加納家は麾下に多岐に渡る大企業を事実上所有する日本有数の富豪である。その中枢はすでに多国籍企業化し、全世界レベルであらゆる事業を展開しているが、表面的なものだけでも自動車工業、精密機器、鉄鋼、航空、運輸から情報処理、果ては音楽、出版、ホテルグループに至るまで、上げるときりがない。その広大な帝国の版図を、加納修三は娘である綾と腹心の部下、松木裕介の力を借りて治めている。

経済がすでに商業の域にのみ留まっていられない現代にあって、彼らの仕事もやはりビジネスの枠に限られるものですらないが、十五の頃から基本を仕込んだ裕介以上に今修三氏の右腕と言えるのはやはり綾だ。

五才のころ彼女を養女に迎えた時は、まさかその小さな女の子が十年もしないうちに自分にとって最も頼りになる側近に成長するなどとは彼自身にも思いもよらないことだっだが、綾が十七才の頃すでに後継者として正式の遺言を立て現在に至っている。なにしろそれでなくても彼は綾にぞっこんなのだ。とにかくかわいくてかわいくて仕方がない。実の母親と二人で暮らしていた私生児である彼女を、ひょんなことで初めて目にした時、彼は一目惚れしてしまったというのが最も正しい。

その意志の強さと賢そうな黒い瞳は今も子供の頃のままに純粋で、かわいらしくて華奢だった肢体は神の造作としか思えないほど日ごとに美しくなってゆく。彼は綾が二十三才になる現在まで、あらゆる面で彼女に失望させられたことなど一度もなかった。

しかしそうは言っても引き取られたばかりの頃の綾は何の変哲もない五才の女の子でしかなかったから、取り立てて才能を期待されていたというわけではない。つまり全く修三氏の道楽で引き取られたようなもらわれっ子にすぎなかったのだ。それが十代で経営の世界に入るというのには、わりと単純な経緯がある。

まず、この加納修三だが、今でこそすました顔をしてどこから見ても寛容な紳士、良き夫、優しくて子供に甘い父親というキャラクターをやってはいる。まや子夫人のような女性と結婚して、しかもマキや綾が側にいるせいか、ここ十数年彼の素行は大変模範的だ。しかし結婚前はこいつほど世界中のゴシップ誌が喜んで追いかけ回した男というのも、ハリウッドでさえそうはいないのではないかと思えるほどのスキャンダル・メイカーだった。

なにしろ百八十を軽く越える長身にこの美貌、すべてにおいて優雅で趣味が良く、射撃にかけては抜群の腕を持ちスポーツ万能、その上、日本有数の富豪とくれば条件はそろいすぎていたようなものだが、性格自体も一筋縄ではゆかない。そうでなければいくら気に入ったとはいっても、何の縁もない五才の女の子を母親から取り上げて養女にしてしまうという、常識はずれなことが平気でできるわけがないだろう。しかもその頃もう結婚していてすでに娘までいたのである。それがマキだったのだが、クイアな人間の所には集まるのも多かれ少なかれ類友らしく、まや子夫人がまた輪をかけて普通ではないのだ。

やはり結婚している身で子供ひとり引き取るとなると、奥様のご意見を無視するわけにはゆかない。そこで彼が女の子をひとり引き取りたいと思っているのですが、とまや子さんに持ちかけてみたところ、開口一番返って来たのは「ま、素敵!」というお答えだった。マキが生まれて半年とたっていない頃で、普通の母親ならまずこううまくはゆかない。ところがまや子夫人ときたら次の日からもうもらったつもりになって、部屋のファブリックはオーダーするわ、家具は入れ換えるわ、洋服も、ものの三日でゆうに五十着はあつらえるわ、おもちゃや絵本は山ほど買いこむわ。 この大はしゃぎに修三さんの方が後からもらえないとはとても言えなくなるような始末だった。もともと丈夫な方ではなく、二人めの子供は考えない方がいいと医者から言われてもいたから、彼女にしてみると生まなくても増えるというのが嬉しくて仕方なかったらしい。

今ではマキまでが血のつながりもないのに朝から晩まで綾、綾、綾、だが、ともあれなんとか綾の母親を説得して養女にもらえることにはなったものの、海外出張の多い修三さんは必然的に彼女をまや子さんに任せなくてはならなかった。任せると言うと聞こえはいいが、綾が聡明なうえ活発な女の子だったこともあってまや子さんはますます気に入り、彼の方はその実すっかり取られてしまうという実情に陥った。帰るたびにまや子夫人が、綾ちゃんがね、こーしたの、あーしたの、と自慢そうに喋りまくるのにとうとう我慢できなくなった彼は、なんとかして綾をひとり占めにできないだろーか、と頭をひねったのである。

綾が六つの時だった。

ある日彼は何気なく私のあとを継がないかー、というような話を持ちかけ、無邪気な少女が面白半分で乗る気配を見せると、本人の希望もあったのだが、学校へもやらずに自宅で家庭教師をつけるという暴挙に出た。が、これは英才教育というのではなくて、どちらかといえば教師が教えるというよりも、綾を一切世の中の一般的なカリキュラムから切り離して、彼女の自然な興味と成長に全て任せようとしたものだった。その年ですでに綾は屋敷の書庫を占拠して読める限りの本を手あたり次第に読みまくっていたし、こういう自己学習型の脳を修三さん自身も持っているから、それが一番良い方法だと判断したのでもある。

五年後には綾は英語、フランス語を全く流麗に喋り、基本的な経済学まで身につけてしまっていた。

それを待っていた修三さんは、以来念願かなってまや子夫人の不満げな視線をよそに、ヨーロッパだ、アメリカだ、中東だ、アフリカだと、思いっきり綾を連れ回したおした。綾の方も見るもの聞くもの面白くて新しいものだから、いつのまにかそれが日常になってしまい、数年しないうちにそのころ彼の最も近い秘書の位置にいた松木裕介が補佐役として世界中を飛び回るようになると、空いたポストにちゃっかりおさまってしまったのである。つまり修三さんは綾に才能があるかどうかとか、企業の将来なんてものはどうでもよくて、単に彼女を側に置いておきたかったというだけの話なのだ。このあたりのわがままは修三さんらしいエピソードなのだが、しかしその結果は綾の生来持っていた可能性が最大限引き出されることになった。

加納修三は親から継いだ事業を手堅く運営して、その上で安穏とした金持ち暮らしができるような無能なお坊ちゃま育ちとはわけが違う。生来、実用哲学者(*注1)である彼にとって、企業を運営するということは文明の基盤を構築するのに等しいことだ。 そうした常人に理解しえない天才的な知性を持つ彼には、それと同じ思考基盤と展開様式や速度を持っている綾が、今となっては二人いる存在ではないのも無理はない話だろう。

俗に加納コンツェルンと総称されるこの企業体が単に日本の一企業体であるに留まらず、コングロマリットと言っても足りないほど多国籍化してゆく背景には、この二人の思想性が大きく作用している。

一時は欧米の社交会から芸能界に至るまで彼がその気になって手に入らない女性なんかいないんじゃないかとまで言われた修三さんが、結婚後一切そういった遊びをやめてしまったのはもちろんまや子夫人の人柄のせいだ。けれどもそれに加えて彼の綾への思い入れも普通とは言えない。それにはいろいろな理由があるのだが、ともあれ今では周りが羨むくらい仲のいい親子なのも事実だっだ。

     

*注1 : 実用哲学(Practical Philosophy)  ・・・ 作者の造語。従来のものと違って、現実世界で実際に機能する哲学体系のこと。

prologue original text : 1996.9.9〜10.15.

revise : 2009.6.13.

revise : 2010.11.29.

  

© 1996 Ayako Tachibana