このコーナーではサロンでお出ししているテーマの中から主に「21世紀、日本はこうなる、もしくはなってほしい」と、「インターネットの可能性」という二つのテーマについてあやぼーの思う所を語ってゆこうと思う。それらは連鎖的な関係のあるテーマだからだ。

そもそもは「カフェにおける論争」という無責任なお楽しみ的要素の強い発想で始めたサロンなので、言ってることに絶対性なんかないし責任も持てない。知識の限界だってあるし、一般メディアで流れている情報が真実とも限らない。それに所詮、人間の考えなんてものは人それぞれで千差万別、ある視点から見れば当たってたり正しかったりするが、ある視点から見れば間違っていることもしばしばなのだ。諸行無常な世の中に絶対正しいなんてことも、また絶対間違ってるなんてことも滅多にはないものなのである。そういうわけで、ひとつの見方として楽しんでもらえれば幸いである。

 

 

Vol.2. インターネットに期待するもの

さて今回も、あやぼーの独断と偏見に満ちた研究室にようこそお出で下さいました。

前章でお約束していた通り、今回は私がインターネットに最も何を期待しているかについてお話することにしようと思う。

1. 世界史を心理的側面から考察する試み

まず、世界史について思い起こして頂きたい。私は歴史を「暗記モノ」にしてしまっているような学校教育は、それだけでクソの役にも立たないゴミみたいなもんだと思っているが、それは「何年に誰が何をした」、なんてことをくどくど覚えるのにばかり労力を使って、「何故そういう事態が起こり、どうして混沌とした歴史が連綿と続いて来たのか。またそれを改善するためには如何なる対応を為さねばならないのか」という、最も我々が考えなければならないことを、思考する能力を養う弊害にすらなっているからだ。もっとも歴史の試験を論文形式にしたところで、いまどきのボケた教師に採点するだけの能力があるとはとても思えないが、(もちろん全てとは言わない。しかし優れた先生であるほど、今の歴史教育のあり方には疑問を感じておられるはずだ)、それはともかく、もともと通常の人間の脳のキャパシティには限界があるんだから、暗記なんてことはそれこそコンピュータにでもやらせとけばいいのである。

歴史を学ぶ上でまず理解するべきことは、それが戦争の連続であるということにつきる。

そもそも我々は何故、歴史を学ぶのか。それすらも分からなくなっているのが日本の教育の現状だろう。学校の卒業証書だけを欲しがるバカげた成金趣味もたいがいにしてもらいたいもんだ。歴史を学ぶということは、現在を構成する基盤となる過去について知り、未来を構成するための現在を構築するにあたって、その布石とするためである。この目的以外で歴史を学習することは、全てにおいて単なる娯楽と言っても過言ではない。もちろんつきつめて言えば、そうした哲学的思考展開でさえ、結局のところ人間にとってゴラクに過ぎないのだが...。

確かに暗記モノとして歴史を勉強しても、戦争の名前がづらづら並んでいることにくらいは気付くだろうが、それが「実質的にどういうことか」という認識に対する思考が働かない。戦争というのは殺し合いだ。戦争の数だけ、膨大な人命が不当に屠られているということでもある。その流されている血を、身をもって感じられるだけの想像力のある者がどのくらいいるだろうか。

「戦後」という言葉もいけない。第二次大戦以来、日本は実質的に戦争とは無縁だから、一般の人たちにそれはまるで全世界が「戦後」であるかのような錯覚さえ抱かせる。しかし賢明な読者諸兄には既に周知のように、第二次大戦以降も世界で戦争の途絶えた時期など全くないのだ。

つまり人類と総称される種である我々人間は、「万物の霊長」とまで何の根拠もない自負を持ちながら、実にバカげた殺し合いと浪費を何千年にも渡って続けているほど愚かな種族であるということが明らかになる。「何故世界はこれほど悲惨なのか」についての最大の解答の一つは、全くもって「人間がバカだから」に他ならない。

その一点から更に明らかになるのは、それでは少なくとも戦争という愚行を停止するには「人間性」を変革すること以外の方法はないということだ。

確かに国際政治による戦争行為の停止は可能だし、実際に行われている例もある。しかしそもそもこの政治というヤツは曲者で、もとはこれだけ多くの戦争を引き起こした最大の元凶もこいつなのである。また政治は常に民衆のためにあるとは限らない。それぞれの国にはそれぞれの思惑があるし、「政治」というシステムを動かす中枢にどのような個人がいるかでも違ってくる。これも政治のうっとおしい側面のひとつだろう。システムとしての政治は銃と同じで「力」そのものだと言っていい。その「力」をどんな人間が使うかで人を救うものになるか、凶器になるか全く違って来るのである。

ともあれ、つきつめて言えば、政治と一言で言ってもやっているのが人間である以上、「人間性」の制約からは免れ得ない。付け焼刃的にひとつ二つの戦争を終結させればいいというものではなく、根絶するには何が必要かという問題でもあるのだ。

そもそも人間は何故戦争を起こすのか。

その原因はいくつもあるだろうが、この際キレイごとはヌキで行こう。信念だの、愛国心だの、そんなものはお題目だけだ。もしそう感じないで人間が動かされるとしたら、それだけ「政治」の口がウマいということでもある。

まず時代をずっと遡ると、戦争は経済の発展とワンセットだったことがわかる。古代から武力で他国、他民族を圧倒し自国の利益をはかる、若しくは、そのような侵略に対応するために武力を行使する、この連鎖反応が連綿と続いて来たのが歴史だった。確かに戦争に勝てば、その国の経済は発展し、国民が享受できる利益も増えるだろうが、政治や経済の中枢にある者が国民の利益を考えて戦争に駆り立てるとはまず思えない。結局のところ戦争で儲ける奴は儲けるが、大半の民衆はお題目や目先の利益に踊らされてウラで儲ける奴の為に命がけで戦わされるのである。

例えば日本のアジア諸国への侵略戦争のウラにあったものが何であるか分析してみよう。歴史的現象というものは、それ単一で発生することは在り得ない。必ずその過去において起こった何らかの誘引となる事柄が関係しているものだ。

日本の場合、三百年に渡る鎖国時代を終結させたものは何だったか。「黒船」である。この時から始まる日本の欧米コンプレックスは今に至るもその国民の精神性に大いに影響を及ぼしているが、まず、この時武力で日本はまるっきり敵わなかった。それが開国の一因だったことは言うまでもないが、その次に来たのが文化だ。それまで見たこともないような様々なものが生活に入り込み、当時の日本人を驚かせて「文明開化」に走らせた。こういう端的に目に見える物質文化というものは、実に直接的に人間の心理に作用する。西洋のものは何でも新しく進んでいるように思え、それ故に日本人は、西洋文明とは自分たちのものよりも優れいてるという「錯覚」に陥ってしまったのである。確かに物質的には進歩していたかもしれないが、それ以外について考察する能力のある一般的な日本人など絶無に等しかっただろう。しかしそういった「新しい」文化を取り入れてゆく過程は、とりも直さずその精神に「自分達は劣っている」という強迫観念を植え付ける結果となったのだ。

人間性はまず「劣っている」という認識に耐えられない。日本が長年西洋文明の一員であらんとして来た、そして実質的に西側諸国の一端を担って来たのは、突き詰めれば「優れた」枠の中に自分たちを包含させておこうとする識閾下の努力だったような気もする。そして当然のことだが、そういった人間性は、その優位性を確実にするために「劣った」存在を必要とする。日本にとって西洋は「優れた」ものの象徴だったし、ましてや武力、文化の側面からも敵わない。そこでまず日本人はアジア諸国への侵略にその活路を見出したのではないだろうか。今も残るアジア諸国への差別意識が植え付けられたのも、こうした心理を巧みに利用する政治的画策だったとも言える。もちろんそういった画策は目的があってこそなされるが、侵略し領土を広げることは、その国の経済力の拡大につながる。ここまで言えばお分かりになるだろうが、結局は「富」なのだ。お題目に踊らされるのは勝手だが、その愚かさの代償は生命をもって支払うことになる。戦争行為が、どう言いくるめられようが殺人であるという認識は、敵対する人々も同じ人間であるという理解なくしては生まれ得ない。現代でさえ、もし巧みな心理誘導により戦争が不可避であると政府によって説かれたなら、それをカサに着て略奪、破壊、殺人に走る人間は、賭けてもいいが掃いて捨てるほどいるだろう。しかし私はもうこれ以上、歴史に繰り返してもらいたくないのだ。

このように民族的優位を言い立てて民衆を侵略戦争に駆り立てるという例は、戦前の日本やナチス時代のドイツを引くまでもなく歴史上、為政者によって頻繁に行われてきた手法でもあるが、実質的にはそんなものはそもそも単なる幻覚だから、政治側がそれを強調しなくなれば、それ以降に教育を受けた人間の意識からは、そのような差別意識が消滅に向かうのも当然のことだ。またそういう人間の「教えられた事や状況に忠実」な側面は、ある意味で希望でもある。歴史の安定にとって負の要素が強いことを教え込むのは致命的だが、逆に正の要素をもつ事柄を仕込むことも可能だからだ。

それはさておき、人間性は「劣っている」ということに耐えられないのと同時に異質なものに拒否反応を示す傾向も持っている。これも同時に戦争を引き起こす大きな原因になりうるが、その他にも白人が黒人を極めて冷酷に売買した例などは、全く異質な文化に対する無理解と、肥大化した自意識の悪しき発露以外の何者でもない。それとは逆に、日本人が一部を除いて西洋文化に対してこの拒否反応を示さなかったことは興味深い。思うにこれは西洋文化が、やはり人間の心理に直接的に作用する物質文化を大きく包含していたことに要因を見出すことができるように思う。圧倒的に進歩的で、しかもそれは一見生活を豊かにするもののように感じられる。これに対して拒否反応を抱くことも、やはり人間性に取っては難しい事なのかも知れない。しかし一般的に言って、例えば宗教のみならず、慣習の違いを簡単には受け入れられないという側面も人間は確かに持っている。特にそれがよく知らない相手の場合、拒否反応や差別意識をもつことはたやすいが、それは相手を知ろうと努力することよりも排除することの方が容易だからだろう。ましてや差別意識を持つことによって、自らの「優位性」さえ錯角できるのだから。そして民衆を操ろうとする連中は、この人間性の弱みと無知を巧みについた政策を打ち出して来るものなのだ。

 


 

2. インターネットで可能になること

そういうわけで、やっと今回の主題に辿りついた。

インターネットに歴史的側面から何が期待できるのか。それは「政治の介入しないレベルでの国際交流とそこから生じる相互理解」である。

要するに私は「どこの国の人間でも、人間という点で結局基本的におんなじなんだな」というコトを身をもって認識してほしいのだ。だってそれがホントのことなんだから。

「国民性」というコトバがある。「人種」だの「民族」だのいうコトバもある。しかし、そういうもんに、どういう歴史的正当性があるのか?

どれもこれも天地開闢以来あったもんというわけですらない。「日本人は勤勉な国民」だ? クソくらえだな。実際回りを見回せば確かに勤勉な人もいるが、ナマケモノもくさるほどいる。ましてやバブル景気以降、今や「勤勉な」日本人なんてものは天然記念物かも知れない。これと同じように「どこそこの国民はこんなふう」なんてのは結局一般的な傾向、しかもその時代時代の社会情勢を反映した傾向でしかなく、個人を判断するのに何の役にも立たないものでしかない。ましてや人種、民族なんてのは、地域的な状況から発生した集団を分類するために、人類学の成立過程で行われた便宜上の定義でしかないのだ。個人を見たまえ。私が言いたいことは常にそれだけだ。何故なら全ての集団の最も基本となる単位は一人一人の人間であり、その精神性の色彩が当該社会の傾向を決定する要因となるのだから。

とにかく通常、人間のボケた認識力は百くらいまで数えるのがやっとで、一億なんて個人の集団になると分析不可能、一気に「ひと山いくら」の世界に飛び込んでしまう。一億を分割して把握するキャパがないんだから仕方がないとも言えるが、それでいきなり迫害されたり差別されたりする方は、いい迷惑である。

しかし、こう言ったからと言って、私が「人類はみな兄弟」的な、それこそボケた人類愛に傾倒しているなどと思われても困る。ここまでにも書いてきたように、私は人間性になんか一片の信頼さえ置いていない。確かにどこの国の人間も「人間」というレベルで「同じ」だが、それを言うことによって行いたいのは、「国家」や「人種」、「国民性」などという「概念(=幻影)の消去」だ。それを取り払った上で、更に人間は「千差万別な個我を持つ」、つまり全ての人間が個人として「違う」存在であるという所まで考えたい。

幻影としての概念といえば我々は善悪を定義するが、これもまた社会的便宜上の定義であって、天地開闢以来のものではないし突き詰めて言えば正当性もない。ヒトラーを「狂人」もしくは「悪」として定義するのは勝手だが、どこにその根拠と正当性があるのか? どれほどヒューマニズム的に美しく聞こえるような思想であっても、またその「善」性に正当性はない。それが宇宙的視野というものである。もちろん、それを認識した上なら、目的に対する相対的な「善悪」を定義することは可能だが、それは概念不在の宇宙に座標軸を設定するようなものかもしれない。

その話はまた別の機会に譲るとして、とりあえず視点を地上に戻すと、まず今まで我々はその物理的な距離に阻まれて、多国間で自由に交流することは難しかった。旅行には行けても、特に長期の留学でもするのでない限り、地理的に離れた位置にいる人たちと、複雑な内容の会話を交わすことはまず無かったと思う。だからこそ為政者側はある程度、認識の内的コントロールが可能だったのでもある。「インターネットは政府が国民を洗脳するビッグブラザー的な役割を果たすよりは、より政治をやりにくくするだろうという記事を以前タイム誌で読んだことがあるが、特に意図的に規制せずとも距離上の理由で情報流通が阻まれていた時代には、それだけ政府が国民の認識をコントロールすることも容易だったということだ。テレビや通信の共産圏崩壊に果たした役割が大きかったことを考えれば、情報の流通が時として政府の存続さえ脅かすというのも納得がいく。そしてインターネットは個人間の交流を双方向で飛躍的に促進する媒体となり得るものだ。しかしもちろんこれも道具に過ぎないし、人間同士の交流が理解ばかりを生むとも限らない。期待はできるが、負の要素もまた包含しているのは当然だ。でも、それはそれでいいんじゃないか? 言ってみればそれが「人間」なんだから。私はSF的に規制された整然とした社会でなんか生きたくない。人間の生命力は時として負荷をかけられた時にこそ輝くものだ。良いも悪いも雑多な人間の世界だからこそ、後退もあるが進歩もある。こうしてインターネットという新しい媒体が現れた時に何が起こるのか、いろいろ考えてみるのもが楽しいのも人間のその多様性あればこそだ。

ただやはり私は世界というのは「生きようと努力する人たちにとって、生きるに値する場所」であって欲しい。こうして日本にどっぷりつかっていると、平和すぎる世の中もどうかとは思うが、基本的に政府や政治といった、本来人間に仕えるべき機構のために、その当の人間が不当に虐げられるなどという世界ではあって欲しくない。そのためにも、個人間の交流が飛躍的に進むということそのものには、これからの歴史展開の上で大いに期待するものがあることは確かだ。交流することによって、何が同じでどこが違うのかを把握し、また異質な文化に対する理解も深めることが出来るだろう。もちろん百年単位のスパンで見る必要はあるだろうが、そうして融合してゆく人間の意識が「人間性」に階梯を登らせる力になること、そして今後の歴史がこれまでと同じ繰り返しの迷宮(Same Old Scene)から解放されることも、過大かもしれないが期待しているのだ。

2001.6.10.-7.9.

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