快晴の一日が終わろうとする天空を、今日最後の陽光が染め上げてゆく。優しく吹き過ぎる風に乗って雲の断片が渡り、無数の色彩を受けて煌いていた。太陽は闇と静寂を導いて水平線の彼方に姿を消そうとしていたが、まるでゆっくりと自転する地球が刻む時間を象徴するようにその終焉は緩慢だった。
綾とウォルターは約束通り久しぶりに二人でクルーザーを沖に出し、デッキで自然が繰り広げる壮麗な饗宴とすっかり春のものになった風を楽しんでいる。綾がデイヴ・ノートンにウィークリー・クロニクルの買収を頼んでから既に二週間が過ぎようとしていた。
「どう、セカンド・アルバムの進み具合は」
綾が尋ねるとウォルターはにっこりして彼女を見た。
「悪くないよ。今度のはニューヨークに落ち着いてじっくり作るつもりだし。ファーストよりずっとアコースティックな感じにしようかと思ってるんだ。思いきってギターだけで歌ってみたりとか。・・・前のはいろいろやりたかったアイデアを何もかもやってみたって感じだったからね」
「なるほど。ま、今のウォルターなら何やったってみんな大喜びしてくれるって感じだけど。いいかもね、そういうの」
「そう思う?」
「うん」
「正直言うとね、迷ってたんだ。なにしろあのファーストがこんな騒ぎになるとは思ってなかったからちょっとパニクってて。前のよりいいものを作らなくちゃってプレッシャーあるから派手にした方がいいのかな、とかね。でもさ、本来ぼくは音楽に関する限り絶対やりたいようにしかやるまいって思って来たし、その方が正解だと思うんだ」
「賛成」
ウォルターは綾を抱き寄せると額にキスしてありがとう、と言った。
「綾がそう言ってくれると迷わないでやれるよ」
彼女は少し笑ったが、ふいにまじめな顔で彼を見上げた。
「あのね、ウォルター」
「何?」
「ぼくはいつでもウォルターの味方だから。それだけは忘れないで」
「もちろんよく知ってるよ」
「こんな風にはもう会えなくなっても・・・」
「え・・・」
「ウォルター」
言って綾は一度目をそらしたが、すぐに決心して真直ぐに彼を見た。
「もうこれ以上続けない方がいいと思うんだ」
ウォルターは聞いた言葉の意味がすぐには理解出来なかった。けれどもそれがどういうことか分かった時、あまりの唐突さに彼は茫然としていた。
「綾・・・」
「聞いて、ウォルター。実はつい十日位前、危ないところでぼくたちのことが記事にされるところだったんだ。出る前に止めたけどね」
「記事って・・・」
「ウォルターのデヴュー前からのことだよ。ぼくが殆ど独断でバックアップして来たこととか、レコーディング中ずっと一緒にいたこととか。それにウォルターの昔の恋人のことまで並べてまるで平気で女の子利用するプレイボーイみたいな書き方して」
「そんなこと・・・」
「わかってるよ。そんなのねじ曲げた解釈だってことは。でも、せっかくこうして何よりもウォルターが望んでいたように全て展開しているのに、水を差すような記事をわざわざ書かせることもないだろ。成功してる奴がいればどんな小さなことでも、なければでっち上げてでもその名前で商売しようとするのがタブロイドなんだから。ぼくたちが続いている限り、また同じような見方をされないとは限らない」
「ぼくは構わない」
ウォルターがいつもの穏やかな彼からは想像もつかないくらい鋭い調子で否定したので綾は彼女らしくもなくびくっとした。
「ウォルタ・・・」
「綾。聞きたいんだけどね」
「何?」
「きみは・・・」
彼は綾の一方的な言い分が相当頭に来ているらしく、すぐには続けられなかった。声が大きくなりすぎないように落ち着いてからウォルターはやっと言った。
「きみはどうなんだ。そんなことくらいで簡単に別れられるくらいにしか、ぼくのことを考えてなかったってことなの」
「違・・・」
「違わないよ」
「・・・・・」
「そりゃ、ぼくだってわかってる。きみにとってぼくがどれほど取るに足りないかくらい・・・」
「取るに足りないなんて言ってないだろ」
「言ったも同じだよ。きみはそんなばかげた記事ひとつで簡単にぼくに別れようと言う。
そう言えること自体がぼくのことなんかいつどうなってもきみには何ともないってことじゃないか。平気で女の子利用するだって?
きみを?! そうだったらどんなにいいか!
綾、ぼくはきみのことを愛してるんだよ。愛してるんだ!」
「ウォルター・・・」
「黙って聞けよ。きみとつきあい始めてからぼくが何を考えていたか教えてあげるから。ほくはきみに相応しくない、ぼくはきみに何もしてあげられない、
ぼくはきみの側にいる資格がない。そりゃそうだよね。きみは正真正銘、上流階級のお嬢さまで、ぼくは両親の顔もろくに思い出せない孤児なんだから。
生まれて初めてだよ、ぼくが自分をそこまで無力だと思い知らされたのは。きみにとってこんなことは気まぐれかも知れないとか、より悪ければ遊びのひとつかもしれないとか、
いつまできみが会ってくれるだろうとか、この一年ぼくはずっとそんなことばかり考えてた。
でもぼくは何が起ころうと、どんなに不安だろうと、自分から別れようなんて絶対に言えなかった。絶対に、だ」
ウォルターがここまでまじめに怒ったのを綾は初めて見た。いつも優しくて穏やかで、どんなにでもあまえさせてくれたから、綾は彼が決して弱くもなければいい加減にものごとを済ませてもおけない性質だということを忘れてしまっていたようだ。
綾だってもう続けない方がいいと言うまでに考えなかったわけではない。けれども今初めて自分は考えたつもりになっていただけだということに彼女はやっと気がついていた。それは綾が別れると言えばウォルターが何も感じずに承諾してくれると思っていたということでもある。そして心のどこかではいずれ別れるつもりで彼とつきあっていたことにも改めて気がついた。
「綾。ぼくはきみを見損なってたのか。きみは違うと思ってたのに。きみにとってはやっぱり気まぐれなお遊びで、今までもあったしこれからもあることでしかないの」
「違うよっ、今までだって一度も・・・」
「信じられないね。どうせきみみたいな子には人間の感情とか愛情の重みよりウォール街で動く株の方が価値があるんだ。ぼくとつきあったのだって、きみに熱を上げているぼくにいい曲を書かせるためだったんじゃないのか。それでついでにしばらく遊び相手にすればいいんだものね。それで最後はあまりきみの名前にキズがつかないうちに別れたいってことなんだろ。でも言っておくけどぼくは絶対にイヤだ。きみとは別れない。今までのこともこの際全部雑誌に喋ってやる。そうしたら何も別れなくたって良くなるじゃないか。言いたい奴には言わせておくよ」
言っている間にコントロールが効かなくなってきた彼は綾が絶対につっかかって言い返して来ると思っていたし、ここまで言った限りは彼女の性格から言ってバックアップもRMCとの契約も一切ご破算にされても仕方がないと覚悟していた。綾のプライドがモンブランより高いのは彼にだってもうよく分かっている。それでもウォルターは言わずに済ませることが出来なかった。彼は綾が自分の成功に大きく力になってくれた恩人だからということでさえすっかり忘れてしまうほど彼女のことを愛していたから、その綾がこうまであっさり失望させてくれたこと自体があまりにも腹立たしいことだったからだ。
けれども綾の方は怒るどころかウォルターがこうまで本気で怒り始めた時にとんでもない間違いを自分はやったと気づいて茫然としていた。人間の感情とか愛情よりウォール街の株の方が価値がある、ようなことを綾はやっていたのだ。
ウォルターといるのは楽しかったし、彼の考え方も音楽も彼女は好きだった。良い友人だとも思っていたし、すぐれた芸術家だとも思っていた。が、彼女には彼より仕事の方が大切だったのである。もしどちらか選べと言われれば決して彼女にウォルターを選べるわけなどなかったのにだ。しかも綾はコルトのことで彼にうそをついてから必ずいつか別れなければならなくなると分かっていた。そうでありながら調子よく彼と遊び歩き、何度も夜が明けるのを彼の腕の中で眺め ― 最も恥じるべきことに ― 愛しているとまで言ったのだ、自分は。
綾の性格ではこういう場合、自己嫌悪のどん底まで落ちこむ。自分がどれほどバカかを思い知らされた時ほど辛いものはないのである。たとえ悪気はなかったとはいえ、やったことはじゅうぶん悪い。しかもさもそれが当たり前のことのようについさっき、もうこういう会い方はうっとおしいことになりかねないからやめた方がいい、みたいなことをいけしゃあしゃあと言ってしまったのだから救いようがない。ひとの、本当の、どこにも嘘のない想いを、そういう扱い方をした。それだけで充分だった。
綾が何も言わないでいるのをどう受け取ったのかウォルターは続けて言った。
「ぼくがどんなにきみのことを大切に思っていたか知りもしないで。さぞ面白かっただろうね。身のほど知らずをからかうのは」
言い切ってもまだ彼は綾がまさか泣くとは思ってもみていなかった。けれども綾はウォルターが言い終わるか終わらないうちに両手で彼を抱きしめて、何も言えないまま泣いていた。
「綾・・・?」
それに気づいてウォルターは今度こそ心の底から驚いた。言ったことが言ったことだったから、いくらなんでも言いすぎただろうかと、根っから優しい彼のことで既に後悔し始めている。何度も何か言おうとするのだが声にならずに泣きじゃくっている綾をしばらく抱いていてやってから、とうとう彼は折れてもう泣かないで、と言った。
綾は首を横に振っているだけだ。しかたなく彼は綾をキャビンに連れて行ってソファにかけさせ、まだ泣いている彼女の横にかけて長いこと見守っていた。月あかりの水面で波が船に寄せる音だけがずっと響いて来る。ウォルターは綾を抱き寄せて、長い長い最後の夜を、どちらも何も話さずに過ごした。
夜明け近くなってやっと綾は口が利けるようになり、一言だけ小さな声で謝罪の言葉を呟いた。それで、ウォルターは全くお手上げになってしまった。ほんの短なくちづけひとつで彼は妥協し、以来二人は友達以上のものではない。
******
綾が二、三日して東京の本宅に帰った時、真夜中をすでに過ぎていたからどの窓の灯りもすっかり消えていた。
ジャガーをガレージに入れ、彼女は自分のカギでドアを開けてエントランス・ホールに入って来たが、誰もいないと思っていたのに階段の側で壁にもたれて立っていたのは修三さんだった。窓から晧々と注ぐ月灯りで綾はそれに気づいたが、全く無視して通り過ぎようとした。けれども、彼は彼女が階段の手すりに手をかけた所で呼び止めた。
「綾、戻ったのならただいまくらい言うものだよ?」
綾は彼の言うのへは答えないで全く別な質問をした。
「ねえ、修三さん」
「何だい」
「ぼくは結局あなたから一生離れられないってことなのかな」
彼は少し考えてから答えた。
「少なくとも今はね。私はきみをどこにも行かせるつもりはない」
綾は黙って彼を見ている。
「一生、かもしれないよ」
付け加えた彼の声はからかうように笑っていたが、その底に何があるのか綾にはわかっている。彼女は深いため息をつくとただいま、とだけ答えて二階へ上がって行った。それを見送って彼は満足そうに微笑していた。
Book1 original text
: 1996.10.15〜1997.1.15.
revise : 2008.11.17.
revise : 2010.11.29.
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