ウォーホルやスタルクが描くと、単なる商品パッケージでさえアートになる。それでは作品における芸術性とは何によって表現されているかではなく、表現者自身の資質にこそあると言っても差し支えはあるまい。このレヴュー・シリーズでもこれまで何度となく書いて来たと思うが、芸術史の血脈というものは芸術家の精神性によってのみ継承されるものであって、だからこそその系譜は唯一つしかない。つまり表現形態が何であるかに芸術性が求められるわけではないということだ。だから一般に「純文学作品」とされているものが、芸術的観点からみればタダの娯楽作品でしかない場合があるのと同時に、漫画でありながらアートの域に達しているものもあって当然である。「漫画」が芸術であるか否かではない。芸術であるか否か、それは作品単位で評価さるべき問題なのだ。 手塚治虫氏が生前、所謂コミック・ジェネレーションの全盛を目の当たりにして「本来なら哲学書でも読んでいるべき年頃であるのに」と嘆いておられたと伺ったことがある。しかし、それでは手塚氏でさえ漫画には文学同様、若しくはそれ以上に思想性との融合が可能であるとは夢にも思っておられなかったということだろうか。しかし、それを実際に実現し得た漫画家が私の知る限り何人かは在る。その中でも今回ご紹介する「Sons(サンズ...息子たち)」の作者である三原順氏は最も特筆すべき方だろう。三原氏と言えばよく知られている作品は「はみだしっ子シリーズ」だけれども、その生涯の作品リストから最も完成度の高いものをひとつ選ぶとしたら、やはりこのSonsを置いてないと思う。遺作となった「ビリーの森ジョディの樹」は残念ながら絶筆となっており、我々がその全貌を知ることはついにない。しかし、「Sons」がほぼ完璧と言っていい形で完成を見ているのは正に不幸中の幸いだ。単行本で全7巻、文庫でも4巻になる長編だが、まずストーリーの背景について簡単にお話しておこう。 主人公はダドリー・ディヴッド・トレヴァー、回りの人たちからはそのイニシャルから DD と呼ばれている11歳の少年である。話はそのDDが些細なことで街の学校を退学処分になり、両親の住むのんびりした田舎町に戻って来るところから始まる。活発で決して頭も悪くなく友人も多いDDだが、極めて複雑な出生の背景のために自分の現在ある環境に違和感を感じており、両親にも回りの人たちにも心から馴染むことが出来ていない。そもそもDDを両親として育てたのは実は祖父母で、彼の本当の母親というのは彼らの娘、そして彼女は13歳でDDを産んでいる。しかしそんな年齢の出産で、父親の方にもややこしい背景があったため不幸な環境から精神に異常をきたし、嵐の夜、生まれたばかりのDDの首を絞めてその上刺し殺そうとしたが失敗し、結局最後には自殺してしまった。両親はそのことをDDが覚えているとは思っていないが、実は彼はその時の記憶をはっきりと持っており、両親がひた隠しにしている実の母親についても既に知っている。ただ彼は自分の父親が誰であるのかは知らず、そのことで返って不安定な状態にあるのだが、表面的には自分が知っていることについて両親にも全く知らせず、おおむね問題のない少年として毎日を送ってはいた。それが出来たのは、ひとつには近くに住む百歳近い老人である「フォルナーの婆ちゃん」が、そうした経緯を全部知っての上で、両親にも知らせず幼い頃からDDの悩みや不安に耳を傾け、宥めてくれたからでもあった。だからDDはフォルナーの婆ちゃんがとても好きだ。 ところでDDには彼が田舎に戻って来たのと同じ頃、新しく通うことになった学校に転入して来たトマス・リブナーという友人がいる。このトマスはブロンドの美しい少年だが、なかなか上等な性格をしていて、気難しい上に気位が高い。狼男を祖父に持つという血筋のせいか、総じて疎外感が強く容易には他人に馴染むことをしないトマスだが、どういうわけかDDとは気が合って全編を通して彼の親友と言っていい役割を果たすことになってゆく。 そしてもう一人重要なキャラクターがウィリアム・ジョンソン氏だ。彼はDDたちが住む町で大きな工場を持ち、革製品一般を扱う比較的大きな会社を経営している。名目上はDDの従兄ということになっているが実際には叔父で、3人の息子(ジュニア・ケビン・ダニエル)の父親でもある。彼は幼い頃とても貧乏に育ったが、今では父親の残した小さな靴屋を継いで現在の会社にまで大きくした立志伝中の人物でもあり、街でも名士的な存在と言っていい。36歳でフェラリを乗り回し、尊敬される実業家だから表面的には実に模範的紳士として回りの人々に接しているが、本性はこいつも「上等な性格」の部類で、しかしDDのことは自分の実の息子たちより気に入っているらしいせいか、彼にだけはその本性を隠そうともしない。それはDDがウィリアムのそういう性質を既に知っているからかもしれないのだが、決して仲がいいとは見えない叔父と甥であるにも関わらず、DDは心の底では自分が両親よりさえウィリアムの方に信頼を置いていることにも気付いていた。「Sons」というタイトルは、ウィリアムも含めて、DD、トマス、ジュニア、ケビンなど、誰かの息子である彼らを総じてつけられたものであると少なくとも私は理解している。それはこの話が決してDDだけを中心に描いたものではなく、その回りのウィリアムやトマス、ジュニアたちをも十分に描ききった作品であるからだ。例えばウィリアムの長男であるジュニアは、母親の血筋か大変繊細な性質をしており、よく言えばダイナミック、悪く言えば「デタラメ」な性格のウィリアム、そのくせ悪魔的に頭がいいうえ社会的に「立派な父親」であるウィリアムに馴染まず最後にはその軋轢で自殺してしまう。ウィリアムの方も表面にこそ出さないが、アル中の父親と節操のない母親の間で苦労して育ち、しかもその母親の死に際して自分がその引き金を引いたにも等しいこと、それがキッカケになって今でも愛している始めの妻の精神をおかしくしてしまったこと、腹違いの弟に対する錯綜した愛情や実の息子たちとの軋轢など抱え込んでいるものが山ほどある。私はこの作品の中でウィリアムが一番好きだが、それは彼が全くもってカッコいいからだ。彼はそれまでの半生でウンザリする現実を突きつけられ続けているはずなのに、それらを自分の内側でだけ昇華してしまえるくらいに強い。確かに可愛げのない性格ではあるが、逆に言えばだからDDはウィリアムにこそ信頼を置けるのかもしれない。またDDにしても、僅か11才で決して軽くはない現実を背負い込まされていながら、祖父母、特に祖母を思いやって何も知らないフリを通し、自分の3倍以上の年齢の叔父(ウィリアム)と対等に渡り合うところなどは、なかなかどうしてカッコいい。三原氏の描く子供たちは総じて普通の大人たちから見れば可愛げがないかもしれないが、逆にだからこそ魅力的な存在でもあるとも言える。「はみだしっ子」にしてもそうだが、彼女の作品では「子供」は決して大人の幻想の中にあるような、無知で純真な存在としては描かれない。当たり前のことなのだが、子供だって様々な現実に晒されながら毎日を送っており、誰もある日いきなり大人になるのではない以上、大人同様に考えもすれば固有の人格も持っているのが当然だ。そしてその「固有の人格」、それも通り一遍ではない強い自我を持っている種類の子供たちを描ききっているからこそ、あれほど際立って印象的なのだと思う。 DDは、極めて善良で愛情深い両親よりもウィリアムの方に近い性質を持っていることを自分でも薄々感じているが、それは苦い現実を目の当たりにしてなお、諦めて周囲と折り合うことをせず、物事の本質、真実、そして現実そのものをハッキリと認識し、自らの足で現実を踏まえて生きて行こうとする意志力、それがこの二人の共通項でもあるからだ。DDの祖父母は確かに周囲の人たちからも信頼される「善い人」の典型ではあるが、同時にそうした典型的な「善良さ」が含んでいるものは時として積み重ねられた虚言であり、「欺瞞」である場合が多い。人間は決して元来、性質の良い生き物ではない。善良ではない生き物が寄り集まって形作られているのが社会である限り、ユートピア的な善良さが欺瞞を含まないでいられるわけはないのだが、同時に決してそれは悪いことではなく周囲と折り合いながら生きて行く上での知恵でもある。しかし中にはそれにこそ居心地の悪さを感じ、あえて現実を直視し納得しなければおさまらない人間というのもいて、ウィリアムは明らかに現実から逃げず、彼なりのやり方でそれをねじ伏せて来た人でもある。例えそれによって得たものが地位や財産であり、得られなかったものが家庭的な幸福であったとしても、逃げるということだけは彼には始めから考えられないことだっただろう。DDが実の父親のことについて追求するべきなのか、祖父母を見習って見せかけの平穏の中に全て沈めてしまうべきなのか悩んだ挙句、祖父母ではなくウィリアムを頼ることになるのは必然と言える。逆に実の息子二人にまで愛想をつかしているウィリアムがDDに期待するのも、その物事に決着をつけずにおかれない彼の潔い性質のせいだろう。 ともあれストーリーはこのように彼ら「息子たち」の最も昏い部分にある複雑な心理を底流に置きながら、表面的には自然の豊かな田舎町を背景にDDを中心とした子供たちの活発で楽しい毎日を描きつつ進んでゆくのである。このあたり、まさに人生とはかくあるものであろうと納得させられるが故に、私はこの話を読んでいると極めて質の高いヨーロッパ文学の名作を漫画に還元したという印象さえ受けてしまう。 まあ、こうして書いて来ると、DDの背景だけでも十分に暗い話のように感じられるかもしれないが、こうした小説的なバックグラウンドを描きながら、もちろん三原氏は「漫画であること」を決して捨ててはいない。それは漫画によって小説を実現したというような単純なものではなく、漫画であるからこそ可能な域で、小説以上の効果とバランスで以ってテーマ性を具現し得ているからで、その点が漫画史において三原氏を最もユニークな存在たらしめている要因であろうとも思う。今まで書いて来たあらすじ部分に加えて、この話には「狼男」が頻繁に登場するが、トマスの祖父の他に作中DDの創作という形で、想像上の実にキュートな狼男「ルディ」がウロチョロ登場している。これはある意味ではDDの現実逃避の産物ではあるが、しかしそれも決して本編からかけ離れた存在ではない。むしろ本編を詩的象徴性でもって表現した平行世界ですらあるのだ。詩的象徴性! そういえば、はみだしっ子シリーズには「オクトパス・ガーデン」というまったくフザけた(悪い意味ではない)短編があるが、これも三原氏の詩的資質を伺い知ることが出来る秀作だった。全く単に「漫画家」と言ってしまうには惜しすぎるゴージャスな才能に恵まれた方だったと、作品を辿るにつけ思い知らされる。「リリカル」とか「詩的」という言葉の、一般に認識されているようなバカげた少女趣味ではない本当の意味が知りたければ、是非ともこの作品に目を通してもらいたいものだ。
なぜ「狼男」なのか。 作者の「狼男」というアイテムへの執着は、なかなか興味深い。 これはムーンライティング・シリーズである「Sons」の姉妹作「ぼくがすわっている場所」の中でだが、トマスが幼い頃彼に意地悪した子供たちを噛み殺してくれと狼に変身中の祖父に涙ながらに頼んだ時、凶暴なはずの狼に姿を変えた祖父の答えはこうだった。「トマス...、おまえも大きくなって狼になってみれば分かるがな。狼は人間のように見境なく狂暴にはなれないものなんだよ。"殺せ"だなんて...。腹も減ってないのに殺してどうするんだね?」 このセリフを聞いて内心得たりという気分になる読者はウィリアム同様困った性格かもしれないが筋がいい。しかしそれはそれとして、では三原氏には「人間」とはどのように見える存在だったのだろうか。この点について、我々には他にもいくつかの手掛かりが残されている。例えばDDが月の夜、トマスと散歩しながらこんなふうに語るシーンだ。 「でも、あれが本当なら悔しいね。地球上の生命の進化論の頂点にいるのが本当に人間なんだとしたらだよ。悔しいじゃないか、オレが地球でめぐり遭える最高の生き物が人間でしかないなんて。はるばるこんな所迄やって来て! 何十年も人間なんかとして過ごすのにだ!」 そしてこんな考えを持っていた子供であるDDは大人になってからこんなことも言っている。 「人間がまだ獣を狩って...、それで狼を崇拝してた頃は集落ったっておそまつなもので、それを人間は現代の都市にまで変えてきた! つまり人間は自分たちが暮らし易くするためにはこんなに迄...、環境を変えなければならなかったって事は...、地球の側としては人間なんか余計者で、つまはじきにしたいのかも知れない。なのに人間ときたら居すわり食らいつき、貪欲に図々しく! 案外それこそが"人間性"と呼ばれるべきものじゃないかとオレは思いまして」 まあもし、人間を善良で美しく愛すべき存在であり、「ホントはみんなイイ人」などという極めてオメデタイ幻想を信じていられる人間ならそもそも「はみだしっ子」にはなりえないだろうし、こんな話も描かないだろうけれども、サーザ・グレアムの救いようのない人間不信だとか、アンジーのシニカルなものの見方とかにしても、それは決して三原氏自身の人間観、世界観とかけ離れたものではありえないだろう。しかしこれらは言葉通りの傲慢と受け取るべきではなく、彼女が人間とその作り上げた文明社会をこよなく愛しておられたことの裏返しであろうと私には信じられる。なぜなら、彼女の作品はどれも悲壮でありながらも優しい。そして、だからこそ救いがあるのだ。しかし同時にそれでありながら登場人物にこのようなセリフを吐かせることこそが、作者の目に幻想ではない「人間」の実像が映っていたからに他ならないとも思える。文学でさえ、それを捉えたものは多くはないというのにだ!! 「Sons」、「はみだしっ子」、「ルーとソロモン」、「X Day」、「ぼくがすわっている場所」、「ロング・アゴー」、...三原順氏の作品にはどれひとつを取っても駄作というものがない。作品というものはそれが秀作であれ駄作であれ、作者の人間性と直結しているものだが、これらの作品こそが彼女の類まれな資質をこそ物語っていると言えるだろう。また形こそちがえ、80年代の出版界をしてこのような優れた資質に恵まれた作家を多く輩出し得たことこそが、ただの子供の娯楽である漫画を素材に「コミック・ジェネレーション」という現象を引き起こさせた最大の要因でもある。今やまごうことなき子供の娯楽に成り下がった漫画にはそのような魅力は全くないが、「欺瞞」の固まりである日本の多くの純文学が持つウソっぽさに馴染めない若い人たちにとって、当時の漫画があれほど広く受け入れられたのも無理からない話だっただろう。明治維新の後、始まったその時から模倣でしかなかった「日本純文学」なるものに比べて、未だ模倣に堕するにはあまりにも若く生まれたばかりであった「漫画」という表現形態は、まだマニュアル化されない領域であるがゆえに本当に才能のあるアーティストが住むに最適の地盤だった。アート、即ち日本語で言う「芸術」とは、その本質を理解し得ない連中がお高くとまって使うような「去年の鏡餅」的ホコリを被った存在ではない。それは今にこそ生きており、同時に数千年にわたる芸術史の底流をも内包しているものなのだ。その意味で三原氏の作品はどれも、その列に並べて遜色のないものと確信している。
<DATA> Sons : 三原順 作 1986年よりEPO誌上で連載開始、1990年11月号にて完結。現在白泉社より文庫版として復活しており全4巻。ちなみにこの作品には先んじて発表された「ムーンライティング・シリーズ」(単行本で全2巻)がある。これはDDやトマスが大人になってからのお話。また三原氏の作品リストには、もう一編、同じダドリー・ドレヴァーを主人公とする「X Day」があるが、これに登場するダドリーは三原氏の説明によると別の次元に存在するもう一人のダドリーなのだそうで、ダドリー自身の生い立ちや設定はほぼ同じだが、DDとは違う人物と認識した方が良いようだ。スペルもDD は DADLY TRAVERだが、「X Day」に登場するダドリーは DADLY TREVORなのだとか。 これら全ての作品、及び「はみだしっ子シリーズ」は現在文庫で入手可能。以下に作品リストと単行本リストを加えますので、参考にして頂ければ幸いです。 ※このページに使わせて頂いている画像は、単行本「Sons」に挿画として掲載されていたものです。あくまで三原先生の作品について今までご存知ない方に、その魅力を知って頂く目的のみで掲載させて頂いておりますが、著作権者のご要望があれば即座に削除いたしますので、メールにてサイト・オーナーまでお知らせ下さいませ。著作権者のご理解を賜れれば、これに勝る喜びはございません。
三原順・作品リスト (但し定期刊行物に掲載された作品のみ。単行本「ビリーの森ジョディの樹」巻末リスト及び各単行本参照による) タイトル横の記号はシリーズを表す。★=はみだしっ子シリーズ/※=はみだしっ子シリーズ番外編/■=ルーとソロモンシリーズ/ ◎=セルフ・マーダーシリーズ/●=ムーンライティングシリーズ
単行本リスト(※現在以下の単行本はほぼ絶版になっていますが、代表作などは文庫で入手出来ます。)
※ 「ビリーの森ジョディの樹」を除いて全巻・白泉社刊行 ※ 「ビリーの森ジョディの樹」のみ単行本は主婦と生活社、文庫版は白泉社刊行
BGM : Little Sunflower (Originally by Freddie Hubbart, Arranged and Sequenced by Devian Zikri) 2002.7.13-7.19. Backed by Flesh and Blood (Roxy Music)、Boys and Girls (Bryan Ferry) Workshop Comic Review Vol1. 「ダークグリーン」 <<
|