クロフォード公爵家を訪ね、跡取りの話を正式に決めたことでロベールは今回のクランドル滞在の目的を半分は果たしたわけだが、実は彼にはディに内緒でもうひとつやっておきたいことがあった。それで、ちょうどその日はうまいぐあいに息子が所用で出かける日と重なっていたこともあって、そのスキにちょっと街にショッピングにでもという口実を設けてクルマを出させ、やって来たのは市の周辺に広がっている緑豊かな住宅街だった。

この辺りは昔から、クランドルの裕福なミドルクラスがゆったりした敷地にオシャレな家を構えるのでよく知られているところで、それだけに緑も多くて街路も広く、街並みには清潔で平穏な印象がある。人々の身なりもよく、元気な子供たちが楽しそうに駆け抜けてゆこうかという微笑ましい土地柄だ。

今日のこの訪問のことはクランドルに来る前に相手に電話で伝えておいたので、その時に場所も詳しく聞いてある。それで彼は乗ってきたベントレーを目的の家から少し離れたパーキングで待たせておいて、後は歩いてその家にやって来た。聞いていた通りの場所に白いコロニアル風の家を見つけると、番地を確認してから彼は門の前でベルを鳴らしている。すると、どうやらこの訪問を待ち受けていたらしく、インタフォンに答える手間もかけずにドアを開けて姿を現したのはメリルの母、マイラ・スティーヴンスだった。

彼女はちょっと緊張した面持ちで白く塗られた真鋳の門の向こうのロベールに微笑んで見せ、それから足早に前庭を横切って来て門を開いた。

「こんにちわ。シャンタン伯爵ですわね」

「こんにちわ、スティーヴンスさん。いや、マイラさんとお呼びしても宜しいか?」

「ええ、もちろんですわ」

「いきなり押しかけてきて、申し訳ありませんな」

「とんでもありません。どうぞ、お入りになって下さいな。メリルももうすぐ帰ってくると思いますので」

「有難う」

言って彼はマイラについて家に入り、案内されたリヴィングルームで大きなソファに身を落ち着けた。

そこは、白を基調にまとめられたカントリー・スタイルの明るいリヴィングで、大きな出窓にはたっぷり布を使ったレースのカーテン、掃き出しのフランス窓の両側も春らしい色調の花を散らしたカーテンでドレープに飾られている。調度も決して高価なアンティークというわけではないが上質なものが選ばれ、庭の花々もふんだんに生けられて、それは趣味の良い、若々しい空間に仕上がっていた。

この十年ほどの間にマイラの出版社は堅調な実績を上げてクランドル国内でも有数のものとして認められているし、事実、文化的にも大きな貢献を果たしている。そのおかげもあってどうやら何不自由ない暮らしのようだ。

マイラはウエッジウッドの茶器にとっておきのお茶を入れて運んでくるとロベールの前にカップを置いてサーヴしてくれた。お茶の良い香りが立ち上る中、彼女は向かいのソファにかけて自分のカップにもお茶を注ぎ、改めて彼を見て微笑んだ。ロベールは微笑み返しながら、なるほど聡明そうな女性だと好感を新たにしている。シンプルなタートルのセーターにタイトスカート、それに一連の清楚な真珠のネックレスをかけているだけだが、ただそれだけなのになかなか美しい。確かに、メリルの顔立ちは彼女ゆずりのものだろうとも思えた。

「お見えになったら、何よりもまずこれだけはお詫びしなければと思っておりましたの」

「何でしょうな?」

「メリルのことですわ。私がディに無理を言って産ませてもらった子供です。最初から彼の負担にならないようにと思って来ましたし、当然のことながらモルガーナ家とは何の関係もない子として育てるのが筋とも考えて参りました。それにも関わらず跡継ぎをという身に余る申し出を頂きながらお断りすることになってしまって。それで、お気を悪くされているのではないかと...」

マイラが本当にすまなそうに言うものだから、まったく、あいつは幸運にもこんな今どき珍しいほどデキの良い女性と巡り合いながら、どうして結婚を考えなかったのか不思議で仕方ないぞと思いつつ笑って言った。

「いやいや、それに関してはそんなふうに気になさらないで下さい。結局、それはあれの不徳のいたすところというべきもので、私はメリルがあいつを父親として素直に受け入れる気になれなくても不思議はないと思っているくらいですから」

「そう言って頂けると...」

「それに実際、私はメリルのことはなかなか芯のある少年だと思って感心しているんですよ。あなたもご存知かとは思うが、世の中には金や財産さえあればと考える輩はごまんといます。しかし、我々の所有する資産は、巨大であるがゆえに社会全体にも、ひいては歴史にも大きく影響を与えかねないものです。ましてや、それをどのような者に譲るかということは、個人的なレベルでは済まず、公的にも大変な問題となるわけで、それゆえ我々のような立場にあると人の器を客観的に見極める心眼を持たざるを得なくなります。まあ正直なところ、私のような立場では、日々、見たくないものを見せつけられることもしばしばですが、そんな世の中でメリルは、しかもあの年で、既に自分の進むべき道を見出し、それに何の甘えもなく独力で邁進しようとしている。いやはや、こう言ってはなんだが、まさに貴族の血筋とはかくあるべきものと思わせられましたな。もちろん、あの子の性質は育てたあなたのものでもあるとは分かっておりますがね。いや、まったくうちの息子があんな状態なのに、あなたはよくメリルをああまでに育てて下さった。これには、お礼を言わねばならないと思いますよ」

マイラはそれを聞いてにっこりすると、有難うございますと言った。

「まあ、とにかく、跡取りの問題はさておくとして、あの子も私の孫であることには変わりがない。あなたにも一度会っておきたかったし、それに何よりもメリルともっと仲良くなっておきたいと思いましてね。それで、ちょうどこちらに来たことでもあるし、顔を見てゆこうかと」

「それを伺って安心しました。私の父は早くに亡くなりましたし、母も五年ほど前に他界しまして、それでメリルの身寄りといっては私しかおりません。あの子も、おじいさまと会えたことはとても嬉しかったようですし...」

「ほお、そうですか。そうすると、私はあの子に仲良くしてもらえそうかな?」

「それはもちろんだと思いますわ」

「良かった。いや、実はね、心配だったのは、メリルがディを受け入れる気になれないからと言って、私まで一蓮托生で嫌われてはたまらないと」

ロベールの半分冗談にマイラは笑っている。

「それを考えると、できるだけ早いうちにフォローしておきませんとな」

マイラはくすくす笑いながら、そうですわね、と答えた。それで座がいくぶん和んだところでロベールはお茶を口に運び、それから何か思い出したように言った。

「ああ、そうだ。それとひとつ、あなたに伺っておきたいことがあった」

「何でしょう?」

「実は、私の跡取りは予定していた通り二番目の子にということに決まりましたが、モルガーナ家の方はメリルに断られた限りは是が非でも三番目の子に承諾してもらうよりないということで今あいつが頑張っていまして...」

それへマイラは改めて恐縮した様子で思わず、申し訳ありません! と叫んでしまった。その様子にロベールは笑っている。

「済んだことです、それはもうおっしゃるな。とにかく三番目の子、デュアンは我々の窮状を察してくれたようで、やってもいいとは言ってくれているようなんですが、問題はやはりデュアンのお母さんでね」

「はい...」

「可愛い子供を手放したくないという母親の気持ちは私もディも分かるし、それについてはまだしばらく時間が必要ということのようではあるんですが、しかし、あれもこの先、今まで通り好き勝手に生きられるかどうかの瀬戸際ですから本気で頑張っているので、いずれその問題も解決するでしょう。そうすると、おいおいにお披露目ということも考えてゆかねばならない。それで、その時にメリルにも一緒に、ディの息子として少なくとも名目上だけでもモルガーナ家に入ってもらえるものかどうか」

「ああ、ええ...」

マイラは確かにそういう問題が残っているなと、考え深げに頷いている。

「メリルの気持ちも聞いておかねばなりませんし、それになにしろ、あれがあんなだものだから、子供たちの母親が一人ではないということもあります。お披露目すればあの子が誰の子かということが必要以上に世間の注目を浴びてしまうことにもなるでしょうから、そうするとあなたにもいろいろと迷惑がかからんものでもない。それで、それについても今からご相談しておいた方が良かろうかと」

言われてマイラは頷き、しばらく考えに沈んでいた。マイラにとってふと自分のことより気になったのは、メリルがディの子供であると知れ渡った場合、それが息子の画家としての成長に悪影響を及ぼさないかということの方だった。

メリルはじきに13才、ということは、そろそろ将来のための次のステップを考えてゆかなければならない年頃でもある。当然のことながら本人はアートスクールから美大へと何年も前から悩むまでもなく決めているが、最近ではマイラもそれが一番いいだろうと思い始めていた。しかしそうすると、父親が美術の王道をゆく油彩の大家であるというこの事実、これはどうかするとメリルのような少年にとってプラスよりもマイナスに作用する可能性があるかもと心配せざるをえないのだ。絵描きと言っても分野が違えばまだしもだが、メリルがこれから認められようと努力しているのは、まさにその世界なのである。

マイラとしては跡取りの話を断ったところでもあるし、それに加えてこれ以上ロベールの気を損ねるような返答はしたくなかったが、しかしコトは大事な息子の将来に関わることだ。それに、彼女には既にロベールの人柄が信頼に値するものと見極めもついていたので、率直に問題点を指摘して相談するのがベストだろうと結論した。

「常識的に考えれば、両親がちゃんと揃っている方が社会的にもあの子には良いのに決まっていますし、ですからそのお話はメリルにとって願ってもないことだと思います。私だけのことに関して言えば、確かにしばらく煩わしい思いはさせられるかもしれませんが、そんなものは一過性ですし、そんなことで人間関係や仕事に影響が出るような生き方はして来なかったつもりです。ただ問題は、あの子がディと同じ分野で絵描きを目指しているということで...」

言われてロベールはマイラの言わんとするところを察したようだ。なにしろディが幼い頃から才能を発揮し、あまつさえ当時のクランドル画壇で帝王的な存在だったバーンスタインに認められて、十八にもなる前に通常ならそんな年齢で取れるわけのない、最高峰と言われる賞を取ってデヴューしたことがどのような結果を招いたか、それを彼は目の当たりにしている。それはあまりにもセンセーショナルなデヴューであったので激烈な賛否両論を巻き起こし、そのために息子が自分の才能の実際を周囲に認めさせるのにどれほど苦労して来なければならなかったかもよく知っていた。

「ああ、なるほど...」

「お分かり頂けますか? あの子の性格では今のまま、一人の画学生として一歩一歩階段を登っていくのが一番望ましい形だと思います。でも、ディの息子ということになれば、やはりどうしても不必要に取り沙汰したがる人たちが出ることになるでしょう。良くも、悪くも」

「分かりますよ、あなたが何を心配しておられるか。確かに、もっともだと思います」

「そうしますと、あの子にとってどちらが良いことなのかと考えざるをえなくて」

ロベールは深く頷きながら考え込んでいる。それでしばし沈黙、となったところへ、ドアベルがリンリンと軽やかな音を立てて鳴り、エントランスから母さん、ただいま! という声が聞こえてきた。どうやらメリルが帰って来たようだ。

「あら、やっと帰ってきましたわね」

言ってマイラは、メリル、こっちよ、いらっしゃいと声を大きくして言った。今日、今くらいの時間にロベールの訪問があることは、彼から話があった時にもう伝えてある。

「ただいま、母さん。あ、おじいさま」

「やあ、メリル」

「こんにちわ」

「こんにちわ、お邪魔しているよ」

「おじいさまとお茶してたのよ。あなたも荷物はそのへんに置いておいてお座りなさい」

「うん」

「お茶を入れなおして来ますわね」

ロベールにそう言って立ち上がった母と入れ替わるようにメリルはそちらに歩いてきて、祖父の向かいのソファにかけた。

「いらっしゃい、おじいさま。先日は、有難うございました」

「いやいや、楽しい集まりだったよ。あれから、元気だったかい?」

「はい」

「そうか」

「お忙しいんでしょう? 今日は、どうしてわざわざ?」

「私はもう殆ど隠居暮らしでな。そんなに忙しいというわけでもないんだよ。それで、こっちに来たことでもあるし、ちょっときみの顔を見ておきたいと思ったのさ」

それを聞いてメリルはにっこりしている。

「あ、そうだ。渡しておきたいものがあったんだ」

メリルが首を傾げて何だろうと見ていると、ロベールは内ポケットから小さな包みを出して孫に渡した。

「あけてごらん」

「はい...」

「きみの弟たちとおそろいなんだよ。気に入るといいんだが...」

キレイにラッピングされた包みを開くと、中から出て来たのは革のケースに収められた腕時計だった。ちょっとそのあたりでは見かけることのない、アーティでありながら精悍な美しいデザインにメリルは目を瞠っている。それは時計に関する知識をまだあまり持たないメリルにも、ひと目で高価なものと分かるようなシロモノだったが、それもそのはずで、ホワイトエナメルの文字盤の上に堂々と刻まれている銘はBOVETと読めた。

スイスの名門ウォッチメーカーであるボヴェは1822年に創立され、以来、エナメル、パール、彫金などを用いた美術的な細工と美しい意匠で世界的に名を馳せている。ボヴェの時計は美術工芸品と認識され、一般的なモデルでも値段は相当なものだが、特に限定品ともなると数十万ドルに及ぶものすらあるほどだ。しかも、ロベールがメリルに与えたものにはボヴェの銘ばかりではなく、シャンタン家とモルガーナ家の紋章がさりげなく図案化されて配されており、それが一般市場に出すために作られたものではなく、スペシャル・オーダーの品であることを静かに語っていた。

この意匠、元々は三十年ほど前にロベールが息子とお揃いで持ちたいと思って特注したもので、従ってこれまではこの世にたった2本しか存在していなかったわけだが、しかし、孫が一気に三人も転がり込んで来たことに大喜びした彼は、今度は孫たちにもお揃いをと思い立って急遽オーダーをかけ、そのための3本のみが先ごろ完成してきたのである。そうすると全部合わせてもこの世に5本しか存在しない意匠の、しかも名門メイカー制作による時計がどれほどの価値を持つものかは想像するまでもないだろう。

ロベールが何も言わないのでメリルはそんなこととは思ってもみないが、しかし、どう見ても自分あたりが持つには高価すぎる品物にしか見えないので、もらってもいいのだろうかと考え込んで固まっている。そこへマイラがお茶を入れなおして戻ってくると、今度は自家製らしいケーキをキレイにデザート仕立てにした皿も、一緒にテーブルに並べながら言った。

「お口に合うかどうか」

「おお、これは美味しそうだ」

「母さん、あの...」

「ん? なに?」

横に腰を降ろした母に、メリルは手にした時計を示して、これ、おじいさまが...、と言った。

「あら? 時計?」

言って手渡されたものを見るなり、今度はマイラが固まっている。彼女は作家でもあるし、会社では雑誌も出版しているからさまざまな方面に知識が豊富だ。もちろん昨今のハヤリで、高価なブランドものの特集をやることだってある。

「これ、あなたに?」

「うん。でもね、母さん。もらってもいいのかしら」

息子が何に戸惑っているかは分かったが、かと言ってどう答えたら良いものかとマイラはロベールを見た。それへ彼はこともなげに言っている。

「孫にプレゼントを考えるというのは、なかなか楽しいものですな。私もやっと、その楽しみを存分に味わえる時が来たというものです」

「いけませんわ、こんな、高価な...」

「いや、あなたなら分かって下さると思うが、金額などというものはどうでもいいことです。要は、私がメリルに持っていてもらいたいという気持ちを受け取って欲しいと思いますよ」

言われてもしばらくマイラはどうしたものかという顔をしていたが、やがて決心したらしく、分かりましたと答え、メリルを見て言った。

「おじいさまのお気持ちよ。いただいておきなさい」

メリルはもともとああなのでそれほど物欲が強いというわけではないが、その時計があまりにも美しいので、もらっていいのだろうかと思いつつも、欲しいなあという気持ちはあったから、母の許可が出てほっとしたようだ。

「有難う、おじいさま。大切にします」

それへロベールは嬉しそうに頷いている。しかし、マイラはこの調子でロベールがメリルを激甘に甘やかすようではと少し心配になったらしい。控えめではあるが、クギを刺すように付け加えた。

「でも、この子をあまりあまやかさないでやって下さいね。こういう子ですけど、万一にも何でもおじいさまにおねだりすれば手に入るなんて思い始めたら困りますから」

ロベールは笑いながら答えている。

「メリルなら大丈夫でしょう。しかし、マイラさんにご心配をかけるのもなんですから、おっしゃる通りに心得ておくことにしましょうか」

メリルの様子から、どうやらマイラが言っていた通り自分のことは受け入れてくれているようだと思ったのだろう。それで、ロベールは上機嫌だ。

お茶を飲みながら孫の近況やマイラの仕事についていろいろと話し、そのうちに彼は前に会った時、メリルと絵を見せてもらう約束をしていたことを思い出したらしい。それを言うと、なにしろディの絵を見てからというもの、メリルは自分に少しでも才能があると思っていたことがかなり身の程知らずだったかなと思えていたこともあって、目が肥えているに違いない祖父にまだまだ未熟な自分の作品を見られるのは憚られる気分のようだった。しかし、母が時計のお礼に見せて差し上げなさい、と言うものだから、仕方なく頷いてメリルは祖父をアトリエ兼用の自分の部屋に招くことを承知した。二人が立って二階の部屋へ歩いてゆくのを見送りながら、マイラはディのお父さまがああいう方で本当に良かったわと微笑んでいる。

窓の外にはよく晴れた春の陽射しが降り注ぎ、それはのんびりした昼下がりの時間がゆったりと流れてゆくような幸せな午後だった。

original text : 2009.3.24.〜3.30.

  

© 2008-2009 Ayako Tachibana