このコーナーではサロンでお出ししているテーマの中から主に「21世紀、日本はこうなる、もしくはなってほしい」と、「インターネットの可能性」という二つのテーマについてあやぼーの思う所を語ってゆこうと思う。それらは連鎖的な関係のあるテーマだからだ。

そもそもは「カフェにおける論争」という無責任なお楽しみ的要素の強い発想で始めたサロンなので、言ってることに絶対性なんかないし責任も持てない。知識の限界だってあるし、一般メディアで流れている情報が真実とも限らない。それに所詮、人間の考えなんてものは人それぞれで千差万別、ある視点から見れば当たってたり正しかったりするが、ある視点から見れば間違っていることもしばしばなのだ。諸行無常な世の中に絶対正しいなんてことも、また絶対間違ってるなんてことも滅多にはないものなのである。そういうわけで、ひとつの見方として楽しんでもらえれば幸いである。

 

 

Vol.3. 成り上がりには三代かかる

日本は長い歴史のある国だと海外でも言われるし日本人もそう信じている。しかしそれは本当だろうか。

確かに日本史を見れば、極東の4つの島を中心として一つの流れを持った歴史があることは確かだ。しかし、国というものの基盤には、どこかでも書いたことだが、それが例えシャーマニズム的なものであろうとも哲学が存在する。つまり国の運営の基本となる「考え方」だ。

日本史を振り返ってみて、今この国が立脚している「民主主義」というものは、いつその基盤となったのだろうか。言うまでもなくそれは戦後である。しかもこの時、農地改革や財閥解体などでそれまで育まれて来た社会階層が一気に破壊された。これは実は現在の日本に、アメリカが植え込んだ「民主主義」以上に大きな影響を及ぼしているのだ。まさかアメリカがそこまで意図して画策したとは思えないが、現在の日本の経済停滞は、ある意味この破壊に拠るところが大きい。

オールド・マネーとニュー・マネーという概念がある。さしずめオールド・マネーというのは「伝統と歴史ある名家」、ニュー・マネーというのは「成金」というところだろう。まずエスタブリッシュメント、つまり代々続いた家系というものは、これみよがしな「みせびらかし」を嫌う。そもそも長い間に家名という看板が整っているために、特にみせびらかして見せなくても回りの人間は一歩も二歩も引いてくれるからだ。しかし「成金」は違う。とにかく自分がカネを持っていること、贅沢ができるということを他人に知ってほしくて仕方がない。それによって回りの尊敬を得ようと見当違いな努力を惜しまない。高級車に乗ってみたり、豪邸を建ててみたり、ブランドものを着こんでみたり、美術品を買い漁ったりと、まあ戦後の日本人が喜んでやって来たようなことである。問題はそれがクルマだの家だのならまだ許されるが、そのミエの対象が「教育」にまで及んだことだ。「カネをバラまけば尊敬される」なんて意識が政治にまで蔓延しており、それがODAの垂れ流し状態なんて結果を生む。何故日本人はこうまで「成金化」してしまったのか。

端的に言おう。それは民主主義の名のもとに、まるっきり教養もクソもない連中を社会の中枢にまつりあげてしまったからだ。

確かに民主主義の基本概念はすばらしい。全くすばらしい「理想」である。これほどの絵に描いたモチ的大「理想」も、歴史上そう多くはお目にかかれるまい。ものの見事に現実を無視し、古今東西の哲学者がその大半において陥ってきた愚を踏襲したのか、それともその大モトなのか、とにかく実に美しい「絵に描いたモチ」である。食えれば美味いかもしれないが、未だ人間性にその地盤はない。

余程の思考力を持つ哲学者で無い限り必ずやる思想展開上の過ちがある。それは本来「変数」として扱わなければならない「人間性」若しくは「人間」という要素を、いとも簡単に「定数値」化して処理することだ。民主主義ばかりではなく、マルクス主義もこの典型である。前章で「一般に人間は百あたりまで数えるのか精一杯で、それ以上になるといきなり「ひと山いくら」の世界に飛び込んでしまう」と書いたのを覚えておられるだろうか。このメカニズムが思想構築に影響しているレベルの低い哲学者は掃いて捨てるほどいる。例えそれが歴史上の大人物と認められていようとも、だ。

人間の思考能力や性質は各個人によってさまざまだという、誰でも「あたりまえ」と思うような事が、一旦社会という大きなワクで人間を考察するというテーマに拡大されると、その瞬間からすっかり忘れ去られてしまう。

アメリカが植え付けた「民主主義」によって主権を与えられたのは事実上どういう人たちだったのか考えてみよう。

戦前の日本を振り返れば明らかなように、高い教育を受けられる人々は決して多くなかった。まだ大きな地主や財閥が支配的地位にあり、都市部は未だその範囲が狭く、文化面でそれより後退している農村部が圧倒的に多かったのだ。それでも地方にも長い歴史を持つがゆえに「成金化」しえないエスタブリッシュメントは存在したし、そういう階層が文化の水準を支える例もあった。ところがこの階層を戦後の民主化が一気にぶちこわしてしまったのだ。間違えないでもらいたいが、私は決してそういう階層を温存して、いつまでも無知な人々を無知なまま放置し、被支配者として喘がせておけと言っているわけではない。「民主化」は日本の歴史を通し見ても、通らなければならない改革であったとも思う。しかしこれは同時に「パンドラの箱」を開け放つことでもあったのだ。

多くの人間は放っておけば、どこまでも悪くなる。「悪」という言葉が定義上使えないとしても、「社会集団の安定に対して好ましくない」方向、そしてそれが自分の利益に繋がる場合、規制がなければ簡単に転がる。例えば違法駐車。これがどれだけ多くの他人の迷惑になり、時として事故の原因になるか、そういうことひとつ考えられないアタマしかないから、「警察に見つからなければいい」という安易な感覚で、どこでもそれこそ垂れ流しで駐めている。規制がなければ更に何も考えないだろう。たかが駐車違反かもしれないが、この感覚で人間がやっていることは枚挙にいとまがない。環境破壊もそのひとつだ。つまり彼らには「自分の行動が、どういう結果を生むか」という総体を見る客観的な思考能力が欠如していると言っていい。だから教育についても簡単にミエの対象に出来たのだろう。

申し訳ないが、私はこれから老年期を迎える年金世代、つまり戦後の高度成長期に受験戦争を発生させ温存して来た世代が、現在の経済停滞が原因で多少苦しい生活を強いられることになっても、同情の余地はないと思っている。それは彼らが払わなければならないツケというものだ。

戦後、なぜ高校教育が一般化し、大学教育までもが「狭き門」になったのか。それは取りも直さず戦後すぐの親世代にとって、教育が「高級品」だったからである。かつて彼らは「教育を受けたくても受けられない」環境にあり、それを受けられるのは彼らが憧れてやまない支配階層だけだった。だから一旦「被支配層」という身分から解放された時、自分たちの子供を上の学校にやることにあれほど血道を上げたのだ。そもそも教育が何のために必要であり、何をもたらすべきなのか、そんな高尚な考えを持つには彼らはあまりにも教養が無さすぎた。その後の高度成長ともあいまって、子供が有名大学に入るということは彼らにとって「高級車を所有する」とか「豪邸に住む」とかの成金的な財力誇示手段のひとつとなり、結果として「卒業証書が手に入ればいい」という教育の質の低下を招いたのである。「大学に入ったらそれで終わり」、こんな教育を当然として来た世代に、どのような言い訳と同情の余地があるというのか。彼らは無知だっただけかもしれないが、無知と浅薄は最大の悪徳だ。

ひと山あててカネモチになった人間は成金と言われるが、現在の日本という国自体も戦後のラッキーでひと山あてた成金そのものである。カネの使い方が本質的に同じなのも仕方があるまい。確かに連綿と続いている文化的な底流は持続しているが、ある意味では「民主化」によって日本は全く新しい国になったと言ってもいい。しかしその戦後も55年を過ぎて、そろそろ三代目の時代になろうとしている。そして「成り上がりには三代かかる」という言葉がある。

CIAの分析では、2015年の世界情勢は以下のようなものになるという。

「今日の世界経済はアメリカ、EU、日本の三極が主体となっているが、2015年の時点では日本が外れて二極になる。日本は先進経済国から脱落するだけでなく、GDPでも中国に追い抜かれるだろう。」

言ってくれるじゃん、面白い。日本はともかく他のアジア諸国を無視して二極と言い切るトコロなどは極めて「ガキ大将」アメリカらしい発想だが、それはともかく、はっきり言って私もそう思う。しかしこんなの何もCIAでなくたってわかりそうなもんじゃないか? 現在データとして利用可能な要素のみを考慮すれば、これは全く正しい予測だ。しかしものごとには常に不測の事態がつきまとうもの。アメリカのように実力第一主義の国から考えれば信じられないような要素が日本にはある。

現在の日本の不況を私は歓迎すべきドブざらえだと考えているが、それは90年代にあまりにもバカがのさばりすぎたことの結果でもあると思う。自らの無能を認識しようとしない者に向上も改善もありえない。80年代の反動もあったのだろうが、「普通」とか「横並び」とかいう言葉をカクレミノにして、向上のために努力することを放棄してしまったバカ者どもにはいいクスリだ。何が「普通で平凡でいい」だ、若いもんの言うコトじゃないぞ、それは。そのような「背伸びしないで...」という無責任な風潮も、「成金根性」同様に日本の経済衰退に拍車をかけた「無能力者生産」に一役も二役も買っている。

功なり名遂げた老人が「中庸こそ最上である」とでも言うんなら三歩下がって拝聴しよう。しかし、そこまで悟りきってしまうことが出来るのは、やるだけの努力をして登れるところまで登った人間だけだ。自分の力だけではメシを食うのもおぼつかない連中がそんなことを言うのは、100パーセント、完全に、まごうことなく、単なる逃避である。将来的に人並み以上の生活がしたければ、最も平凡な方法でも一流大学に入るための努力くらいはしなければならない。そういうつまらんルートに乗りたくないと思えば、更に十倍百倍の努力が必要だ。そもそも人間には例え煩悩だと言われても、「他人より優越的な立場に立ちたい」という衝動が絶対にある。これを昇華してしまえるのは、さっきも言ったようにやれるだけのことをやって、したい放題生きてきた人間だけなのだ。大体「私は普通で結構です。」と本気で言ってる人間が、ブランド品の獲得にあれほど狂奔するだろうか。元を正せばブランド品などというものは、それに相応しい地位を自ら努力によって築いた人たちが身につけるもので、その努力もしない人間が持って良いものではない。それはモノのステイタスを確実に下げることにすら繋がる。ともあれ「どうせ出来そうもないし、努力するのもめんどくさいから人並みでいい。」などという根性では、結局その煩悩を死ぬまで引きずることになるのだ。つまり欲求不満を抱えたまま、劣等感に目隠ししている状態でしかない。だからこそ90年代には優秀な者、努力しようとする者に対する風当たりがあれほどきつかったのである。何故なら、自分が怠けていることを「誰でもそんなものだから」と言い訳してでも認めたくない人間にとって、目の前でそれに反する行為を見せつけられれば自分に対する逃避の言い訳が立たなくなってしまうだろう。日本は元々「出るクイが打たれる」傾向のある社会だが、それに加えて中身のないカラオケ的な社会の風潮がその逃避を無責任に奨励して促進し、実力のある者、可能性を試したい者は皆、留学や海外での就職という形でこの国を出て行ってしまったのである。若しくは、特にそれほど志が高くない連中の場合、バカのフリをしてテキトーに潜伏しているかのどちらかだったろう。所詮もらうモノが同じなら、何も好んで不必要な摩擦を自ら引き起こすこともあるまい。翻って国内では「大学信仰」の後遺症を引きずり、既に遊園地でしかなくなった大学の卒業証書だけを値打ちに就職するような、実質無能な連中を「一流企業」は喜んで採用しまくった。90年代において一流とされて来た企業が軒並み屋台骨を折られたのは、このような「寄生虫」に内部から食い破られたからに他ならない。もちろん全ての国内で学んだ学生が無能だというわけではない。どのような世界にも志の高い人間は存在するし、本当にやりたければどこにいても勉強なんて出来るものだ。しかし日本国内の状況はそういう人たちにとってこそ動きやすいものではなかったことも事実だと思う。

90年代は戦後から高度成長期を経てバブル崩壊までに蓄積された富の上に、かろうじて「豊かな日本」というタテマエを保っていられたわけだが、既にそのストックも尽きて久しい。先ほど私が今の不況をドブざらえだと言った意味が、賢明な読者の皆さんには既に理解されていることだろう。実質無能で向上心のない人間がデカいつらをしていられたのは、日本のこのような過去における「貯蓄」のおかげだったのだが、それが尽きた今、彼らには全くなす術がない。そして状況を改善させる実力がなければ、淘汰されることによって表舞台から引き上げてくれることを私は切に期待している。はっきり言ってジャマなのだ。しかし、このドブざらえが終わったら、いくらかこの国の風通しも良くなるだろう。そしてこの経済的苦境を生き残ってゆける者は、本当に地に足のついた「実力」を自ら擁立してきた人たちであろうと思う。アメリカに取って不測の要素とは目に見えるものではない。けれどもそれが機能するかしないかで、彼らの予測が当たるか当たらないかも決まってくるに違いない。

ともかく先進国やめるのなんて別にどうでもかまわないが、これ以上ビンボーになると治安まで悪くなって困る。とりあえず個々人が自分のためにこそ努力するべき時に来ているという事だろう。それもしないなら我々が老後を迎えた時にも、「同情の余地がない」事態に陥ってしまう。戦後三代目の我々は、自分たちのためにこそ先代、先々代の轍を踏んではならない。少なくとも我々には彼らよりいくらかましな教養もあれば、経験とデータの蓄積もある。結局社会情勢というものは、前章でも書いたが当該社会を形成する個々の自我の色彩によって決まってくるものだ。総体的かつ客観的なものの見方を学び、先代よりも人間的に成長する努力が必要である。それが本当に出来た時、民主主義という「絵に描いたモチ」も機能し始めるのではないだろうか。

CIAの「グローバル・トレンド」が当たるかハズれるか。それは我々三代目次第である。しっかり成り上がって見事にとっぱずしてやれれば、めちゃくちゃ気分がいいと思う。

2001.6.14.、9.27.

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