アルフォンス・ミュシャとチェコ芸術 イージー・コタリーク(プラハ国立美術館館長) 19世紀から20世紀への変わり目は、ヨーロッパにおける変化と変転と変革の時代の到来を告げるものであり、このことはまた文化のあらゆる分野に反映し、行く手にその影を落としていた。この時期の美術はとりわけ印象主義、象徴主義、そしてアール・ヌーヴォーとして定義されるが、この3つのそれぞれの異なる創造的流れは純粋な理論的視点からは区別されるものの、しばしば互いに絡み合い、重なり合っていたのである。この3つの流れに共通していたのは、無定形な自然主義や不毛な歴史的様式、それに入念さを極めたアカデミックな画法に反旗を翻しつつ、新たな、上昇する芸術を自覚したことであった。 印象主義は1870年代のフランスで形成され、その10年後にはヨーロッパ中に浸透しはじめ、19世紀末までには多くの国で、創造的な推進力を持ったプログラムを代表するものとなった。印象主義は絵画から発生したものであるがゆえに、その性格や着想は多くの点で予め決定されていた。印象主義は発展しつつある近代を、そのダイナミックで変転するがままに表わし、あらゆる構成要素に渡って表現を根本から解放し、さらに近代芸術のその後の運命にとって極めて特徴的な主観と客観との弁証法的な関係を会得したのである。印象主義の意義は始めからすぐさま理解され、間もなく多くの唱導者や解釈者を得ることとなった。包括的な専門的文献が印象主義を新たな時代の基調をなす創造的成果の一つとして位置づけているのももっともなことである。 印象主義と同時に、象徴主義が知的にも方法的にも全く相対立するものとして発展した。象徴主義は個人的な理念や瞑想的愛、形而上学的色彩の濃い憧憬といったものの反映であり、しばしばロマン主義美学の原理にいくらか立ち戻っていた。その展開は印象主義のように広範囲に及ぶこともなく、またそのような力をもつこともなかった。象徴主義は孤立した個人によって確定されたものであり、その作品は主観的な経験や内的な知覚、フォルムの秩序といった価値を強調することによって、1880年代に時の話題を提供するものとなった。それはまた未来において取り組むべき諸問題に明らかに寄与するものでもあった。多くの点で象徴主義は詩から霊感を得ており、詩の領域において象徴主義の原理は最もよくその特徴を示すよう定式化されていた。従って象徴主義的傾向の芸術があまりにも文学的になりすぎるという危険がしばしば生じるのもこのことから説明されよう。発展的な意味では象徴主義は印象主義と異なり、ただただ遅れてしかもためらいがちに見出され、認識されたにすぎず、近代芸術の中でその正当な地位を得るまでには長い時間を要したのであった。 第3の流れであるアール・ヌーヴォーは、究極的には広範囲に及ぶ多彩な努力によって確定されたものであって、線的で二次元的なリズムに基づく外面的、装飾的な特徴をそなえていた。いくつかの知的中心、ないし地域的集団の中でこの第3の流れの発生と成熟は、文献の中で最も頻繁に使われる<アール・ヌーヴォー>という用語をも含めてこの流れに付された様々な名称(<モダーン・スタイル>、<ユーゲントシュティール>、<分離派様式>、<リバティー様式>、<花の様式(フロレアーレ)>、あるいはロシアの<モダーン>、チェコの<セセセ>など)と軌を一にするものであった。この流れはまた、ネオ=ロマン主義的努力の持続の中にいくらかその根をもってもいた。アール・ヌーヴォーは1880年代にはその努力を結集し始め、1890年代には活力と広範な支持を得て事実上全ヨーロッパ諸国に(さらに海外の南北アメリカに)浸透し、1900年前後にはある点で芸術と生活との同義語にもなった。しかしまもなくその勢いを失い始め、1905〜1907年までには時の流れを阻害する効果を持つようになった。 印象主義と象徴主義は絶えず共存しつつ創作上は両極に位置しているが、その構想と表現手段は純理論的基礎を持っており、イデオロギー的に正当化されうるものであった。しかし印象主義も象徴主義も主観的色合いの濃い芸術分野(絵画、詩)から生じたものであって、より広い範囲に及ぶ様式の枠組みを形成しようといった意図もまたその機会もなく、社会的注文や共感といった後盾もなく、概して美学的な問題にのみかかずらっていた。これとは対照的にアール・ヌーヴォーは確固とした純理論的基礎や明確に規定された観念的内容を欠いており、印象主義であろうと象徴主義であろうとそのインスピレーションや影響に進んで身をさらしもした。しかし他方、アール・ヌーヴォーは美術における表現のあらゆる構成要素を包含する簡潔なフォルムの組織をもつことに顕著な特色を有し、また様式的秩序、活力に満ちた意味を樹立しようとする努力、それにとりわけ建築や応用芸術に見られるような社会への適用といった明確な刻印を帯びていた。 こうしてアール・ヌーヴォーはそのあわただしい誕生と発展の中で国際様式となったが、とはいえ、それは、はっきりとした地方的、民族的修正をこうむりながら遂行された様式であった。このことはまたアール・ヌーヴォーを論理的に近代芸術の展開の始めに位置づけることにもなる。近代芸術の性質と発展は、広範囲に及ぶ観念やフォルムの適用と交換という点で、アール・ヌーヴォー同様の特徴をそなえていたのである。芸術の素養だとか、国の文化や歴史や容力といった境界をものともしないアール・ヌーヴォーのすくなからぬ受け入れ易さと偏見のなさといったことは、当然のことながら以上のことと関連していた。 アール・ヌーヴォーの個々の流れやその現われの中に、東方の芸術、とりわけ日本の芸術の影響を認めることはそれほど困難ではない(日本の芸術の影響がヨーロッパに広まったのは印象主義の初期にまで遡る)。アール・ヌーヴォーはまた、古代芸術の影響をも含んでいる(たとえば当時、考古学の発掘の際に発見されたクレタの陶芸品)、民俗伝統がいまだすたれていない国々では、そうした伝統のもつ形態の刺激やそれとの置き換えが頻繁に見られた。歴史的な諸様式の残余もまたアール・ヌーヴォーに影響を与えた。たとえば、ミュンヘンの芸術家の作品に見られる明らかなロココ様式の特徴は、地方的伝統、バイエルン芸術の伝統の継承を反映したものであった。さらには、このように極めて多種多様な刺激や影響に対して絶えず開かれていること、またフォルムのもつ想像力と歴史のどこか、世界のどこかに既に存在する構図上の解決法との間に生き生きとした関連を見出そうとするこのような要求は、さらにその後発展していく近代芸術の性質を予示することになった。 種々の分野、そして種々の国々にみられるアール・ヌーヴォーの多様性はもちろん一様な型に要約されうるものではない。こうした多様性がすでにアール・ヌーヴォーの創造的な構成の方法や手段の一部になっていたことは明らかである。われわれはそこに真のインスピレーションを、身もだえするような植物、開花した花々、蝶々のヴァリエーション、昆虫の羽や胴体などといった有機的形態を見出すのだ。ここでわれわれは知覚や形態のはかなさ、移ろいやすさという点でしばしば印象主義に接近することになる。またある時は、フォルムと色彩の自由なヴァリエーションの中で、夢と幻想の中で、観念と創造の想像的性質が前面に現われてくることにもなる ― 全く象徴主義風に芸術家はたびたび外的および内的インスピレーションの場を放棄し、抽象的装飾の途切れることのないリズムの戯れに、輪郭線と二次元的分節の強調に、我を忘れて身を委ねる。これはおそらくアール・ヌーヴォーの最大の貢献であろう。とはいえその最良の作品におけてさえ、手法は表現と常に調和を保ち、フォルムの中で想像力が有機的に作用しているのだ。このことはまた、素材 ― 豊かな、ほとんど浪費的な素材、しかし感受性豊かに効果的に用いられた素材 ― に喜びを感じていることの説明ともなる。とりわけ建築にとって特徴的なのは、鉄や、またしばしば見られるガラスや窯業製品の構成的、装飾的な使用である。ここにおいてアール・ヌーヴォーは、これまで平行していながらも互いに孤立していた2つの分野 ― 工学的建造といわゆる様式的建築 ― の経験を総合したのである。素材に対する成熟した感情という点で、またそうした素材の組み立てに対する独自の取り組み方やこれまで以上に素材のもつ性質を最も効果的に活用しようとする点で、アール・ヌーヴォーは応用芸術のあらゆる分野 ― ガラス、陶芸、織物、家具、金属細工、装飾具など ― の発展を鼓舞したのである。いくつかの分野がこの時新たに発見されたり、あるいはまたまさにその根底から変革されたりした ― とりわけポスター、装飾としてのグラフィック・アート、本のデザインや挿絵、舞台のデザインなど、理論と実践においてこれらは産業デザインの基礎を、次々と製造される製品の基礎を築いた。まず第一にわれわれは芸術のヒエラルキーにおいて個々の分野が果たす機能に変化が生じたことに気付かされる。こうして絵画や彫刻を知的に抽象的に強調する立場は明らかに背後に退いた。アール・ヌーヴォーにおいて主要な関心事は、建築の中でのモニュメンタルな装飾的効果の中での絵画や彫刻というものであった。同時に目標となったのは、支配的な位置を占める建築との関連で、純粋芸術と応用芸術のあらゆる構成要素を統合することであった。そしてここから、一つの建築をつくる際にその全体的構想から内部の家具調度の細部に至るまで徹底的に考え抜こうとする努力が生まれたのである。 内容と形式にみられる19世紀の混沌とした状態に反旗を翻したアール・ヌーヴォーは一つの様式を生み出そうと試み、そうした様式の表現パターンが生活および生活に必要とされるものと相関関係にあることが意識的に追及された。建築の仕事が拡大し、それぞれの建築が同様の責任で設計されるようになったことの理由の一つがここにある ― すなわち劇場、博物館、市庁舎、銀行、代表的な建物や館のみならず、陳腐な仕事までをも含む日常生活の建物、つまりカフェ、レストラン、商店、工房、通りのキオスク等々、この建築の分野においてまたアール・ヌーヴォーは、それまで建築家の手になる"高尚な"仕事と技師の手になる普通の実用的仕事とを截然と区別していた考えを取り払ってしまった。こうして生まれてきた様式は社会的な基盤や共感を求め、時には当然のことながら時代の階級的変動と符合して不一致や矛盾を伴うことにもなった。しかしすでに述べたようにアール・ヌーヴォーは普遍的な単一の定式によって定義し、説明することはできない。それは俗物的な観念や趣味の明らかな要素を含み、けばけばしさ、装飾的洗練、排他的美学といったものに対する傾向をいくらか含んでいる。しかしアール・ヌーヴォーはまた、まじめに意図され、心から感得される社会的影響力を持った作品をも含んでいたのだ。このことはアール・ヌーヴォーを解釈する際にしばしば回避され、あるいは看過されてきた事実である。しかしこのことから発展の初期の段階における近代芸術が社会的責任を自覚し、それを避けようとはしなかったことが明らかとなる。アール・ヌーヴォーの創作者の多くが担わされた外的条件のために彼らは自らの構想を実行できず、そのことで彼らは不本意な孤立や心に傷を負うような世間との隔絶を余儀なくされたのであって、それはただアール・ヌーヴォーの落ち度とばかりはいえなかったのだ。しかし19世紀から20世紀への変わり目の時期の発展しつつある階層や経済、あるいは政治的、イデオロギー的矛盾は明らかに文化的生活に反映し、またアール・ヌーヴォー的傾向を持った芸術文化の個々の分野を特徴づけてもいた。 あらゆる重要な歴史的時代ないしある時代の特定の時期の創造的作品とちょうど同じように、様々に枝を伸ばして完成した様式は、いくつかの根から生まれたものであり、いくつかの平行するレヴェルの上に形成されている ― そうしたレヴェルは時に密接に触れ合い、からみ合うことすらあるが、しかし機械的な関係、あるいは偶然の関係を結ぶことはない。これはむしろ様々な傾向や問題と平行関係をもつものであって、それぞれの時代の社会・経済的文脈によって、知的状況や文化的環境によって、創造的発想や成果の持続によって確定れさた同じような定式をもつ問題に対して示された、同じような堂々たる回答としばしば一致している。19世紀から20世紀への変わり目のチェコ芸術もまた、社会・経済的関係の中での出来事や変化を反映し、表現した。この時、労働者階級は(1887年にチェコスロバキア社会民主党が結成されたのだが)、封建的規則の残存に反対し、ブルジョワの指導権が強化されることに反対する闘争の中で、自分たちの言い分が聞かれることを断固として要求した。同時にオーストリア=ハンガリー帝国の枠組の中の属国という運命から見て、個々の創造的ほとばしりや個人的言表はしはしば ― 直接的ないし間接的に ― 政治的自由を達成しようとする努力と結びついていた。このことは哲学的思想や理論的考察の内容に明らかに認められるのであって、そうしたものの中ではヨーロッパ意識という古い伝統を復活しようとする努力が、狭量な地方主義から脱しようとする努力が当時の主要な考えを理解し、それと創造的な対話を交わそうとする努力が前面に現われていた。このことはまたチェコ美術の発展の中に、ヨーロッパ化し成熟した美術になろうとする互いに分かちあう意識的努力の中に、十分に反映されていた。さらにまたこれは19世紀末に登場し、その中核がマーネス芸術家協会(1887年に設立)に結集した若い世代の歴史的功績でもあった。彼らは、1896年創刊の雑誌『ヴォルネー・スムニェリ(自由な方向)』の誌面に、そしてとりわけ外国展を開催しようとする大計画の中に、自分たちの見解をしきりと強調した。1902年からプラハでは外国展が組織的に開催され、ヨーロッパの様々な国の現代芸術に親しめるようになったのである。 いくつかの点で19世紀後半の創造的刺激は、第一にオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンを経由して ― また一部はより開放的なミュンヘンの環境を経由して、さらにはほんの時折りだがベルリンを経由して ― 伝えられたが、それも当然のことであって、そうした影響は1870年代と80年代にとりわけ顕著に認められる。しかしそれも次第に衰え、方向感覚を失うようになった。1880年代から90年代初頭までには、ごく身近に存在するドイツ文化の支配から抜け出し、西ヨーロッパ諸国の芸術作品との直接的な接触を確立しようとする欲求の中で、パリの影響力が次第に強まってゆき、1900年前後には明らかに中心的な芸術家の心と作品の中でその影響力は頂点にまで達した。 しかしかなり遅れてフランス印象主義の問題が受け継がれたために、それはより新しい原理や刺激と絡み合っていた ― つまり、ポン=タヴェン派の構成原理や、あるいはたびたびのことだが点描主義の定式と混ざり合い、またとりわけ象徴主義の文学的色彩の濃厚な傾向、あるいは線的、、二次元的意匠(主にポスターやグラフィック・アートに見られる)の装飾的視点と融合していたのである。イギリス芸術の影響は間接的とはいえ、わがチェコスロヴァキアでは強い衝撃力を持ち、アーツ・アンド・クラフツの理念やラファエル前派の詩的・感傷的思想に対する遅ればせな反応といった形さえとっている。ベルギー芸術の作例(たとえばヴァン・デ・ヴェルデは世紀末に中欧全体に影響を与えた)は、近代チェコ建築や応用芸術の創始に貢献し、同様のことはまたオランダ芸術にも一部あてはまった。スカンディナヴィア諸国からはエドヴァルド・ムンクが最も意味深い影響力を持ち、彼の作品はアール・ヌーヴォーから表現主義へと移行する際に決定的な役割を演じた。 こうした影響のすべてと平行して、あたかもそれらと故意に対立する関係にあるとでもいうように、ロシア芸術との結びつきが一層強くなってきた。リアリズムの中心的人物(I.E.レーピンと移動派の画家たち)を折りよく知ったのち、ロシア絵画の中に注目すべき一章を記しつつあった新しい波(M.A.ヴルーベリや『美術世界(ミルー・イスクースドヴァ)』誌の他のメンバーが率いる)に対する強い関心が広まった。もちろん友情の絆によって当時のプラハはムオダ・ポルスカ(若いポーランド人)の中心地クラクフと結びついており、またリュブリアナやザクレブで視覚芸術が復活しつつあることもまた知られていた。多少の例外はあるものの、チェコ芸術に開かれていた世界といえばほんの数十年前は限定されたものであった ― つまりウィーンとミュンヘンのもつ視野に限定されていたわけだが、その世界がいまやあらゆる方向に開かれたのであった。 同時に、若い、上昇気運にある芸術家は、いまや暗闇から抜け出し、次第に評価されつつあった自国の伝統の中の価値あるものすべてを自らの拠り所とすることができた。1850年代から60年代にかけて、フランスの状況と同様に、チェコの幾人かの画家たち(カレル・プルキニェ、ソビェスラフ・ピンカス、ヴィクトル・バルヴィティウス)は、当時の知的、創造的問題のレヴェルで、折りよくリアリズムを理解するまでにいたった ― つまり、社会的、文化的環境がもっと都合のよい状態であったならば印象主義の入口にまで通じたかもしれない、無意識のうちに示された地方的な道の途上にあったのだ。さらに1870年代末から80年代を通じて、自らのプログラムがネオロマン主義(プラハ国立劇場の建物や装飾と関連して)によってもっぱら決定されていた世代においても、個々の芸術家の作品の中には印象主義のヴィジョンを示唆するものがあったり、象徴主義的性質をもつはっきりとした傾向や、アール・ヌーヴォーに特徴的な装飾性をそなえた先駆的要素が存在したりしたのである(特に画家の中ではミクラーシュ・アレシュやヨゼフ・トゥルカ、ハヌシュ・シュヴィンゲルやマクミリアーン・ピルナー、彫刻家ではJ.V.ミスルベク)。 かくて19世紀と20世紀の変わり目のボヘミアにおいて、多方面にわたる知性をそなえた人材豊かな世代が形成された。彼らは生きてきた時代の特質を適切に理解し、ヨーロッパ芸術の実例を創造的に受け入れ、かつまた、ある面ではチェコ国内の発展による刺激に支えられて、現代の造形文化の発展の確実な基礎を築き上げたのである。こうしたことは建築ではヤン・コチェラの仕事のうちにみることができる。彼の建築の特色はデザインの明快さと純粋さ、その抒情的で落ち着いた特質、簡潔さと親しみ易さにある。スロヴァキアの建築家ドゥシャン・ユルコヴィッチの着想の源泉は別のところにあるが、彼の木と石による構築物は、情緒的なインスピレーションと歌うようなリズムの点で自然に一層近づいている。彫刻ではとりわけフランチシェク・ビーレクの象徴主義的なヴィジョンを指摘することができるであろう。彼は内的行為や精神的理念を強調しつつ、人物を土や植物の要素とともに配置して発展させた物語の内容と表情豊かなジェスチャーという見なれぬ手法を採用したり、あるいは事物を直接に生のまま用いるという語法を採用したりしている。スタニスラフ・スハルダの作品の特徴は、ヴォリュームの伸びやかな柔軟性と絵画的なものの強調にあり、詩情と夢想のやわらかなヴェールにつつまれている。ヨゼフ・マジャトッカにおいては、極端な明暗の効果や分析的な手段、表現の直接性が装飾的な形をとる輪郭と結びついている。そこでは事物が激しく展開し崩壊する。ボフミル・カフカおいてはアール・ヌーヴォーの創造的様式という考えが、印象主義の肉づけの原理と象徴主義の概念的なあいまいさとの総合の中で実現されている。彼は常に輪郭線と二次元性に関心があり、しばしば装飾化の考えに到達している。ヤン・シュトゥルサの作品は、感覚的体験や詩的ヴィジョンとの対極において劇的なるものの源泉となる豊かな想像性にその特徴がある。ヴォリュームと形体は観念と夢想の象徴的な比喩に変形されている。 とりわけ絵画は、流行していた傾向と運動のすべてを忠実に反映していた。従ってそれを概観するといくつかのグループに区分される。そして若い世代が登場した19世紀末の絵画の特徴である複雑で創造的な緊張は、同じ年代のチェコの詩の広がりと深さのうちにのみ類似したものを見出すことができるだろう。両分野が非常に接近しているのは意図と思想の面ばかりでなく、形体のリズム化と色彩のニュアンスにおいてもそうなのである。つまりは概念上および構造上の連関において両者は互いに近づいている。穏やかな発展と時には沈滞した数十年に続いて、新しい展開が急速に、ほとんど慌ただしいほどの速さで始まった。すでに述べたように、この時代のいくつかの特徴的な傾向が若い世代の出現を定義づけている。まず第一に1880年代の変わり目以降に写実主義的な、良くいえば自然主義的な傾向のジャンルの波がやってきた。それは物の見方と手法の点で新しい時代を予告しようとしたが、すぐに息を切らせ落し穴に落ち込んでしまった。彼らは外面的で表面的なものしか捕えられず、重要でないものを描写するだけであった(例外は有能なルジュク・マロルドで、彼は時代を確信をもって表現し装飾芸術の復興に寄与したが、不幸にも早逝した)。印象主義的な傾向をもつ二番目のややおくれて現われた潮流も現実に基礎を置いていたが、それはつかの間のできごとの中に内容を求めたりはせず、自然と自然の営みの解釈にその努力をかたむけた。ここから、光と色彩という特殊な問題に対する理解と解決を示す風景画の重要性が生まれてくる ― 特に、アントニーン・スラヴィーチェクの爆発的でほとんど表現主義的な横溢を見せる絵画とスケッチ類。三番目の潮流であるこの国の象徴主義は、長い間低い評価しか与えられなかったが、願望と夢の個人的な隠喩によって、現実の体験と内面的な観念とを統合した。視覚上の実現に際して、この試みは造形的手段の独特の旋律を目指して表明された。そのことは画家ヤン・プライスラーの純粋で詩的な感じのする作品からうかがえよう。最後の四番目の潮流は装飾的な傾向をその特色とし、現実から得た最初のインスピレーションは線と面と色彩の独立したリズムに変化し発展させられている。長い間それは発展性のない支流とみなされ、軽視され排除すらされてきた。つまり、装飾的傾向は実用品の分野にしか許されておらず、純粋絵画との密接な関係は理解されてさえいなかった。しかしこの潮流はチェコ芸術に有機的に属しており、19世紀と20世紀の境に現われ発展したチェコ芸術は、許容範囲を越えて大きな影響力をもつにいたるのである。この分野の最も傑出した人物であるアルフォンス・ミュシャ(ムハ)を別にすれば、ヴォイチェフ・プレシイグのグラフィック作品と絵画作品がそのことを証明するだろう。彼はすばらしく純粋で、時の経過と共に明らかになってきたように、非凡で大胆な想像力をもった芸術家である。 アール・ヌーヴォーについてしばしば言われることは、その着想と成果とが建築と応用芸術によって決定的に形づくられたということである。私見では、この考えはかなりの制限と条件をつけなければ妥当しない。この考えは外面的で形体学的な分析に基づいている。そしてこの分析は装飾性のきわだった特色を認めてそれを手本にしているが、絵画が純粋芸術の発展にもたらした内部からの発散力を過小評価している。ところが芸術家の現実に対する態度が概念的および感覚的観点からみて深刻で意味あるものになるのは、まさにこの点においてなのである。説明の仕方をかえれば、アール・ヌーヴォーは芸術活動のあるひとつの分野が支配し勢力をふるったものではなく、各分野が協力し、創造的な影響力を及ぼし合ったのである。それは時として密接に関連し融合しあうこともあったが、偶然的な相互関係などではない。先に述べたことを繰り返せば、これはむしろ平行関係の問題である。つまり、同じような問いを発し同じような答えで応ずる課題と傾向である。ここから制作上の原理や方法、あるいは形式や形体学的な要素の解決における、同一性ではなく、自然な合意が生まれてくる。チェコのアール・ヌーヴォーにおいても、建物の正面(ファサード)や物の形から時代の印を読みとることができる。それはしばしば表面の装飾と線のリズムにおいて同じ特徴を示している。しかし創作上の刺激の源泉と形体が生まれてくる出発点は、主として彫刻と絵画とグラフィック作品のうちに認められる。もちろん純粋芸術と応用芸術の間には明らかな境界線はない。アール・ヌーヴォーは生活との統合と融和を実現しようとする中で、造形文化のすべての分野とその表現の関連性を理解したのである。これはF.X.シャルダによって支持された。「明日のための闘い」の時代において、彼はその時代の意図を雄弁に表明した。「すべての芸術はその物質的な独立から次第に解放される。そしてその基礎と根源は装飾的で象徴的なものであり、その目的は生活の装飾化に、生活全体に影響を及ぼすことに、そして生活全体に役立つことにあるということをもっとはっきりと感じるようになる。最高の文化的価値としての様式、芸術と生活の統一としての様式は、私たちの希望の主題となる」(『現在の目的、いわゆるインダストリアル・デザインのルネサンス』、1903年)。 この意味で、アール・ヌーヴォーの書かれざるプログラムは、展示用絵画だけを専門とすることをやめた画家たちによって遂行された。もっとも絵画は彼らの創作の出発点であり、また調整役を果たしてもいたのだが、彼らが一貫して専念したのは他の創作活動であり、その構造上の従属分野の理解もおこたりなかった(それは、建築と手を組んだ記念物の制作であれ、グラフィック、本の挿絵、ポスターなどの分野であれ)。ここにもまたアルフォンス・ミュシャの重要性と貢献がある。彼の多くの作品は当分の間その時代の営みを最もよく具現するものとなった。 ミュシャの制作の最初の10年間は当時の歴史画の流儀に基づくアカデミックなソフィスティケーションを特色とする(部分的にはアルフォンス・ミュシャが青年時代に体験したウィーンやミュンヘンでの影響が衰えてゆく)。画家は過去のあるできごとを表現する挿絵にしばしば主力を傾ける。しかし1894年から1899年までの一連のポスターによって、アルフォンス・ミュシャは己れの時代の趣味の忠実な解釈者となった。有名な女優サラ・ベルナールのルネサンス座のため制作されたこれらのポスターは、アール・ヌーヴォーの特徴である細長い長方形をしている。それらはミュシャをたちまち有名にした。彼は多くの注文を受けた ― 文化的で商業的な性格のポスター、あるいはポーズをとる女性が四季・花・宝石・星などを象徴する一連の装飾パネルなど、また本の挿絵や表紙、折あるごとに制作した様々な装飾作品、宝石のデザインなどもした(宝石のデザインに協力したパリの装身具商フーケのために、ロワイヤル通りにある豪奢な店の備品のデザインもした)。線によるリズミカルな空間構成と淡い色調をもつアルフォンス・ミュシャのすべての作品は、その詩的な魅力によってきわだっている。そしてその個性的なメロディーはパリで万国博覧会が開かれた1900年ころの時代の雰囲気と軌を一にしていたのである。 しかし、20世紀が始まった数年のうちにアール・ヌーヴォーは流行遅れになり、新しい創造的諸傾向が芸術の世界に現われた。それは虚飾や粉飾なしに生の現実を理解し表現しようとする傾向であった。アルフォンス・ミュシャの芸術はその話題性を失い始めた。しかし、一連の木炭デッサンやほとんどすべて無作為にスケッチした習作の中で彼は、再生の源泉が自らの作品の中に存在することを確信をもって表明している。だがこれらのスケッチ類は系統的に発展することはなく、今日では画家の高い表現力を秘めた創造上の可能性を証明しているにすぎない。その可能性とは世界をより劇的に認識し、心理的な面をより明確に強調しようとするものであった。 1904年アルフォンス・ミュシャはアメリカ合衆国に招かれ、そこで数年の間、彼は再びポスターと装飾パネルのデザイナーとして、肖像画と装飾画の画家として、そしてまた教師として成功した。その手法は応用芸術の個々の分野の中でアール・ヌーヴォーの形態を明確に示す一連の規範(モデル)に基づくものであった。しかし時がたつに従い、彼の創作上の見解は次第に話題性と表現の方向性を失っていった。アルフォンス・ミュシャの作品に対立する創作傾向の出現は、現代の造形芸術の発展の新しい時代の始まりを予告した。 1910年、アルフォンス・ミュシャは祖国に帰り、二度とその地を離れることはなかった。彼はプラハ市民会館に装飾性の勝った壁画を寄贈した。また、アメリカの実業家チャールズ・クレインの支援を特に受け、<スラヴ叙事詩>と題されたチェコスロバキアの歴史に基づく一連の記念碑的な作品の制作に専念した。この作品は完成後、1928年に初めてプラハで展示された。 アルフォンス・ミュシャの芸術は、創造への関心と表現手段の広がりの中で利用され続けた。彼は時折ポスターを制作し、チェコスロヴァキアで最初に切手を作り、賞状をデザインし、一連の油彩による肖像画と寓意的な人物画を描いた。記念碑的な装飾性をもつ顕著な作品のひとつとして、プラハ城の聖ヴィタ大聖堂のステンド・グラスを挙げることができる。主観性に基づき、熟慮を重ねて作られたこの作品の中で、彼は迫り来る暗い時代の不安と予兆になじんでいった。チェコスロヴァキアがヒットラーの軍隊に占領され、第二次世界大戦が勃発するとまもなく、アルフォンス・ミュシャは他界した。 アルフォンス・ミュシャは1945年以降、長い無視の時期から復活した。そのころから現代芸術の起源と1900年ころに対する興味が広まり、彼の作品も次第に正当にも展覧会や出版物の中に場所を得てきた。彼の若いころの作品は世紀の変わり目のヨーロッパ芸術の発展の中に正しく組み込まれた(特にイギリスとフランスで催された重要な展覧会のおかげである)。チェコスロヴァキアでも新しい視点によってアルフォンス・ミュシャの創造的遺産の重要性と貢献が理解され評価される時期が到来した。時代を概観する展覧会と個人展、何冊かの本、多くの論文に彼の多面的な作品がいちどならずとりあげられ、まれにみる一般公衆の関心を呼び起した。プラハ国立美術館は、パリの国立美術館総局(とオルセー美術館)の協力のもとに1980年にグラン・パレでアルファンス・ミュシャの作品の包括的な展覧会を開き、それは次いでダルムシュタットのマチルデンヘーエの展覧会ホールで、そしてその年の終わりにはプラハ国立美術館で、あいついで催された。この展覧会はアルフォンス・ミュシャの人物と作品をヨーロッパ芸術の文脈の中にしっかりと組み入れたのである。 今日私たちは、19世紀と20世紀の境目の数年間にみられる複雑で矛盾した状況と一致して、アルフォンス・ミュシャの作品も多くの矛盾にみちていることを知っている。しかし彼が常に変わらぬ貢献をしたのは疑いなく装飾芸術の分野である。この分野において画家は ― ポスターと装飾的な仕事に関心を集中する中で ― 現代芸術の新しい重要な原理の誕生と発展に決定的な寄与をしたのである。同時に彼は、造形芸術のすべての分野(建築、絵画、彫刻、グラフィック・アート、応用芸術)の同質性と単一性という考えを明確にし、実行することを積極的に促した。それは創造活動の全域を特色づけ、未来への道を開いたのである。そのことについては、アルフォンス・ミュシャの作品が、多くの面で社会性をもち、活力にみちた目的を確実に証明している。それは20世紀の芸術発展にとり重要な課題になるのである。その意味でアルフォンス・ミュシャの遺産は、1900年ころのヨーロッパ芸術に大きな貢献をしたとみなすことができる。またチェコの絵画とグラフィック・アートの伝統の中の重要なきずなとなり、同時にチェコ文化とヨーロッパの発展との間の関係を証明するものとなっている。最後に、彼の遺産が証明しているのは、ミュシャが20世紀の初期に、次にくる時代の様式をはっきりとした方法で共同して作り出すことに参画した一人物だということである。 *この文章は1983年3月〜11月に、プラハ国立美術館及びアルフォンス・ミュシャ展開催委員会を主催者として、日本の主要都市で行われた「アール・ヌーヴォーの華―アルフォンス・ミュシャ展」図録より引用させて頂いております。あくまで文化振興を目的とし、ミュシャの業績を広く皆さんに知って頂くために掲載させて頂いておりますが、著作権者のご要望があれば即座に削除いたしますので、メールにてサイト・オーナーまでお知らせ下さいませ。著作権者様のご理解を賜れれば、これに勝る喜びはございません。また読者の皆さまにおかれましても、著作権に十分ご配慮頂き、商用利用等、不正な引用はご遠慮下さいますよう、宜しくお願い致します。 >> Tea Talk1
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