デュアンは絵を見せた後も、ロベールと今回の作品で苦労した点や彼の作画方法、それに好きなテーマや素材などについていろいろと話し合っていたが、既に夜も遅いので、11時を回る頃には続きは明日にして部屋へ引き上げることにした。何はともあれ、祖父が自分にも兄と対等の才能くらいはありそうだと認めてくれたことにずいぶん気を良くしているようで、鼻歌まじりに部屋へ戻ると、明日見せると約束した作品を選びにそれらを収めておいた書斎へ入って行った。

書斎には大きなマホガニーの机があり、壁は二面が天井まで届く書架になっていて、これまでも絵を描くのにずっと使っていた製図用の机も持ち込まれている。しかし、それも前面に傾斜させることの出来る本格的なプロ仕様のものだから違和感なくこの部屋に溶け込んでいて、そこはまさに"オトナの書斎"といった雰囲気だ。デュアンはまだ慣れないその様子をちょっと笑って見回してから作品を収めてある棚の方へ行こうとしたが、その時ふいに机の上で電話が鳴ったので、絵を選ぶのは後にしてそちらへ行くと受話器を上げた。

「はい?」

― いたいた。デュアン?

「ええ。あ、ファーン兄さん?」

― うん。夜遅くごめん。でも、今日そっちへ行くって言ってただろ? 番号聞いてたし、いるかなと思ってかけてみてたんだ

言われてデュアンはにっこりしている。

「そうで〜す。今日から、ぼくはここで跡取り修行に励むことになりました」

弟の冗談に、受話器の向こうでファーンも笑っている。

― その様子じゃ、どうやらホームシックにはなってないみたいだね

「まさかぁ。クルマでせいぜい1時間の距離ですよ。いくらなんでもホームシックはないんじゃない?」

言いながらデュアンは机を回って革製の大きなハイバック・チェアに腰を降ろした。完全に大人用の大きさなので、この子がおさまるとちょっと不恰好ですらある。まるで、父親の書斎に忍び込んでオトナ気分を味わっているコドモのようだ。

「兄さんは、今家なの? それとも寄宿舎?」

― 家だよ。週末だからね

デュアンが尋ねるのにそう答え、それから彼は、で、どう? 初日は、と尋ね返した。

「う〜ん、まあまあ順調、かな?」

― そう?

「うん。アーネストにいきなり、"アーネストとお呼び捨て下さい"って言われた時は一瞬ビビったけど」

― ああ

「いいのか?って感じじゃないですか」

― まあ、そうなんだけど。郷に入っては郷に従えってヤツだね、それは

「らしいですね。お父さんも、ぼくはここの跡取りという役を引き受けたんだから、それらしくやって欲しいって言うし、アーネストはここのヌシだから言うことを聞いておけば間違いないって」

― 確かに。ま、それが"なりきり王子さま"ってことだよ。言っただろ?

「ええ。兄さんにもそう言われてたから、ぼちぼち頑張ってみてるの。で、今度のお披露目ね、アーネストがあれの招待客リストを持ってきてくれて、でも、それが200人分なんだよ。兄さんは知ってる人ばかりだろうけど、ぼくは全く社交界のことなんて知らないからびっくりしちゃった。ほんと、凄いんだね」

― まあねえ。なにしろ、お互い何百年って歴史的繋がりがあるわけだから、数が多いのは仕方ないな。ただ、最初はびっくりするかもしれないけど、実際に会ってみるとそれなり覚えるもんだし、実質的にはみんな普通のオジさん、オバさんだからビビることなんてないよ。第一、きみを見れば向こうの方が喜んで売り込みにかかって来るから

「そうかなあ。だって、あんなに有名な人たちばかりなんだよ?」

― でもさ、ちょっと考えてごらんよ。社交界中でもダントツ有名なのは誰だと思う?

聞かれてデュアンは少し首を傾げていたが、ふいに思い当たったようだ。

「もしかして、お父さん?」

― 当たり。だから、出席する人たちにとっては、きみはその"ご子息"なわけだよ。しかも、跡取り息子。まあ、それは置くとしても、社交界ってところはこれでけっこう女権が強くてね。どんなご大層な肩書きを持ってる男でも妻には弱いって、これ定説。で、女性っていうのは可愛いコやキレイなコにはもう一も二もなく陥落するものさ。男の子なら、なおさらね

「ふうん、そういうものなんだ」

― うん。だから、今度のお披露目じゃきみは人気集中で、いちいち顔も覚えてられないくらい殺到されるのは覚悟しといた方がいいと思うよ

「でも、兄さんだって...」

― ぼくは母の方で既に存在くらいは知られてるからね。知り合いもそこそこいるし、全くのニュー・フェイスってわけじゃない。でも、きみはいきなり突然、"彗星のごとく現れた美少年"だから

言って、ファーンはいたずらそうに笑っている。

「もお、兄さんてばまた冗談ばっかり」

― 冗談じゃないって。第一、きみは自分がお父さんの子供の頃にそっくりだっていう事実を忘れたのかい? ぼくたちくらいの年にはもう、彼と、それにアレクさんって文句なしに社交界一番人気で注目のマトだったんだよ。当時を覚えてる人たちも今回もちろん沢山出席するわけだし、三十年以上経って瓜二つの少年が現れたともなれば、まあ、社交界中が沸くだろうね

「う〜ん」

― 脅かすつもりじゃないけど、向こうの方がお友達になりたがってくれるから、鷹揚に構えていればいいというとこかな

言われてデュアンは頷いている。

「でも兄さん、できるだけ側にいてよね」

― OK、OK。だけど、お父さんやおじいさまだって一緒なんだから、何も心配することはないよ

それでもデュアンはちょっと不安そうな顔をしていたが、ファーンの方は今回のお披露目に関して弟ほど神経を尖らせてはいないらしい。それで、彼にとってもっと興味のあることの方に話題を移した。

「それはそうと、新しい部屋はどう? もう落ち着いた?」

聞かれてデュアンも気持ちが切り替わったようだ。

「ええ。そんなに大した荷物もなかったし、ミランダが...、ぼく付きのメイドさんなんだけど、手伝ってくれたからもうすっかり...。あ、ねえ、兄さん。家にいるんだったら明日にでもこっちに遊びに来ない? おじいさまもいるし、ぼくの部屋見てみたくない?」

― それは見てみたいけど...。でも、いいのかい? おじいさまがこっちに来られることは聞いてたから会いたいなとは思ってたんだ。だけど、きみはそちらへ行ったばかりだし、落ち着いてないとこへ邪魔しちゃ悪いかなと思って

「そんなことないよ。第一、ここは兄さんのもうひとつの家でもあるんだから、ぼくに遠慮なんかしないでよ」

弟の言うのに、ファーンは嬉しそうに笑っている。

― じゃ、お言葉に甘えて、明日の午後にでも

「うん。なら、お父さんたちにも言っておくね」

― そうしてくれる? 

「もちろん」

― ヨロシク。でさ、きみのその新しい部屋ってどんな感じなのかな? 

尋ねられて、デュアンは待ってましたとばかり自慢そうに答えた。

「へへへへへ、すっごいオトナな雰囲気なんだよ。今、書斎にいるんだけど、ちょっとおじいさまの、ほら、ローデンのお城の書斎あったじゃない? あんな感じですっごく気に入ってるの」

― ふうん、それは見るの楽しみだ

「ただ、なんか立派すぎちゃって、まだちょっと慣れない感じだけどね」

― 使ってればすぐに慣れるよ。まあ、いろいろ今までと環境変わって大変かもしれないけど、それだけ面白いこともあると思うし、ぼくで出来ることなら何でも力になるから頑張ってね

それでどうやら、兄がそれとなく激励するために電話をくれたのだと知って、デュアンはちょっとじ〜んとした気分になったようだ。

「有難う、兄さん。最高に心強いよ」

ファーンはその答えに笑って、じゃ、明日楽しみにしてるから、と言って続けた。

― 今日はもう遅いもんね。続きは明日ということにしようか?

「うん、そうだね」

― それじゃ、おやすみ。明日ね

「ええ、おやすみなさい」

デュアンは、ぼくは本当にファーン兄さん好きだなあ、とつくづく思いながら受話器を置いた。今考えてみると"父の跡取りになる"ということについて、自分よりもその大変さを理解していたのは兄の方だったろうとも思う。もちろん、彼は彼で祖父の跡継ぎという重責を引き受けたわけだが、それだけに同じ立場の弟に対しての共感と気遣いも人一倍になるのかもしれない。

それからデュアンはしばらく祖父に見せると約束した絵を選ぶのに忙しかったが、それが揃う頃にはもう深夜と呼べる時間になっていた。週末なので明日は寝坊できるとはいえ、そろそろベッドに入った方が良さそうだ。そう思って彼は書斎の灯りを消すと部屋を出て、寝室の方へ歩いて行った。そちらの灯りをつけると部屋そのものはまだ見慣れないものの、一緒に越してきたぬいぐるみたちがそこにいるのはほっとした気分にさせてくれる。デュアンは着替えると、彼一人には広すぎる大きなベッドに元気よく飛び乗った。その勢いで先客のシェパードが跳ねるのを見て笑い、お気に入りのぬいぐるみを抱き寄せながらベッドサイドの電話を見て、デュアンはふと母のことを思い出したようだ。

もともとカトリーヌは夜が遅い上、今は休暇前の追い込みで連夜徹夜に近い状態なのをデュアンは知っている。当然、まだ起きているだろう。そう思って受話器を上げ、ダイアルして数回コールを待つと、彼女の声が聞こえて来た。

― はい?

「ママ?」

― あら、デュアン?

「うん。どうしてるかなと思って」

― ま〜だ起きてるんだな、こいつ

「起きてま〜す!」

― これだから心配だったのよ。ディに言っとかなきゃ、夜更かしさせるなって

「いいじゃない、明日お休みなんだから。学校のある時はちゃんと早く寝るよ」

― どうだか

「ふ〜ん。ママが淋しがってるかなと思って電話してあげたのに、そんなこと言うんだったらもうしないぞ」

― はいはい、有難う。で、どうなのよ、そっちは

「出だし、快調」

― ほんと?

「うん。みんなぼくが来たこと喜んでくれてるし、あ、そうだ。おじいさまにあの絵ね、見せたの。そしたら、すっごく気に入ってくれて才能あるって」

― それは、良かったじゃない

「明日、もっと見せることになってるんだよ」

― そう。おじいさまが気に入って下さったんなら、あなたの才能もまあまあ本物ってことかな

「ママもそう思う?」

― まあね

「でさ、ぼく付きのメイドさんが三人もいるんだ。すごいでしょう?」

― 贅沢だこと。でも、それで天狗になっちゃだめよ

「分かってるよ、そんなこと」

― どんな人たちなの?

「みんな優しそうなお姉さんって感じ。まだ一人としか話してはいないんだけど、ミランダっていってね、それがぼくのメインの"お世話係り"なんだ」

― へえ

「ここにはもう5年もお勤めしてるって言ってた。でも、まだ二十代半ばくらいで全然若いんだよ。とりあえずまず、ミランダとは仲良くなれそう」

― 良かったじゃないの。あとの二人は?

「ミランダよりもっと若いよ。その方が、ぼくが馴染みやすいだろうって決めてくれたみたい」

― ああ、なるほどね

「でも、ぼくもうマーサとも仲いいし、アーネストとも...。あ、アーネストにね、いきなり"お呼び捨て下さい"って言われちゃってびっくりした」

それにカトリーヌは笑って、それは仕方ないでしょうねと言った。

― 一応、あなたは"お坊ちゃま"なんだから

「うん、お父さんにも言われたよ。ファーン兄さんも"郷に入っては郷に従え"だって言ってたし」

― 頑張ってね、"お坊ちゃま"

「もお、ママまで」

― 自覚が第一歩、よ。協力してあげてるんじゃない

「はいはい。ファーン兄さんみたいな立派な"お坊ちゃま"目指して頑張ります」

― そうね。でも、まあ良かった。とりあえずのとこ馴染めそうじゃないの。ちょっと心配してたのよ

母の本音を聞いて、デュアンはにっこりしている。

「うん、大丈夫みたい。まあ、何を言うにもこれからだけどね」

― また、ナマイキ言って

「ママの方はどう? 仕事、予定通り片付いてる?」

― まあまあよ。優雅な休暇を夢見て、泥沼の戦いを続けてるわ

実際は、デュアンを送り出してからすっかり意気消沈してしまって仕事どころではなかったのだが、カトリーヌは調子よくそう答えた。事実、息子の声を聞いて、またやる気が湧いてきていたのだ。本当に、デュアンは彼女の元気のモトなのである。

「それなら、ママこそ"頑張ってね"だよ。無理しないで」

― 分かってる

「じゃ、また電話するよ。仕事の邪魔しちゃってゴメンね」

― そんなことないわよ、嬉しかったわ。でも、電話切ったら、さっさと寝るのよ

「はいはい、分かってます」

― じゃ、おやすみ

「おやすみなさい」

午後に母のところを出てからまだ半日しか経っていないのに、なんだかものすごく長いこと離れていたような気がしながらデュアンは受話器をクレイドルに返した。しかし、その気持ちは、カトリーヌも同じだったようで、彼女も受話器を置くと、ほっとひとつ溜め息をつき、そう言えば昼以来、何も食べてなかったわねと思い出して笑っている。デュアンの声を聞いて、不思議なくらい元気が出てきていたのだ。彼女は、何か食べてから、ひと仕事しますか、と言って、キチンへ歩いて行った。

一方、デュアンの方はさすがに眠くなって来ていたし、これ以上起きていたのがバレたら、またママに叱られそうと思って、早々に灯りを消すと眠ることにしたようだ。抱きマクラのシェパードを抱き寄せて、数分もするとうとうとし始めている。今日は彼にとっても、大きな変化を伴ってなかなか大変な一日だったということなのだろう。

original text : 2010.3.29.〜4.12.     

  

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