クランドルでも大人気のイラストレーター、カトリーヌ・ドラジェのアート・スタジオは、市内に点在する壮麗な高層アパートのうちのひとつの最上階にある。市の中心の緑豊かな大公園を眼下に臨み、遠く港の光景まで見渡せるこのスタジオと同じフロアに彼女のスイートもあって、デュアンは物心つく頃からここで育って来たのだ。

彼女がこのペントハウスを買って居を移したのはデュアンが生まれてしばらくしてからのことだから、ディはここに来るのは初めてだったが、アドレスは知っていたし、なにしろ周辺でもよく知られている華やかな外観の建物だけに、探す必要もなく辿りつけた。こういう私的な用件で出かける時にはいつも使っている深いブルー・メタリックのマセラーティをアパートの来客用の車寄せに止め、エントランスのセキュリティ・ガードに訪問先を告げると、デュアンから既に来客があると知らされていたらしくすんなり通してくれた。今日のディは、カトリーヌへの訪問の目的も考えて、ダークスーツに春らしく淡い色のトレンチコートというスタイルに落ち着けている。それでも、彼の美貌が映えないわけはなく、本人は全く意識しているわけではないのに、そこだけスポットライトが当たっているように華やかなのはいつものことだ。

大理石のフロアの向こうには外観ともマッチした優雅なアール・デコ様式のホールがあり、エレベーターが三基並んでいる。ちょうど1階に止まっていたものに乗り込み、ディは最上階のボタンを押した。扉が閉まって上昇し始めるとしばらくしてシースルーになり眼下に都市が広がってゆくが、50階に着くまでそれほど時間はかからなかった。扉が開くと、そこはゆったりとしたレセプションのような印象を持つ美しい白亜の空間だ。大きな建物だけに、この階には両翼に分けられるようにして二つのスイートがあるようだった。

ディは、壁に、アイボリーのアイアンで流麗な書体を象って示されている部屋のナンバーを確かめてから、左の廊下へ進んだ。そのあたりからが既にカトリーヌの占有領域であるらしく、壁のアルコーヴには彼女がデザインしたとひと目で分かる、個性的な彫刻が連続して飾られ、その突き当たりに両開きのドアが控えている。クラシックなどっしりした造りのドアもフロアとマッチングの良いアイボリーで仕上げられていて、天窓から注ぐ陽光をふんだんに取り入れた空間とあいまって、暖かな雰囲気を醸し出していた。

チャイムを鳴らすとディーン・ドーンとこれまたアンティックな音を立てて重々しく鳴り、すると、セキュリティから連絡を受けていたのか、デュアンがすぐに扉を開けて姿を現した。

「あ、お父さん。いらっしゃい」

「やあ、お邪魔するよ」

「どうぞ。ママは相変わらず抵抗してますけど、構いませんから。あんまりダダこねるんで、さすがにぼくもちょっとキレかかってて」

それへディは笑って、いいよ、後はぼくが引き受けるから、と言いながら中に入った。

廊下をデュアンに案内されて通り、広く、天井の高いリヴィングに入ってゆくと、白い革のゆったりしたソファ・セットを中心に、アーティストの住まいらしいモダンなインテリアの贅沢な空間が広がっていた。一面のピクチャー・ウィンドゥには高層建築ならではの、見事な景観が広がって見える。

「カトリーヌ」

入ってゆきながらディが声をかけても、ソファにかけている彼女はしらんぷりを決め込んでそっぽを向いていた。シンプルなシャツとスリムなパンツ、それにベストを羽織っているだけの普段着姿だが、こんな大きな子供がいるとは思えないくらい昔と変わらずキレイで、スタイルも抜群だ。

「ねえ、ママったら。お父さんだよ」

「なんで入れるのよ。入れないでって言ってるのに」

「何を失礼なこといつまでも言ってるのさ。わざわざお父さんがここまで来てくれてるのに」

「勝手に来たんじゃない」

「もう、ママってば。とにかく、ちゃんとお父さんと話してよ。あ、お父さん、どうぞ、座って下さい、ぼく、お茶入れてきますから」

「うん...」

言ってキチンらしい方へ歩いてゆくデュアンを見送って、ディはコートを脱いでからカトリーヌの向かいのソファにかけた。

「久しぶりだね」

言われても、彼女はそっぽを向いたままだ。しかし、その態度に怒るようでもなく、ディが言っている。

「お怒りはごもっとも。ぼくだって、出来ればこんな話、持って来たくはなかったんだよ、でもね」

「だったら、持って帰ってよ」

「いや、だからさ」

「私、一度でもデュアンのことであなたに迷惑かけたことある?」

「ないよ」

「最初に約束したわよね、生まれる子供は私が育てて、あなたには一切お世話はかけませんって」

「うん」

「ちゃんとその通りにして来たじゃない。デュアンは私の子よ? 今更、あなたに何も権利なんてないわよ」

「分かってますよ、それくらい。確かに跡取りがどうのということは考えないじゃなかったけど、それにしてもぼくだってこんなに早く話を進めることになろうとは思ってなかったし、デュアンが自分のことを自分で決められる年齢になってからならそういう話が出ても、というくらいに考えてたんだよ。でも、前にも言ったようにうちの父がもういい年でね。いろいろと経緯もあって、あの人は自分の家だけじゃなく、モルガーナ家の行く末もとても気に病んでるんだ。それでとにかく、一応、決めごととしてデュアンが継いでくれるということになれば、とりあえずは安心してくれると思うんだよ」

「それは私だって理解できるわよ。でも、そもそもはあなたがちゃんと結婚して跡取りをもうけるとか、そういう責任を果たして来なかったことに原因があるんじゃない? そうして来なかったんだから、あなたのお父さまが心配なさるのも当然だと思うわよ?」

「おっしゃる通りです。と言うか、そういうセリフをぼくはこれまでの半生で数えきれないくらい聞かされて来たよ。だけど、きみなら分かるだろ? ぼくがマトモに結婚なんかして、それで落ち着いてやってゆける性格かどうか」

カトリーヌはちょっと考えてから、ムリね、と答えた。

「だろ?」

「だからって、なんでデュアンなのよ。他にも二人、いるんでしょ?」

「デュアンから聞いただろ? 一番上の子にはぼくはすっかりアイソをつかされて、見捨てられてるって」

「自業自得じゃない」

「痛いとこつかないでよ」

「あら、あなたでも痛いところがあったのね。知らなかったわ」

話が話だけにカトリーヌはいつもより遥かに辛辣だ。しかし、ディも立場は分かっているので、そんな彼女の攻撃的な様子にも腹は立てない。

「で、残りは二人なんだけど、そうすると結局、どちらかがどちらをって話になって、二番目の子は性格的にも父の跡を継ぐのが良さそうだし、そちらは難なく話も進んでいるんだよ。父の跡をということになると、将来的にクランドルから出ることになるし、そうするとデュアンにはうちを継いでもらう方がまだきみにも納得してもらえる線じゃないかと思うんだけど」

「冗談じゃないわよ、この上、外国に行っちゃうなんて」

「だからだよ、そこまで無理は言わないから、ね? お願い」

「イヤよ」

「ねえ、カトリーヌ。ぼくもとことん困ってるんだよ。今まで父にも散々言われながら一日延ばしみたいにしてここまで来たけど、今度という今度は、決められませんでした、では逃げられそうにないんだもの。それに、跡継ぎってことになれば、ぼくだって出来ればそれに相応しい性質の子に譲りたいと思うよ。その点、デュアンなら立派にやってくれると思うし、向いてるとも思えるんだ。この先、万一、結婚してまた子供が出来ても、デュアンみたいな子が生まれるとは限らないだろ?」

「そりゃあ、あの子はいい子よ。頭も良くて、優しくて、だから私の宝ものよ? 親の欲目と言われても、あんないい子は他にいないって思ってるくらい自慢の息子だもの。リーダーシップも取れる子だから、人の上にも立てる器だと思うわよ。でも、だからって、私から取り上げようなんて理不尽よ」

「取り上げるなんて言ってないじゃない」

「言ってるわよ!」

ディは落ち着いているが、カトリーヌの方がもうかなり感情的になっていて、どうかすると口げんかになりそうな様相を呈して来たところへ、デュアンがお茶のワゴンを押して戻って来た。

「お待たせしました。アッサムですよね?」

「うん、有難う」

もうすっかり父の好みを心得ている様子でデュアンが言い、ディはそれへにっこりして答えている。それを見てまたカトリーヌが文句を言った。

「なによ、いつの間にかそんなに仲良くなっちゃって。それでもう、デュアンはママなんかいらなくなっちゃったのよね?」

「またもお、どうしてそんなにつっかかってくるの、いくらなんでもママらしくないよ。はい、ママにはいつものハーブティ。ちょっと、落ち着いてください」

「これが落ち着いていられますか!」

言ってカトリーヌはテーブルをばしっと叩いた。それへデュアンが言っている。

「暴力反対」

「うるさいわね」

「ぼくがいつママをいらなくなったなんて言った? もちろん、ぼくは絶対にどうしてもママがダメだって言うならここにいるよ。だけど、それはお父さんとちゃんと話し合ってからでも遅くはないでしょう? お父さんが困っているのはママにだって分かってると思うし、ぼくはママの言う通りにするから」

横で聞いていてディはなるほど、この子はよくカトリーヌのことを心得てるなと思っている。こういうふうに下から出られると、返って無理押し出来なくなるのが彼女の性格だ。デュアンが言うのへ、カトリーヌは疑わしそうに尋ねた。

「ほんと?」

「それは仕方がないでしょう? ぼくだって、お父さんを助けてあげたいとは思うけど、それでママが傷ついたり悲しんだりするんなら、それはやっぱり出来ない相談ってことになっちゃうよ。ごめんなさい、お父さん。でもぼく、やっぱり、ママのことが...」

ディはそれへ頷いて言った。

「うん、ぼくもカトリーヌに分かってもらうしかないと思ってるよ。だから、こうして出向いて来たんだし」

「なによ、二人して。今度は泣き落とし?」

「もおママ、どうしてそういうふうに子供みたいなこと言うわけ?」

「悪かったわね、子供みたいで」

「カトリーヌ、だから、ちょっと話させてよ」

ディが言うのへ彼女はしばらく黙っていたが、とうとう不承不承頷いた。ディはそれへ、ほっと一息ついてから続けた。

「でさ、ぼくもきみがイヤがるだろうと思ってたから、最初は話だけ決めておいて、うちに来るのはデュアンが成人してからでもいいかなと考えてたんだよ。でも、デュアンに言われてぼくも気がついたんだけど、きみも知っての通り、うちあたりはいろいろ古くからの習慣だの、つきあいだのなんだかんだと普通とは違う部分があって、それなりの年齢になってからいきなりそれに馴染めって言っても、今度はデュアンの方が大変なんじゃないかと思わざるをえないんだ。それで、できれば早めにモルガーナ家に入ってもらった方が、やはりいいんじゃないかという話になって」

「それは、デュアンにも聞いたわよ」

「そう? まあ、だから、そんな事情で、とにかく一旦、うちに来てもらえると助かるんだけどなってことなんだ。もちろん、きみの希望は最大限優先するし、表向きこの子が跡取りとしてモルガーナ家に入ったということをお披露目してしまえば、後はデュアンの自由にしてもらって構わない。別にぼくも、もちろんぼくの父も、きみとデュアンの間を遮ろうなんて気持ちは毛頭ないわけだから」

「でも、でもよ? やっぱりデュアンが私の側からいなくなることには違いないじゃない。あなたにだって、デュアンが私の心の拠りどころだってことくらいは分かってもらえるわよね? 私がこの十年、こんなに頑張ってこれたのだって、この子がいてくれたからよ。デュアンは私にとって、なくてはならない支えなの」

「もちろん、分かってるよ、それは。母親にとって子供がどういうものかということは、ぼくだって自分の母を見て育ったんだから当然理解できる。分かってるけど、でも、そこを枉げて、どうかお願いしますと言ってるんだろ?」

それでカトリーヌが黙り込んでしまったので、しばし沈黙、という雰囲気が漂ったが、しばらくしてディの横にかけていたデュアンが遠慮がちに口をはさんだ。

「ね、ママ。ぼくがママのことをいらなくなったり忘れたりするわけないでしょう? そんなこと、ママにはちゃんと分かってるよね?」

言われて彼女はデュアンの方を見て、それから分かってるわよ、と言いたげに頷いて見せた。

「だったら、会えなくなるわけでもなくて、そりゃ、毎日とは言えないけどぼくだってママのことは心配なんだから様子は見に来るし、泊りにも来るよ。電話だってするし。それでも、どうしてもイヤなわけ?」

「だって...」

「ぼくだってママがそんなにぼくのこと手放したくないって言ってくれるのはすごく嬉しいよ? でもさ、お父さんがこんなに困ってることに比べたら、実際、ママにはそんなに大きなダメージになるようなマイナスはないと思うんだけどな。だから、ここはいちばん、ママらしく太っ腹なとこを...」

「だって、淋しくなるじゃないの〜」

「だからぁ、ぼくが、ママがそうならないように様子見に来るからって」

「どうやってもこうやっても、淋しくなるのには違いなぁ〜い!!!」

言ってカトリーヌは駄々っ子のように両足をバタバタさせて床を踏み鳴らした。こんな際ではあるが、彼女のあまりの変わらなさにディは笑っている。母親が子供をあまやかすというのはよくあるが、この母子の場合はどうやら、デュアンが母を甘やかしてきた方らしい。

「私は家の中にデュアンがいつも居なくなるのがイヤなんだもの。ごはん一緒に食べたり、お茶飲んだり、今日あったことを話したり、毎日そういうのが無くなっちゃうのがイヤなの! デュアンがいなくなったら、私、つまんなくて仕事なんて手につかなくなっちゃうわ!」

それを聞いて、デュアンは深い溜め息をついた。実際、確かに母の言う通り、自分が彼女の元気のモトであることをよく知っているからだ。お父さんのことを助けてはあげたいが、こうなるともう、どうしようもないかなとデュアンが思い始めた時、今度はディが横から口を出した。

「じゃ、もうこの際、きみも一緒に来れば?」

言われてカトリーヌは一瞬、暴れるのも忘れてディを見た。いったいこの男は何を考えているんだと、呆然とした気分になったからだ。しかし、彼女は誤解のないように一応、確認はしようと思ったらしい。

「あのね、ディ」

「え?」

「まさかと思うけどそれってもしかして、私と結婚してもいいとか思ってるってこと?」

「それはそうでしょう、この場合。いくらなんでもぼくだって、一緒に来てもらうとすればデュアンだけモルガーナ家に入れて、きみはそのままってわけには...」

やっぱりそうだったかと分かって、今度こそカトリーヌは大爆発だ。

「冗談言わないでよ! それじゃ私が伯爵夫人の地位目当てにデュアンを産んだみたいじゃないのっ。そんなふうに思われるのは絶対イヤなのよ。イヤだからデュアンのことでも、あなたに頼ったことはなかったじゃないのっ」

「何怒ってるの、そんなことはもちろん分かってますよ」

「だいたい今更こんな夫なんて、それこそ冗談じゃないわ。あなたは大好きだけど、夫にするには全然向かないもの」

彼女の言うのへ、心底困り果てた様子でディは言った。

「じゃあ、いったいきみはどうすれば満足なわけ?」

「だから、今まで通りデュアンが私のところにいればいいのよ」

「ママ、それじゃ堂々めぐりじゃない」

「ひどいわよ、デュアン。じゃ絶対、ママを捨ててくって言うのね?」

「捨てるなんて言ってないでしょ? ママはママなんだから」

「別に会わないでくれって言ってるわけじゃないだろ? どこにいるかはデュアンの自由なんだから、好きな時にきみのところに泊まりに来たっていいんだし。ただ、しばらくはこの子にうちへ来てもらった方が都合がいいってだけの話なんだから。だけど、それでもきみがデュアンと離れるのはイヤって言うから、どうせだったらきみも一緒に来ればどうかなと思っただけじゃない。ぼくは、それほどきみを怒らせるようなマズいことを言ったのかな?」

言ったわよ! とカトリーヌは心の中で叫んだが、それについては解説するのも虚しい気分になったので、口には出さなかった。

そもそもディが跡取りのために結婚できるような男だったら、そんな問題はデュアンに話が回って来るまでもなく、とっくの昔にカタがついているはずだ。それを、たとえ以前は仲良しで、特別お気に入りの恋人だったとはいえ、跡取り問題にからんでいきなり結婚してもいいと言い出すとは、それってちょっと失礼じゃない? と、カトリーヌのような自負もあり、誇り高い女性が思ったとしても不思議はないだろう。

もちろん、長いつきあいだけに彼女にもディにはまるっきり悪気がないことは分かっている。カトリーヌがデュアンをモルガーナ家に行かせるのをイヤがっている最大の理由は、最愛の息子と一緒に暮らせなくなることだ。だから、彼が今言った通り二人が一緒にモルガーナ家に行けば何も問題はなくなる。しかし、自分の子はともかく、別れた昔の恋人まで家に入れるとなれば、それはもうディもさすがに世間体をふまえて結婚という手段を取るしかないだろう。彼にしてみれば簡単な三段論法なのだろうが、問題はディがこの場合の"結婚"ということについて、賭けてもいいが何ひとつ深刻に考えていないのがカトリーヌの目から見れば明らかだということなのだ。従って、結婚しても素行を改めるなどということは絶対にしないだろう。そもそも、その"素行を改める"ことができないからこそ、今既に存在している息子で跡取りの間に合わせたいというのがディ側のリクツなのである。そこを最優先に考えるから、ディは自分とカトリーヌが結婚した場合に生じる様々な問題については、はなっからまるで計算に入れるつもりがないらしい。つまり彼の発言は、カトリーヌがデュアンと離れたくないなら、一緒に来れば良いというだけの単純な理由から生じているのだ。

それに、たとえ万一、天と地がひっくり返ってディが誠実な夫に変身するようなことが在りえても、そうなればなったで、カトリーヌにとって彼の魅力は半減してしまうだろう。しかも、彼女のように自分の仕事を持ち、それを最大限に発展させてゆける能力や野心のある女性には、"夫"、"家庭"という要素は足枷になってしまうことが多い。もともとカトリーヌにも"結婚は面倒だけど、子供は欲しいな"というところがあったし、だからと言ってつまらない男のコドモを産むなんてプライドが許さなかった。そこへディが現れたわけだから、要はそのへんのバランスが折り合ったおかげでデュアンが存在していると言ってもいいのである。そんなカトリーヌにとって、窮屈きわまりないようにしか見えない伯爵夫人に今更なるなんて面倒以外の何者でもなく、だから、つきあっていた頃もディが単に才能ある画家というだけだったらいいのになあ、と何度も思ったものだった。

結局、彼女はディに自分も含めてどんな女にもつかまって欲しくないし、今のまま、いつも誰の手も届かないところにいて欲しいのだ。そして彼女自身も、自由に自分のやりたいことだけを思う存分やって生きていたい。それこれ考えていると、要するに似たものどうしだから理解し合えるところがあるのかもね、と彼女は内心溜め息をついていた。

彼の問いかけにカトリーヌが何も答えないのでディはその様子をしばらく見守っていたが、いまひとつ、別の角度から押してみることにしたらしい。彼は何気にかけていたソファから立って彼女の横に腰を降ろした。

「ね、カトリーヌ」

「なによ、近寄らないでよ」

「何言ってるの、きみとぼくの仲じゃない」

「いつの話よ、デュアンが生まれる前じゃないの」

「酷いなあ、なんでそんなに冷たいこと言うわけ? ぼくたちあんなに仲が良かったのに」

「だからそれは十年近くも前の話でしょってことよ」

「でもさ、楽しかったよね? いろんな所にも一緒に行ったし」

「何が言いたいの?」

「もしぼくがあの時、きみのおねだりを聞いてあげなかったら、デュアンは生まれなかったわけじゃない?」

「それはそうだけど...」

「今まできみはデュアンを独り占めして来たんだしさ、このへんでほんのちょっとだけ貸してくれてもバチは当たらないんじゃないかなぁ、と言いたいわけ」

自分がむきになっているのにディの方が落ち着き払っているものだから、カトリーヌもつられて多少冷静さを取り戻して来たようだ。

「う〜ん...」

「全部くれって言ってるわけじゃないだろ? それにもちろん、ぼくは今でもきみのことが好きですよ? だから、デュアンと一緒に来てくれればいいかもって思っただけじゃないか。それがそんなに怒るようなことかな?」

「私のコトも好きだけど、他の女の子たちのことも好きなのよね?」

「それはさあ...」

「なによ」

「いや、女性からは学ぶことが多くて」

「何言ってるんだか。だからって次から次へと乗り換えてるとでも言いたいの?」

「乗り換えるだなんて、そんな失礼なことぼくはしてませんよ。たださ、ぼくなんかを好きって言って下さるわけだから、無碍にお断りするには忍びなくて」

ディの言い分にカトリーヌは笑っている。

「それにさあ、これでデュアンとの話が万一まとまらなかったりしたら、うちの父は今度こそぼくにヨメを押し付けるよ? 今度という今度はさすがにぼくも抵抗しきれないだろうし、それじゃ、あまりにもぼくが可哀想だろ?」

「だから、自業自得」

「だけど、ぼくだけじゃなくて、ぼくなんかと結婚させられる女性の不幸を考えてみてごらんよ。きみだって、今きっぱりとイヤ! って言ってくれたんだから、それは想像するまでもないと思うけど?」

「それは確かにね」

「だから、デュアンがぼくの後を継いでくれれば、八方丸くおさまるんだよ。父ももうすっかりデュアンのことは気に入っていて、早くお披露目して自慢しまくりたいとか言ってるくらいだし、もちろん、きみがぼくにして欲しいことがあるなら言ってくれれば、ぼくに出来る限りのことはするよ。だから、どうかお願いします」

「して欲しいことなんてなんにもないけど...。全くもう。相変わらず、女の扱いがうまいわよね。ごらんなさい、私、もうまじめに怒れなくなっちゃってるじゃない」

「だから、そもそもそんなに怒るようなことじゃないんだよ。とにかく、モルガーナ家を引き受けてさえくれれば、後はデュアンの好きなようにしてもらって構わないから。没落させようが、繁栄させようが、もう全てお任せしますから」

「ほんっとーに、無責任よね、あなたって」

「今までだって散々言われて来ましたよ、そんなことは。だけど、貴族の一人息子に生まれたのはぼくの責任じゃないじゃない。おまけに、言いたかないけど18の年から向いてもないのに伯爵さまなんてやらされてるんだよ? この上、当主の責任がどうだこうだ言われてもさ、そこまでめんどう見きれないよ」

そうこうするうちに、デュアンが向かいのソファで可笑しそうに笑っているのにふと気づいて、カトリーヌが尋ねた。

「なに笑ってるのよ?」

「だって」

「なに?」

「これがぼくの父と母なんだなあって思ってさ。一緒にいるとこ見たの、初めてなんだもん」

言われて二人は顔を見合わせた。

「ああ、そうか。ぼくがここに来たのは初めてだし、そもそもつきあってたのはデュアンが生まれる前だものね」

「美男、美女、ですよねえ」

デュアンがつくづく言うのへ、カトリーヌは何言ってるんだか、と呆れたように答えた。

「だってさあ、本当に絵になるんだもの。それに、ぼくはお父さんの子供の頃にそっくりだっていうし、だからこのごろ、ぼくも大きくなったらお父さんみたいになれるのかなって、ちょっと期待してるんだよね」

「冗談じゃないわ。こんなふうになったら承知しないわよ」

言われてディが、心外そうな顔をして尋ねた。

「カトリーヌ、それってどういうイミかな?」

「どういうも、こういうも、そういうイミよ」

「だから、どういう...」

「外見と才能は似て欲しいけど、性格と生き方は似ないでねってイミよ、決まってるじゃない」

ズバリ言われて、ディは黙った。自分でも、そりゃそうだと思ったからだ。それへデュアンが言っている。

「大丈夫だよ、ぼくは才能はともかく性格ママ似って評判だもの。でも、ぼくとしては、お父さんみたいな生き方もちょっと憧れちゃうんだけどな〜」

「だから言ってるの、こんなふうになっちゃダメって。なまじ、見た目がよく似てるだけに、私はそのへんの先行きを心配してるのよ」

確かに母親としては、自分の息子にディのようなちゃらんぼらんなプレイボーイになって欲しいとは思わないだろう。それを考えるとぼくの母はぼくがこんなふうになる前に他界して正解だったかも、と内心笑いながらディが言った。

「まあ、先行きはともかくさ、ぼくもデュアンと話してると、折りにふれてきみと似てるなあとは思うよ」

「そうかしら」

「うん。パワフルでストレートなとこなんて、そっくりじゃない。だから、外見はこんなにぼくの子供の頃に似てるけど、やっぱりデュアンはぼくときみの子なんだなってよく実感するよ」

とりあえずカトリーヌはもう泣き止んでいるし、既に落ち着きを取り戻してもいる。デュアンはそれを見ていて、なるほど、女性ってこんなふうに宥めるのか、と父の話の持って行き方の上手さに改めて感心していた。なにしろ昨日から、自分が何を言おうと、どう説得しようと、母はぐすぐす泣くばかりでまるっきり効を奏さなかったのだから無理もない。相手が感情的になっている時に、自分まで本気でパニクっては何の解決にもならないんだな、と、デュアンは父にひとつ学んだような気がしていた。

ともあれ、そんなこんなでディが来た当初よりは格段なごやかなムードが漂い出したことで、デュアンも一息つけたようだ。

「あ、お茶さめちゃったね。淹れなおしてくるよ」

デュアンが言ってソファを立ったのを見て二人は頷き、息子がワゴンを押してキチンの方へ歩いてゆくのを見送った。二人きりになり、しばし沈黙、という格好になったが、しばらくしてディがカトリーヌを見て言った。

「ぼくだってきみには感謝してるんですよ、デュアンをあんなにいい子に育ててくれて」

「感謝なんてしなくっていいわよ、あなたは関係ないんだから」

「関係ないって、半分はぼくの子でしょうに」

「いいえ、全部わたしの」

「それでもいいから半分貸してよ、いや、せめて三分の一か四分の一くらいでいいから」

「また、その話」

「その話をしに来てるんじゃないの」

「そりゃ、私だってあなたの立場は分かるわよ。それに、結婚に向かないってこともね。逆に言えば、だからこそあなたにはあんな絵が描けるんだし、伯爵家の当主っていう地位が邪魔な重荷でしかないってことも知ってるわ。でも、デュアンを手放すとなるとやっぱり...」

「もちろん、きみのその気持ちはぼくだって先刻承知の上です。無理をお願いしてるということもよくわかってます。でも、きみだってもし、あの子が既に二十歳になっていたら、そんなに反対はしないんじゃないかな?」

「それはそうよ。その年になれば当然それなり自立もしてるだろうし、私だって子離れできる程度にはオトナになってるわ。あの子自身だって、伯爵家をきりもりできる器かどうかもっとはっきり自分で見極めもつくでしょうしね」

「でも、逆にその年になってからでは、デュアンの方に負担が大きいってことになる。ぼくとしては、考えれば考えるほど、デュアンはうまくやってくれると思えるし、だから出来るだけ早いうちからって思うわけだよ」

「まあそれも、分からないリクツじゃないわね」

「だろ?」

「そうねえ...」

言ってカトリーヌは深い溜め息をつき、考え込む様子になった。

母として冷静に考えれば、今のまま自分の私生児でいるより、伯爵家の後継者におさまった方がデュアンの将来には良いのに決まっている。もとよりディは認知しないなどと言っていたわけではなく、その話についてはカトリーヌの方がまるで切り出すつもりがなかったのでそのままになっていただけだ。だから、今度のようなキッカケはなくとも、デュアンの将来のためと言えば、ディはデュアンをモルガーナ家に入れるのを少しもためらわなかっただろう。従って、私生児云々はなりゆきの問題でしかなかったのだが、これをしおに息子の立場をはっきりさせてやるのは、母親の責任とも思える。

そう考えてふと、ディはどうしてこれまでデュアンを無理からモルガーナ家に入れようとはしなかったんだろうとカトリーヌは考えた。さっきからの話でも分かるように、彼はこの先も結婚するつもりがまるでないし、そうすると"モルガーナ家の跡取り"という問題は、いずれ必ず起こってくるものであったはずだ。

ディが見た目ちゃらんぽらんに振舞っているからといって、それはどうでもいいようなことに細かく拘らないというだけのことで、芯から彼がいい加減な男ではないことはカトリーヌにもよく分かっている。いや、むしろその逆だ。だからこそ、今回のように"片付けなければならない時期"が来れば必ずこうやって、しっかりカタをつけるために自ら動く。また、それだけの力もあるから、ふだん物事を流れるままにもしておけるのだろう。そう考えると、ディが今まで跡取り問題については視野に入れながらも、デュアンも含めて子供たちを母親のもとに置いておいたのには、なりゆき以上の考えがあったのではないかとも思われるのだ。そしておそらくそのひとつは、今度のことでも分かるように、母親たちが子供を手元から放したがらないだろうということをふまえて、まさに子供たちを母のところに"置いておいてやる"ため、だったのではないかという気もする。

確かに、それには彼側のメリットもあっただろうが、今ですらディは子供を母親から取り上げることについてかなりな負い目を持っていることが明らかだ。だからこそ、本来ならこういうこじれるに違いない問題を彼のような地位にある者が片付けようとする時、たいていは弁護士などの代理人を入れるのが普通であるにもかかわらず、さっさと自分で出向いて率直に話し合う方法を取ったのだろう。それが、彼なりの誠意のつくし方であることも、ディをよく知っているカトリーヌには言われなくても分かる。それこれ考えていると、やっぱりいい男なのよねえ、と思えてきて、そうすると自分が子供みたいなワガママを押し通すのもな、という気にはさせられた。くやしいけど、結局はディの思う通りになるわね、これは、とは思ったが、だからと言って、カトリーヌは今ここで結論を出す気にもなれない。それで、もう一度、深く溜め息をつき、彼女は言った。

「分かった。でも、もうちょっと考えさせて」

「考えてくれる?」

「うん」

「じゃ、考えていい返事ちょうだい」

「いい返事になるかどうかは分かんないわよ?」

「そんなこと言わずにさ、なんとか前向きに検討してよ。さっきも言ったけど、きみの希望は最優先にするし、ぼくでできることがあれば何でもするから」

「はいはい」

「とにかく、"デュアンを取られる"っていう考えだけは捨てて欲しいな。この先、いろんな意味であの子のためにもなることだと思うし、それに、さっきも言ったけど、きみとぼくの仲だろ?」

この"きみとぼくの仲"という言葉に含まれているイミは、カトリーヌにもよく分かっている。かつて恋人どうしだったということだけではなく、恋人として別れたからと言って切れるような関係ではない、特別親しい友人どうしだという部分は少しも変わらないということだ。ディのようにヒトの好き嫌いが激しい男がそう認める限り、それはそうそう簡単に切れる種類の繋がりではないし、そして、カトリーヌはそれだけの値打ちのある女性でもあった。

「まあね、じゃ、前向きに」

「有難う」

言っているところへデュアンがお茶を淹れ直して運んできた。とりあえず、跡取り問題は一時棚上げ状態にもなったようだし、しばし休戦ということで、その後はしばらく親子三人で思い出話に花が咲き、そろそろ日も暮れるという時間になってからディは席を立つことにした。

エレベータ・ホールまで送って出たデュアンが言っている。

「有難う、お父さん。助かりました」

「いえいえ、本来ならきみを介するべきじゃなく、ぼくが直接カトリーヌに切り出さなきゃならない話だったのに、悪いことしたね」

「そんなことないです」

「いや、それはぼくにも分かってたんだけど、なにしろ彼女はああだからなあ。ぼくが切り出そうものなら、もっとハデにダダこねてたんじゃないかと...」

「あ、それ分かります」

「だろ? だから、きみにちょっと貧乏クジ引かせちゃったけど、この埋め合わせは必ずするよ」

それへデュアンは笑いながら、はい、と答えた。言っているところへ待っていたエレベータが着いたので、ディはじゃ、と言って乗り込もうとしたが、ふと気を変えて立ち止まった。

「そうだ。カトリーヌにね」

「ええ」

「無理言ってごめんねって言っといてくれる?」

「はい、もちろん」

「じゃ、」

「あの、お父さん」

「なに?」

「あの...。ママやっぱり今でもお父さんのこと大好きなんだって思うので、たぶん...。ただ、ちょっと時間が必要なんだろうなって」

それへディは微笑して答えた。

「うん、ぼくもそう思う。ま、あとは彼女のお心次第ってとこだね」

「ええ」

「じゃ、帰るけど、何かあったらいつでも言っておいで」

「はい」

その答えに頷いて彼はエレベータに乗りこみ、デュアンに手を降って見せた。それへにっこりしてデュアンも手を振っている。扉が閉まり、エレベータが降りてゆくのを見届けてから、デュアンは家に戻って行った。

original text : 2009.2.14.+2.16〜2.17.+2.19.

  

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