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わが父アルフォンス・ミュシャと写真

イージー・ムハ(作家/アルフォンス・ミュシャ子息)

父が初めて写真を撮ったのは今からおよそ100年前、ミュンヘンでのことであった。その時どういう型のカメラを使ったのかは判らないが、いずれにせよそれは借り物で、父は7X7のガラス板を使って窓から通りの情景を撮影した。*注

ミュンヘンを離れる際、父はおそらくそのカメラを返したのだろう。というのも、最初のパリ時代、1888年から1892年にかけてアカデミー・ジュリアンやアカデミー・コラロッシで学んでいたころの写真というのは残っていないからだ。挿絵の仕事でいくらか認められるや、父は早速グランド・ショーミエール街8番地にアトリエを借り、リード・オルガンやカメラを購入したが、そのカメラは第一次大戦まで使っていた。

父はミュンヘンではアマチュアとして写真を撮っていたわけだが、パリでは純粋に職業的な目的でカメラを使用した。当時大半の画家はモデルを写真に撮り、それを自由にカンヴァスに写し取っていた。彼らは写真をそっくりのまま複写するようなことはしなかった。とはいえ、父によれば、友人でたった一人だけそんな風に描いていた画家がいたそうだが、思いやりのある父はその人の名前を口にするようなことは決してなかった。上流社会の夫人の肖像画を描く際、この画家はモデルが最初に画家の前に坐った時に隠しカメラで写真を撮り、それをカンヴァスに写し取って忠実に線をなぞってゆく。夫人が再びやってきて画家の前に坐った時にはしきりに細かいディテールに手を入れ、それからまたひたすら写真をたよりに絵を仕上げていくというのであった。

19世紀の画家たちがカメラを使ったことに何か方法的な目新しさがあったとは思われない。元来彼らは自然を基にして題材をスケッチし、色彩のメモをとり、それからアトリエで絵を仕上げるよう教わっていたのである。こうしたやり方は、まず印象派によってやり玉にあげられたわけだが、画家の間では相変わらず根強く残っていたために、彼らがカメラの便利さを知るや、スケッチ代りに写真を撮ったまでのことであった。彼らにとって写真を撮ることはこれ以上の何ものでもなかったのであり、このことは写真に対する私の父の態度から分かることだった。父は写真を手引き(ガイド)として使ったのであって、だれかがそうした写真の芸術的価値に興味を示そうものなら、きっと驚いたに違いない。母はそれらを不要な屑物だと思い、全部燃してしまおうとさえしたのである。

父は国から国へと移動する時は必ずガラス板を木枠に納めて携帯した。現像はいつも自分で間に合わせの暗室でやり、焼付けはすべて日光で行った。のちに父は2台のカメラ ― 9X12と13X18 ― を使うようになり、常に人工の照明など用いることなく、画家のアトリエの限り無く行き渡った光を利用して撮影した。父にとって写真を撮る主たる目的はポーズだとか衣裳の襞だとかをしっかりと記録しておくことにあった。当然のことながら人物の姿態に関しては補助手段がなくとも描けたのだが、衣裳の襞となるとそれが必要となった。何時間もモデルを坐らせておく代わりに父は写真を撮ったが、とはいえ時には旧いやり方に戻って、衣裳をまとわせた等身大のマネキンを使うこともあった。画家たちは写真というものを知るや、こうした旧いやり方をさっさと棄ててしまった。それというのも、訪問客とか派出婦がついうっかり触れたために、折角苦労して着せた衣裳の襞が永久に失われてしまうなどということにもなりかねなかったからだ。

とはいえ、父が写真を撮る主な理由は必ずしも襞のためというわけでもなかった。そのことは最終のデザインが衣裳を着けた姿で描かれていながら、裸体のモデルを撮った写真が存在することから判るであろう。明らかに父は偶然とかテクニックとかに委ねるようなことは一切しなかった。着衣の下の身体を的確に表現するために、父は指定のポーズをとる裸体の姿が眼前にあることを望んだのだ。植物や人物を様式化する際、父はいつも現実から出発し、それを徐々に単純化していって、ついには最も重要な線を残すだけにするのであった。

しかし、父が最良の写真を撮ったのは、ヴァル・ド・グラース街6番地の新しい広々としたアトリエに移った時であった。日記によれば、このアトリエで父は毎日写真を撮ったという。特定の絵のためにモデルの写真を撮っていたわけではなかった。カメラの前で種々のポーズを即興的につけていって多くのヴァリエーションを写真としてストックしておき、新たな注文があるたびに、そこから主題に最もふさわしいと思われるものを選び出した。こうした写真がどのくらいの期間、制作の手引きとして父の役に立ったのかについては、1930年になって原版から引き伸しが作られたことや、父がとりわけ好んだある種のポーズが再三再四数多くのデザインに現われることなどから、判断できよう。

現在、父の写真に大きな関心が寄せられているが、それは意図せざるところにすらその姿を現わす父の芸術心に対する賛辞だと私は思っている。

 

*注 : グレアム・オーヴェンデンによれば、ミュシャが最初に写真を撮ったのは1880年、すなわち彼がウィーンのリング劇場の書割絵師として働いていた時のことで、その写真は自室から見下ろしたウィーンのマーケットの広場の情景だという。しかしイージー・ムハ氏はこの説を採っていない。(cf. Graham Ovenden, Alphonse Mucha Photographs, London, 1974) 

 

 

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*この文章は1983年3月〜11月に、プラハ国立美術館及びアルフォンス・ミュシャ展開催委員会を主催者として、日本の主要都市で行われた「アール・ヌーヴォーの華―アルフォンス・ミュシャ展」図録より引用させて頂いております。あくまで文化振興を目的とし、ミュシャの業績を広く皆さんに知って頂くために掲載させて頂いておりますが、著作権者のご要望があれば即座に削除いたしますので、メールにてサイト・オーナーまでお知らせ下さいませ。著作権者様のご理解を賜れれば、これに勝る喜びはございません。また読者の皆さまにおかれましても、著作権に十分ご配慮頂き、商用利用等、不正な引用はご遠慮下さいますよう、宜しくお願い致します。

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