Chapter 2
1980-1982 “Songs To
Remember"
1980
グリーンは母と義理の父がいるサウス・ウエールズで1年ほどを過ごし、
その間にR&Bから絶大な影響を受けるに至る。
さらに新曲を10曲余り書いて、アルバムを制作する計画を練り始めた。
また彼はリズムとポップの政治性について本を書いているが、これはトムとナイアルに、どうしてスクリッティが方向を変えてピュアなポップ・ミュージックを目指さなくてはならないかを説明し、説得するために書かれたものらしい。
5月−ロンドンに戻ってエレクトリック・ボールルームでのギグに参加した後、グリーンとジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティスは夜中までそれぞれが抱えている問題について語り合った。(グリーンが抱えていたのはスクリッティの方向性の喪失であり、同時に彼自身はポップ・ミュージックを作りたいと思っていることだった) しかし、その後彼らは再び会うことはなかった。イアン・カーティスはそれから1週間もたたない18日に自殺してしまったからだ。
この年の末−グリーンはロンドンに舞い戻る。回りに残っていたのは、トム、ナイアル、マチューといったメイン・メンバーだけだったが、グリーンはなんとか彼らを新しい方向性に向けることに成功する。ナイアルは旧スクリッティの政治的スタンスを崩すことには気が乗らない様子ながらも続けることを決め、トムもその頃既に殆どドラム・マシンが用いられていたにもかかわらず、バンドに残ることになった。
スクリッティはその足でスタジオ入りし、デヴュー・アルバムの制作に入る。プロデューサーのアダム・キドロンや他のミュージシャンを起用することが可能になったことと、曲がまだ最終的に仕上がっていずリハーサルもまだだったことから、アルバムのレコーディングにはかなりな時間がかかることになった。
アダム・キドロンはグリーンをノース・ロンドン出身のもとボースタルにいたマイク・エヴォイ(もしくはマカヴォイ/キーボード)やジョー・カング(ナイアルが後にグループを去ってから、ベースで参加)に紹介する。スクリッティはまた、ウエスト・エンドからロレンザ・ジョンソン、マエ・マッケンナ、ジャッキー・シャラナーといった3人のバック・ヴォーカルを起用した。アルバムのサックスはジェイミー・タルボットによるものだ。
1981
1月−グリーン(24才)はラフ・トレードにいたが、契約を交わしていない状態だったので好きな時に自由に仕事が出来る立場にあった。彼はスクリッティの作品とアートワークについて完全に自分のコントロール下に置いていたようだ。
‘ザ・スイーテスト・ガール’のデモはこの頃録音された。
2月/3月−‘ザ・スイーテスト・ガール’のデモがNMEのコンピレーション・カセットに収録され雑誌と一緒に出回ることになる。そのおかげで相当数のメジャーから誘いがかがるが、グリーンはラフ・トレードの成長に貢献できることを望んでレーベルに留まる。アルバム用全曲のバック・トラックが収録終了。
その年の半ば−グリーンは休暇を合衆国で過ごす。
8月−デヴュー・アルバムが完成するも、グリーンはチャートでのインパクトを最大限にもたらすためリリースを遅らせることに決めた。
9月−ナイアル・ジンクスがバンドを去る。グリーンはバンドとしてのイメージを保つため、マチューにトムと彼に加えてフォト・セッションに参加してくれるように頼む。
10月−デヴュー・アルバムのタイトルが未だ決まっていなかった。グリーンのアイデアでは‘スタンド・アンド・ディリバー’になるはずだったが、アダム・アントが同名の曲とアルバムを発表してしまったため使用できなくなる。また‘ジュニア・ギチ’(アメリカのスラングで‘鋭くて活発な’という意味)もあったが、これもジュニア・ギスコームというシンガーがミュージック・シーンに現れたため却下。
11月−‘ザ・スイーテスト・ガール’がシングル版でラフ・トレードからリリースされる。インディー・チャートではトッブ5に入るが、UKのメイン・チャートでは64位に留まる。
NMEのカセットで登場してからリリースまでが長かったため、レコードを買ったかも知れない人たちは、この頃すでにカセットからコピーを手に入れていただろう、という見方もある。グリーンはそれには同意しておらず、この期間はレコード店やプレスにその発売について準備してもらうため必要なものだったと言っている。
‘ザ・スイーテスト・ガール’はまた、ニューヨーク・タイムスで1981年のトップ10シングルとして選ばれている。
ナイアル・ジンクスがバンドに再加入。
12月−デヴィッド・ギャムソンの‘シュガーシュガー’(ジ・アーチーズの曲のカヴァー)がラフ・トレードからリリースされる(チャートには入っていない)。
デヴィッドはニューヨークのスタジオで働いており、そこでの自由な時間を利用してこの曲をレコーディングしたという。
ロンドンに休暇で出かけたとき、デヴィッドは‘レーベル仲間’のグリーンに紹介されたが、結局二人は意気投合し、デヴィッドの曲でヴォーカルをやるためにグリーンはいずれニューヨークに行くことを約束する。その曲が後の‘スモール・トーク’となった。
1982
5月−‘フェイスレス’がラフ・トレードからシングル版でリリースされ、ジョン・ピールのシングル・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。インディペンデント・チャートでは1位に輝くが、UKメイン・チャートでは56位に留まる。
‘フェイスレス’とデヴィッド・ギャムソンの‘ノー・ターン・オン・レッド’がNMEの2つめのコンピレーション・カセットに収録され雑誌の付録となった。スクリッティは3度目のピール・セッションを行い、その月の終わりに放送された。この時の曲は‘アサイラムズ・イン・エルサレム’、‘ア・スロー・ソウル’、‘ジャック・デリダ(6分ヴァージョン)’である。
8月−‘アサイラムズ・イン・エルサレム’と‘ジャック・デリダ’がダブルAサイド・シングルとしてラフ・トレードからリリースされる。キーボードにはロバート・ワイアットがフューチャーされていた。2000枚の12インチシングルがサイン入りで発売。インディー・チャートではトップに登るが、UKメイン・チャートではおしくもトップ40を逃し、43位で終わる。もし40位までに入っていたら、UKの人気音楽番組であるトップ・オブ・ザ・ポップスに出演することになり、間違いなくシングルは更に登ることになったはずだ。
‘アサイラムズ・イン・エルサレム’はニィーチェが書いたエルサレム付近の宗教狂信者が集まる‘家’についての本をもとにしている。
この時期、グリーンの車から貴重なデモ・テープが盗まれ、マチューが解雇された。
スクリッティは4回目のピール・セッションを録音し、それは9月のはじめにオン・エアされた。
ジャンゴ・ベイツがマイクの代わりにキーボードを担当し、ジェイミー・タルボットがサックスで参加。
収録曲は‘アサイラムズ・イン・エルサレム’、‘ゲッティン・ハヴィン・ホール ディン’、‘ジャック・デリダ’、‘ライオンズ・アフター・スランバー’、‘ア・スロウ・ソウル’。
スクリッティは5回目のセッションをこの後収録しているが、日付も、どのラジオ番組のためだったかも明らかではない。この時の収録曲は‘セックス’、‘パーファンクトリー’、‘コンフィデンス’‘アサイラムズ・イン・エルサレム’である。
9月−デヴュー・アルバムである‘ソングス・トゥー・リメンバー’がついにラフ・トレードからリリースされる。インディー・チャートではトッブ、しかもUKメインのアルバム・チャートでは見事に6位に輝く。‘ザ・スイーテスト・ガール’の再リリースも囁かれていたが、それは実現しなかった。
今やグリーンはノース・ロンドンにフラットを借りて暮らしている。
11月−トム・モーレイがバンドを去る。
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