INTERMISSION1.  美と悪の方程式

人間は様々な要素の集合体である、というお話

 

歌詞に沿って色々とその解釈をお話して来ましたが、このへんで、こういう解釈の背景にある思想性について、まとめておく必要を感じました。いくらこの単語はこういう意味で、こういう内容で、と説明されても、その背景にあるものが分からないと、なかなか納得いかないかもしれないなあ、と思ったんですよね。それで、今回はまず「BAM SALUTE」でお話したような、「天使と悪魔」という二面性について書いてみます。

「BAM SALUTE」について解説した時、この曲は「グリーンの中の悪魔的人格から聖人的人格への道徳的堕落のお誘いの歌である」と書きました。こう言うとなんだかジギル博士とハイド氏みたいな二重人格を連想してしまうかもしれませんが、これはゆわえるMPD (Multiple personality disorder = 多重人格障害)のような、心理学上の疾患とは何の関係もありません。

「いい人」、「悪い人」と日常私たちはよく人間を善悪で二分して考えがちですが、実際には人間の中には様々な要素が内在しており、そのバランスが各個人の千差万別な性質を構成しているのです。

ちょっと考えてみるとわかると思いますが、例えば慈善事業などには何の関心もなく、社会的なことは一切考えないで自分の日常に埋没しているような人でも、駅前なんかで募金活動をやっていると幾らか寄付してみたり、テレビで悲惨な映像を見たりすると何とか力を貸してあげたいと思ったりするものではないでしょうか。もちろん、そういうことを全く考えない人間もいます。また逆にそういうことばかりが気になるタイプの人もいるでしょう。つまり人間の中には日常全く利己的に生きているように見えても、自分の気がつかない所に「良心」と呼ばれるものが幾らか生きていたり、また逆に、どれほど社会奉仕に日常を割いているような人でも、どこかに利己的な自分を見出すといったこともあるのではないかと思うのです。「天使と悪魔」とは、人間の中に在る、こうした様々な要素の代表選手と言ってもいいかもしれません。

グリーンのような人の場合、一時期は共産主義に傾倒していたことからも分かる通り、もともと社会性の強い人格だと言えると思います。人のために何かしてあげたいとか、社会を良くしたいとか、まあポール・ウエラーなんかもこの類なんですが、要するに社会の現状に疑問を抱き、改善するために何かしなくちゃ、というタイプですね。これはヨーロッパ社会の倫理観からゆけば社会的にとても好ましい状態で、それ故に「天使」とか「聖人」とかいう要素と本質的に合致するわけです。

一般に「悪魔」とは、こうした社会的に好ましい状態にある人間を堕落させる役割を果たしますが、殆どの人間の中には仏教で言う煩悩、キリスト教で言うなら原罪、つまり潜在的な欲望が生まれつき内在しています。宗教や社会が好ましい人間像を描き、そうなるようにと教育する一方で、人間の中には必ず利己的に振舞いたがる要素が反発しているとも言えるでしょう。この反発する要素が「悪魔」なのです。

しかし、グリーンが「BAM SALUTE」などの作品で頻繁に引き出してくるこの「悪魔」的な要素は、単に堕落を意味するものではありません。そしてだからこそ、彼は哲学的に特異かつ優れているとも言えるのです。彼は単に「理想」を投げ出してしまったわけではなく、「理想」の中にある「欺瞞」に到達しているからこそ、エイブラハムの天使を否定して、「悪魔」に固執しているとも言えるでしょう。

人間には先にも書いたように潜在的な欲望が内在しています。そして西洋的な倫理哲学においては、それを抑制せよと命じます。しかし抑制するということは、自我の中にいつまでも反発する要素を抱え込み続けることでもあり、ここに行動だけで「愛」の伴わない「偽善」が発生することになるのです。そもそも「愛」とは何でしょうか。恋愛、家族愛、人間愛など、いろいろな意味合いに用いられる「愛」という言葉ですが、おかしいと思いませんか?

何がおかしいかと言うと、恋愛は最も利己的な感情です。しかし翻って人間愛というのは通常その対極にあるものとして表現されます。つまり利己的ではない「愛」なのですね。この一見全く正反対に見える要素を同じ「愛」という言葉を使って定義している、これが概念定義の法則上、最も受入れ難いものなのです。一つの言葉には一つの定義しか当てはめてはならない、そうしなければ結局その言葉はダブルスタンダードを持つことになってしまうからです。「愛」という言葉には歴史的な事情から、このように事実上二つの、しかも正反対の意味が付加されてしまったために、その真の意味が混沌としてしまっているとも言えます。けれども「愛」の意味はもともとたった一つしかありません。少なくとも私はそう思っています。それは「自然発生的な感情、若しくは欲求」です。そうであればこそ、愛は他のためにあるのではなく自分を満たすもの、言い換えれば「LOVE IS THE DRUG」であり、そのような内的な欲求から出たことを相手(恋人だろうと、家族だろうと、社会だろうと、対象は何であれ)受入れてもらえれば、そこにはやるのもらうの下世話なかけ引きや不純な動機を伴わない、純粋な感謝のみが残るのではないでしょうか。更に最近では私は「墓場まで消えないもの」のみしか「愛」と呼ばなくなりました。人間死んでしまえば変わりようがありませんから、死ぬまで変わらないものだけを「愛」と定義すれば、それは同時に「永遠」になると思うからです。逆に言えば、こう定義した時に限って、「真実の愛のみが永遠」と言い切れるように思えます。これはあくまで私個人の「愛」に関する定義ですが、けれども、ここまで究極的に逆定義してしまえば、これに当てはまらないものを「愛」と呼ぶ必要もなくなり、逆にこの言葉の真意をはっきりさせることが出来るとも思います。何故そうしなければならないかと言えば、勿論「偽善」を排除するためです。それは愛の美学に反するものであり、人間の成長を否定し抑圧するものでもあります。

殆どの人間には生まれつき利己的な欲求が内在している、と書きました。しかし、同時に人間は変化しうる存在でもあるのです。

確かに人間には「まず自分が幸せでありたい」と願う気持ちがあります。他人よりも自分が、という文字通り利己的な感情ですね。けれどもそれにフタをして抑圧してしまっては、何にもなりません。一生それを引きずっていては、人間的に成長することも出来ないからです。まず、どのような自我であれ、自分の内在を良く知ることから始め、必要であれば徹底的に追求して自己を解放することが大切なのです。自分の中に好ましくないと思われるものがあるなら、その正体を掴まなくては根絶出来るわけがありません。そういう葛藤が人間的な成長に通ずるのです。しかし一旦社会的に良いとされる人間像を一方的につきつけられて、それに従ってのみ生きようとすれば、当然その型にこだわることしか出来ません。つまり感情がついて来ないのです。だからこそ、そういうものは「偽善」に陥りがちになってしまう。そこには何の変化も望めないし、結果的に人間的な成長も在り得ません。理想的な自分を実現するためには、人それぞれが努力する以外無く、救われたいと思えば、自ら努力する以外に方法はないのです。そういう葛藤を経て、人間的に成長出来た個人のみが「人類愛」などという言葉を「自然発生的な感情」として持つことが出来るのではないでしょうか。それは全く恋人や家族を思うのと同じ次元の「愛」なのです。釈迦が思想的に大変影響を受けたと言われるウパニシャッド哲学には梵我一如という概念があります。これは自我と宇宙を合一させるという概念ですが、それは真の意味での「人類愛」と通底するように思います。必要なのは、そのような人間愛を持つことのできる人に「なること」であって、行動だけ真似ることではないのです。行動だけ真似るのは簡単ですが、真にそのような人格に成長するのは至難です。だからこそ、自分を騙さず、その内在に耳を傾けて改善の努力を続けてゆかなくてはなりません。

こう考えてくると、自分の中の「悪魔」は、なかなか重要な存在のように思えて来ませんか。単に否定し、追い立てるのではなく、その声にこそ耳を傾けてみる必要性がある。つまり自分が何を考え、何を必要としているのか、きっちり把握する為には「悪魔」の声を聞く以外に方法がないのではないか、ということです。

また、悪と定義されるものは本質的に嘘偽りの入り込む余地がないものでもあります。だって善性を装うことは社会的に利点がありますが、悪とされるものは当然社会的に排除されますから、誰も好きこのんでそれを装うようなことはしないでしょう? つまり悪というものは、その嘘偽りのなさのために「美」に通じうるのです。そして同時に本当の意味での「愛」にも通じ得ます。だからこそグリーンはエイブラハムの天使を否定し、理想の人間像を説こうとする自分の中の「聖人」をiniquity(邪道、罪、不正)と同格に並べて切り捨てるのではないでしょうか。 

 

 

 

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