その日は、それからいつものように夕食を一緒にしてからメルセデスで送らせ、翌日、さて、どうなったかなとディが電話をかけてみると、出たのはデュアンだった。
― はい
「あ、デュアン?
ぼくだよ」
― あ、お父さん
「昨日の話ね、カトリーヌは何て言ってるかなと思って」
― あの...、実はそれが...
デュアンが言いにくそうに口ごもったので、ディはこれは予測通り難航しそうだなと腹をくくって、しかし、口に出しては何気なくどうだったの?
と尋ねた。
― ママに話してみたんですけど、あれこれ話してるうちに結局、泣かれちゃって。昨日、一旦は寝たんですけど朝からまたぐずり出して、実は今も泣いてるんです。ぼくが冷たいって言って...
ディにしてみれば、感激屋で人情家のカトリーヌらしい反応である。彼の場合は自分の父もそうなのだが、ラテン系だよなあとつきあっていた頃もよく思ったものだ。
子供が間に入ってなおそう来るかと思うと笑ってしまうが、なるほどそのせいもあってデュアンがしっかり者に育ったのだろう。ディはそれに内心笑いながら、経緯を聞いてみた。すると、デュアンの話では昨日、帰ってからこんなふうに切り出したらしい。
「ね、ママ」
「なあに?」
「あのね、なんだか今、お父さんとおじいさまの跡取りのこと決めようとしてるみたいなの。この前、兄さんたちとか、みんなで集まったからそんな話が出て来たんだろうけど」
「あら、そう」
「うん。それでお父さんの言うには、ぼくにモルガーナ家を継いでもらえないかなって」
「なんですって?」
カトリーヌは雑誌を眺めながらデュアンの話を聞き流していたのだが、"モルガーナ家を継ぐ"と聞いて鳩豆な表情で顔を上げ、息子を見た。確かに彼女もそんな話もいつかは出るかと考えないではなかったが、あるとしてもずっと先のことだろうとタカをくくっていたのだ。
「だから、なんだかメリル兄さんが...、メリル兄さんとはこの前ちょっとお話したんだけど、お父さんのこと、いろいろあって怒ってるみたいなんだよね。ずっと放りっぱなしにされてたとか、お父さんが遊びまくってるとか、まあ、ある意味もっともかもしれないし、他にも事情があるのかもしれないけど、それで兄さんは跡取りの話、断って来ちゃったんだって」
「そんなこと言ったって...」
「ファーン兄さんはおじいさまの後を継ぐってことで話が進んでて、だから、後はぼくしか」
「ちょっと待ちなさいよ。それってどういうこと?
ディはまさか、あなたを引き取りたいとか言うんじゃないでしょうね」
「お父さんは、話だけ決めておけば、モルガーナ家に行くのはぼくが大人になってからでもいいって言うんだけど...。でも、やっぱり貴族の家を継ぐということになったら、ぼくとしてはそういうわけにもいかないかもって」
「イヤよ。あなたを手放すだなんてとんでもないわ。あなたは私が産んで育てたのよ?
ディには一度だって頼ったことなんてないんだから」
「それはぼくもよく知ってるし、お父さんだって分かってるよ。でも、ああいう家はどうしても血筋とか...」
「そりゃ、私だってあなたに一生側にいてなんて言うつもりないわよ。あなただっていつかは結婚するだろうし、自分の家庭も持つだろうし。でも、それはそれよ。モルガーナ家の跡取りだなんて、そんなものになっちゃったら、顔ひとつ見るんだって大変になっちゃうじゃない」
「でも、ママ。ぼくが断ったら、モルガーナ家はどうなるの?
お父さんすごく困ってるみたいなんだよ?」
「それは...」
「お父さん、"お願いします"なんて言うんだもの。それに、ぼくしか頼るところがないって。あんな風に頼まれたらとてもイヤとは...」
「それはディの手よ!
あの人はどうやればあなたが断りにくくなるかくらい、始めからちゃんと計算してるわよ。そういう男なのよ!」
「でもさあ、それだけ本当に困ってるってことでしょう?
だから、ぼくで出来ることならって思うんだけど」
彼女の息子が義を見て背去るはなんとやらで、ある種の騎士道精神で跡継ぎを引き受けてもいいと考えているらしいと知って、カトリーヌもちょっとそれ以上は自分のワガママを押しかねた。ディなら今からでも子供の一人や二人、その気になれば作りそうだけどと言ってやりたい気もしたが、既にいるデュアンの他の二人は仕方ないとして、別の女がこれ以上ディの子供を産むということを想像してみただけで彼女はいきなりむかっとした。要するに、やはりまだ彼女はディのことを愛しているのだ。そうなると惚れた弱みで彼の立場や気持ちも考えざるを得なくなってしまう。
「そうねえ...」
「それにね、ぼく、ファーン兄さんを見てつくづく思ってたんだけど、"貴族"ってやっぱり"貴族"なんだなあって。お父さんがああなのは大人なんだからって思ってたけど、ぼくとひとつくらいしか違わないのに、ファーン兄さんってぼくやぼくの回りにいるみんなと全然違うんだよ?
兄さんが特にそうなのかもしれないけど、全然落ち着いてて、オトナで」
「ふうん」
それはある意味、可愛げのないガキかもねと思ったが、カトリーヌは口には出さなかった。
「だからね、ぼくもモルガーナ家を継ぐんなら、早くから上流社会に馴染んだ方が...」
「それってあなたはモルガーナ家に行きたいってことなの?」
「行きたいっていうか、そうじゃなくてさ。引き受ける限りは、やっぱりちゃんとやりたいもん」
「でも、そうしたら、ママは一人ぼっちになっちゃうのよ?
それって可哀想じゃない?」
「それはそうだろうけど...」
「デュアンはママと離れたくないなとか、そういうこと考えなかったの?」
「考えたよ」
「考えても、行くっていうの?
そんなに冷たい子だったっけ?」
「そりゃ、ぼくだってママのことは大好きだよ?
だけど、お父さん言ってた。いつでもぼくの好きな時にママのところに来たらいいって。クルマで1時間ほどの距離なんだし、学校行くついでにだってママの顔を見に来れるよ?
だから全然会えなくなるわけじゃないんだもの」
この辺りからカトリーヌはデュアンがどうやら本気らしいと悟らざるを得なかったようだ。聞いている間に、最愛のひとり息子を取られるかもしれないということが実感として迫ってきたらしく、とうとうぐずぐず泣き出してしまったのである。
確かにデュアンの言う通り会えなくなるわけではないだろう。しかし、カトリーヌにとっては息子と一緒に暮すのと別々に暮すのとでは雲泥の差がある。彼女にとってはデュアンが毎日いつでも手の届くところをうろちょろしていて、好きなときにちょっかい出してかまえるということそのものが楽しいのだ。もちろん、息子の方も好きなときにママ、ママと甘えてきてくれるし、この十年近くというものそんな調子で暮してきて、折に触れてこんな可愛いコが私の子供なのよねえと思うたび、彼女はつくづくシアワセな気分にひたってきたものなのである。
言うまでもなくデュアンの父親はディなのだし、モルガーナ家のような大家がどうしても血縁の跡取りを必要とすることくらいはカトリーヌにだって分からないリクツではないが、だからといって自分の一番大切な宝物を横取りされることには違いないのだから、彼女にとってそれは理不尽以外の何者でもないのも、また確かだ。
しかし、ディが本格的に話を切り出してきた限り、しかもデュアンが父や祖父の窮状を察して自分から大任を引き受けてもいいという姿勢を見せている限り、何をどうやっても最後は必ず押し切られてしまうだろうし、結果的には離れて暮さなければならなくなってしまう。それを考えるだけでカトリーヌは悲しくなって、大人らしく冷静に対応するどころではなくなってしまうのだ。有能だし、画家として才能もあって、今では世界中あちこちに自分の店を持つほどのビジネスセンスにすら恵まれている彼女だが、それでいて未だに少女のように純粋なところを失っていない。別れて随分経った今ですら、ディが彼女を好きなのはそのせいでもあるし、また、デュアンに"ぼくがいないとママは..."と思わせて来たその主な理由でもあるだろう。
そんなコトの進程を電話ごしに聞きながら、カトリーヌも相変わらずだなあとディは笑っていたが、デュアンが話終えて、どうしましょう、と心底困った様子で言うのを聞いて、分かったよ、と答えた。
「まあ、どちらにせよ、ぼくからちゃんとカトリーヌに話さなければならないことなんだし、差し支えなければ今日、これからそちらに行かせてもらうよ。どうかな?」
― ママに聞いてみますね
そう言って、この場合は受話器を保留にする必要も感じなかったのだろう。デュアンは、そのまま側のソファにかけてぐずぐず泣いている母に声をかけた。
― ね、ママ、お父さんから。これからこっちに来てもいいかなって
受話器の向こうで遠く、しかし即座にカトリーヌの涙声が答えた。
― 来なくっていいわよっ
― もお、ママってば、いつまでも子供みたいに。お父さんが自分でちゃんとママに話さなきゃって言ってるんだから
― 来たってうちには入れないわよ!
話すことなんてなんにもないんだから!
その様子にますますディは笑っていたが、それへデュアンの溜め息まじりの声が聞こえてきた。
― 聞こえました?
「うん」
― もう、昨日からずっとあの調子で、ぼくが何を言っても殆ど駄々っ子に退行しちゃったようなことしか言わなくて。はっきり言って、もうぼくではどうしようもないんで、来てください。ママが何と言おうと、ぼくの権限で入ってもらえますから
「分かった。じゃ、これから出るから2時間もかからずに着けると思うよ」
― はい、じゃ、待ってますね
それを聞いてディはデュアンに、後でね、と言って受話器を置いた。予想はしていたが、やはり簡単に話は進みそうにないようだ。しかし、デュアンが既にその気になってくれている限り、後はカトリーヌだけの問題である。彼女のことならよく分かっているつもりだし、長年、世間からプレイボーイと呼ばれるほどには沢山の女性とつきあってきたから、おかげさまでその心理も理解できないものではなくなっている。ともかくここは、カトリーヌに誠意をつくしてこれこれこうと窮状を訴え、素直に頭を下げてお願いするしかないだろうなと結論すると、彼は着替えて出かけることにした。
original
text : 2008.9.23.+2009.2.14.
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