ここ十年ばかりの間に、エコロジーという言葉がすっかり定着し、環境問題についても広く一般に認識されるようになった。今では分別廃棄、リサイクルは常識だし、地球がどういう状態にあるのかも多くの人が知っている。しかし、このダーク・グリーンが少女コミックに連載開始された1983年、つまり今から約20年前には、まだまだ環境について言う人は少なかったと記憶している。そして未だこの作品の中に提起された地球が抱える問題の全てについて、我々人間が完全に認識し把握しているとは言い難い。世の中には稀に「世に出るべき作品」というものがあるが、それは周囲環境がどうあろうと万難を排して必ず出て来る作品、歴史的、運命的に存在しなければならない作品と言ってもいい。それはもう、一人の作家が生み出したものというよりは更に神がかりな領域で生み出されたものだ。このダーク・グリーンも、そのような作品のひとつと言って過言ではないだろう。2001年春、21世紀に突入してすぐに、そんな作品が文庫化されて甦ったことは大変喜ばしいことだ。 単行本にして10巻という大作で、文庫版でも5巻になる。とてもここで全貌を紹介することなど出来ないが、まず簡単にストーリーをまとめておこう。198x年12月20日、全人類が同じ夢を見る。それぞれの見たイメージに差こそあれ、それは災いの具現、破滅の予兆であるという点において共通していた。そしてその頃から全世界的に似たような夢を見る人々が急増し、またその夢自体がひとつの世界を形作っていることから、それはR-ドリームと呼ばれるようになる。R-ドリームは誰もが見るものというわけではなかったが、全く見ない者と見るにしても内容を覚えていない者、覚えていても毎日目覚めることによって通常の生活を続けることが出来る者、そして全く目覚めることなく植物状態で眠り続ける者があった。しかしR-ドリームを見ている間、その人間の脳波は通常の方法では測定不可能、つまり停止状態という異常が見られるという事実にも関わらず、もちろんそのような現象を社会自体が全般的に真面目に受け取っているわけではなく、一部でその真相を探ろうとする人々がいる他は大体が一過性のオカルト的話題性で騒いでいるに過ぎない。主人公の一人である西荻北斗もそんなものに全く興味のない美大志望の浪人で、始めは友人が話題を振っても相手にしなかったのだが、友達の一人が植物状態に陥り最後には亡くなってしまうという現実に直面し、更に自分も同様の夢を繰り返し見るに至って次第にR-ドリームの真相に引き込まれてゆく。R-ドリーム空間の中では人々は一様に共通の敵である「ゼル」と戦っているが、何故「ゼル」が存在し、それが何者であり、またR-ドリームとは何なのかさえ全く把握出来てはいない。そんな中でホクトは自分が現実世界で何者なのか全く記憶がなく、また毎日目覚めるホクトと違って一度も目覚めることなくR-ドリームに囚われている謎の少年リュオン、それにこれも目覚めはするが現実で自分が何者なのか知らないミュロウという少女と出会い次第に友情を深めてゆく。 R-ドリーム空間では武器は事実上、現実で用いられる銃火器類ではなく精神力だ。これはR-ドリームが物理の支配する現実の中ではなく、「夢」という精神世界に構築されていることから考えて当然のことだが、自分が何者か知らず、敵を倒すことによって真相に近づこうとするリュオンは、それ故にその空間において最大の精神力=破壊力を持つ。そのような力を持っても決して傲慢になることのない純粋な少年だが、だからこそ逆に力弱い人間を守って戦い、真相を明かし、人々を救おうとする。それはある意味では「理想の追求者」の象徴でもあるだろう。リュオン自身の意図とは関係なく、彼がR-ドリーム空間において英雄視されるようになるのも無理からない話だった。同時に自分の出自について悩み続けるリュオンの側で、弟を見守るように気にかけるホクトの力も強い。それは現実の中で先行きの定まらない美大浪人をやってはいても、どこか純粋で頑固な所のある彼の、本質に根ざす力なのかもしれない。 さて殺伐とした戦いの空間においては、必ずと言っていいほど力を軍という形で組織化し、支配しようとする人間が現れるものだ。R-ドリーム空間においても然りで、自然発生的に出来上がった「対ゼル」を謳うヘイテス率いる軍隊が次第に強大になりつつあった。リュオン、ホクト、ミュロウも、その力の強さ故にそれに巻き込まれてゆくのだが、このヘイテスをひとつの象徴として作者である佐々木淳子氏は歴史と文明構築のメカニズムについてさえ触れる。人類の歴史とそれを動かす原動力、このヘイテスと軍という組織機構の中に、読者はそれを垣間見ることになるだろう。そして、それが人類自身に降りかかる災いの根源であるということも。 「ゼル」、即ちR-ドリーム空間において人類の敵と見なされて来た存在は、人間が作り出し人間を守るものであるはずの武器が当の人間自身に襲い掛かるという事態を以って、「人類自身が作り出したもの」という衝撃的な真実を暴露する。「ゼル」とは「災い」であり、「恐怖」であり、「破滅」である。しかし、それを生み出すのもまた、人間以外の何者でもありえないのだ。自然破壊、環境汚染、戦争・・・、人類を、いや地球そのものを破滅に導こうとするこれらのものが、全て人間性を根源として生み出されていることは何人たりとも否定は出来まい。それ故、「ゼル」は人間の中に内在する災いの根源なのだ。この現実をつきつけられるに至って、リュオンはそれまで守ろうとして来た「人間」に対する不信と絶望から、その力の全てを失ってしまう。それは全ての本物の理想家が必ず陥る混沌であり不条理であると言ってもいい。ホクトの心配をよそに無力なままR-ドリームを徘徊するリュオンに、愚かな人間たちはますます自らの「悪さ」を露呈し続け、彼を更に追いつめてゆく。とうとうリュオンは人間によって滅ぼされたあらゆるものの吹き溜まり、死の集う世界にまで落ちてゆくが、そこでは彼は「人間」であり滅ぼされたものたちの憎しみの対象だ。それ故そこに安住することも許されず、回りの全てに傷つけられ、行き場を無くしたリュオンを救うのは言葉を持たない少女フィーンだった。武器を無力化して楽器に変え、音楽を奏でるフィーンはそれ以前にも何かR-ドリームの真相に通じる者という様子でリュオンの前に姿を現していたが、彼女の優しさや暖かさが次第に彼を癒してゆく。不粋な注釈を入れるなら「フィーン」とは「ゼル」とは正反対の、人間の中の「良いもの」の象徴なのかもしれない。しかし果たしてその正体とは何なのか。 リュオンは闇の向こうに光を見出せるのだろうか。R-ドリームの真相とは? ダーク・グリーンとは? そしてリュオン自身もまた何ゆえそこに在るのか? というところで、あとのストーリーは本で読んで下さいね。
私はSFというとアイザック・アシモフくらいしか読まない。だからSFとは何か、ということについてはマニアの皆さんの方がよくよくご存知だろう。しかし、「SF」というカテゴリーについて少しお話しておかないと、それを全く読まない方にはここで書いていることの意味が理解しづらくなると思うので、簡単に分析しておこうと思う。 まず一般にSFと言って連想されるのはスター・ウォーズのような未来と宇宙を舞台にしたスペース・ファンタジーだろう。しかしそもそもSFはSCIENCE FICTIONの略で、アイザック・アシモフと言えば誰でも知っているアシモフ理論の提唱者でありSFの巨匠でもある。確かにアシモフ氏の作品も未来、そして宇宙的規模でのストーリーを扱ってはいる。しかし、SFの一方の本質とは未来という舞台の上に現在を投影することなのだ。少なくとも私はそう理解しているし、アシモフ博士の代表作であるファウンデーション・シリーズなどは、その典型でもある。日本ではこれに類する作品として栗本薫氏の「レダ」などが挙げられるだろう。優れたSFとは単なる夢物語ではなく、詩的象徴性を伴った現代への警告であり得る。その意味において、未だ環境問題が取り沙汰される遥か以前に発表されたこの「ダーク・グリーン」も、現代を予見した非常に優れたSF作品と言えるだろう。 しかし、それだけに少女漫画というカテゴリーの中で発表し続けるのは困難だったようで、最近の文庫版の作者自身の解説によると、僅か一巻分が終了した時点で打ち切りの憂き目を見るハメに陥るところだったという。事実、少女コミック誌上からは、その後姿を消し、コロネットで連作として再開されたそうだ。佐々木先生は、ご自身としても是非書きたい作品だったということで、当時コロネットで既に連載が開始されていた作品を一時棚上げして、こちらの方を描き続けられ、文庫化にあたっても出版社側から打診された他の作品を却下してまで、あえて「ダーク・グリーンを」と推されたと書かれている。作者としても、それほどの思い入れがあった作品だということなのだろうが、結局のところ「世に出るべき作品」とは、そういうものを言うのだと思う。全くの私見として聞き流して下さって結構だが、出版社というものはどうしてそう読者の後ろを追いかけることばかり考えるのか。予定調和から生み出された意外性のないものに、所詮、読者は熱狂的な関心など示しはしないのだ。少女漫画がブームと言われるまでに(あえて過去形にするが)大流行した背景に、どのようなメカニズムが働いたのか考えてみることもしないのだろうか。出版界も不況だと言われて久しいが、それは決してネットなどのマルチメディアの普及だけが原因でないはずだ。動脈硬化して新しいものが生み出せないなら、存在意義などないに等しい。 話がそれてしまったが、そうやって連載が続けられた「ダーク・グリーン」は、その後大変な人気を得て、少女漫画の世界ではよくあることだが、キャラあてのヴァレンタインのチョコレートなどもダンボール何箱というくらい集まったとか。私はこの作品に関しては全くの「ジャケ買い」状態で、とにかく単行本の表紙を飾っていたイラストの完成度の高さに魅かれて読み始めたのだが、人気の出る作品、しかもキャラクターあてにチョコレートまで集まるような作品の登場人物というのは、概して実にヴィヴィッドに描かれているものだ。それはヘタな小説作法で並べられているゴタクの一つによくあるが、作者が登場人物を「生かす」努力をするというような人工的かつ作為的なテクニックによって生み出されるものではあり得ない。単純に言ってしまえば、作者自身が作品そのもの、そしてその中に登場する人物たちを、とにかくとことん「好き」なのだ。それ以外で、パーフェクトな完成度など望むべくもないだろう。 ところで文庫本の巻末でいろいろと当時のエピソードを読ませて頂いたが、「ダーク・グリーン」が大変な人気作となって、佐々木先生が出版社から賞をもらわれた時、授賞式で出版社の偉いヒトが、「読んでもちっとも意味がわからない。そこでよくよく考えてこれは"子宮で描いた漫画"なのだと思い当たった。」と仰ったそうで、私などから見ればこれは大爆笑発言なんだけれど、それって全く逆。佐々木先生もこれは心外だったと書いておられるが、「男は論理的、女は非論理的」という現実無視の線引きしか出来ない知的レベルだと、こういう恥ずかしい発言をやらかしてしまうという典型と言わざるをえない。それこそアタマではなく「下半身でしか(失礼)、ものを考えていない」と言われても仕方がない発言じゃないだろうか。私に言わせれば、この作品が素晴らしいのは、一分のスキもないロジックの基盤の上に、その論理に囚われないロマンが構築されているという点なのだ。そしてだからこそSF作品としても出色なのである。 SFとはエンタテイメントだ。そしてエンタテイメントである限り、ガチガチの論理だけでは成立し得ない。その辺りは、どこかポップ・ミュージックと似た所があり、つきつめていけば本質的にポップ・ポリティクスの領域にある形態であるとも言える。私はもともとあまり漫画についてあれこれ理屈っぽいことを書くのは好ましいことだと思っていないが、それは何によらずエンタテイメントの消費者にとって一般的に重要なのは、その底にある論理よりも作品そのものが伝えるイメージやパワーそのものであると考えるからだ。確かに論理を言う必要がある場合もあるが、それよりも受け取って欲しいのは作品が伝えてくる言葉以上のメッセージの方だと思う。 作品としてのクオリティが高いので深読みすればいくらでもザクザク理屈が出て来てしまうが、そんなことを一切抜きにしても、「ダーク・グリーン」は単なるファンタジーとして読んでも十分面白い。先ほども書いたようにキャラクターが特にいい。リュオンは凄くカワイイし、ホクトにしても現実にいる時はちょっとたよりないが、R-ドリームに入ると途端にカッコよくなる(やっぱりユメだから...)。他にもスター・キャラクターが揃っているので先入観なく読みたい方は、この後に私がごちゃごちゃ書いてることは無視して、今すぐ本屋さんに走って頂くのがなによりだと思う。ここから後は、それでも理屈が読みたいという捻じ曲がった根性の皆さま向けのオマケだ。尚、このページに使わせて頂いているイラストは単行本のカバーに用いられていたものであることを、お断りしておきたい。
現代において我々は両手いっぱいではきかない、あらゆる「絶望」を抱え込んでいる。環境問題が叫ばれても、お定まりで聞こえて来るのは「それでは、人類は原始社会に戻らねばならないのか?」という極端な拒絶の唱和だ。更に東西の壁が崩れ、軍縮が言われても、それはあくまで先進国諸国の思惑であって第三世界に対する抑止力など絶無に等しい。彼らは次の「世界の主導者」であるために今も核兵器開発に余念がなく、裏へ回って核物質を横流しする連中だって後を絶たない。ましてやその先進国諸国でさえ、第三世界の混乱に事実上その経済の原動力を依存しているのだ。シナリオが何処で書かれているにしても、あまりにも見え透いた茶番、ファルス、それに対してカウンターを打つことひとつ出来ない無力さは、あまりにもお先真っ暗で笑い出したくなるくらいでさえある。リュオンでなくてもこの愚かな人間の茶番劇にサジを投げたくなるのが当たり前というものだろう。人間は存在しなくていい。地球もろともに無に帰して何が悪いのか。「人間」には存在価値など、ひとカケラもないのだ。 可笑しなもので、一旦そこまで挫折の泥沼に浸り込んでしまうと宇宙的なレベルからの明視の光明に浴する幸運に恵まれることがある。捨ててしまった玩具、価値のないものとして葬り去ったはずの存在に、それほどの罵詈雑言を投げつけられるのは結局それに執着しているからに他ならないのだが、暴力的でさえある「怒り」を感じるのも、また「挫折」そのものも、それを持つ者にとっては「救い得ない」ということの絶望の裏返しだとも言える。「我々」は無力で、「人間」に対して少しの影響力もない。また「彼ら」の世界は「彼ら」のものであって「我々」のものではない以上、干渉することは「彼ら」を「我々」の「家畜」に貶めることでもある。しかしそれでも尚、黙として見捨ててしまうことが出来ないのは、「人間」の中に僅かながらも「希望」を見出しうる余地があるからかもしれない。それは砂漠に降る雪の如く、究極的な枯渇への恵みに他ならない。「神(摂理)」が未だヒトを滅ぼさずにおくのは、まさにその一片の希望、言葉にするのなら「愛」と呼ばれるもののせいなのだろう。 ではもう一度、課題に戻ろう。ヒステリーを起こして投げ捨ててみても、結局「我々」は「それ」から解放されるわけではない。それなら、無力は承知で今度こそは誰ならない「自分」のために「それ」に取り組めば良いだけのことだ。「人間」には未だ「希望」がある。そしてまだ「終わり」は来ていない。「我々」にはまだ幾許かの時間が残されているのである。ダーク・グリーンのおしまいのあたりで、ほんの一瞬だがホクトの本質が顔を出す部分がある。「オレは聖人になれない、悟れやしない、どこまで行ってもやり直しても、勝手な一個人だ...」、私はこう独白するホクトが他のどのシーンの彼より好きだ。そして彼が最後に至る「愛」についての結論は、まさに「ダーク・グリーン」そのものをパーフェクトにしている最後の要因だろう。これを言える作者の才知には、ただただ感嘆させられるのみである。 確かに人間はそれぞれ所詮「勝手な一個人」に過ぎやしない。けれど、それでどこが悪いのか。一個人であるということさえ悟れない者が、自己を改善してゆくことなど出来るわけがないのだ。人間はその「自己」を、「自我」を自ら変えてゆくことが出来る。そしてそれを以ってしか「世界」をも変えることなど決して出来はしない。真実の革命とはシステムを変革することのみによっては為し得ないものだからだ。もういい加減それに気づいてもいい頃である。但し、どのようなものであれ「革命」に従事する者が唯一つ覚えておかなければならないのは、自らが「善」ではないという現実だ。宇宙的視野から見れば存在するものは全てただ存在するという以上の意味など持っていない。それに意味、即ち「概念」を与えるのは人間に他ならないからだ。我々が例え戦争を無くし、平等で争いのない世界を築きえたとしても、それは例えば「争いを好む種類の人間」に対しては、「平和」という名の独裁に過ぎない。突き詰めて言えば理想家、革命家などという者もまた、結局は「一個人の勝手な思惑」による「未来」を志向しているだけのことなのだ。自らを「正義」と盲信する者は、必ず幻影でしかない「正義」に裏切られる。しかし、一度その泥沼を潜って、自らの愚かさと小ささに気付きえた者は二度と挫折することはないだろう。それでも尚、守りたいもの、救いたいものがあるとすれば、それはその「個人」が、ひとつの階梯を登ったということに他ならない。「悟り」も「救い」も決して宗教家が言うように何者かの犠牲や贖罪によって一様に齎されるものではないと思う。その過程を省いて、いったい何処へ辿り着けるというのだろうか。「真理」への旅というものは、誰もが一人で歩いてゆくより他ないものなのだから。
<DATA> ダーク・グリーン : 佐々木淳子作 1983年より少女コミックに連載開始。2001年春、メディア・ファクトリーより文庫版として復活。全5巻。 ※このページに使わせて頂いている画像は、単行本の表紙を飾っていたものです。あくまで佐々木先生の作品について今までご存知ない方に、その魅力を知って頂く目的のみで掲載させて頂いておりますが、著作権者のご要望があれば即座に削除いたしますので、メールにてサイト・オーナーまでお知らせ下さいませ。著作権者のご理解を賜れれば、これに勝る喜びはございません。
BGM : Snow on the Sahara 2002.4.14.- 4.20. Workshop Review Vol3. 「朝日のあたる家」 <<
|