アルフォンス・ミュシャ(1860-1939) ヤナ・ブラプツォヴァー(プラハ国立美術館ミュシャ担当学芸員)
アルフォンス・ミュシャは南モラヴィア地方の生まれであり、その芸術的想像力は生まれ故郷の美しく色彩豊かな民族文化の影響を受けていた。彼はブルノーの中学校に通い、1877年にはプラハの美術学校で学ぶべく同校に出願したが、入学試験に失敗した。2年後、彼はウィーンで舞台の書割を描く工房の助手となった。このウィーンの地で彼は初めて、その生涯において宿命的な役割を演ずることになる演劇の世界に出会ったのである。彼がハンス・マカルトの作品と人柄を知ったのは、おそらくこの時期のことであろう。マカルトの生活様式はミュシャの有名なパリのアトリエに影響を及ぼしており、またミュシャはその初期の絵においてかなりの程度マカルトの作品を範としたのであった。1882年、ウィーンの劇場の工房は劇場の火災で仕事が無くなったために従業員の一部を解雇せざるを得ず、ミュシャは南モラヴィアに戻ることになった。しばらくの間、彼はミクロフという小さな町に落ち着き、土地の名士の肖像を描いて生計を立てた。 やがてこの地方に地所を持つ地主ク−エン=ベラシ伯爵がミュシャを雇い、所有するエマホフの小さな城館の壁画を何点か修復させた。こうしてミュシャはパトロンを得たのであり、このパトロンはミュシャをまずチロル地方にある一族の本居ガンデグ城につれていった。それからミュシャはこのパトロンのおかげでミュンヘンで修行し、1888年以後はパリに学んで画家としての技量を研くことができた。 パリの街で、生来思いやりがあり社交的なミュシャは、たちまちその地の外国人仲間のうちでも目立った存在となった。友人には多くのスラヴ系芸術家がいたが、のみならずアウグスト・ストリンドベリィやパリに戻っていたポール・ゴーガンも含まれていた。彼の描く挿絵は徐々に雑誌に登場するようになり、1892年には歴史家シャルル・セニョボスの著書『ドイツの歴史の諸場面とエピソード』の挿絵の一部を描くよう依頼された。挿絵の他の部分は同時代の有名なフランスの挿絵画家ジョルジュ・ロシュグロスの手になるものであった。本は結局、1898年にようやく出版された。またミュシャは東方的主題や歴史的・愛国的主題を扱った多くの絵によって官展(サロン)での入選を目論んだ。愛国心はミュシャの個性の中でも最も特徴的な要素の一つであり、しばしば制作の推進力ともなった。 1894年も終わりに近い数か月の間にミュシャはサラ・ベルナールのために初めてポスターを制作した。それがまれにみる成功を収めたため、この女優はミュシャとポスター制作に関する6年の契約を結ぶことになった。この契約には舞台装置のデザインも含まれていた。こうして作られたポスターは今日残されているものの、一方、ミュシャの手掛けた舞台装置の形式やスタイルに関する完全な記録というのは残されていない。 サラ・ベルナールのためにミュシャが制作した数々のポスターは、ミュシャの名声の基礎を築いた。それらはアール・ヌーヴォーのポスターがとりうる姿の一つの原型(プロトタイプ)となり、頻繁に模倣された。彼のポスターの典型的な特徴としては、縦長の形状、パステル・カラーの落ち着きのある配色、非の打ちどころのない異国趣味と官能性との不思議な混合、見る者に衝撃を与える単身像 ― 大抵は聖職者のごとく芝居がかったポーズをとっている ― の描写法、劇の独特な雰囲気を的確に描き出すその力量、などを挙げることができる。サラ・ベルナールはパリのみならずロンドン、ベルギー、アメリカの大衆のアイドルであり、実物以上に見せるミュシャの様式化された表現によって彼女は大衆がそうあれかしと望んだあの「神のごときサラ」となったのである。
ポスター・デザイナーとして有名になることがミュシャの夢であろうはずはなかったが、しかし有名な女優との関係や、フランス的教養と結びついたかなり異国的な特徴を持つ作風のために、1895年以後、装飾的な仕事の注文がミュシャのもとに殺到した。多種多様な商品や団体のためのポスターや装飾パネルが矢継ぎ早に生まれた。彼の最大の長所となっているのは構図ではなく、与えられた画面(フォーマット)を満たすその巧みな非の打ちどころのない確かさであり、空間全体をこの上なくおおいつくすその技量であり、アラベスクに対する見事な感覚であり、装飾(オーナメント)を用いる勇気 ― 明らかに故郷モラヴィアに由来する能力 ― であった。 当時、一つの時代(エポック)が終わりつつあるとの意識が広まり、それはあらゆるものを包み込む生活様式を発展させようとする努力と結びついていた。ミュシャの貢献とは、先見の明をもって新たな道を切り拓いたといったものではなく、時代の理想を洗練された形で最高度に高め、一般化したということである。ミュシャの表現の雄弁さは、彼が自らの作品に吹き込んだ内的な情念(パトス)によって強められた。 ミュシャを有名にしたポスターや装飾パネルは貧しい住まいの中にさえも入り込む機会に恵まれており、ミュシャは自らの作品によって大衆の芸術鑑賞力の向上に寄与していることに誇りを感じていた。社会的な理念にせよ愛国的な理念にせよ、彼は自らの制作のために常により高い目標を必要としたのである。 もちろん同時に彼は選り抜きの購買層向きの注文仕事をも手掛けていた。そうした類の仕事の最初のものとして、1897年にパリのH.ピアザ出版社から出版されたロベール・ド・フレールの著書『トリポリの姫君イルゼ』の豪華版があるが、これは挿絵画家としてのミュシャの最良の仕事となった。
この時までにミュシャはサロン・デ・サンで個展を開き、448点の作品を出品して成功をおさめており、パリの雑誌『ラ・プリュム』はミュシャの特集号を出した。われわれが今日、この時期のミュシャの創作の中でも主要な大半の部分を占めているとみなしているものは、実のところ彼の制作活動のほんの一側面にすぎなかったことに疑いはない。そうしたポスターや装飾パネルや豪華挿絵と同時に、ただサインによってのみ作者がミュシャであることがわかるといったポスターも制作され、また全く時代の約束ごと(コンヴェンション)の範囲を出ない挿絵も描かれていたのである。 ミュシャはアトリエに引きこもって初めてパステルによる素描を手掛けたが、それはパリで過ごした歳月の秘められた最も内的な特徴をとどめており、またその夢のような性質と、時にみられる積極的な社交的調子はミュシャの才能の使われざる種々の可能性を示している。 1898年末までに彼はアール・ヌーヴォー建築の驚くべき作品<人類館>の模型を完成したが、実際に建てられることはなかった。それはおそらく、1900年の万国博のためにミュシャが準備したもののひとつであろう。この万国博とともにパリは希望に満ちた新しい世紀を目もあやに迎えようとしたのである。もちろんミュシャはそれに参加することを望み、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ館の装飾によって銀メダルを獲得したのだが、それはミュシャの制作における新たな段階のゆるやかな始まりをしるすものであった。 それというのもこの装飾で彼は初めてスラヴ民族を代表して語るモニャメンタルな構図を作り出したのであり、自らの芸術を、偉大で威厳のあるものと見なした理念のために捧げたからである。それ以来、彼のあらゆる努力は基本的にはスラヴ民族とチェコ国民の理念を鼓舞するためになされる制作が乱されることのないような充分な経済的基盤を築くことに向けられた。装飾家としての名声はますます多くの仕事に掛かり合うことを彼に強い、彼はそれらを関心の度合いは様々ながらもこなしていった。万国博が開かれる前の1899年、彼は『主の祈り』を出版した。それは主祷文の節ごとにページの全面を使った挿絵が付され、さらに祈りの意味に関するミュシャ自身の注釈がほどこされた愛書家向きの本である。
すでに述べたように、ミュシャは新たな道を切り拓いたわけではなかった。彼は既に考案されたものを頂点にまで高めたにすぎない。彼には創造力に富んだ後継者はいなかったが、しかしその作品は数多くの名もないつつましい職人たちに深い痕跡をとどめている。彼は異邦人としてパリに生活した。骨董品やオリエントの絨緞や織物、鉢植えの棕櫚などで満たされた彼のアトリエは、フランスや世界中から訪れる多くの人々を惹きつけた。ということは、彼には落ち着いて仕事に集中する充分な時間がなかったということでもあった。自らの信じがたいほどの栄達を確認するために、彼にはそうした社交的生活が必要だったのかもしれない。しかし彼は乱されることのない創造的な仕事にあこがれを抱いており、それは名声を追い求めた歳月に得た経験を元に、より高い使命を帯びた作品の中で実を結ぶことになる。彼はパリから多くのものを得たにもかかわらず、パリの中ではエキゾチックな外国人であり続けた。他方、ボヘミアを離れての生活が長い年月に渡ったために、故国においてさえも彼は外国人になっていたのである。30年の間にチェコの芸術が2世代にも渡って革命的な発展を経験し、そして世界の中心と同じような切迫感をもって現代人の抱える諸問題が解決されようとしていることを、ミュシャは理解しなかった。精神的に彼は若い頃の愛国的な情念に囚われていたが、それはボヘミアでは1910年頃にはもう既に時代遅れのものとなっていたのである。 それ故、彼が総合的なアール・ヌーヴォーの作品を創り上げたのちに新しい道を歩み始めようと目論んでいたにしても、愛国的理念を鼓舞すべきモニュメンタルな芸術の中に彼は進むべき道のヴィジョンを探しはじめていたのであって、それは流れに逆らう探求だった。 もっと落ち着いてモニュメンタルな画面を用いた仕事ができるよう資金を得るために、ミュシャは1904年からアメリカに旅行するようになり、ニューヨークやシカゴの装飾美術学校で教鞭を執った。1910年、アメリカ人チャールズ・クレインは、スラヴ民族の歴史を扱った20点の大画面からなる作品制作の資金を提供することに同意した。
<スラヴ叙事詩>と呼ばれるこの連作は、第一次大戦のために制作に遅滞をきたしたが、その後、1928年にプラハ市に寄贈された。 ミュシャはこの仕事をすべてボヘミアで行った。彼は1910年に名の通った芸術家として帰国したのだが、同時代のチェコの芸術家たちとは接触をもつことができなかった。彼は、自らのすべての経験を要約し、かつチェコ国民への遺産となるであろう作品の制作に、まったく憑かれたように没頭した。しかし、アトリエに引きこもって彼はますます孤独になった。<スラヴ叙事詩>の20の画面(その大部分は6X8mの大きさ)は、ミュシャの考えでは全人類のよりよい未来を築き上げることに寄与した、チェコや他のスラヴ民族の歴史上の出来事を扱っている。 個々の作品は明らかに、この壮大な連作が生み出された18年という時間の経過を反映している。その中の最初にして最良の数点は、いまだアール・ヌーヴォーの美学の影響を色濃く受けているが、そうした美学は次第に、主題として選ばれた出来事の細部にわたる描写にとって代わり、やがて最後の数点には、主観的な象徴表現に彩られた永遠のメッセージが再び現れてくる。<スラヴ叙事詩>は絵画における偉業だが、その評判は制作のためになされた努力にふさわしいものとは決して言えなかった。精神的にはこの作品は19世紀の歴史画の大作に通じており、また制作の上では、困難を突破したという刻印を帯びている ― 第一次大戦が近代史においてまさに困難を突破したことを意味したように。 <スラヴ叙事詩>を製作中の1920年代と1930年代、ミュシャは若い頃から自らの努力の目標であった絵画に立ち戻った。社交界の人々や家族の肖像はともかく、今や、しばしば民族的色彩をおびた少女や婦人の絵、そして極めて象徴的なメッセージをともなった絵が生まれてきた。こうした作品は、古典を志向するアカデミックな芸術と、偉大であまねく有効性を備えた概念を絵解きしようとする自然主義的描法の象徴表現との間をゆれ動いている。 ミュシャの作品の中核をなしているのは、1985年から1905年にかけてパリで制作された作品、装飾的性格をもった作品であり、それによって彼はアール・ヌーヴォーの頂点を極める創造者のひとりとなった。「ミュシャ様式」とは、その時代 ― パリの時代 ― の概念であり、今日に至るまでわれわれは、絵の豊かさに、色彩の美しさに、アカデミックな調和をアール・ヌーヴォー特有の美女礼讃と結びつける独特の雰囲気に、感銘を覚えるのである。ミュシャの制作のすべては熱烈な願いによって ― チェコ国民がより大きな名声を得るよう貢献したいとする願いによって ― 支えられていた。そしてパリで制作していた時代に、彼は間違いなくそのことに成功したのだった。
*この文章は1983年3月〜11月に、プラハ国立美術館及びアルフォンス・ミュシャ展開催委員会を主催者として、日本の主要都市で行われた「アール・ヌーヴォーの華―アルフォンス・ミュシャ展」図録より引用させて頂いております。あくまで文化振興を目的とし、ミュシャの業績を広く皆さんに知って頂くために掲載させて頂いておりますが、著作権者のご要望があれば即座に削除いたしますので、メールにてサイト・オーナーまでお知らせ下さいませ。著作権者様のご理解を賜れれば、これに勝る喜びはございません。また読者の皆さまにおかれましても、著作権に十分ご配慮頂き、商用利用等、不正な引用はご遠慮下さいますよう、宜しくお願い致します。 >> Tea Talk1
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