二階にあるメリルの部屋は、一人息子なこともあって贅沢にゆったりした続き部屋になっている。入ったところがアトリエ兼用の居間で、その奥にある部屋を寝室として使っているが、それにもうひとつ、小さめのストックルームがついていた。

天井は屋根の形なりに傾斜しており、壁は上質の白いウッドで張られている。床もマッチングの良いオフホワイトでまとめられて、それへ観葉植物が緑を添えている様子は、ほんの十二才の少年の部屋としては過ぎるほどシャレていると言えた。ふつうは贔屓のサッカー選手や歌手などのポスターが貼られていそうな壁には額装された油彩が並び、もちろん使い込んだイーゼルと、それに掛けられたキャンバスがこの部屋の主役だ。油絵の具やターペンタインの匂いさえすんなりこの部屋の一部として同化していて、整頓が行き届いているところなどもロベールにはメリルらしいと思えて微笑ましい。

「絵の具の匂いとか、気になりませんか?」

メリルがすまなそうに言うのへロベールは笑って答えた。

「いや、ディのアトリエで慣れているからね」

「ああ、そうですよね」

つまらないことを聞いたと思って、メリルは恐縮している。なにしろ相手は当代随一と認められる大画家のお父上なのだ。

「あ、どうぞ、かけてください」

言われて頷き、ロベールがソファの方へゆく横で、メリルは棚に並べられた作品の中からどれを見せようかと選んでいる。

「壁にかかっているのも、きみのだね?」

「はい、そうです」

言って彼は何枚かのキャンバスを持って、祖父のところへ歩いて来た。

「自分でも気に入っているものを飾ってるんですけど、あの右のはこの前、賞をもらったもので...」

「ほお」

「でも、どちらかというとこちらの方がぼくとしてはよく描けてるかなって。出品する時、迷ったんですけど、色使いがあちらの方が明るくて華やかだからインパクトありそうだったし」

そう言ってメリルが差し出したキャンバスを見て、ロベールはちょっと目を瞠った。

そのキャンバスには、厚く塗ったグレーをバックに、右に寄せて今を盛りと咲き誇っている大輪の赤い花が描かれている。ただそれだけのシンプルな構図ゆえに、描いた者の色彩感覚と基本的なデッサン力の高さがストレートに伺い知れる作品だ。しかも、今しもピークから終焉に向おうとする瑞々しい生花の、その最後の生命の煌きを写し取った画面からは、一瞬あとには散るだろう花の美しさだけではなく無常の齎す悲哀ともいうべき深淵を垣間見ることが出来る。冴えた真紅を誇るように咲いた花とは対照的なグレーのバックは、画家の視点とその心象を表しているのだろう。

確かに、この作品はあまりにもよく描かれすぎているがゆえに、一般的なレベルの賞を取るには向かないかもしれない。

見ている間にロベールには、メリルが出品するにあたって敢えてこれを選ばなかったという、そのことそのものが、彼の才能が如何ばかりであるかを語っているように思えた。メリルにはこの年で、それが通常の人間には極めて理解しづらい心境に基づくものであることが既に分かってしまっているのだろう。それは、明らかに高い天分を与えられた芸術家にのみもたらされる悲哀というべきものであり、それを表現する技量が目の前のまだ幼いと言っていい少年にあることがロベールには驚きだった。

しかし、まだ一枚見ただけではその才能の全貌を判断するには早計だろうなと自分を戒めて、彼は次に差し出された画面に目を移した。こちらにはさっきのとうって変わって、溢れる光の中を軽やかに舞い散る花弁の乱舞が描かれている。油彩ならではのマットな質感はそのままなのに、光と、それに重なる花びらの透明感はまるで水彩画ででもあるかのように華やかな印象だ。けれども、これも決してキレイなだけではなく、美しい色のコントラストや絶妙なグラデーションと陰影の掛け方が、返って深い哀しみを伴いながらも安らぎを誘うような、ちょっとぐっとくる仕上がり具合を見せていた。

絵の具の色調を微妙に調整することによって透明感を出すこの手法は、本来、ディの最も得意とするもののひとつだが、メリルが彼の真似などするわけもない以上、この独特の色彩感覚は天性のものだろう。ただ、それは"父譲り"であるとは言えるかもしれないなと、ロベールは楽しく考えている。もちろんこの絵も、彼のおめがねには十分かなったようだ。

そうやって次々とメリルが見せてくれる絵はどれも、静物であれ風景であれ生き物であれ、精緻に描きこまれていながらどこか暖かさを感じさせる画風だった。それでいて、最初の2枚と同じように、ロベールをしてはっとさせる深みを感じさせないものはない。どれにも画家の鋭い視点が、眼のある者にははっきりと見て取れるように描かれているのである。

テクニカルな側面から見てもそれらは文句のつけようが無かったが、神童などというものはそれだけで終わる場合が非常に多い。"子供にしてはよく描けている"と一時期人目を引きはしても、更にその上のレベルを納得させるものを包含していないことが殆どなのだ。なのに、メリルのそれは、ロベールのような目の肥えた鑑賞者をすら唸らせるものを既にして持っていて、なるほど、名のある評論家や画商が褒めるのも無理はあるまいと納得できた。

ロベールはメリルの作品を検分しながら、自分が思いがけなくも未だ知られざる天才の卵を見出したかもしれないという思いと、そういう時にしか味わえない静かな熱狂に浸されてゆくのを感じていた。なにしろ彼はもともと芸術全般に造詣が深いし、ましてやディの成長を一番近くで見守ってきたその当の本人でもある。まだ四十代という若さで現代美術の最高峰と誰ひとり認めぬもののない天才、その原点と成長の過程がどういうものであったかを目の当たりにして来た彼にとって、今、メリルがその父と同じ成功の端緒に立っていることは明らかなようにさえ思われた。

しかし、マイラはメリルの才能について、相応の鑑賞眼を持つうるさがたから既にいくつも将来有望というコメントをもらっていながらも、それを本人にまだ伝えていないようだとディから聞いている。なぜなら彼女は、息子が今の段階で自分の才能に慢心することに一番神経質になっているからだろう。確かにそれは正しいことだとロベールも思ったので、ここはマイラさんに協力してあまり手放しで褒めてはいかんなと思いつつも、息子に続いて孫にまでこんな才能を授かるとは、私はなんという幸せ者かと顔がほころんでくるのは止められない。けれども、メリルの方は祖父が何も言わないのでちょっと心配になってきたらしく、その様子を伺うように、どうですか? おじいさまと尋ねた。

「ん? いや、なかなか。きみの年でこれほど描けるとは、ちょっとした驚きだよ」

「本当に?」

「うん。ひと目できみの絵のファンになってしまったな。もっと、見せてくれるかい?」

「ええ!」

祖父の表情から、どうやら自分の絵が気に入られたらしいと感じたのだろう。メリルは嬉しそうにそう言って、ストックルームの方を示した。

「これまで描いたものは殆どあの部屋に入れてあるんです。ちょっとハンパじゃない数なので」

言われてロベールはソファを立ち、招かれるままにストックルームの方へ歩いて言った。そして、扉が開かれた途端、これはまた、と再び驚かずにはいられなかった。メリルの言う通り、その部屋の棚に収められている絵の数は、ちょっとやそっとのものではなかったからだ。どう少なく見積もっても、キャンバスだけで百枚やそこらではきくまい。それに、積み上げてあるスケッチブックの数すらも、夥しいものと見て取れた。

「これはまた、凄いな」

言われてメリルは笑っている。

「いつのまにかこんなことになっちゃって。母さんには昔から、絵ばかり描いてないでってよく言われるんですけどね。ぼくは描き出すと止まらないから。それで外に連れ出されても、結局スケッチブック抱えて描いてたりするので処置なしっていうか...。あ、じゃあ、選んできますから、かけてて下さい。お疲れになるといけないから」

ロベールも孫の言うのに笑って頷き、それからソファに戻ってメリルが選んで見せてくれるものを眺めているうちに、その才能に対する確信をますます深めていった。

「油彩は、もう長いのかい?」

「そうですね。幼稚園に入ったとき、祖母がいろいろな画材を買ってくれて。ぼくは画用紙が切れると泣く赤ん坊だったそうですから、それが一番喜ぶだろうと思ったんですって」

「なるほど」

「水彩やインクやいろいろあったんですけど、一番気に入ったのがマットな感じを出せる油絵の具で、学校に入る頃には殆どそれ一本になってました。あと、スケッチと。だから、キャリアとしては五、六年ってとこでしょうか。おじいさまから見れば、キャリアと言うにはあまりに短いと思われてしまうかもしれませんけど」

「いや、きみの年を考えれば、今までの人生の半分を油絵の具で描いているわけじゃないか。それはちょっとしたものだと思うぞ」

言われてメリルは笑い、そうですね、と答えて続けた。

「お父さんの絵は本当にすごいと思いますけど、ぼくは自分ではすごい絵よりも、人が見て幸せになれる、ほっとできるような絵を描きたいと思っているんです。でも、ただなごむっていうんじゃなく、同時に何か深いものを感じさせるような...。例えば、お父さんの絵の中では、ぼくは"二人の天使"のシリーズがそれに近いかなと思うんですけど」

"二人の天使"とは、まだ幼かった頃のマーティアとアリシアをモデルにして描かれたもので、シリーズ全作で十三枚ある。ディの絵の中では珍しく暖かくて優しい色使いと、ほのぼのとした雰囲気が魅力的な連作だ。発表された当時は"デュアン・モルガーナにこんな絵が描けたとは!"と驚かれるやら絶賛されるやら、挙句に"新境地"などとも激賞されて大騒ぎの果てに代表作のひとつと数えられるようになった。

"境地"と言う観点から見れば、ディにしてみるともうそのかなり前からこの種の絵を描くことは出来たのだが、アリシアが現れるまできっかけがなかった。彼としてはそれで自分の画風を180度転換してしまうつもりは毛頭なく、モデルになった二人を見ていてなんとなくこんな気分かなというところですんなりまとめた作品だったので、返ってその反響の大きさに驚いたほどだ。しかし、この作品の発表を境に、それまで彼に極端に批判的だった何人かの評論家が、なぜだか掌を返したように褒める側に回ったことは特筆すべき点かもしれない。

メリルの言うのへ頷きながら、ロベールが言っている。

「う〜ん、なるほどなあ。きみが今ですらこれほど描けるとなると、やはり...」

「え?」

「いや、実はね。さっきもきみのお母さんと話していたんだが、私とディの跡取りがいよいよ決まりそうなので、そのお披露目の準備をしなければならなくてね」

「あ、じゃあ、お父さんの跡継ぎは...」

「うん。デュアンが引き受けてくれそうなんだよ」

「そうですか。良かった。ちょっと、気にはなっていたんです」

「そうか。ま、だから、いよいよ次はお披露目ということで、それで、きみのことはどうしたものかと」

言われてメリルはちょっと意外そうな顔をした。跡取りうんぬんという話は、断った時点で既に終わっているものと思っていたからだ。

「ぼくですか?」

「跡取りのことはともかく、きみもディの息子には違いないからね。弟たちだけお披露目して、きみのことを隠したままにしておくというのもどうかと考えていたんだが」

「ああ、それは確かに。ただ、ぼくは隠れてるって思ったことがなかったので」

「だろうな。実際、きみにしても弟たちにしても、お母さんたちが偉大なんだろうと思うところはそこだよ。"父親がいない"ということを、きみたちは誰一人として負い目に感じず育ったようだから」

「負い目というか。ぼくはお父さんに腹は立ててましたけど」

「分かってる分かってる。ま、私もそれはもっともだと思うしね」

メリルは祖父の言うのに少し驚いたようだ。これまで、自分の父に対する反感をすんなり納得されたのは初めてと言っても良かったからだ。

「本当ですか?」

「ああ。だいたい、あれのやることがいちいち理不尽と思って来たのは誰よりもこの私だよ。なにしろ、あいつが生まれた時からのつきあいなんだから」

メリルはそれへとうとう声を上げて笑っている。この子がこんなふうに手放しで笑うとは、これは本当に私には気を許してくれているんだろうなとロベールはますます嬉しくなっていた。

「だから、お披露目のことも何よりきみがどう思うかを聞かなければと思っていたんだ」

言われてメリルは笑い止め、考え深げに首を傾げながら言った。

「確かに、世の中から見ればぼくはお父さんの"隠し子"ってことになるんでしょうし、そうするといつまでもそのままにしておくのは正しいことではないんでしょうけど...」

「マイラさんは、きみがディの息子と知れ渡った場合、きみの画家としての評価に好ましくない影響が出るんじゃないかと心配してらっしゃるようでな。私もそれは分かるし、それで、何よりもまずきみがどう思うかを聞きたいんだよ」

どう答えたものかとメリルはしばらく黙っていたが、母が何を心配しているかは彼にも分かる。どこの世界でもあるように、クランドル画壇でも大した技量はないのに親の七光りだけでもてはやされているようなのが残念ながらいくらかいる。メリルの彼らに対する評価はミもフタもなく、ただ"みっともない"というだけのものなのだが、それだけに自分がそんな立場に立たされたらと思うとぞっとさせられるのだ。

絵もまた商品という考え方をすれば、時流に乗って高値がつけばそれも値打ちという打算的な側面もある業界なのだろうが、メリルの気質ではそんなものは許せない。そもそもの始めから売れる絵を描こうなどとは思ったこともない彼にとって目指すはただひとつ、大芸術の系譜に連なることだけだ。今のメリルにそこまでの自覚があるか否かは別として、彼の絵に向う姿勢はまちがいなく真の芸術家のそれであり、その父同様に神々の血を引く者の証でもあった。

メリルにしても才能ある画家の血を受け継いでいるということそのものについては誇りに思っても悪くはないと思うが、しかしそれも自分が自分で納得のゆく絵を描いてからの話だ。でなければ、それは将来的に親の築き上げて来た名声に泥を塗ることにすらなりかねないだろう。それがはっきり分かっているから、メリルはこれまでも父に自分を引き立ててもらおうなどとは一度だって考えたことすらない。もともとそれ以前に、反感を持っている父に頼るなどいうことは、如何なる面でもメリルが考える最後のことであったのには違いない。

「ぼくは...」

どう言えば祖父に納得してもらえるだろうと思いながら、メリルが考え考え言っている。

「ぼく自身、まだお父さんのこと、どう理解するべきなのかよく分かっていないところがあって...。以前のぼくだったら一も二もなくお断りしていたでしょうけど、実はこの前、お父さんのアトリエで彼の絵を見て...、つまり印刷とかじゃなく本物をね。それで、けっこうあれはショックだったんですよ」

「ショックだった?」

「ええ。確かに彼は本当に天才なんだなって。それまでもアタマでは分かっているつもりだったんですけど、なんていうかガツンってやられた感じでした。母さんがどうして彼の生き方をそのまま認めてるのかずっと不思議でしたけど、それはこういうことなのかって思ったし。ただ、ぼくはぼくなりの拘りってあって、ちょっとまだ全面的に彼を父として認められないというか...」

ロベールは頷きながら聞いている。

「ぼくが彼の息子だってことは単なる事実だし、それを隠しておくのはいけないことのような気もしますけど、ぼくも母さんも別にことさら隠して来たってわけでもないし、彼が有名でさえなかったらぼくが誰の子供だろうがそんなの世間の方で関知しないようなことでしょう?」

「それは、確かにな」

「だったらそもそも世間になんか恩も義理もないのにっていう気もするし、だからいけないとかいけなくないとかじゃなく、ぼく自身が納得できるかどうかということですよね。そうすると、結局ぼくはまだ何も納得してないし、それにぼくがお父さんの子だっていうだけで、無意味にもてはやされたり、反感を持たれたりするのもハタ迷惑な話なので」

メリルの言い方にロベールは笑って頷き、どうやらこの子もその母と同じ意見らしいなと見て取った。

「こんなふうに言っておじいさまが気を悪くされなければいいんですけど、だから、よほど何かおじいさまやお父さんの方に不都合がない限り、ぼくとしては、少なくとも今は、そのお披露目というのからも外してもらった方が良くはないかという気がするんです」

「なるほどな。やはりきみもそう思うか」

「はい」

「分かった。まあ、それについてはまだ時間もあることだし、ディにも話して、お互い納得のゆく線で進めてゆこうじゃないか。私としてはなぁ、きみが私のマゴだと自慢して回りたい気持ちが強いんだが、しかし、ここは慎重にならなければならんからな」

「ごめんなさい、おじいさま。なんだか、わがままばかり言ってるようで...」

「そんなことは構わないよ。しかし、公にはしなくともきみが私の孫であることは事実だ。だからこれから先も、私と仲良くしてくれると嬉しいがね」

「それは、おじいさまがそうおっしゃってくださるなら、ぼくはもちろん」

「それを聞いて安心した」

祖父が言うのへ、メリルも嬉しそうに頷いている。

その後、まだしばらく二人は絵を見ながら話していたが、やがてロベールは窓の外が暮れ始めたのに気づいて、残念だがそろそろおいとましなければならんなと言った。

「新作が描けたら、必ず私に見せておくれよ」

「はい。じゃ、写真を撮ってメールで送りましょうか」

「おお、そうしてくれれば、いつでも見ることができるな」

言ってロベールは自分のプライヴェートなアドレスを教え、メリルのも教えてもらって大喜びだ。どうやら、この二人は気の合うメル友になりそうである。

それから二人は部屋を出たが、階段を降りて来ながらロベールが楽しそうに言っていた。

「覚えておくんだよ、私がきみのファン第一号なんだからね」

「はい」

「そして将来きみが個展を開いた時には、私が一番先にきみの絵を買うんだ。絶対だよ?」

「ええ、必ずいつか。おじいさまに買って頂ける値打ちのある絵を描けるように頑張ります」

「うん」

居間で雑誌を広げながら待っていたマイラは、階段の方から聞こえてくるその会話に微笑んでいる。ロベールの声の様子からして、どうやら彼はメリルの絵が気に入ったらしいと彼女にも思えたからだ。

「マイラさん、長いことお邪魔してしまいましたな」

居間に入って来ながら言ったロベールに、ソファから立って行ってマイラが答えた。

「そんなことありませんわ。如何でした?」

「なかなか素晴らしい作品ばかりで驚かされましたよ。いや、全くの話、この年であれだけ描ければ先行きが楽しみというものです」

「良かったわね、メリル」

「うん」

「さて、では名残惜しいがそろそろおいとまさせて頂きますよ。このあとちょっと、市内にも寄りたいので」

「あら、そうですの? じゃあ、お引止めするのもよくありませんわね」

「でもおじいさま、必ずまた来て下さいね」

「おお、もちろんだとも」

「私からもお願いしますわ。それに今度はぜひ、夕食をご一緒に」

マイラの言うのへメリルが自慢げに付け加えた。

「母さんの料理はちょっとしたものなんですよ」

「ほお、それは楽しみだ。今度は必ずそのつもりで来よう」

「お車はどちらに?」

「さっき近くまで来るよう連絡しましたから、そろそろ大通りのあたりまで来ているんじゃないかな」

「じゃ、メリル。そこまでお送りして」

「はい」

マイラに送られて二人は家を出、クルマが回って来ているはずの通りまで日暮れの中をゆっくりと歩いた。

「このへんは良いところだね」

「ええ、とても」

「きみは、ずっとここで育ったのかな?」

「いえ。生まれてすぐの頃は祖母の家にいました。当時は母さんが今の会社を始めたばかりでとても大変な時期だったので」

「そうか」

「3つになる頃にはこっちに来てたので、ぼくはその頃のことって微かに覚えているかなっていう程度なんですけどね」

話しながら歩いている間に通りが見えてきて、そこには以前、父の家から帰る時に送ってもらったのでメリルの見覚えているアイボリーのベントレーが駐まっていた。

「あ、あれでしょう?」

「そうだ」

二人が近づいて来ると制服姿のショーファーが運転席から降りてきて、ロベールに一礼してから後席の扉を開いた。

「じゃ、メリル。マイラさんによろしくな」

「はい、伝えます。お気をつけて」

「有難う」

言ってロベールは車に乗り込み、閉められたドアの窓越しにメリルに手を振っている。メリルもそれに微笑んで手を降り返した。その横でショーファーは運転席に乗り込み、ベントレーはゆっくりと発進してゆく。メリルは車が視界から消えてしまうまで見送り、それから幸せな気持ちで家に戻って行った。

 original text : 2009.3.31.〜4.6.

  

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