物語の中の象徴性 *** 詩句には物事の本質が宿っている、というお話 ***
哲学的な思考というものは、たいてい世の中の不条理に対する怒りや疑問を出発点としています。歴史を少しでも学んだことのある人ならわかると思いますが、人間の歴史は戦争の連続でした。どうしてこんな悲惨な歴史しか作ってこられなかったのか、とか、現在の社会にも存在している不平等や人種差別など、そういうものに対する疑問とか怒りに端を発して、そこからどうすれば人間はもっとより良い生き方ができるようになるのか、という命題に対する挑戦が哲学なのです。 まあ、こういう疑問や怒りがあるからグリーンなども一時期、共産主義に活路を見出そうとしたりしたのだと思うんですが、こういうのは生まれつきそういう、ある種不幸な性質に生まれついた人間にしか理解しうる思考展開ではないかも知れません。ともかくやはり「もっと住みやすい世界にならないだろうか」なんて考える人間にとっては、これはもう「正義の戦い」と言ってもいいようなもので、世界や弱者のために何かしたい、何かするなんていうのは実にヒロイックな気分になれるものでもあります。世の中にはテロリストを始めとして、こんな人間は掃いて捨てるほど実在していますしね。でも大抵はその辺どまりで、なかなか「この世に絶対的な正義なんてない」という真理にまで思考を発展できる人間は見かけません。けれども、その真理に至ってしまった人間は、もう人のために何かする、とか世の中を変えるなんてことに正当性を見出せなくなってしまうんです。だって、自分が正しい、と信じられる根拠が何もないということに気づくわけですから。そして「世界を変える」なんてことが如何に不可能に近い事か、また例え変えることが出来たとしてもその社会に正当性などあるのか、という点にも気がついてしまうわけです。社会制度を完璧に平等にしたところで人間そのものが同程度の能力を有して生まれて来るので無い限り「平等な社会」なんてありえないわけですし、人間そのものに内在している「回りより優越していたい」という本能的欲求はどうすることもできないものですから。 そういうわけで、かつてはヒーロー気取りで正義のために戦うぞ、と思っていたものが、「ああ、もうどうしようもないんだな。正義なんてものが、そもそも幻想だったんだな」と哲学的に悟りを開いてしまった時に、別れを告げなければならないのが当の自分の理想像そのものだということになります。それは、まあなにしろ理想ですからとても美しいものなんですが、だからこそそこから転落した現在の自分は、堕落し汚れきった存在と認識せざるをえなくなるわけですね。そういった点も含んで前章までは言葉が何らかの概念存在を象徴するということをお話してきましたが、今回は更に物語詩における象徴性について書きたいと思います。前章でも部分的に取り上げたアノミーの「Brushed With Oil, Dusted With Powder」の全訳をまずご紹介してみましょう。よく出来た物語象徴詩なのでサンプルとしても大変面白いと思います。 Brushed With Oil, Dusted With Powder
さて解説です(いきなりですが...)。 西洋倫理世界において、愛は博愛に通じ、自分を投げ捨てて他に奉仕する心である、と前に書いたと思います。そして、グリーンはこの理想的愛に反する一般的には不道徳とされる考えの方に魅力を感じ、愛そのものを西洋倫理に言うものとまったく違うもの、極論すれば正反対のものとして定義している、というのは前章までにも書きました。 そこでこの歌詞なんですが、一見何かの事件が起きて警官に現場検証されている、という風景が見えてくるのに、なんでいきなり最後でなんの関係もないエイブラハムとその女の子が出てくるのか、そのままではあまりにも支離滅裂ではありませんか?でもこの歌詞にはちゃんと始めから終わりまで意味が通っているのです。 まずタイトルですが、これは「汚れた状態」を表現していることがお分かり頂けるでしょう。そして何か事件が起こった。 この「事件」は実際に起こった殺人だか強盗とかではなくて、グリーン自身の心の中で起こった事件と見るのが正しいと思います。その「事件」は彼を完全に変えてしまうような心理的な変化のことではないでしょうか。つまり、「今まで信じてきたことの放棄」であると思います。キレイな理想を追っていた人間にとってそれを放棄するということは堕落です。ですから私はそれがBrushed With Oil, Dusted With Powder、つまり「汚れた状態」そのものではないかと考えます。 この「事件」を実際の世界で起こった何らかの物理的な事件とダブらせて「現場検証中」という風景を作り出し、一見物語仕立てにしたのがこの詩です。ですからこの歌詞の真意を知ろうとするならば、ここから先の部分こそが大変重要であると言わなければならないでしょう。警官たちとパトカーでオレンジ・カウンティまで行く、そして彼らがそこで見つけたものは、A pack of lights and key なわけですが、ここで重要なのは特にlightsという単語です。まず光くらいにしか思いませんよね。風景だけを思い描いていたのでは、これ以上深読みは出来ません。でも英単語の特性と歌詞の真意からこのlightsには単に光という以上の意味があるのでは、と考えるのが面白いところなのです。そこで辞書を引いてみますと、lightが複数形のlightsになった場合、「知識、考え、見解、知力」という意味があることがわかります。つまりここは「ひとまとまりの考えと鍵を見出す」と直訳できるわけで、でもそのまま日本語にしたのではネタがわれてしまうので訳の方も象徴性を持たせ、「一筋の光明」としてみました。これは日本語でも「混沌の中に射す一筋の光明」みたいな感じで隠喩的に「心理的な発見」を表現することがありますから。 そしてこの次。証拠品として押収されたのは「光(見解、考え)と鍵」なので、警官たちはグリーンが何をどこまで知ってるんだろうか、という顔で見ている、という風景が目に浮かびます。で、そこからが彼の告白。「そうだよ、実際にはもう何もかもぼくの中では終わってしまっていて、変えることは出来ない。何故ならぼくを見出し今強く引きつけてしまったものがある。かつては美しくも思えた、そうあろうともした、それが愛だとも思った、でも今は(先立つ3行は過去形、最後の1行のみ現在形であることに注目して下さい。)誰が何と言おうと、ここ(現在彼をつかんで話さないものとともにあること)にいることこそがすばらしい」というわけです。 だから、最後の一説で聖書を代表するエイブラハムのイチオシである女の子、天使、つまり西洋倫理哲学における「愛」の定義を否定した表現が生まれる、という結末が生きてくることになるんですね。物語の中に哲学的象徴性と主張を隠した、実に見事な歌詞だと言えるでしょう。 でもその「真実の愛」とは何か、つまり本当に愛と呼べるものが何か、というのはまた日本人にとっても難しいところです。 これはあくまで私の見解ですが愛というのは無理に持つもの、持たなくてはならないもではなくて、自然に自発的に生まれてくるものだと思います。恋愛の場合、一般に多くの人は単なる「欲」、例えば「独占欲」みたいなものを取り間違えて愛と呼んでいるようにも思いますが、そういう愛の美学に反するようなコトをやってる人間に幸福も平穏もありません。 そのあたりについてIntermissionとして書いたものがありますので、ひとつの見方としてご参考になさって下されば嬉しいです。 2003.7.12.改稿
|