Vol.4. 政治に期待するな!! 日本経済が何故現在のような凋落に見舞われたかの原因の一つとして、前章では成金根性が生んだ教育の質の低下が有能な人材の育成を阻んだり、海外流出を招いたりしたことを挙げた。つまり、社会現象というものは決して我々一人一人の人間の質、つまり人間性と無関係ではないということである。言い換えるなら、社会を構成する最も基本的な単位、その細胞の一つ一つは我々人間、個人であるということだ。もちろん人間はそれぞれ千差万別な自我を持っている。言ってみればそれは個々の精神の色彩ともいうべきもので、その色彩が集積して社会全体の色合いを決定するのだが、各個人の持つ色彩は明暗様々でも、それが集積した時、暗色がより多ければ暗い色合いに、明るい色がより多ければ明るい色合いに現象が展開されることになると言えるだろう。例えばビッドマップ画像をグリッド表示した時の、グリッドのマス目一つ一つが一人の人間であり、この画像を縮小して俯瞰するとひとつの絵が浮かび上がるようなものだ。 私の考え方の基本とはそのようなものだから、マル・エン思想などというものが単なるアル中のヨタでしかないのは、そもそも「社会」主義などという命名からしても明らかだと思うが、この点ルソーの「社会契約論」なども同じ理由で、さっさと哲学史上から抹殺してしまいたいくらい愚かな考えだと思っている。国家があって、政府があって、人間があるのではなく、人間があって、政府が成立し、国家が形成されるのだ。その点から言っても昨今、経済の回復を政治に期待する人たちが多いのには閉口する。それは本末転倒というものだ。ひとつはっきりさせておこう。社会というところは、人間を養うためにあるのではなく、人間が養わなければ存続しえないものなのだ。 世界の原点は無である。人間の世界の概念において、あらかじめ存在したものなど、ただの一つもない。国家という概念でさえ、バラバラだった人間という生物が集落を作り、それが巨大化するに従って形成されたものでしかない。そして、それが存続するのは、我々人間がその存在を「信じて」いるからに他ならないのである。概念とはすべからくこのように人間が作った幻影でしかなく、実体として存在するのは、人間の意識あればこそだ。例えば法律にしても、守る者がいなければないも同じだ。「安全な社会」とは、その「安全」を存続させるために、我々ひとりひとりが定められた法律を信じ、守るからこそ維持できるものなのであって、あらかじめ安全であり、未来永劫に渡って安全であり続ける社会など、これまたないのである。もとより法律などというものは人間の「でっちあげ」だが、それを言うなら善悪の概念そのものも「でっちあげ」だ。だからこそ、ひとたび戦争が起これば、通常は最悪の犯罪であるはずの殺人が奨励される状況が、いとも簡単に現出する。「安全な社会」に暮らしたければ、我々一人一人が「安全」を保証するために法を信じ守るという姿勢で生きなければならないのと同様に、「豊かな社会」に暮らしたければ、我々一人一人が社会を「豊か」にする努力をするより他の方法はないのだ。誰のためでもなければ、キレイごとでもない。自分の「安全」や「豊かさ」のために、それ以外やり方があったら教えて欲しいものだ。かつて第二次大戦直後の日本人には本能的にではあれ、このことが分かっていたと思う。国家というものが如何にいい加減な存在か、「大本営発表」で騙され続け、挙句の果てにどん底に落とされた人々だからこそ身をもってそのことを学んでいたのだろう。つまり国家などというものは何のアテにもならず、自分以外に頼る者はない、という現実をだ。確かに彼らはその後そうして豊かになった社会で富の使い方を誤まった。しかし同時に彼らの利己的な努力の集積が「豊かな日本」を作ったことも事実である。 ここで高度成長の原理について考察してみよう。 今では伝説とさえなっている未曾有の経済成長が何故、可能だったのか。簡単なことである。ごちゃごちゃ当時の政治や経済がどーのこーの言うまでもない。当時の国民が「豊かに暮らしたい」と切に願い、そのための努力を惜しまなかったからだ。しかも戦争で自由を奪われ、食べるものも、もちろん安全も保証されず、個人の向上のために努力する時間さえないといった状況から解放されて、「努力すれば今より良くなる」という希望を持つことが出来たことも大きいだろう。どん底とは決して悪い状況ではない。かつて私の敬愛するブライアン・フェリーも言っていたことだが、「これ以上落ちるところはない、あとは登るだけだ」という状況に置かれると、人間は結構信じ難いような力を発揮できるものなのである。まだまだ大戦直後に比べれば、今の日本は落ちるところまで落ちてさえいないが(食うに困るとこまでさえ行ってない)、ここらで「豊かな先進国」などという過去の栄光にしがみついてヘタな自尊心にかまけている間に、「世紀のどん底ビンボー」をはっきり認識した方が、ずっと開き直れるかもしれないのだ。とにかくこれ以上落ちたくなかったら、...大体最近のガキは「何をやっても大して変わらない」とか考えているらしいが、とんでもないことだ。落ちるに底なんかないのである。放っといたら先進国脱落どころかソマリアまでいくぞ、日本だって。こーゆーバカなガキがこれ以上増えつづければだがね。いい加減、悟れ。誰も貴様を死ぬまで食わしてやる義理なんかないのだ!! 今から立派なホームレスになる訓練をしている浮浪十代も多いようだが、私は彼らが年をとってモノホンのホームレスになっても国が食わしてやる必要はないと思っている。弱者とは、生まれつき通常の生活が出来ないとか、努力をしても身体障害や事故など、不可抗力のために普通の社会生活が送れない、もしくは送れなくなった人たちのことを言うと少なくとも私は定義している。それを放り出してしまうような社会にはなって欲しくないし、してはいけないとも思う。これまたキレイごとではなく、誰しもそのような状況に陥る危険性はいつでも孕んで生きているからに他ならない。しかし、努力もせず、ただ漫然と生きて来た結果として食えなくなっても、それは自業自得というものではないか。そんな連中を国が養ってやるような世の中になったら、私は即刻、日本人をやめさせてもらう。それこそ税金を払う値打ちがない。 さて、敗戦直後の日本人に話を戻すが、彼らは国家でさえ頼るに値しない存在であると思い知らされ、しかし努力すれば改善が望める状況に置かれて努力を惜しまず働いたわけだが、そこには「誰かがやってくれるだろう」という甘えは通用しなかったはずた。誰がいったい自分を食わせてくれるのか、助けてくれるのか、結局自分でやるしかないと本能的にであれ思い知っていただろう。現代の日本人の敗因は、まずこのことを悟らない点にある。なまじ何もしなくても豊かな社会の中で育ってしまったものだから、「誰かがやってくれるだろう」という何の根拠もない希望的観測を、いつまでも捨てきれないのだ。今が0だと思って、各個人が努力する、これ以外に日本経済の再生を実現する方法は一切ない。それとも、どこかの国みたいに戦争でも起こして、特需景気でも作り出してみるか? まあ、もちろんそれも一案ではあるが、民主主義国家、即ち法治国家として、「戦争」とは口が裂けても言ってはならない言葉のひとつだと私は思う。ましてやそれを実際に引き起こすなどというのは、キレイごとを抜きにしても、いくら自称したところで「民主主義国家」であることを自ら否定しているようなものだ。ものごとは常に本質を見て把握しなければならない。例えそれが公的に認められていようとも、公然とした欺瞞というのはあるものだからだ。 ともあれ努力すると言っても失業したり、職がみつからなかったりして、どうやって何を努力すればいいのかわからないという人もいるかもしれない。しかし私はよく思うのだが、人間生きていれば幸運と不運は交互にやってくるものではないだろうか。私自身も今はそこそこ落ち着いているが、悪い時にはとことん悪いという時だってあった。それはもう口に出したら「よく平然と生きてましたね」と言われそうなくらい、とんでもない時だってあったのだ。まあ根が楽天家だから、それでもマジで絶望するとかいうことは無かったが、思うに、どん底でのたうちまわっている時こそ、努力、勉強のし時だというのが持論である。職がないなら、その分空いた時間があるはずだ。そういう時こそ漫然と過ごさず、忙しい時には出来なかった知識を蓄積するなどして過ごしてみたらいいと思う。焦ったところで何事も好転するわけではないのなら、そういう状況を利用する、楽しむという余裕を持つのもひとつのテだ。そうして過ごしていれば、次にいい運が回って来たときに蓄積された実力が発揮できる。不遇の時こそ、次の幸運を2倍にも3倍にも出来るチャンスなのである。 このように私は自分に期待はしても、もともと政治になんとかしてもらおうなどとは思ったことがないが、そもそも政府というものは、いくら理想を掲げても金がなければ回らないものでもある。言ってみれば一番弱い存在かもしれない。だから政治という権力と経済が切っても切れないのは当然と言えるだろう。しかしその経済もまた、我々一人一人の力を集積して回っているのだ。つまり我々がなんとかしないと、政治もどうにもならないというのが現実だと思う。歴史上、政治が国民を圧迫した時代においては、また現在もそのような現象が見られる社会においては、政治の改善は確かに民衆の大きな力となる。しかし、それは各個人がそれぞれの考えを持ち、自らの意志によって努力する自由を保証するというところまでだ。現代の日本のように、政府が個人に特に口を出すこともなく放っておいて好きにさせてれる世の中で、しかも食べるものにも不自由しないで済むなら、そこからは先は個人の責任ではないだろうか。早い話、いくら政策が改善されても実力のない個人ではそれを生かすことは出来ない。「政府主導型のベンチャーの起業」などというバカげた冗談をマにうける連中にいくら金を回してやっても、成功する者は稀少だろう。結果的にこれがより多くの負債を背負い込んで日本経済のクビを絞めることになるとしても、私は不思議に思わない。 また政治家を非難する声も多いが、彼らが我々と全く分離した世界から生まれて来た存在だとでも思うのだろうか。彼ら一人一人もまた、戦後の日本という環境の中で教育され育って来た人々だ。突き詰めて言うのなら、彼らの人間性は我々のいるこの日本社会の中で形成されて来たと言っていい。彼らは我々が、と言うよりも、我々を育てたのと同じ世代が生み出したと言っても過言ではない存在である。言ってみればナマケモノになり下がった国民には、あれが分相応な政治家だということかもしれない。彼らは「政治」というシステム上の代表者であるばかりではなく、ある意味では現代の日本人のひとつの象徴だ。だから連中を非難するより先に、そんな者を国家の中枢に据えて来た我々自身を自省することの方が先ではないだろうか。責任をヨソに持っていって非難する側に回るのは楽かもしれないが、所詮それでは何も解決しないことを、それこそいい加減に悟るべき時期である。政治なんかに期待するな!! 期待するなら自分の方がよっぽどマシだ!! 政治などというものは、戦争などに走って国民の幸福の邪魔をしない程度に回っていてくれれば重畳である。 2002.1.9.
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