「だんなさま、コーヒーをお持ちいたしました」
その朝も例によってディが目を覚ましたのは、既に朝とは呼べないような時刻になってからだった。半分寝ぼけながらアーネストにコールしてコーヒーを頼んだ後もベッドでのらりくらりしている始末だったが、執事が所望の飲みものを持って入ってくると、大きく伸びをしてからそちらを向いた。
「んー...、ああ、有難う」
受け取ったカップから立ち上る良い香りに、少し意識がはっきりしてきたらしい。
「いい香りだ。ちょっと目が覚めてきた」
その様子をアーネストは微笑を浮かべて見守っていたが、それへふいにディがデュアンは?
と尋ねた。
「はい。坊ちゃまでしたらもうとっくにお目覚めになって、朝食も済まされましたし、今は散歩にお出かけだと思いますよ」
「そう」
「このところ、庭を散策するのがマイ・ブームだとかおっしゃって、特に休日は習慣のようになっておられます」
「元気だね、こんな朝から」
既に昼近いのだが、そこは長年ディに仕えているアーネストのことで、彼の日常からすれば今は早朝と言って良い時刻なのをよく知っている。それで笑って、それはもう、お若くてらっしゃいますから、と答えておいた。
「じゃあまあ、あの子もけっこうここに馴染んできてくれてるってことなのかな」
「そのようです。私たちもデュアンさまの元気なお顔を拝見するのが、毎日の楽しみのようになっておりますし」
聞いてディは頷いている。
「で?
あの子の"伯爵さま修行"の方はどう?
自分でそんな風に言ってたくらいだから、それなり頑張ってるとは思うけど」
「それはもう。本当に利発でいらして、何でもすぐ覚えてしまわれますし、ご自分の方から熱心にあれこれ尋ねて下さいますので、私もお教えのし甲斐があります」
「なるほどね。じゃ、あの子は跡取りとして、きみのおめがねにもかなってるということかな?」
アーネストはそれに笑って、私はデュアンさまがこちらに入られる前から、そう信じておりますよ、と答えた。ディはそれに微笑を浮かべている。しかし、その横でふと表情を曇らせてアーネストが続けた。
「ただ...」
「何?」
「いえ。デュアンさまがこちらにおいで下さって嬉しいのは私どもみな変わりのないことですし、跡継ぎとして十分な器をお持ちのことにも何ひとつ疑問の余地はないのですが、ただ、その、坊ちゃまのような立場の方がお入りになるべきではない場所に立ち入られることも多く...」
ディはアーネストが何を言いたいのか察しはついたので、例えば?
と尋ねた。
「厨房ですとか、厩舎ですとか、...それから、メイドたちの控え室ですとか...」
その答えに、ディは笑っている。
「だんなさま。私は笑い話で済むうちに、ご相談した方がよろしいかと思ったのですが...」
「分かってる、分かってる。きみが何をいいたいのかはね。要するに、あの子が未だ大モルガーナ家の後継者という立場を十分に自覚していないようだということだろう?
でも、ぼくは返ってそれは、あの子らしいと思うけどね。立場が変わったからと言って変な方向に豹変するようでは、その方が問題なんじゃないかい?」
「確かにそれはそうなのですが」
「あの子がクビをつっこんでゆくことで、みんなの迷惑になっているというようなことはあるのかな」
「とんでもございません。それどころか、坊ちゃまの方が何かとお手伝いしたがって下さるので、皆の方が恐縮しております。それに、デュアンさまとお話したいのは、これもまた皆同じ気持ちですし」
「ん...」
「特に若いメイドたちの間では坊ちゃまは今や所謂"アイドル的存在"になってらっしゃいまして、ファンクラブまで出来る有様で」
「ファンクラブ?」
「はい」
それを聞いてディはちょっと表情を曇らせ、いくらなんでも、それはひどいな、と言った。
「左様でございましょう?」
「ぼくのだって、まだないのに」
思いがけなく主が自分に賛意を示してくれたかと思ったのに、焦点がズレていたと分かってアーネストは内心肩を落としている。ディはその様子にまた笑って言った。
「確かにきみが家の中の秩序という点から心配するのはぼくにも分かるよ。だけど、きみはよくおじいさまがおっしゃっていたことを覚えてないかい?
"人の上に立とうとする者は、底辺の実情を自ら十分に把握していなければならない"。だから彼はビジネスの上でも、何か新しい事業や会社を興そうとする時には現場百回の人だったじゃない。ぼくはあまりいい跡継ぎ候補じゃなかったから、彼の教えを大して守らなかったけど、そういう意味ではデュアンは今の時点でそれも含めてよくやってるということだと思うよ。まあ、あの子の場合、特に意識してやってるわけじゃないだろうけど、それだけ身の回りに対して自然に気が回るということでもあるからね」
「はい、それは私もそう思います。デュアンさまは生来、本当に細やかに気を配ることがおできになるようで」
「うん。だから、みんなの迷惑になったりしていないのなら、しばらくはこのまま様子を見てやってくれないか。ぼくの方からもそれとなく話しておくようにはするから」
「だんなさまがおっしゃって下さるということでしたら、私はもちろん静観させて頂きます。私にしても、あまりうるさいことを言ってデュアンさまに嫌われたくはありませんし、それで窮屈な思いをなさるようなことがあってはと、申し上げるのを差し控えていたわけですから」
「ん、じゃ、そういうことで宜しく頼むよ。まあ、きみの躾が行き届いているから、デュアンよりもみんなの方で立場はわきまえてくれているだろうし...
。しかし、ファンクラブだって?
羨ましいね。うちのメイドさんたちはみんな可愛いから」
ディの冗談に笑いながらアーネストは、だんなさまの口からこんなジョークが出るとは、考えてみるとお小さい頃には想像もできないことだったな、とふと思っていた。最近の彼にはさほど珍しいことでもないのでアーネストも慣れてしまっていたのだが、このところその子供の頃にそっくりなデュアンが周辺をウロチョロしているせいか、よくディがその年頃だった頃のことを思い出すようになっているのである。思い出すにつけ、どこでどうなってこのように変わられたのかなあ、という疑問や感慨もあり、また、本当に器が大きくなられたものだとも感心する。ただ、主のこの変化はモルガーナ家の当主として、そして芸術家としては好ましいことかもしれないが、器が大きくなりすぎてヨーロッパ中に鳴り響くプレイボーイなんてものにまでなってしまったことについては、いささかゆきすぎという気もしないではなかった。しかし、そのおかげでデュアンのような子供たちが三人も存在することになったのなら、それはまたそれ、ということでもあるのだろう。ディが言っている。
「じゃ、ぼくもそろそろ起きるから、ランチを一緒にしようとデュアンに伝えてくれないか?
ぼくにとっては朝ごはんだけどね」
「かしこまりました」
言ってアーネストは一礼し、空になったコーヒーカップを受け取って部屋を出て行った。ディはそれを見送って、ファンクラブとは、あの子もやりますね、と言って、また大きく伸びをしている。ちなみにモルガーナ家内部にこそ未だないが、ディの私設ファンクラブなら世界中に数限りなくあることはまず間違いない。
コーヒーのおかげでやっと身動きできるくらいには目が覚めてきたらしく、彼は食事の前にバスを使うことにしたようだ。ベッドを降りると、そちらの方へ歩いて行った。
original text :
2010.11.21.-11.22.
|