発表されると同時にやはりウォルターのデヴュー・アルバムはものすごい勢いでヒット・チャートを駆け登り始めた。クリスマスを迎える頃には始めのシングル・カット曲がビルボードでベスト・ヒットにランクされ、トップ40の間に他に二曲が控えているという異例なくらいの大騒ぎになっていた。インタヴューの申し込みが後を絶たず、大きなコンサート・ツアーも即座に実現の方向に向かっていたから、綾が言ったように彼の方でこそ彼女に電話ひとつかける余裕がなくなるほどだ。
正直言ってウォルターは自分の曲がこうまで熱狂的に受け入れられるとは思ってもみていなかった。それまでの経緯もあるしレコードが出せればそれでよく、煩わしいヒット・チャートやスター扱いにはもともと縁遠い作品集だとも思っていたのだ。それが一夜明ければ、である。
プロモーションの企画にも綾自身がその気で手を入れているのだから当然のことだったが、その大騒ぎの中で唯一ウォルターの救いになったのは、彼が日頃から注目している何人かの評論家がこのデヴュー・アルバムを絶賛してくれていることだった。その中にはピート・アーヴィングのような人の名前もある。
ともあれ大忙しであちこち飛び回りながらもウォルターと綾はなんとか会うヒマを見つけてはいた。
プライヴェートばかりではなく招待される集まりにも時間が合う限り一緒に出かけ、しばしば有名なレストランでお食事、そうなって来るとことにウォルターが成功すればするほどスズメがうるさくなって来るのも当然のことではあったろう。二人ともつきあいがあることを隠すつもりは別になかったから、社交欄や芸能関係の記事で友人として扱われるのは一向に構わなかったが、それがタブロイドとなると話は別だ。
年が明けてもアメリカ国内やヨーロッパでのツアー展開が進むにつれてウォルターの人気はますます上がる一方で、彼の記事が音楽誌ばかりではなく雑誌のどれかに載らない週はないほどになって来ると、スキャンダル扱いは最も避けたいものになっていた。
五月になって春が訪れる頃やっとファースト・アルバムの話題も落ち着き始め、セカンドの準備も兼ねてウォルターはしばらく休暇が取れそうだったから、綾は久しぶりにクルーザーを出そうと彼を誘った。綾はクリスマス・イヴに十八才になり、もうすぐ初めて会って一年になろうとしていたが、どちらも別れるつもりなど毛頭なく、ますますお互いが必要になり始めてもいる。
けれどもバハマで会う約束をして二、三日してからドリーからとんでもない話が舞いこんで来たのだ。綾がニューヨークのオフィスで仕事をしているとインタ・コムのブザーが鳴った。
「何?」
― RMCレコードのレヴァイン部長からお電話が入っています。
「用件は?」
― お急ぎのご用でどうしても直接お話になりたいそうです。
「つないで」
切りかわってドリーの声が聞こえて来た。
― 綾?
「うん。久しぶりだね。みんな元気?」
― まあね。それより早く貴女の耳に入れておきたいことがあったの。
「なに」
― ウォルターのことよ。
綾は表情を曇らせた。
「どうかしたの」
― 貴方たちこのままだとウィークリー・クロニクルにスクープされるわ。言ってることわかるわね。今までみたいなお友達扱いじゃなくてウォルターのデヴュー前からのことよ。私もたった今知り合いのコラムニストから聞かされてびっくりしてるの。
綾は思わず机に身を乗り出していた。
「どういうこと」
― あの三文雑誌がRMCと犬猿なのは知ってるでしょう。
「うん」
― 貴女のお父さまがスキャンダル・メイカーで有名だった頃から、ずいぶんひどい記事を売れるとなれば何でも書いて。
「そう。で、修三さんが一度本気で怒って裁判沙汰にまでしたって聞いてる」
― その経緯があるかららしいんだけど、RMCのアーティストについてはことにひどいの。
「・・・・・」
― しかも今度はその娘と今一番RMCが押してるウォルターとのネタだから。
ドリーの話によると綾が恐れていた中で最低最悪の記事になりそうだった。
もともとウォルターがいくつかのレコード会社と契約の話がありながら最終的にサインしなかったのは、どのレーベルもウォルターを三文アイドル・スター扱いでデヴューさせたがったからだ。なまじ彼の外見が良すぎたからでもあるが、そうなるとリリースできる曲にも制約がついて来るし、何よりもウォルターが自分の曲を聞いて欲しいと思っているファン層とすれ違うのは目に見えていた。作りもののポップ・アイドルになんか彼は絶対になりたくなかったのだ。
今となってはそのあたりのことも笑い話で、かえってそんな彼の音楽至上主義的な側面も耳のいい欧米の音楽ファンを納得させる要因になっているが、だからこそウォルターは一時だけチャートを登って忘れ去られるような単なるアイドルではなく、何年たとうと何十年たとうと音楽史から名前が消えることのないアーティストとして認められようとしている。ウォルターの成功は彼ばかりではなく綾にとっても、そしてRMCレコードにとってもそうでなくてはならなかった。誰もがウォルターに期待しているのは虚像ではなく名実ともに遜色のないロック・アーティスト、本物のスーパースター以外のものではない。
ところがすでにいくつものカヴァー・ストーリーで語られているようなそうしたウォルターの実像、― ダンが的を射た形容をしたように、音楽バカで世事にうとくて間がぬけているわりには、一旦言い出すとテコでも動かないという ― が虚像だと受け取られるような記事が出たとしたらどうなるだろう。
レコード会社の会長の娘と出来上がっていて、その完全なバックアップでデヴュー作とも思えない贅沢三昧のレコーディングでディスクを作り、終始彼女の力で現在を築いた ― 実際の経緯はどうあれ、事実だけを切り離して書けばそれは否定のしようがない。しかもそれが悪意あるスタンスから書かれたとしたら、ウォルターのイメージ・ダウンにつながらない方がおかしい。そんな記事をファンが気にしなくなるまでには、ウォルターにはまだかなりな時間が必要だった。
「ありがとう、ドリー。助かったよ。何とか手を打ってみる」
「お願いするわ。止められるとしたら綾しかいないもの。でも・・・」
「何?」
「ごめんなさいね、綾。ダンも私も責任感じてるの。貴女にウォルターを引き合わせたこと。結果的には綾を巻きこんだのは私たちだわ」
「そんなことないよ。始めはどうでも選んだのはぼくなんだから。気にしないで」
「でも...」
「ダンによろしくね」
「気をつけて」
「ありがとう」
言って綾は通話を切った。
彼女はしばらく考えこんでいたが、ふいに今度は受話器を取り上げて外線にダイアルしている。二、三回のコールで相手の声が聞こえて来た。
― ノートン法律事務所です。
「ハイ、デイヴ。お久しぶり」
― なんだ、きみか。綾だろう。
「当たり。相変わらず儲かってないみたいだね、ぼくが声でわかるようじゃ。電話番もいないわけ?」
― どういたしまして。最近お声がかりがとんとなもんでね。会長はお元気かな。
「うん」
― それはいい。
「実はさ」
― はいはい。
「ウィークリー・クロニクルを買収してほしいんだ。頼めるかな?
」
― 結構ですよ。で、記事を、それとも会社ごと?
「記事だけですめば有難いんだけどね。ダメなようなら会社ごと。もちろんぼくの名前は出さないで」
― スキャンダルかい?
珍しいね、最近の彼にしては。
「修三さんじゃなくて、ぼくの」
綾は事情を手短に話した。
― なるほど。やってみましょう。ああ、そうか。きみももう十八才だもの。そういうこともあるわけだ。
「放っといてくれる。とにかくよろしく」
― 承りました。あ、お困りの時はいつでも当方に。
「そんなに何回もあっちゃ、たまんないよ」
綾が言うと彼は笑ってじゃあね、と言い、受話器を置いた。
デヴィッド・ノートンは修三さんとも長いつきあいがある腕のいい弁護士だ。相変わらず儲かっていない、などと綾が言ったのは全くの冗談で、秘書ひとり置かないのもどちらかと言えば公明正大な仕事より表に出ないゴタを片づける方を専門にしているためである。表立っては加納家と何のつながりもないから、こういう場合に昔修三さんが役に立ってもらっていた。
綾は受話器をクレイドルに返すと椅子に深くかけ、窓の外に広がるマンハッタンに目をやった。地上八十階、三百メートル近い高さから見渡す都市に陽が沈んでゆこうとしている。それを眺めながら綾はやっとウォルターと別れる決心をつけようとしていた。いずれはそうしなければならなくなるとわかっていながら続けて来たことだが、これ以上なりゆきまかせにしておくのは、どちらにとっても思わない危険を招くことになりかねない。けれどもこの時でさえ綾は自分がそう決めさえすれば全ておさまることだと思っていた。
結局のところ彼女もまだ子供でしかなかったのである。
Book1 original text
: 1996.10.15〜1997.1.15.
revise : 2008.11.4.
revise : 2010.11.29.
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