Chapter 3

1983-1985“Cupid & Psyche 85”

1983

グリーンはニューヨークに移りデヴィッド・ギャムソン邸に滞在する。この頃グリーンのヴォーカルをフューチャーしたデヴィッドの‘スモール・トーク’を録音。フレッド・メイハーも参加し、シックのナイル・ロジャースによるプロデュース作品となった。もともとはデヴィッドのシングルとしてリリースされる予定だったが、スクリッティは既にある程度のファンを獲得していたことから、そのシングルとして発表されることになる。しかしこの時期にグリーンがラフ・トレードからの移籍を決めたため、リリースは見送らなければならなくなった。このレーベル移籍に引っかかった曲はもう一曲あり、それが‘エル・イズ・フォー・ア・ラヴァー’である。

ニューヨークで暮らしていたこともあって、グリーンはニューヨーク・ヒップホップ、ソウル、エレクトロ・ブギから多大な影響を受けるに至り、新しいスクリッティのスタイルを模索し始める。アリフ・マーディンによるチャカ・カーンの‘ウイ・キャン・ワーク・イト・アウト’に深く感銘を受けた彼は、新曲のプロデューサーにアリフを迎えたいと願うようになったが、彼が送ったデモをアリフは大変気に入ったようだ。偶然とは言えアリフはアレサ・フランクリンのようなアメリカの初期R&Bやソウル・アーティストのプロデューサーとしても知られる人物である。

グリーンはヴァージン・レコードと契約、始めの3枚のシングル、‘ウッド・ビーズ(プレイ・ライク・アリサ・フランクリン)’、‘アブソルート’、‘ヒプノタイズ’のレコーディング費用として50万ドル(!)を受け取ることになる。ニュー・シングル制作のためのバンド・メンバーはグリーン、デイヴ・ギャムソン、フレッド・メイハーとなり、アリフがプロデューサーとして干渉しすぎない立場を取ったため、どの曲のアレンジもグリーンの創ったデモのまま変えられずにレコーディングされた。スティーヴ・フェローンが‘ウッド・ビーズ(プレイ・ライク・アリサ・フランクリン)’、‘アブソルート’でドラムを担当していた。

 

1984

グリーンの母と義父がスペインに移住したため、彼(27才)は、ロンドンのアイリントンにフラットを借り、アメリカに来たときはデイヴ・ギャムソン邸に滞在することになったが、デイヴもフレッドもこの頃まだニューヨークで両親と一緒に暮らしていた。

4月−‘ウッド・ビーズ(プレイ・ライク・アリサ・フランクリン)’がヴァージンからシングル・リリースされる。この曲はスクリッティ初のUKトッブ40入りとなり、チャートは10位まで上がった。同時にUSダンス・シーンでは人気を博するが、USメインチャートでは91位に留まる。 この曲にはもとマイルス・デイヴィスのベーシストであったマーカス・ミラーがフューチャーされていた。

グリーンはこの曲のアイデアを‘W..o..o..o..’で始まる、デイヴ&アンセル・コリンズの‘ダブル・バレル’(1971年3月のUKNo1、USNo8)から得たと言っており、同時に彼のアリサ・フランクリンへの感銘がこの曲にミックスされたようだ。 ジャケットはデザインKBのキース・ブリードゥンとの共同制作によるもので、この後彼はスクリッティのレコードジャケット・デザインにずっと協力することになる。キース・ブリードゥンはこの他にも多くのアーティストのジャケット・デザインを手がけており、その中にはABCの‘ハウ・トゥー・ビー・ア・ジリオネア’のアルバム及びシングルも含まれている。

7月−ヴァージンから‘アブソルート’がシングル・リリースされる。これは‘ウッド・ビーズ(プレイ・ライク・アリサ・フランクリン)’の成功を引き継ぎ、UK17位まで登る。この年の間にスクリッティのファン・クラブである、スクリッティ・クラッシュ・クルーがスタートする。またグリーンはイタリアのヴォーグ誌にモデルを依頼され、引き受けることになった。

 11月−‘ヒプノタイズ’がヴァージンよりシングル・リリースされる。スクリッティ・ファンの間では非常に人気のある曲だが、残念ながらUKでは68位に留まった。

1985 

4月−デイヴとフレッドはニューヨークを離れ、ロンドンのフラットに移り住む。

5月−‘ザ・ワード・ガール’がヴァージンよりシングル・リリースされる。この曲のレゲエ風のムードは見事に受け入れられ、それまでのスクリッティでは最高の、UK6位にまでランクされることになった。ザ・ワード・ガール’はアルバム・トラックの中で最後にレコーディングされたものであり、最も時間がかからなかった曲だという。アイデアはグリーンが自身の歌詞の中に、よく‘ガール’という言葉を用いることに気付いたことから来たらしい。このシングルは‘ザ・ワード・ガール’のイストゥルメンタル部にハードなランキング・アンのラップをかぶせた‘フレッシュ・アンド・ブラッド’とカップリングされているが、グリーンは以前にランキング・アンの2枚のアルバムを聞いて、彼女はこの曲の感傷的な雰囲気が気に入るかもしれないと思ったらしい。ラップ部分の歌詞は彼女が書き、4月にレコーディングされた。

‘ザ・ワード・ガール’のヒットにより、スクリッティはトップ・オブ・ザ・ポップスに出演する。この時グリーンは運悪くひどい風邪をひいていたため、番組を乗り切るためにビタミン剤を射たなければならなかったが、これは非常に苦痛をともなうものだったと言う。

6月−スクリッティの2枚目のアルバムである、‘キューピッド&サイケ85’がヴァージンよりリリースされる。この作品はスクリッティ最高のUKアルバムチャート5位、同US50位を記録する。制作には18ヵ月を要し、スタジオの使用時間も長かったため、大変なコストがかかることになった。(彼らが使ったスタジオにはパワー・ステーションも含まれており、その使用料は1時間350ドルにも登った!)またその頃主流を占めた高価なフェアライトをサンプリングに用い、デイヴとフレッドもグリーンに劣らず作品に貢献している。ここに収録された‘スモール・トーク’は、1983年にナイル・ロジャースとレコーディングされた曲のリメイクである。

7月−スクリッティは日本、オーストラリア、合衆国を含む、インタヴューやテレビ出演などのワールド・プロモーション・ツアーを完了する。日本では6日で40のインタヴューと40のフォト・セッションを行い、ファンキー・トマトやテレジオ7などのテレビ番組にも出演した。その後グリーンはバルバドスで休暇を過ごすが(彼にとって3度目のカリブ滞在)、デイヴとフレッドは半年近く離れていたニューヨークに戻った。

スクリッティ・クラッシュ・クルーの創刊号が制作されたが、これはジョフ・パーキン編集、キース・ブリードゥンのデザインによるものだった。

7月/8月−スクリッティは9月に予定されている1ヵ月のUK及びアイルランドのコンサート・ツアーのために8週間のリハーサルに入る。コンサートの日時及び場所も決定されていたが、10日ほどしてバンドは8週間のリハーサルではフルでセッション・ミュージシャンとのコンサートを行うには短すぎると判断。更に彼らのスタジオ・ベースのレコーディングで作られた作品をステージに再現することの困難から、その後のライヴ・スケジュールは立たないままに終わっている。

8月−‘ラヴァー・トゥー・フォール’シングル化のため、ドラム部分のリミックスに取り掛かるが、その半ばでシングル・リリースは‘パーフェクト・ウエイ’に変更される。

9月−‘パーフェクト・ウエイ’がヴァージンからシングル・リリースされる。UKではトップ40を逃し48位に留まるも、USでのチャートは奇跡的に伸び11位まで登るスマッシュ・ヒットとなった。

10月−グリーンはスクリッティの新曲を作曲中。この他、チャカ・カーンのために、‘ラヴ・オブ・ア・ライフタイム’を完成。これは彼が他の人のために書いた初めての曲であり、チャカとデュエットすると同時に共同プロデュースも手がけている。チャカの方からグリーンにコンタクトを取り、この仕事を依頼して来た。彼らはそれより前に知り合っていて、チャカはスクリッティの曲が大変気に入っていたという。

この頃スクリッティ・クラッシュ・クルーによる雑誌第2号が出版されたが、残念なことに、これが最後になった。 

11月−スクリッティはニューヨークのホワイト・プレインズにあるマイノット・スタジオにて新曲を録音する。その時この曲にタイトルはなく、一分間に122ビートの曲だったという。新年にリリースされるはずだったが、結局お宮入りになっている。(後にサード・アルバムに収録されたうちの一曲かもしれない)

振り返ってみると、このリリースされなかったスクリッティの曲とチャカ・カーンのシングルは同じ曲だったかもしれない。

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