寝室の扉に小さなノックの音がしたので綾が誰、と尋ねると、妹のかわいらしい声があたしよ、と言った。
「マキ?入っていいよ」
扉を開けて入って来たのはまだふんわりしたアンティーク・ドレスみたいなナイティのままの少女だった。彼女は綾を見るとにっこりしておはよう、と言い側まで歩いて来た。綾や両親に溺愛されて蝶よ花よで育ってきたマキは、十七才なのに十四、五位に見えかねないくらい無邪気で愛らしい。
綾が好んでハードスケジュールをこなし、プライヴェート・ジェットで世界中を飛び回りながら最もダーティーな側面で生きているのと正反対に、マキは学校に行くのさえショーファー付きのリモで送り迎えされ、バレエやピアノのレッスンに通い、お茶会だのショッピングだのと贅沢で快適な日々を日常の当然としている。不満なのは誰よりも大好きな綾がめったに家にいないことくらいだろう。
正反対なのはそればかりではなくて容姿の方も全く似ていない。綾の真直ぐな黒髪と較べてマキのはいくぶん淡い、しかもくせっ毛で、それを長く伸ばしていることもあってフランス人形みたいだ。けれどもそれだけ何から何まで違っているのに二人の仲の良さは鉄壁で、ことにマキは綾がいないと夜も日も明けないほどである。
ベッドに腰かけたマキに綾は煙草を灰皿に消してからおはよう、と言った。
「どうしたの、こんな朝早くから」
「だって」
「何が」
「・・・今度の日曜の発表会、絶対来てくれるかな、と思って」
「約束したじゃない。行くよ、ちゃんと」
「ほんと?」
「うん」 安心したようにマキはにっこりした。三才の頃からやっているバレエの発表会が近々あるのだ。かなり上手なので留学の話もきていたりするが、綾も母親であるまや子夫人も反対している。とにかく大事にしていて手もとから離すなど考えられない。おかげで修三氏がよく指摘するように、こんなあまえたな娘≠ノなってしまった。
「でも綾忙しいからなー。またひょっとするとって思って。去年も」
「ごめん、ごめん。でも今年は大丈夫。土曜のうちに絶対帰ってくるから」
「どこから」
「ロンドン」
「あぶないわね」
「なんだ、信用ないんだな」
「あると思ってるの」 「ないわけ?」
「確率はざっと三分の一よ。あたしと約束しててだめになるの」
「数えんなよ、そんなのー。ぼくだって遊んでるわけじゃないんだから」
「あら、だって」
「今度は絶対。約束する。ほら、さっさとしないと学校遅れるぞ」
「綾は?」
「修三さんと重役会。すぐ出かけるよ」
「ちぇっ、つまんないの。どうせ遅いんでしょ」
「マキが寝るまでには帰れるよ」
「じゃあ今日綾のベッドで寝てもいい?待ってる」
「十七にもなってー」
「いいもん。だってマキ、綾のお嫁さんになるんだから」
「人前で言うんじゃないぞ、そんなこと。本気にされると困るから」
「マキは、本気よ」
「わかったわかった。いいからさっさと学校へ行く支度しなさい」
「朝ごはん、一緒に食べよ」
綾は笑ってはいはいと答えた。
シャワーを浴びて着替え、綾がダイニングに降りて行くと、コーヒーや芳ばしい自家製パンの焼けるいい香りが満ちていて、まや子夫人とマキがすでに食事を始めていた。執事やメイドが笑顔でおはようございます、と言ってくれるのへおはようと答えながらいつもの椅子にかけると、まや子さんがおはよう、綾ちゃん、と言う。もう長いこと変わらないいつもの朝だ。もっともここ何年かは綾が忙しいことや、兄のような存在の哲(さとし)が早朝には姿を現さないから、子供の頃とはまるで違ってしまっている。
「ねえ、綾」
「ん?」
マキがテーブルに乗り出して声をかけると、いたずらな微笑を浮かべて綾を見ていた。
「お母さまとね、お話ししたんだけどっ・・・」
「聞きたくなーい。どうせおねだりだろ、その声は」
言いながら綾は執事の見城(みしろ)が注いでくれたコーヒーのカップに手を伸ばし、今朝はベーコンエッグにして、と注文をつけている。見城はにっこりしてかしこまりました、と言い、厨房の方へ歩いて行った。
「もお、聞いてよ」
「はいはい、どうぞおっしゃってください」
「今度の日曜の発表会が終わったら、みんなでお食事しましょうよ。ル・カトルがいいわ。ついこのまえも田原シェフが綾によろしくっておっしゃってたし、クリスマス以来だもの」
「マキやまや子さんはよく行ってるじゃないか」
「だからみんなで、よ。お父さまもお時間が取れるそうだし、哲は大丈夫でしょ。未来(みき)もよ。綾がOKならシェフにお電話しておかなくちゃ」
綾は少し考えていたが今のところ予定もない。いいよ、と言うとマキは手をたたいて大喜びした。まや子さんも嬉しそうに言っている。
「良かったわね。マキちゃん」
「うんっ」
「そんなことよりマキ、数学どうなの。ここしばらく見てあげられなかったけど、この前の通知表、最低だったって?」
「もぉー、お母さまっ、言ったのね」
「あら、だって。私は綾ちゃんに見てあげてってお願いしてあげただけよ」
「いくらエスカレーターで大学まであるとはいえ、ちょっとのんびりしすぎじゃないのか、マキの場合」
「いいもん。英語も国語も良かったんだから」
「英語はもともと喋れるだろ。三つの頃からやってるんだもの」
「んー、意地悪。そんなこと言うんだったら留学してやるから。これでもバレエの才能はすごいのよ」
「だめっ」
「だったら成績のことなんか言わないで。数学なんかできなくたって困んないわよ」
「そういう心がけだからできないの」
「ふーんだ。そりゃあ綾はいいわよね、学校なんて行かなくたってよかったんだもの」
「勉強はちゃんとしましたよ」
「ずるいわよ、生まれつき頭がいいなんて。マキなんてどんなにがんばっても綾みたいになれっこないもん」
綾はマキの言うのに笑っていたが、ならなくっていいよ、マキはマキなんだから、と答えた。
「それよりさっさと食べないと、学校遅れても知らないよ」
「え・・・、きゃあ、やだっ、もうこんな時間なのっ」
言われてあわただしく朝食を終えるとマキは椅子を立った。
「じゃ、行ってきます、お母さま」
「行ってらっしゃい、マキちゃん。気をつけてね」
「うんっ」
言うとマキは新聞を広げようとしていた綾に横あいから言った。
「行ってきます、綾」
「はいはい、行っといで。気をつけてね」
「絶対よ、発表会」
「しつこいぞ」
「しつこいくらいで丁度いいのよ、綾は」
生意気にそう言って制服姿のマキがダイニングから駆けて行くのを微笑して見送り、綾はコーヒーのカップに手を伸ばした。
「申しわけありません、お嬢さま」
「え、ああ、ありがとう」
見城がコーヒーを注ぎ足してくれるのを綾は見るともなく眺めていたが、ふいにテーブルの向こうにかけていたまや子夫人に尋ねた。
「ね、まや子さん。修三さん朝寝坊なの」
マキと同じように淡い色の髪を長く伸ばしているせいか、子供がいるとは思えないくらい可憐な少女めいた人だ。もともと深窓のご令嬢だが、生来気立てが良くて屈託がない。何よりも彼女が微笑むだけで周囲が明るくなるようで、家族の誰もが傷つけたくないと思うような女性だった。
「そうなの。昨日遅くてらしたからぐっすり。でももう起きて来られるんじゃないかしら」
綾は左手の腕時計を見て言った。
「十時から会議だよ。わかってんのかな」
言いながら彼女は新聞に視線を戻したが、後ろから頭を小衝かれて振り返った。
「痛いじゃないかー」
「わかってますよ、私は。ちゃんと一人で起きた」
後ろに立っていたのは長身にダークスーツのよく似合う紳士だ。彼女の父親 ― 正確に言うのなら養父 ― 加納修三である。
「おはよう、綾」
彼の微笑に答えてにっこりすると綾は言った。
「Good-morning, sir.」
「おはようございます、あなた」
「おはよう、まや子さん」
彼は妻の肩を抱いて額にくちづけするとテーブルについた。
「さっさとしないと置いてくよ、修三さん」
「冷たいことを言わないでくれ」
「会長さんが会議に遅れるようなていたらくじゃ、うちも先が長くないんじゃないの」
「大丈夫さ」
彼はそこで一旦切り、綾を見てから続けて言った。
「きみがいるからね」
prologue original text
: 1996.9.9〜10.15.
revise : 2009.6.13.
revise : 2010.11.29.
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