スクリッティ・ポリッティの中心的人物。スクリッティ・ポリッティというバンドの変遷から見ても、スクリッティは事実上彼自身だと言っても過言ではなく、唯一のオリジナル・メンバーでもある。6フィート6インチの長身。
ソングライターであり、バンドではヴォーカル、ギターを担当。1956年6月22日、サウスウエールズのカンブランに生まれた。
本当のファーストネームは絶対に明かさないが、グリーンという名前は16歳の時に自分で決めてからずっと使っているらしく、今ではお母さんにもそう呼ばれているとか。子供の頃の苗字はストロメイヤー(ドイツ系の姓)だったが、そのせいで学校ではいじめられたこともあるという。
のちに両親が離婚し母親が再婚したため、義父の苗字であるガートサイドを名乗ることになった。グリーン自身はこのガートサイドという姓が気に入っているらしい。
学校では成績がよくなかったにもかかわらず、(グリーンの言うには、テストの時は二日酔いだった、そうだ)リーズ・アート・スクールに奨学金つきで席を得る。しかし教師や生徒の考えのなさに嫌気がさし、20世紀において美術は堕落しきったと結論。
アートスクール時代は友人たちとスクオットし、山のような哲学書を読みまくって、毎晩ギグに出かけて行くという生活を送っていたらしい。哲学的背景を持ったスクリッティ・ポリッティというバンドを彼が結成したのは、丁度この頃のことだ。当時はパンク・ロック・バンドとして活動していた。その頃のメンバーが解散するまでに、1枚のアルバムと数枚のシングルをリリースしている。
結局、パンクの目的性のなさに失望した彼は、ポップ・ミュージックに傾倒してゆくことになるが、特にブラック・ミュージックへの執着は尋常ではない。当時、お気に入りのアーティストはビートルズ、エルヴィス、リトル・リチャーズ、シック、そしてザ・ジャクソンズ。マイケル・ジャクソンの“オフ・ザ・ウォール”のような作品を聞いて、パンクには戻れなくなったという。
パンクに対する失望と彼自身の政治性、さらにデヴィッド・ギャムソンとフレッド・メイハーという二人のニューヨーカーに出会ったことから、スクリッティ・ポリッティはすんなりポップ界に移行することとなった。その結果、2枚のアルバムと数枚のヒットシングルが生み出されたのである。2枚のうちの最初のアルバム“キューピッド
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サイケ85”では、彼はスタジオ使用料、ミュージシャン、プロデューサー、マネージメントなどの費用をヴァージンから得たロイアリティの前渡し金で支払っている。
最終的にはアルバムに収められた3枚のシングルを制作するためにグリーンが得た金額は、はっきり言ってハンパではない。なんと、50万ドルである。
彼の容姿はその使う言葉と同じくらい洗練されたものだったので、80年代にはよくピンナップとしても登場するほどだった。雑誌などは、彼の写真を撮る前に、メイクアップ・アーティストの費用について交渉しなければならなかったほどだ。
彼は楽譜を読んだり書いたりはしない。ギターを弾いているとまず曲が浮かんできて、それから歌詞に取り掛かるのである。そして最後には曲の全体像にフィットしたものが完成される。
哲学的かつ政治的思想性のために、グリーンの歌詞はすぐに彼の書いたものとわかる。大変長く、テーマに関する表現が、符号のようにちりばめられているからだ。
また、彼はかつて法律家を志していたこともある。
そして一時期はユーリズミックスやチャカ・カーン、BEF(ヘヴン17)などのアーティストとコラボレートしていたこともあった。それらの関連作品についてはこちらのリストをご参照下さい。
1991年以来、スクリッティ・ポリッティはグリーンひとりになり、その頃から新作に取り組んでいたようだか、最近までその内容に満足出来なかったらしい。
(この文章はScritti
Politti UKの原文テキストに一部加筆したものです。)
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