Local Boy Makes Good (田舎少年大成す) A master of the art nouveau style has a Prague retrospective アール・ヌーヴォーの巨匠、プラハにて回顧展
Newsweek July 18, 1994 Text by Andrew Nagorski
1894年のクリスマス・イヴのことだった。モラヴィアの田舎から出て来た気鋭のアーティストであったアルフォンス・ミュシャは、彼の雇い主が怒り狂っているサラ・ベルナールからの電話を受けた時、パリのその印刷所で唯一仕事に出ていた画家だったのだ。かの有名女優は、彼女の主演作「ジスモンダ」のポスターが気に入らないと言って大騒ぎしているのである。大弱りの印刷屋は、なかばヤケでミュシャに何か描くように依頼した。印刷屋はミュシャのスケッチが気に入ったわけではなかったのだが、他に代わりがない以上、それをベルナールに届けるよりない。見るなり神のごときサラは感嘆の声を上げた。「いったい誰がこの素晴らしい絵を描いたの!!」と。 この印象的でエレガントなポスターが日の目を見るや、ミュシャは一夜にしてパリの注目を集めた。ベルナールからの他にも多くの注文がなだれこみ、その新たな交流の輪は、ポール・ゴーギャンやオーギュスト・ロダンにまで広がってゆく。また彼は合衆国も訪れ、セオドア・ルーズベルト大統領の一家とも親しく付き合って、その間にも名声は高まるばかりであった。ミュシャはまさにアール・ヌーヴォーの花形だったのである ― 彼の祖国を除いては。 1910年にミュシャがプラハに落ち着いた時には、チェコの多くの批評家たちは彼に敵対的な反応を示したものだ。彼らはその作品が軽薄であり、"漫画"以上のものではないと結論した。ミュシャのその後の生涯に渡り、そしてその後も長くこの評価はわだかまり、後に共産主義政府は"ブルジョワ的頽廃"の烙印を押して退けさえした。― そんなわけで、ミュシャは海外ではあれほど急速に、世界で最も有名なチェコの画家という評価を得ながら、祖国にあってはこれまで決して受け入れられることがなかったのである。 しかしそれは、これまでの話だ。先月プラハ城で幕を開け、(1994年)10月30日まで開催される予定の展覧会は、彼の(祖国における)社会的名声の復興が頂点にまで達していることを物語っている。更に重要なのは、この展覧会はミュシャ(1860-1939)が世紀の変わり目を彩ったアール・ヌーヴォーの顕著な例として歴史上に位置を占めるばかりでなく、彼の最も熱狂的なファンの間でさえこれまで十分には認識されていなかったほどの多才な芸術家であったということの、抗し難い証明となっていることだ。137点に及ぶ、素描、パステル画、ポスターなどのコレクションのうち殆どは、1991年に画家の家族によって設立されたミュシャ財団より提供されており、その多くは今回が世界初公開となっている。ベルナールやLUビスケットなどのための際立ったポスターの他にも、建築プランや宝石デザイン、彫刻なども含まれているのだ。 「彼は何でも誠心誠意描く人でしたね。ビスケットの広告だろうと、宝石デザインだろうと」と画家の義理の娘にあたるスコットランド人、ジェラルディン・ミュシャは語る。「際限がありませんでしたよ。」 この展覧会での最大の驚きは、ロマンティックな装飾的作品で知られる画家の、暗い側面が垣間見えることだろう。ここで管理者であり、チャールズ大学の芸術史家でもあるPetr Wittlich は、意図的にミュシャの"もうひとつの側面"を提示している。画家は1899年にボスニア・ヘルチェゴヴィナを訪ね、当時の時局的問題であったバルカン戦争にインスパイアされた表現を残しているのだ。その質素で、悪夢のような「戦争」という作品は黙示録的であり、それは今日の核の時代にも容易に当てはめて見ることができる。このように彼の華やかな一連の商業ポスターと全くの対照をなす作品の中には、衝撃的な"Russia Restituenda"もあるが、これは1922年のロシア飢餓救済基金を集める目的で描かれたポスターだ。暗い背景を背にして、虚ろな目をした女性が胸に小さな子供を抱きしめている画面である。またあまり知られていない素描やパステル画の中には、ミュシャもまた当時の多くのパリの画家たちの例にもれず、神秘や超自然に深く惹かれていたことを示している。 また、この展覧会では、ミュシャの最も秀でた部分を知ることができる。「彼は全くデッサンの巨匠でした」とWittlich 氏は言う。ゴーギャンのように、基本的に色彩によって描く生粋の画家ではなく、「彼にとって制作における根本的な問題は、黒と白をいかに扱うかということであり、つまりグラフィック・アーティストであったと言えます。」ポスターの習作として描かれ、完成作と共に公開されている豊富なスケッチ類が、そのことを物語っているだろう。有名なモラヴィア教師合唱団のポスターに描かれている少女は、デッサンにおいても同様に素晴らしいのである。 そして一連の写真が、ミュシャのパリのアトリエの楽しい雰囲気を伝えてくる。このアトリエは公開にあたって、元来の調度を残した状態で一部改修されているが、写真の中にはオルガンに向かうゴーギャン ― ただし、ズボンを脱いでいる ― や、殆ど全裸のモデルが、刺激的で挑発的なポーズをとっているようなものもある。しかし、それでさえミュシャのデッサンやポスターと同じく、猥褻な感じは全く見受けられない。彼の作品がいくらかエロティシズムを帯びていようとも、描く対象に対する画家の深い思いやりに包まれていて、それが典雅な優雅さに繋がっているのだ。そしてそれは彼の幼い頃の、19世紀的な教育のたまものであろう。ミュシャは、半分は今世紀(20世紀)を生きた人でありながら、その作品を認めない者の中には、彼の芸術が19世紀的制約のうちに留まっていたと言う者もある。おそらくそれも当たっているのだ。 しかし商業ポスターに見られる、巧みな意識下に訴えるメッセージの手法は、現代の広告時代の先駆けであったかもしれない。例えば"Job"のポスターに見られるように、喫煙と洗練された女性を組み合わせるといったようなことだ。(この手法に着目して、展覧会では販売された通常の作品やポスター類ばかりではなく、彼のデザインで飾られたLUビスケットの缶も展示されている。) また彼のロマン主義的な愛国的衝動は、プラハ市民会館のために描かれた作品に見られるように、そのデッサンをも世に知らしめたが、この作品は後のファシストとコミュニズムにおける英雄的労働者といったプロパガンダさえ予見させる。たが、こうしたことがあってもなお、彼の本質はその人格形成期の環境に拠っており、その有名なパリの友人たちのような、時代に先鞭をつけようとする役割を担うことを真似ようとは望まなかったのだ。「同世代の人たちには特に興味がなかったようです」とジェラルディン・ミュシャは言う。「それよりも当時最新の技術革新に興味を持っていました。写真もそのひとつでしたよ。」そうした傾向は、彼のポスターに見られる写真的精度によく現わされているだろう。 今やミュシャの、内的衝動以外には何者にも流されまいとする拒否の姿勢は、単なるエキセントリックな孤立主義ではないことが明らかだ。「彼が流行に追随することに熱心でなければならなかった理由など何かあったでしょうか」とWittlich氏は言う。ある一時代において現代的であると考えられることの殆どは、いずれ時代に埋もれてゆくのだ。だからミュシャには全く、そんな理由などなかったのである。100年後の現在、ミュシャはサラ・ベルナール以来かつて無かったほどの注目を集め、彼の祖国の内外を問わずますますそのファンを増している。 ― それは取りも直さず、彼が自らとその時代に忠実であったことの証しなのであろう。
ミュシャのパリ・スタジオ
text. 2005.12.12+12.15. translated by Ayako Tachibana *この文章は1994年7/18号のニューズ・ウィーク誌に掲載されたものを、サイト・オーナーの翻訳により掲載させて頂いております。あくまで文化振興を目的とし、ミュシャの業績を広く皆さんに知って頂くために掲載させて頂いておりますが、著作権者のご要望があれば即座に削除いたしますので、メールにてサイト・オーナーまでお知らせ下さいませ。著作権者様のご理解を賜れれば、これに勝る喜びはございません。また読者の皆さまにおかれましても、著作権に十分ご配慮頂き、商用利用等、不正な引用はご遠慮下さいますよう、宜しくお願い致します。 >> Tea Talk1
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