるだろうし、基本的なデッサン力も相当だ。もしかするとおまえと同じように、ある種のフォトグラフィック・メモリーのようなものを持っとるのかもしれん」

ディはそれに考え深げに頷いている。

二人が話しているこの居間とその続き部屋は、ロベールがベアトリスと結婚した時に夫妻の部屋として先代のモルガーナ伯が用意してくれたものだ。もともと古い屋敷の一室であるところへ持ってきて、そこへシャンタン家に伝わる帝政期のアンティークを運び込んで配したインテリアには、どうかすると貴族的すぎて重々しい印象すらある。しかし年旧りてなお、磨き上げられて光沢を放つマホガニーの調度が醸し出す時の重みに、若々しく爽やかな印象を吹き込んでいるのがマントルピースの上の壁に掛けられた大きな婦人像だった。それは、ディがまだ十代半ばの頃に描いた母の肖像である。

そんな年で描いたものとはいえ、確かなデッサン力と、後にバーンスタインをして"究極的"と絶賛せしめた完璧なまでの技術力が既にこの絵にはっきりと見て取れる。絵の中のベアトリスは当時まだ三十代の始め頃で、18世紀の貴婦人を思わせるふんわりしたドレスを纏ったその姿は、"クランドルきっての美姫"と称されたままの美しさで今なおそこに微笑んで在った。

そしてマントルピースやコンソールの上には夥しい数のフォトフレームだ。それらにはどれも妻や息子、そして家族揃ってのロベールにとって懐かしい幸福の思い出を綴った写真が収められていた。

ベアトリスの死後、二十年近く経った今もロベールはこの部屋からこれらのイコンを決して取り除こうとはしない。それほど深く彼女を愛していた彼が妻を失った時、ディにとって一番心配だったのは父が母の後を追うかもしれないということだった。ふだんあれほど陽気でおおらかなロベールなのに、それが見る影もなく落ち込んでやつれ、毎日ぼんやりと溜め息ばかりついている。ディ自身、最愛の母を失った悲しみは深かったが、それに浸りこんでばかりはいられないほど父のその様子が気にかかり、元気づけてやる側に回らざるをえなかったものだ。

また一方でロベールの方も、妻を亡くしたとはいえその忘れ形見である息子はまだ二十代に入ったばかり。当時のディは画家としてセンセーショナルなデヴューを飾りはしたが、まだまだこれからという大変な時期だった。それだけならまだしも、十八歳の若さで爵位を譲られ、本来なら後見として見守ってくれるはずの祖父が存外に早く亡くなってしまったこともあって、彼はそんな年でモルガーナ家という大家の当主としての重責までまともに負わされていたのだ。

性質的にはそれくらいで参るようなディでもないが、しかし、ロベールにはそんな状態にある息子のことが何よりも気にかかって、妻の後を追うという、当時の彼にとって非常に蠱惑的な誘惑すら断ち切ることが出来たのである。

今のロベールは懐かしく妻の肖像を眺めながらも孫たちを得たことを想って、生きていれば良いこともあるものだと実感する余裕が十分にある。そしてそれは、目の前の"不肖の息子"が支えてくれたおかげであることも、彼にはよく分かっていた。

「どうやらあの子はあんな年で、既に独自の世界観を持っているようだな。どの絵も、そういう深さを感じさせるものだったよ。あの若さであんなに描けるのは、元々の才能に加えて父親がいないまま育ったせいというのもあるだろう。普通の子よりも、深くものごとを考える機会が多かったのかもしれん」

父の言うのへ、ディが半分自慢げに冗談を言った。

「それなら、それはぼくの手柄ですね」

息子の言い分に、ロベールは呆れて答えている。

「何を言っとる。ちゃんと父親が生きていながら、母一人子一人で育ったんだぞ。あの子の心中如何ばかりか、少しは責任を感じんか」

「いえ、そのきびしい試練が人間的な成長を産むものなんです」

「分かったようなことを言いおって」

ディ自身は両親に愛されて、お坊ちゃまな育ち方をしたとはいえ、その度外れた美貌と才能のせいで幼い頃から外での苦労はけっこう絶えなかったのをロベールは密かに知っている。それに、十代半ばで初恋の少女に死なれて以来、よくもこう立て続くものだと可哀想になるほど、尊敬する師から仲の良かった祖父、挙句にまだ若かった母まで亡くした不幸は、その前後でディを人間としても画家としても大きく成長させていた。もちろん、ロベールもそれは否定しない。

「しかしそれにしても、あのマイラさんというのは実に尊敬に値する女性だと思うよ。女手ひとつであんな所にあれだけの家を構えて、息子ひとりああまでに育て上げたんだからな。その点、デュアンのお母さんも同じに違いないだろうがね。まあ、おまえもそのへんは気を配っていたんだろうが、暮らし向きは全く良好のようで安心した。しかし、それを考えれば考えるほど、いったいなんであんな素晴らしい女性と出会いながら、おまえが結婚しようと思わなかったのか不思議でならんよ」

そう言う父にディは微笑を返し、ちょっとまじめな顔になって答えた。

「だからそれは、ぼくが結婚そのものにまるで向いていないということですよ。ぼくだって言われるまでもなく、みんな素晴らしい女性だということは分かっています。だかこそ、つきあってきたんですしね。でも、彼女たちにこそぼくと似たようなところがあって、安易に結婚に安住するタイプではないと思いますよ。アンナにしても、ああいう生まれ育ちだから早くに嫁いでしまいましたが、そうでなければ何かやっていたでしょう。再婚せずに来たのも、その方が気楽だからと言ってました。面倒な結婚より、好きなように生きる方が大事という点で、ぼくたちは似たものどうしなんでしょうね」

デュアンを引き取るの引き取らないのに関して一緒に来ないかと言ったディの申し出を、カトリーヌがすげなく蹴ったことを聞いているロベールには、彼の言うのもあながち自分に都合がいいばかりの解釈ではないように思えた。ディのような立場にあると、どうかすると財産や地位目当てのつまらない女に群がられる不幸に見舞われることもありがちなのだが、それとは正反対の出来の良い聡明な女性ばかりを恋人として来れたのは、よほど運がいいのか、それともそれがこいつの美意識のなせるわざなのか、考えてみてロベールはやっぱりその両方だろうなと思った。

「そうそうそれで、お披露目のことをどう思うか、マイラさんにもメリルにも聞いてみたんだが、二人とも今は外してもらえないかという答えだった。主に、おまえの息子と分かるとメリルの今後の評価が歪む可能性があるかもしれないということでな」

父の言うのへ、納得したように頷きながらディが答えた。

「ああ。それは確かにあるかもしれませんね」

「だろう? 私としては三人一緒に私の孫だと大々的に世間に知らしめたい気持ちは大いにあるさ。しかしそう言われるとあの子にあれほど才能があるだけに、せめて画家としてそれなりの評価を得るまでは今のままの方がいいだろうなという気もする。おまえはどう思う?」

「ぼくはどっちでも。マイラやメリルがそう言うのなら、希望通りでいいと思いますよ。別に、これまでと変わらないわけですから」

「まあ、じゃあそれはそれでいいかもしれんな。時が来れば、おのずと明らかになることだろうし。そうすると、お披露目するのはとりあえず後の二人だけということになるか」

「カトリーヌがデュアンの件、了解してくれればの話ですけどね」

「期待しとるんだぞ、私は」

「あんまりぼくが無理押しすると返って逆効果かもと思うので、しばらくは静かにしておくつもりなんですけど、デュアンが来たらカトリーヌがどんな様子かちょっと尋ねてみましょうか」

「そうだな。ああ、それに、デュアンが跡取りを引き受けてくれるとすればお披露目しないというわけにもゆかんが、しかし、あの子も絵描きを目指しているという点ではメリルと同じ立場だろう? そうすると、お披露目についてデュアンはどう思うかも聞いておいた方がいいな」

「ええ、確かにそうですね」

その話の続きは週末にでもデュアンを交えてするのが一番いいだろうとロベールは言い、ブランディのグラスを口に運ぶと、彼はまたメリルのことに話を戻した。

「画家を目指しているとはいえ、メリルはおまえの息子だということを特典などとは微塵も考えとらんな。それだけでも注目を浴びるには十分なインパクトになるだろうに、そんな扱いはハタ迷惑と言い切りおった。しかも、世間には恩も義理もないんだから、自分が誰の子だろうが関係なかろうというわけだ。あれは優しげに見えて、なかなかキツいところもある少年だよ。そういうところ、やっぱりおまえの息子というか、なかなか頼もしくて私はよけい先が楽しみになったがね」

ディはそれへ笑って言った。

「それはキツいに決まってますよ。特典どころかこともあろうにこのぼくをですよ。あんなやつは父親と認めないとまでマイラに言ったそうなんですから。最初から、ぼくなんか当てにすらされてませんね」

息子の言うのにロベールも笑っている。

「しかし、おまえの絵にショックを受けたとは言っとったぞ。この前ここに来た時、アトリエで初めておまえの絵の本物を見たそうでな。"ガツンとやられた感じ"だったそうだ」

「へえ、それは光栄だな」

「それで、かなり認識は変わったようだが、ま、さすがにおまえの絵は、それしか取り柄がないだけあるってことだな」

「おかげさまで」

「何が、"おかげさま"だ。まったく。おまえというやつは、どこまでが冗談か分からんよ」

それでしばし話題が途切れ、二人は酒を飲みながらそれぞれの想いを追っているようだったが、しばらくしてロベールが再び口を開いた。

「いや、しかし今日は楽しかった。メリルやマイラさんと会えたこともだが、孫のための買い物というのは実に楽しいものだな。夢中になって、ついつい買いすぎてしまったよ」

「全くもう。あんなに、どこでどうやって買って来たんです?」

「そりゃ、いろいろだよ。あっちの店、こっちの店と目につくところは片っ端から入ってみたんだ。いつも買い物する店とは全然趣きが違うんで面白かったぞ」

「若いコ向けの店でしょう?」

「それはそうさ、あの子たちへのプレゼントなんだからね。中でも、自転車屋とPCとぬいぐるみを売ってる店が良かったなあ。特に自転車屋はね、店のコもみんな若いんだが、私が孫にプレゼントするんだと言うといろいろ詳しく教えてくれてな。マウンテンバイクというのにもいろんな競技があるそうで、どれもなかなか面白そうな自転車レースらしい。ファーンはクロスカントリーとか、マウンテンクロスとかいうのを少しかじりはじめたところだと言っとったが、おかげで私もかなり詳しくなって帰って来たぞ。今度、あの子と話すのが楽しみだ。中にはオリンピック種目になっているものもあるんだそうだな」

「ああ、確かありましたね」

「そう言えば、ファーンは自転車もいいが、いずれはオートバイにも乗ってみたいと言っていた。キャンプやヨットも好きなようだし、あの子は書斎派の優等生のように見えて、けっこう活動的なアウトドア派というところか」

「確か、アンナの下の方の兄さん、議員のダドリー・クロフォード氏だったかな。彼がかなりのヨットマンだったはずですよ。アンナに昔聞いたんですけど、国際的なヨットレースにもコンスタントに参加しているとか。そういうことの影響もあるんじゃないかな」

「なるほど。そう言えば、ウィリアムも若い頃からヨットは好きだったと聞いたことがある」

納得したように頷いている父を見ながら、ディはこの先、子供たちが大きくなるにつれて、プレゼントも馬だ、クルマだ、ヨットだとエスカレートしてゆくんだろうなとディは思っている。確かにロベールの言う通り、モノでつられて態度が変わるような子たちだとはとても思えないが、既にマイラがクギを刺したと父は言っていたし、結局、こういう手放しの甘やかしに対する母親たちからの苦情を最終的に聞くのは彼の役目になりそうだ。そう考えるとちょっと面倒だなあという気もするが、父がこれほど楽しんでいるなら、まあ、彼女たちにも子供たちにもそれを話して宜しく言っておくよりはないだろう。

ディがそう考えている横で、ロベールが何か思いついたらしくふいに言った。

「ああ、今ちょっと思ったんだが、お披露目の話な」

「はい?」

「二人にしておくのはやっぱり正解かもしれん」

「どうしてです?」

「考えてもみろ。マゴの母親が3人もいるだなんて、それこそまた世間の物笑いのタネじゃないか。せめて二人ならまだ言い訳がきかんものでもない」

おっと、これはヘタをすると説教に発展しそうだと思ったディは、牽制するつもりでトボけて言った。

「ぼくの素行になんて今さら誰も驚かないでしょうし、またかで済みますよ。だから、マゴだけじゃなくヨメがいっぺんに3人来たと思えばいいんです。いいじゃないですか、にぎやかになって。親孝行でしょう? ぼく以外の男には、ちょっとマネできない芸当だろうし」

「自慢げに言うな」

「でも、カトリーヌなんて絶対お父さんと気が合うと思いますよ? 彼女ってラテン系だし、けっこう性格だって似てるかも」

息子の言うのを聞いてロベールは、待てよ、と思ったらしい。さっきまでの文句を言いたそうな顔つきから、一転して興味を引かれた様子になって言っている。

「ほお? 確かに考えてみれば、おまえと結婚していようがいまいが孫の母親ともなれば私にとっては娘も同じだな。マイラさんもアンナさんも魅力的な女性だったし、あんな娘がいたらさぞ楽しいだろう」

父のグチを受け流すための都合の良い言い逃れにロベールが思いがけず乗ってきてしまったので、 これはちょっと失敗だったかなとディは思っている。既に会ったマイラやアンナのことは気に入っているようだし、カトリーヌはああいう女性なのでまず間違いなく父の好きなタイプであるはずだ。そうするとロベールの性格からして、子供たちの母親も家族扱いでかまい始めるのは時間の問題かもしれない。

ディは困ったことになりそうかなと考えてみたが、これは彼にとって大して実害もないように思えた。別にハレムを作るつもりはないが、今でも子供たちの母になった三人のことをディは好きだし、彼女たちと父が仲良くなるのには何も問題はないだろう。子供たちもその方が嬉しいのに違いない。それに、そういう状態こそ本当にぼくにしか出来ない芸当というものだろうなと開き直り、まあ、父の好きなようにさせておこうと結論したようだ。

ディのそんな思惑は知らぬげにロベールが言っている。

「それで、前から聞こう聞こうとは思ってたんだがな」

「何をです?」

「馴初めだよ、馴初め。おまえがのべつまくなし、美しい女性と見れば見逃さないのは知ってるが...」

その父の言い分に、ディはちょっと怒ったように反論した。

「ぼくを何だと思ってるんです? 救いようのないプレイボーイみたいに言わないで下さいよ」

「その通りじゃないか。する言い訳があるならしてみろ」

「ありますよ。誓ってぼくは自分から積極的に女性にかまったことなんてありません。向こうから来ちゃうんですから仕方ないじゃないですか」

「お、言いおったな」

「事実ですから」

「だったら、子供たちのお母さんたちとは、どこでどうやって知り合ったんだ? それが聞きたかったんだよ」

父の意図を理解して納得し、ディは、ああ、それはですね...、と言った。ロベールの、孫とその母親たちに対する興味はつきないようで、まだまだいろいろ知りたいらしい。それで今夜はそれにつきあってやることにして、彼はまず、マイラと出会った時のことから話し始めた。

original text : 2009.4.22.〜.4.23

  

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