加納綾はスコープの中央にアレックス・ニコルソンを捉えていた。が、しばらくして彼女は微笑すると照準をゆっくりとずらしてその横に歩いて来たノーマン・レスターに移した。 ―― 九百ヤード
二十倍のスコープを通せばかなりはっきりと輪郭を捉えることが出来るが、容易な距離ではない。
機関部、銃身、トリガー機構、そしてスコープまで、長距離狙撃のために構成された大口径のマグナム・ライフルはその機能美だけでさえ息を呑むほど美しかったが、綾の腕に委ねられている今はまるで一体の野生の獣のように生命を得て静止している。 ミリ・セカンドごとに彼女の脳の中で分析されてゆくデータが、あらゆる条件において最適の一点を選択した瞬間、ボルトアクション・ライフルの銃口が、すさまじい反動とともに静かに咆哮した。
春の陽光が高いフランス窓から注いでいる。
純白のファブリックでふんだんに飾ったクイン・サイズのベッドで柔らかな羽根まくらに半分頭を埋め、綾はまだよく眠っていた。午前七時、もう少しすれば側の時計が彼女の目を覚まさせるだろう。眠っている今はヴィナスとも形容したいような美貌も、一旦黒曜石の瞳が意志を取り戻すとルシフェルの魂が甦る。それが光に属するものなのか、闇に属するものなのか、それは神でも測れないことだ。 この加納家の本宅は、都心から車で一時間ばかりの所に広大な敷地を有し、見事な庭園に囲まれて城とも見紛う邸宅が際限なく左右に両翼を広げる。先代からのものなこともあって、時を経た本格的な十九世紀フランスのネオ・クラシック・スタイルは、緑を控えて荘重な佇まいを見せていた。
三十数室を有する建物の中でも二階は家族のためのスペースだから、メイドたちの朝の騒ぎもここまでは届いてこない。一階にはメイン・ダイニングの他にソラリウムになった朝食のためのダイニングがもうひとつ、三万冊を超えるとも言われる稀少本を集めたライブラリーや喫煙室、遊戯室、サロン、それにボール・ルームまである。戦前に建てられた当初は想像を絶するほどモダンなものだったのに違いないが、現代ともなるとその美術的価値に訪れる人は目を瞠るはずだ。しかし加納家はこの規模の別邸を世界中に十三、有している。
綾の部屋は寝室の他に同じくらいの広さがあるドレッシング・ルーム、プライヴェート・リヴィングとスタディから成っていてもちろんバスルームもあるが、どの部屋もゆったりとしていて天井が高い。昨日の夜、綾はそのスタディで遅くまで論文の仕上げをやっていた。全く趣味的なものだが考えをまとめるのにはとても役に立つ。その一部はこんな風だ。
― 歴史には縦と横の二本の糸がある。
片方は常に変化してゆく現実、そしてもう片方は決して変化しない真理。日本経済の、そしてそれを包含する世界経済の将来を予見しようとすれば、我々はこの二本の糸を二つ乍ら把握しなければならない。
周知の通り最大限に膨張した日本経済が現在置かれている状況は決して容易なものではなく、方向性を誤れば破綻に導かれることは二論の余地を持たない。戦後の高度成長の原理は現代において日本国内にまったく作用の基盤を持たず、代わって東南アジア諸国、中国、そして東欧経済圏にこそその根が見出される今、我々は再度歴史に学ばなければならないだろう。それは多国籍企業としての・・・
ベッドサイドで柔らかなアラームが響くのとほぼ同時に、電話のベルが優しく鳴った。
「・・・・・」
綾はまだ眠そうにアラームを止めると、電話に手を伸ばした。はい・・・、と答えると、聞きなれたスティーヴ・ロジャースの声が受話器の向こうで脳天気に言った。 ― Goodーmorning,
sweetie’.
綾はあきれたようにため息をつき、冗談言ってんじゃないよ、誰に向かって言ってるんだ、と答えた。 ― 決まってるだろ、おまえだよ 「朝の七時だぜ。まだ寝てたのに。そんなこと言うために起こしたんだったら、ぶち殺すぞ」
言いながら綾はベッドに起き上がりナイト・テーブルに手を伸ばした。煙草のパッケージを取ると一本抜いてくわえ、ヘッドボードにもたれて火をつけている。受話器からスティーヴの言うのが聞こえてくる。
― 大したお手並みだったんでね。ちょっと一言
「別に。それで何かわかったのか」 ― 残念ながらまだ何も 「なんで」
― さあね。ただ全く何の動きも掴めないんだ 「そんなはずないだろ」
― いずれはな。でも今んとこ全くだめだ 「雑魚に用はないんだよ。知りたいのは誰が茶番の首謀者かってことだけだ」 ― わかってますよ
「あのね、スティーヴ。ここんとこあのバカげた事故の数々で何人死んだと思ってるんだ。それどころか連中まだやる気でいるんだぞ。頼むからなんとかしてくれ」
― そりゃ、してやりたいのはやまやまだけどさ。こう何の動きもないとなるとね
「何が何でも見つけてやる。うっとおしい騒ぎ起こしやがって」
― お気持ちはわかりますけどね・・・
「誰かわかったら必ずこの手で始末つけてやるつもりだからな。それもあんた次第だけど。一刻も早く特定してくれよ。死体の山が増えないうちに」
― 出来るだけのことはしてやるよ、待っててくれ 「OK、でも長くは待てないよ」
それからまだしばらく近況を話してから綾は受話器を置いたが、彼女はそのあともベッドでぼんやり煙草をふかしながら考えごとをしているようだった。
アンティークを配した空間に早朝の光があふれるように注ぎ、庭や周囲の木立から鳥の囀りが流れこんでくる。平穏という言葉が最も相応しいここで、本当なら綾はどんな贅沢も幸福も享受できるように生まれついた。 黒曜石の瞳、輝くばかりの白い肌、肩までに切られたまっすぐ素直な黒髪、テニスやバスケットボール、それに山歩きなどが好きなせいもあるのだろうが、均整のとれた申し分のないスタイルも生まれつきだ。決して背も高すぎることはなく敏捷で、黙っていれば ― あくまで黙っていればの話だが ― 清楚という印象さえ与えかねない。しかしそれだけなら綾は加納コンツェルン総帥、加納修三氏の愛娘として、多くのご令嬢や有閑夫人たちのように社交に明け暮れていられたかもしれない。けれども綾が恵まれているのは何もその容姿の美しさばかりではなかった。
十代の半ばにはもう修三氏の片腕と言われ、その経営手腕は天才とも評価されてきたが、二十三才の今では彼の帝国を後継するのは彼女しかいないというのも衆目の一致する所である。
英、仏、伊、そのうえスペイン語やドイツ語まで流麗に話し、メカニズム全般を愛する彼女は、車やバイクは言うに及ばずヘリやセスナ、それにジェットまで扱う。船舶に関しても同様だ。そしてその類まれな才知こそが綾をこの平穏の中に棲ませない。引き換えに轟音を上げて胎動する歴史の中枢が彼女の選んだ日常と言っていいだろう。選ぶと言うよりも綾にはそれ以外ありえなかったと言った方が正しいかもしれない。
しかも彼女は抜群の射手でもあった。
prologue original text
: 1996.9.9〜10.15.
revise : 2009.6.13.
revise : 11.29.
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