アレクたちが島に来てからも幸いなことに世界は平穏無事に進行していたらしく、緊急呼び出しがかかることもないまま、のんびりした日々が続いた。マーティアとアリシアはここしばらくのオサボリがたたってアレクに書斎へ追いやられていたが、代わりに子供たちのことはアレクとディが引き受けることになり、もちろんロイやチャールズもいるから、それで何の支障もない。昼は相変わらずそれぞれマリン・スポーツの習得にいそしみ、時には皆でヨットやパワーボートに乗って遊んだり、アシュバと島を駆け回ったり、夜は夜でますます賑やかに盛り上がることしきりだった。子供たちがそれぞれ教養豊かなこともあって話題は多岐に渡り、特にウィルとファーンはここぞとばかりにアレクたちの仕事のことについてもあれこれ聞きたがったが、デュアンにしてもモルガーナ家に入ってからのここ半年ばかりの間に、アーネストから世界情勢や社交界のことなどについて実際的な知識を山ほど教えられていたから、そういった話題にも興味深く耳を傾けていたようだ。それは子供たちにとって有意義な経験となったばかりではなく、彼らの勉強熱心のせいで大人たちにとってもなかなか楽しい時間だったらしい。
こうして、更に一週間ほどを島で過ごした後、アレクの計らいで皆はそろって彼のプライヴェート・ジェットでクランドルまで一気に帰れることになった。これもまた、普通なら相当のVIPででもなければ与れない特別待遇だったから子供たちのはしゃぎようといったらない。ただ、アレクの立場で無理矢理に一週間も休暇を取った限りは、帰りの道中、移動しながらも待っていたように山のような仕事が雪崩れ込んできたのは仕方のないことだっただろう。しかし、ウィルたちにはそれはIGDのトップ三人が日常、世界から押し寄せてくる仕事の山をどうやって片づけているかを目の当たりに見る貴重な機会となった。欧米はもちろんのこと、アジア、アフリカ、オーストラリア、果ては子供たちはまだ名前もよく知らないような国々から刻々と齎される情報や様々な指数の動き、その他、膨大な資料から情勢を的確に判断して指示が出される様子は、正に現代の世界経済の中枢さながら、現場の臨場感というものだったから、これからその世界に深く関わってゆくであろことを意識している三人の子供たちにとってわくわくするような体験であったのに違いない。しかも、彼らが驚かされたのはリデルで、マーティアは余裕のある時には、ちょっとしたクイズを解かせるような気安さで彼女の意見を求めたりしていたのだが、それに対して驚くほど的を射た答えが返ってきていた。島にいる時は見た目通りのすっかり可愛らしい少女でしかない様子だったから、ここに至って"天才少女"の本領を期せずして垣間見せられることになったのである。しかし、リデルにとってそれは何も取り立てて特別なことではないようで、そのせいでよけいこれが彼女の生まれた時から取り囲まれている"日常"であるようにも感じられた。間違いなく、いずれリデルは遠からずしてIGDの中枢に席を占めることになるだろう。
アレクたちはアシュバとジャガーを積んで戻ってきていたが、空港に着くと他の皆にはそれぞれ車が迎えに来ていた。ディとデュアン、それにロイがスチュアートの運転するベントレーで屋敷に帰ると、アーネストたちは主が二人とも半月ほど家を開けていたことで、平穏ではあっても火が消えたような毎日を送っていたらしく、その帰宅がことのほか嬉しかったようだ。これまでもディが長期間いないことはいくらもあって馴れっこになっているはずだったから、皆の気の抜けたような気分は主にデュアンの不在によるものだったかもしれない。部屋に落ち着いたディのところへ、アーネストがコーヒーを運んで来て言っている。
「おかえりなさいませ。ご旅行は、如何でございましたか」
「ああ、なかなか楽しかったよ。アレクたちと会うのは去年のクリスマス時期以来だったしね」
「左様でございますね。皆さま、お忙しい方たちばかりですし」
「うん。あ、留守中、何か変わったことは?」
「いえ、特には」
「そう」
「ただ、お二人ともいらっしゃらなかったものですから、家の中は火が消えたような有様で」
「それは、デュアンがいなかったせいじゃないかい?
なにしろ、あのコは今既にぼくを差し置いて我が家のアイドルらしいから」
「また、ご冗談を」
「いやいや。この際、どうせなら爵位も何もひっくるめてあの子に譲ってしまって、ぼくは早々に引退させてもらおうかと...」
「とんでもございません。何より、デュアンさまが承知なさいませんよ」
「ダメか、やっぱり」
「だんなさまが今の立場からお逃げになりたいと思ってらっしゃることはよく存じ上げておりますが、少なくとも、あと十五年は現役でいて頂かないと。シャンタン伯爵ですら、まだ引退なさってらっしゃらないのですから」
「恐ろしいこと言わないで。じゃ、ぼくはこの先、何十年今のままでいればいいわけ?」
「さあ、それはデュアンさま次第でございますね」
「あ〜あ、跡取りが出来ても大勢は変わらず、か」
「お察しします。ですが、アシュレーさまから、お戻りになられたら至急、目を通しておいて頂くようにと書類が...」
「これだよ。帰る早々だものなあ」
ディの心底まいったような様子に、アーネストは笑っている。これもこれで、"いつものこと"のようだ。その頃、デュアンの方は部屋に戻って一休みすると、母とエヴァやデイヴたち友人連に"帰ってきたよ〜♪"のメールを一括送信し、それから家のみんなにお土産を配りに、と腰を上げかけたのだが、ふとマーティアに言われていた"立場"ということを思い出した。それで、そうか、ここだな、と気づいて、彼付きのチーフ・メイドであるミランダを呼んで皆に手渡してくれるよう頼むことにした。しかし、ひとりひとりに細かく用意してあるあたりなどは、さすが"気配り少年"の面目躍如たるところだ。
一方、迎えの車に乗って屋敷に戻ったウィルとファーンは、出迎えた母たちに早々の挨拶を済ませ、その足で曾祖父のところへ帰宅の報告に向かった。二人とも、ウィリアムが彼らの帰って来るのを心待ちにしていることをよく知っていたからだ。
「大じいさま、ただいま帰りました」
部屋に入って行きながらウィルが言うと、ウィリアムは満面笑みで、おお、やっと帰って来たか、と言った。
「まあ、座りなさい。どうだ、有意義な休暇になったかな?」
「もちろんですよ」
二人はウィリアムの向かいのソファに並んでかけながら言っている。
「メールでも書きましたけど、ロウエル卿やモルガーナ伯爵までみえて」
「ああ、そうだったらしいな。全く、羨ましい限りだ」
「ファーンはともかく、ぼくはどなたとも初対面でしたから最初かなり固まってたんですけど、皆さん気さくに話して下さったので、おかげで本当にいろいろなお話が伺えました」
「ほお、それは、良かったな」
「ええ。あ、そうだ。大じいさまにいいお土産になると思ってメールには書かなかったんですけど」
「ん、何かな?」
「ルーク博士が一度、ロウエル卿やアリシア博士と一緒に大じいさまにお会いしたいと」
「私に?」
「はい。ぼくが、大じいさまが皆さんに会いたがってらっしゃるというような話をしたら、本来ならもっと早く表敬訪問くらいさせて頂かなければならない立場だったのにとおっしゃって。それについては以前からロウエル卿も気にしてらしたそうなんです」
「それは嬉しいね。よく話してくれたな」
「はい。ルーク博士の方も大じいさまに会ってみたいと思われていたそうですよ。それに話の流れで...。バークレイ博士にお嬢さんがいらっしゃることは、ご存じだと思いますが...」
「ああ、マリオのところのな」
「実は、ちょうどその子...、リデルも遊びにきていて、ずっと一緒だったんです。とても可愛らしいお嬢さんで、ただ、なにしろやはり相当の天才少女なので」
「ああ、聞いているよ。まあ、マリオの娘ではな、さもあるだろうが」
「それで、同い年くらいの子供になかなか馴染まないということでルーク博士が大変心配してらして、幸い、ぼくらとはすっかり仲良くなったので、クランドルに戻ってからも親しくしてやってくれないかと」
「なるほど。それは、いいじゃないか」
「うちは子供が多いですし、ぼくの見るところユージーやロゼッタとも気が合いそうな気もするんで」
「どんな感じの子なんだね?」
「利発で活発...、まあ言えば"オテンバ"というか。大じいさまが一目で気に入ってしまわれるような女の子ですよ」
「それは、私も会ってみたいな」
「ええ。それでリデルのこともお願いしたいし、とルーク博士がおっしゃっていました。場合によっては、バークレイ博士も一緒に見えるかもしれないと」
「マリオもかね。それはますます嬉しいな。彼とももう長いこと顔を合わせる機会もないままだった」
「いずれバークレイ博士かロウエル卿からアポイントを取らせて頂くとのことです」
ウィリアムはそれへ嬉しそうに大きく頷いて言った。
「これは楽しみだ。素晴らしい土産だよ。それにしても、ファーンのことが明らかになって以来、ロベールといい、懐かしい顔に再開できる機会が多くなって嬉しい限りだね。そうか、マリオが来てくれるか。それも娘を連れて。彼が結婚するとはなあ...。そのことだけでも、聞いた時は驚かされたものだが」
感慨深げに言ったウィリアムに、ファーンが横から尋ねた。
「大じいさまはバークレイ博士とも親しくしてらしたんでしょう?」
「ああ、しかし、まだ彼が子供を引き取って引きこもる前の話だからな。よく顔を合わせることがあったのは何十年も前だよ。その子供というのは...」
「ルーク博士ですよね」
「そうだ。その子が今やクランドル経済界、いや世界の経済を動かすまでになっている。月日の経つのは早いものだな」
それからしばらくの間、二人が旅行でのあれこれについて熱心に話してきかせるのを楽しく聞きながら、ウィリアムは、どうやら、彼らにとってそれがまたとないほどの素晴らしい旅だったようであることに満足した様子だった。
こうして、モルガーナ家とクロフォード家では旅行者たちの帰宅に際した喧騒がそこここに巻き起こっていたが、リデルの周辺でもそれは例外ではなかった。マーティアとアリシアは妹を送ってきて、今日はマリオの家に泊まることにしている。ここは二人が育った家でもあるから、彼らの部屋はそのままになっていて、いつでも使える状態にあるからだ。
お気に入りの兄たちが二人とも珍しく側にいてくれることもあってリデルは上機嫌で、出かける前は冷戦状態にあった母にすら、はしゃいで旅行の間のことをお喋りしまくっていた。しかし、皆で夕食を一緒にし、しばらくサロンで雑談していると例によってリデルが眠くなり始めたらしく、それに気づいてアリシアが子守りを買って出、妹を連れて彼女の部屋に姿を消した。それを見送って、マリオが言っている。
「上機嫌だね、リデルは。よほど楽しかったらしい」
マーティアたちの育ての親である彼は、元は物理学者だが経済や政治など多方面にも造詣が深く、若い頃からクランドルのみならず世界的な科学者として知られる。十代の頃から天才と呼ばれて下へも置かない扱いを受けて来たわりには、五十代半ばの今になっても相変わらず穏やかな紳士であることに何の変わりもない。大事に育てて来たマーティアとアリシアが今の仕事で忙しくなり、あまり側にいられなくなって以来しばらくは淋しそうだったが、縁あってリデルの母セオドラと結婚することになって、今では十五も年の離れた美しい妻とオテンバな娘に囲まれて幸せいっぱいというところだ。
「リデル、旅行中もはしゃぎまくってたよ。ファーンたちのことも気に入ったようで、あの子たちからも仲良くしてもらえたのが、かなり嬉しかったみたい」
マーティアの言うのを受けて、テディがにっこりして言った。
「有難う、マーティア。あんなリデルを見るのは久しぶり。やっぱり、あなたの言うようにして正解だったわ」
「だろ?
やっぱり、これまでは相性が悪かっただけなんだと思う。確かに、できるだけ誰とも仲良くなれた方がいいに決まってるけど、まだリデルはあんな年なんだし、それはまあ、これからなんじゃない?」
「そうね」
「それにしてもクロフォード公爵とは、私にとっても懐かしい名前だね。引退なさってからでも相当になるし、こんなご縁があろうとは思ってもみなかったが、お会いできるなら本当に嬉しいよ」
「ウィルが話してくれてると思うから、どうする?
スケジュールが合うようならおれたちも一緒に行くけど、アポイントはマリオから取る?」
「ああ、そうしよう。それで、都合が合えば一緒にお邪魔するということで」
「うん」
三人がサロンでそんな話をしている頃、リデルはふんわりしたシフォンの寝まきに着替えてベッドにもぐりこむところだった。マリオが甘やかし放題あまやかしていることもあって、部屋の中は夢の国のようにロマンティックな調度やファブリックで豪華に飾られている。大きな天蓋付きのベッド、ドレープをたっぷり取ったカーテン、大きいのや小さいのや色とりどりのぬいぐるみの山、大きなドールハウス、木馬、それに沢山のおもちゃ。まるっきり、お姫さまの部屋そのものと言っていいが、いくらかこの年の子の部屋らしくないところがあるとすれば、それはエレガントだがしっかりした造りのデスクの上に、端末が三台並んでいるようなところだろう。絵本も山ほどあるものの、それに混じって様々な専門書が一緒に積み上げられている。リデルも父のマリオやマーティアたちと同じで自己学習型の脳を持っているから、基本的に教師を必要とはしないのだ。遊び感覚であれこれ検索しているうちに、物凄い早さで知識を吸収してしまうらしい。そして、得た知識を元に自己分析を繰り返すことで、普通は何年もかかって習得しなければならないようなことでも、ごく短期間で任意の分野の構造を的確に把握してしまうのである。もちろん、疑問なことがあれば父や母が何でも教えてくれるし、マーティアやアリシアにすらメール一本で教えてもらえるという恵まれた環境にいるのも確かだ。
「ね、ね。アリシア。一緒に寝よ。ここ、ここ」
言ってリデルは自分のベッドの半分を叩いている。
「やだよ。ぼくはマーティと一緒に寝るんだから」
「なによなによ。いつでもずーっとマーティのこと独り占めにして。たまには私も仲間に入れてくれたっていいじゃない」
「お断り」
「ディだっているくせにぃ」
「大きなお世話だよ」
「アリシアって、ずるいずるいずるい。なんでマーティもディもアリシアのなのよ」
「いいだろ。長年そういうことに、なってるんだから。ほら、寝るまで側にいてやるから、さっさと寝な、ちびっ子」
「ぶー」
リデルが不満な顔をしながらもブランケットをひっぱってきて横になると、アリシアはサイドテーブルのランプをつけてから、部屋の灯りを消した。
「ねえ、アリシア」
「ん?」
「明日、帰っちゃうんでしょ?」
「仕事だからね」
「つまんないの。ずーっとここにいたらいいのに」
「無理言うなよ」
「私、もっとずっと早くに生まれるんだったなあ...」
「なんで」
「だって、昔はマーティもアリシアもここに住んでたんでしょ?」
「そうだよ」
「早く生まれてたら、一緒にいられたもの」
アリシアはそれに笑って言った。
「ぼくたちがもしずっとここにいたら、リデルは生まれてないかもしれないぞ」
「どうして?」
「前に話しただろ?
ぼくとマーティが今の仕事で忙しくなって、ここにあまりいられなくなってからマリオの淋しがりようったらなくってさ。彼、ああいう人だからそれを表に出すってことはそんなになかったけど、見てればぼくたちには分かったからね。それできみのママみたいな人に側にいてやって欲しいと思ったんだよ。ぼくも、マーティも」
「うん、知ってる。それでパパとママが結婚して、私が生まれたのよね」
「そういうこと」
「だけど、大人になったら私、IGDの仕事手伝うんだ。そしたら、マーティたちとももっと会えるから」
それへアリシアは微笑して、珍しく素直に"待ってるよ"と言った。
「ほんと?」
「ああ」
リデルは嬉しそうに笑って、おやすみなさい、と言うと目を閉じた。旅行中に彼女はマーティアにも同じことを言ったものだ。そうすると彼は自分を指さして答えた。
「そうなったら、おれはきみの上司だよ」
「それって、IGDじゃ私よりマーティの方が偉いってこと?」
「そう。ついでに言えば、採用に関しても絶大な権限を持ってるからね。極端に言えば、おれがNOと言えば絶対に採用されないってこと」
「う〜。でも、大丈夫だよね。私、頑張ってるもん。マーティの言うことちゃんと聞くから、IGDに入れてくれるでしょ?」
「それはこれからのリデル次第だな。きみは知識はもうかなりあるけど、更に必要なのは、例えばママの気持ちを考えたり、思いやったりすることが出来る人間になる努力をすることだよ。ママはいつだって、リデルのことを一番に考えてくれてるんだから、ケンカする前に話してみてごらん。きみなら、できるはずだから」
「そしたら、お仕事、手伝わせてくれる?」
「うん、考えてもいい」
リデルにとっては、これが今後の課題ということになりそうだが、そんなことを思い出しているうちに、すやすや寝息を立てている。アリシアは彼女が寝入ってしまっても、まだしばらく側でその寝顔を眺めていた。なんだかんだ言っても、やはり彼にとってもリデルは可愛い妹なのだ。お互い容赦のない性格だから、顔を合わせれば騒がしくやりあっているが、そもそもアリシアの性格では可愛いと思わなければ自分相手に好き放題言わせておくようなことなどありえない。それが分かっているからか、リデルの方もすっかり懐いている。
リデルが深く寝入ってしまうのを見届けてアリシアは彼女の頬にキスし、ランプの明かりを消して部屋から出て行った。子供たちの夢のような休暇も、どうやらそろそろ終わりということのようだ。アリシアたちも明日からはまた、経済戦争の最前線で駆け回ることになる。
original
text : 2011.8.16.- 9.1.
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