「よお、姫、元気かー」
綾が数日後ニューヨークのオフィスで書類の山に埋もれていると、ダン・ロックウェルから電話がかかっているとインタ・コムから声がした。このくそ忙しい時に、と思いながらつながせると、ダンの脳天気に浮かれた声が聞こえて来たのだ。
「死んでるよっ、忙しいんだ。さっさと用件を言ってくれ」
「ごあいさつだねえ、せっかくお礼の電話と思ってかけてるのに」
「え」
「ウォルターのことさ」
「え、ああ、うん・・・」
綾は忙しさにかまけてすっかり忘れていた。ウォルターの歌を聞きに行った日、何事かとあわてふためいて電話して来たサイモンに、彼女は全面的に向こうの条件通りウォルター・ウルフと契約しろと命令した。これはその礼の電話らしい。
「おかげさまでさ、殆ど下へも置かない有様だ。ドリーも喜んでた。ありがとう」
「どういたしまして。友達の顔を立てただけだろ」
綾はにっこりしてそう言った。
「それにさ、実際ぼくも気に入ってる」
「な、いいだろ、あいつの歌」
「うん」
「で、相談なんだけどな」
「なに」
「ウォルターに会ってやってくれないか」
あのなあ、おまえなあ、ぼくがどれほど忙しいか全くわかっていないようだな、と反論しかかった時だ。ダンが続けて言った。
「あいつサインしないんだ」
「・・・・・」
「聞いてるの」
「何て、言った」
「サイン、しない」
「なんだとお、全面的にゆーこと聞いてやるって言ってんのに何が気に入らないんだっ」
「だからあんたに会うまでサインしないって言うんだ」
「何をナマイキに・・・」
「実はさ」
ダンの話によると社長じきじきにドリーにお声がかりがあり、ウォルターと交渉するようにと言われたまでは良かった。喜んでドリーが契約内容を記した草稿をたずさえウォルターに会いに行った。その内容を聞くや、彼は信じられないという顔をしている。
「すごい、すごおーい。これってほんとに夢じゃないわけ?まじめに本気なのか、ドリー」
「そうよ」
「TVとか出なくってもいいの?」
「そう、まあいずれはそういう話もあると思うけど、義務はないわね」
「好きなの歌っていいの」
「はいはい」
「ミュージシャンもエンジニアも誰でもいいんだ」
「そうね」
「ぼくが」
言って彼は自分を指さすと続けた。
「選べる」
「その通り」
ウォルターは大喜びではしゃいでいたが、しばらくしてはた、と何かに気づいたようにドリーを見た。
「どうして」
「え」
「なんだか掌がひっくり返ったみたいだからさ。あんなに頼んでだめだったのに」
「・・・・・」
「何かあるんじゃないの」
「って、何が」
「まだ裏がありそうな気がする」
「ないわよ、別に。ただ・・・」
「ただ?」
「・・・ま、言ってもいいか。最後の手段に訴えたのよ」
「最後の手段って・・・」
「ダンのお友達に頼んだの」
「友達って・・・。今までだって頼める所はみんな頼んでくれたって・・・」
「畑の違う人だから迷ってたの。それに頼んでも動いてくれるかどうかわからなかったし…。偉くて忙しいお姫様だから」
「偉いって…、こんなことができる人なのか?」
「そうよ。RMCグループの会長の娘だから。でも自分の気が乗らなけりゃ動かないって人だから、きっと気に入ってくれたのね、貴方の歌」
「ほんと」
「、と思うわ」
「ぼくの歌、を気に入ってくれて、力を貸してくれたって?」
「たぶんね」
ウォルターはしばらく考えこんでいたが、やがて言った。
「会えないかなあ、その人に」
ドリーはびくっとした。いやあな予感がしたのだ。こういう言い方をし始めるとウォルターはてこでも動かなくなる恐れがある。
「…それは無理よ。忙しい人って言ったでしょ」
「でも、気に入ってくれたんだろ、ぼくの歌」
「とは思うけど」
「会ってお礼が言いたいな、だめかなあ・・・」
「会長の娘よ。気位高くって偉そうなお姫さまなんだから。鼻っ柱が強くておてんばで。会ってくれっこないわ」
「でも」
「なに」
「気に入ってくれたんだ、よね?ぼくの、う、た」
「・・・・・」
「会ってくれたらサインする」
ドリーはそれ以上反論できなかった。ウォルターの性格をよく知っていたからだ。
*****
「気位高くって、偉そうで、鼻っ柱が強くて、おてんばで、悪かったな、ってドリーに言っといてくれ、ダン」
「怒るなよ、あいつにあきらめさせようとして言ったことなんだから、彼女だって」
「ふんっ」
「それに、事実ありのまま、という気がおれはする」
「どーいたしまして。あのな、ぼくは今日はこれから東京にとんぼ返りして、気の遠くなるような長い会議に出席して、四日後の朝は朝めし食いながらジュネーヴでミーティングだ。その先十日は寝るひまだって惜しんでるんだ。働いてるんだぞっ。貴様みたいにふらふら遊んでて商売になる奴がうらやましくって仕方ないよっ」
「それこそずいぶんな言い方じゃないか」
「やかましい。ウォルターに言っとけっ、働く気がないなら死んじまえ、って」
「そこをなんとか」
「切るぞ」
「姫」
「なんだ」
「会ってやってくれないかなあ、おれ一生恩に着るよ」
友達のしおらしい態度に綾は一番弱かった。
Book1 original text
: 1996.10.15〜1997.1.15.
revise : 2008.7.29.
revise : 2101.11.28.
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