Chapter 4

1986-1988 “Provision"

1986

1月−グリーンはデイヴと一緒にチャカ・カーンの‘ラヴ・イズ・ア・ライフタイム’をレコーディング及び共同プロデュースする。

2月−マッドネスが‘ザ・スイーテスト・ガール’のカヴァーをリリースし、UK35位まで登る。
スクリッティはサード・アルバムの制作に入る。

7月−‘ラヴ・イズ・ア・ライフタイム’がリリースされ、UK52位、US53位となる。

9月−アル・ジャロウが‘エル・イズ・フォー・ア・ラヴァー’のカヴァーをシングル・リリースするが、チャート入りはしなかった。
この曲はもともと1983年にグリーンとデヴィッドが書いたものたが、リリースされなかった作品である。

10月−マイルス・デイヴィスが新作‘チュチュ’を発表するが、その中にパーフェクト・ウエイのカヴァーがあり、アルバムそのものはUK74位を獲得した。

12月−ヴァージンより‘スクリッティ・ポリッティ・ヴィデオ・コレクション’がリリースされる。その中には‘キューピッド&サイケ85’からシングル・カットされた5曲のためのヴィデオが全て含まれ、‘ウッド・ビーズ(プレイ・ライク・アリサ・フランクリン)’USヴァージョンも収録されていた。

1987


スクリッティはこの年、いろいろなスタジオでサード・アルバムのレコーディングを行っていた。‘オー・パティ(ドント・フィール・ソリー・フォー・ア・ラヴァーボーイ)’に入ったマイルス・デイヴィスの即興演奏、‘ブーム!ゼア・シー・ワズ’や‘シュガー・アンド・スパイス’のための、ザップのロジャー・トラウトマンによるボイス・ボックス(ボコーダーと似たような音を出す)の演奏などもこの年収録された。
グリーンはUKとUSを行ったり来たりの生活にはまり込み、それが1988年までには彼を非常に疲れさせる結果になった。

8月−マドンナの映画‘フーツ・ザット・ガール’のサウンド・トラック・アルバムがリリースされUKアルバム・チャートで4位まで登るが、その中にはスクリッティの‘ベスト・シング・エヴァー’が収録されており、これは後に彼らのサード・アルバムに入ることになった。



1988


この頃にはグリーン(31才)は自分のレコードを全く聞かなくなり、自分たちのヴィデオも出演したTV番組も見なくなっていた。そうすることで成功に巻き込まれるのを避けようとしていたようだ。

音楽誌も見なくなり、コンサートにも行かなくなった。それでもポップのレコードを買って聞くのだけは楽しんでいたようだ。
パルチザン・マネージメントはまだロンドンのソーホーにオフィスを持っていた。

2月−グリーンの母と義父がウェールズに帰郷。今度は落着くつもり、と宣言したが早いか、3ヵ月後にはまた引越ししていた。

3月−グリーンはスイスのモントルーで、その年のポップ・フェスティバルに出演。

4月−ヴァージンから‘オー・パティ(ドント・フィール・ソリー・フォー・ラヴァーボーイ)’がシングル・リリースされる。すばらしい出来のスロー・ナンバーで、グリーンによると、‘ある関係の終局と世界の真実を知ることの確信について歌った’作品らしい。この作品では、1986年にそのアルバム‘チュチュ’で‘パーフェクト・ウエイをカヴァーした伝説のジャズ・ブレイヤー、マイルス・デイヴィスをトランペットに迎えていた。

5月−‘オー・パティ(ドント・フィール・ソリー・フォー・ラヴァーボーイ)’がUKチャートで登り、13位に達する。

6月−グリーンは‘オー・パティ(ドント・フィール・ソリー・フォー・ラヴァーボーイ)’のプロモートのため、オランダを訪れる。
スクリッティのサード・アルバム‘プロヴィジョン’がUKではヴァージンから、USではワーナーからリリースされる。アルバム・チャートはUKで8位、USでは113位となった。

このアルバムは制作に2年以上かかっているが、テクノロジーの急速な発展がその背景にある(彼らはこの時サンプリングやドラム・サンブル及びリズムのプレイ・バックにシンクラヴィアを用いていた)。また、リハーサルなしでスタジオに入るというスクリッティの仕事のやり方にも原因があったようだ。‘キューピッド&サイケ85’同様、そのコストは大変なものだった。デヴィッド・ギャムソンは前作よりも‘プロヴィジョン’の方が、ヴォーカルもアレンジもずっと良くなっていたと感じていたようである。

7月−‘ファーストボーイ・イン・タウン(ラヴ・シック)’がUKでのみヴァージンよりシングル・リリースされる。この曲は‘オー・パティ(ドント・フィール・ソリー・フォー・ラヴァーボーイ)’の成功に続くことは出来ず、なんとかUK63位に達するに留まった。このB面にはリリースされていないスクリッティの名曲、‘ワールド・カム・バク・トゥー・ライフ’が収録されていた。

8月−‘ブーム!ゼア・シー・ワズ’がワーナーよりUSでシングル・リリースされる。スクリッティはUSマーケットでは、この曲の方が‘ファーストボーイ・イン・タウン(ラヴ・シック)’より適当と考えたらしい。このシングルはUS53位まで登った。B面は‘ワールド・カム・バック・トゥー・ライフ’。
グリーンはこの時まだマンハッタンの家具付きアパートをサブレットしており、ロンドンにも部屋を借りていた。

11月−‘ブーム!ゼア・シー・ワズ’がUKでヴァージンよりシングル・リリースされる。この曲はスマッシュ・ヒットでシングル・オブ・ザ・ウイークに選ばれるくらい歓待されながら、トップ40に入ることは出来ずにUK55位に終わった。これはUSでのチャートと殆ど同じ位置だ。B面はアルバムにも入っている‘フィロソフィー・ナウ’が収録されていた。

年末−グリーンはシングルのプロモーションに嫌気がさし、その上に体調も崩していたので、音楽に関する道具をすべてまとめて、サウス・ウエールズに戻ってしまった。病院に直行しているが、理由は‘極度の疲労’によるもの。しかし彼はすでにその頃、出来のいいアルバム一枚をゆうに創れるだけの新曲のデモを制作していた。
本当に信頼できる一握りの友人にのみ落ち着き先を教え、レコード会社(ヴァージン)にも居所を教えないようにと念を押していた。デイヴとフレッドは他の音楽プロジェクトに主にプロデューサーとして参加するようになり、最終的にスクリッティはグリーン一人となった。

 

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