芸術家が本物であるか否かの判断基準は、愛の本質について血管の中で理解しているかどうかという一点につきる。 何故なら全ての表現形態は外貌こそ違え、共通の地盤を持つからだ。かつてオスカー・ワイルドは、ある書簡の中で「芸術はいくつもない、たったひとつである」と書いたが、あらゆる芸術作品を表現させしめる基盤となるのは、芸術家の表現に対する衝動であり、即ち愛である。言い換えるならば、表現形態が芸術なのではなく、表現者の精神性が作品に芸術性を吹き込むということだ。だから芸術は本質的に唯一つの系譜を持つ。 ちょっと考えてみれば分かることなのだが、絵を描いたからと言って、それがすべて芸術たりえるだろうか。例え子供が描いた稚拙な絵でも芸術たりえる場合があり、また逆にどんなに精妙に描かれた絵であっても芸術と呼ばれるものとそうでないものがある。上手な絵だからと言って必ずしも芸術たりえない一方で、技術的に稚拙であるとか、一見巧妙に見えなくとも芸術と呼べる作品がある。またそうでなければピカソもルノアールも存在し得ないわけだが、作品に注ぎ込まれている表現者の心、それこそが芸術の本質である以上、芸術史の血脈は唯一芸術家の精神性によってのみ継承されるのだ。 もちろん文学者を含む全ての芸術家が論理的に愛について理解している必要はない。と言うよりもむしろ、それが出来るのは論理芸術である哲学に資質を持つ者に限られる。文学者が同時に哲学者である場合も少なくないが、全ての文学において哲学性及び論理性が優先されるわけではない。だから先ほども書いたように「血管の中で」、つまり感覚としての理解という言葉を使ったのでもある。 さて、今回は栗本薫氏の「朝日のあたる家」という作品について取り上げさせて頂く。 はっきり言ってしまうが、私は極度の純文学アレルギーだ。百メートルの棒の先でさえ、つつきたくもないのが日本純文学というヤツだが、そのせいもあって十代の頃は漫画以外の本を読んだことが全くと言っていいほどない。もちろん何事にも例外はあるが、今でも明治以降の日本純文学などというものの大半に芸術性など認めらないと思っている。文壇とは名ばかりのこの国の作文屋の世界にあって、だから栗本薫氏や大藪春彦氏は私に取ってかなり特別な存在だ。 私が栗本氏の作品を読み始めたのは十代も終わりになってからのことだが、彼女の著作が百冊に至る頃までは殆どその全てに目を通している。その後、朝から晩まで英語づけみたいな生活をしていたから、自然と日本語の本からは離れてしまっていたのだが、ここ何年かで手に入る限りは読んでいると言っていい。その中でも「朝日のあたる家」は、かなり趣味的な展開の作品で、出版されるペースも何年かに一冊。ある意味では、だからこそ作家が書きたくて書いている作品ということでもあるだろう。もともとこの「朝日のあたる家」には先行する一連のシリーズ作品があって、それを集めて出版されたものが「翼あるもの」と題された2巻の本だ。そして、これに収録されているストーリーは、どれも栗本氏がまだデヴュー前に書かれたものだという。 この章に先立つVol2.とVol3.で、それぞれ北野晶夫、伊達邦彦という美貌と才能に恵まれすぎるほど恵まれた連中を取り上げて、あまつさえ私は「精神性に裏打ちされていない美貌などハリボテに等しい」とまで言い切った。その二人の「いい男」を続けてレヴューしたあとで、なんでここに森田透をあえて取り上げる気になったのか、彼の登場する作品を読まれたことがある方は疑問に思われるかもしれない。と言うのは、この「朝日のあたる家」の主人公である森田透は、確かに美貌にこそ恵まれているが、それ以外は何の取り柄も無い全くのロクデナシだからだ。晶夫も女で食っているジゴロという点では透と同じだったが、しかし彼にはオートバイがあり、おまけにズバ抜けた頭脳にも恵まれていた。けれども透は、ものの見事に何ひとつとして持ち合わせていない。そうでありながら私がここで彼を取り上げる気になったのは、ある意味ではだからこそだとも言える。確かに透は一般的な価値基準から見ればただのロクデナシかもしれない。しかし別の視点から見ればそう言ってしまうのは誤りでもある。何故なら彼の精神性は、やはり一般通常のものとは違っているかもしれないからだ。どん底をのた打ち回ってきて、それで終わる人間は多い。しかし、透はある一時期を過ぎると彼をまさにどん底に突き落としてきた、あらゆる狭雑物をすっかり昇華してしまい、「朝日のあたる家」に登場する頃には、「どうせオレはロクデナシさ、でもだからどうだというんだ?」という悟りの境地に至ってしまっている。それは逆説的聞こえるかもしれないが、彼の精神の柔軟性、強靭さなくしては至り得ない境地でもある。つまり「自らの無価値」を、人間はなかなか認めたがらないという「弱さ」を持っているのが常だからだ。 このあたりで透の人物像について、お話しておいた方がいいだろう。 森田透、33歳。「朝日のあたる家」に先行する作品が書かれた時期から言ってどうしても古い話になるが、GS全盛期のトップ・グループ"レックス"で、ツイン・リード・ヴォーカルの一人として人気を争っていた過去を持つ。もう一人のヴォーカルは今西良、彼は現在でも大スターとして芸能界に君臨している。ひとつのバンドに二人のスターというのは大抵成り立たないものだが、かつての"レックス"も然りで、モメまくった挙句、透の方がグループを去った。 その後、彼はソロでの活動を開始するが、その性格の悪さ、若しくは自尊心の高さが祟って、(後に透は、それを自身で"自分の取るに足りなさを認めないための自己防衛だった"と分析しているが)、ことごとく成功しない。芸能界の裏舞台は汚い。それを栗本氏は「下水管」とまで書く。スターとしてチヤホヤされているうちはいいが、一旦落ちると悲惨だ。ましてや透は女性からばかりではなく、男からも興味を持たれるタイプだったから更にコトがやっかいになった。デヴュー前から既に作曲家と同棲したり、そのテの話題には事欠かなかったが、ソロとして独立するにあたっても業界の様々な実力者からのバックアップを取り付けるために、彼がどういう方法を取ったかは敢えて書くまでもないだろう。しかしそういった、いきあたりばったりの不品行の繰り返しが結果的に透から芸能人としての生命を奪うことになる。芸能界から事実上追放されるきっかけになったのは、当時バックアップしてくれていたレコード会社の社長を裏切って、敵対する業界の実力者とたった一回寝たという、全くバカげた理由からだ。「翼あるもの」の一連のストーリーは、透が一切の再デヴューの望みを失い、男娼同然の状態で東京の夜をうろつきまわっている、そんな時代のお話だった。 この先行する作品の内容が「朝日のあたる家」にも重要なファクターとして存在しているので、ここでざっとあらすじをまとめておこうと思う。そういう経緯で芸能界から追放され、すっかり歪みまくって、その日暮らしを続けている透を拾い上げたのが俳優の巽竜二だ。彼は有名な俳優ではあったが芸能人としては稀なくらいシンプルな精神性を持った男で、クルマをことのほか愛し、撮影のある日でも愛車に乗って出かけると、そのまま仕事をすっぽかして行方がわからなくなるようなこともしばしば、要するに細かいことはまるっきり気にしない、というタイプだ。だから透を拾って来ても、それでどうこうというわけではなくて単に捨て猫を拾ってきて側に置いているといった風情で、ただ何かと心配しては気にかけてくれるような愛情深い男でもあった。 弱りきって、そのせいで逆に回りの全てに否定的になっている人間にとって、最も効用があるのは人の本当の真心以外のものではない。偽善的な心配りなら透は即座に跳ね返しただろうが、巽のそれは、あまりにもシンプルで純粋なものだったので、そのままずるずるとそこにいついてしまうことになる。そうしているうちに情が移ってしまうのは当然のことで、無償の愛情を注いでくれる巽に透は珍しくマジで惚れてしまうが、巽の方はその後TVドラマの仕事で共演することになった今西良に本気でいかれてしまい、だからと言って透を見放すことも出来ずに苦しい立場に追い込まれた挙句、良に射殺されるという結末を辿る。今西良というのは、透自身が今では誰よりもはっきりと認めているように、天性の歌手であり、スターになるために生まれついたような存在で、万人にとって魅力的な青年だが、要するに「いいこちゃん」タイプで透とは正反対だ。巽が良に射殺されることになった経緯については複雑きわまりないので本を読んで頂くことにして、透の方に話を戻そう。丁度、巽隆二が自分と良の間で板ばさみになって苦しんでいるのを何も言えずに見守るしかない立場でいる時、透にふってわいたように再デヴューのチャンスが訪れる。しかしそれはあるTV局のプロデューサーで「視聴率の天皇」とまで言われる島津正彦と老獪な芸能ジャーナリスト野々村正造が画策した、要するにヤラセの猿芝居で、それに透に加われという屈辱的な条件付きの再デヴューだった。巽のおかげで、かなりマトモになりつつあった透は一旦その話を蹴るのだが、「巽竜二が男と同棲していると書きたてられても構わないのか?」と脅されるに至って、仕方なくOKして巽のもとを去る決心をする。 このあたりが「翼あるもの」の話の流れだか、その後順調に再デヴューの階段を登り、レコードもそこそこ売れてこれからという時に、透は一切を放棄してそのレールを自ら降りてしまう。今では仲のいい友人であるジャーナリストの野々村は、そういう透を「要するに自分もスタッフとチャンスに恵まれれは、そこそこやれるということを証明したかっただけ」と分析するが、確かにその通りなのかもしれない。そしてそれから後は、再デヴュー以前のいい加減な生活に戻り、「朝日のあたる家」の冒頭では、ある代議士夫人の愛人としてテキトーに優雅な毎日を送っているのである。 さて野々村はそれで済んだが、しかし島津正彦の方は、そうやってすっかり人生そのものから降りてしまったような状態の透に、ちょっと複雑な気持ちを抱いていて、何かと気にかけてはかまってくれるようになっている。と言うよりも、「天皇」とまで言われる島津にとって、始め透は「有名になりたいだけの取るに足りない奴」、つまり彼の周りにあまたいる尻尾を振ってくる犬程度の存在でしかなかったのだが、透が「降りた」と宣言した頃から、その人間性を認めて尊重しているといったスタンスで付き合ってくれているのだ。透の方も島津のことは気にいっているらしく、奇妙な友人関係が続いている。 こうして一旦落ち着くべき所に落ち着いたように見える透だったが、いきあたりばったりな性格はそのままで自分が愛人として食わせてもらっている朝倉代議士夫人の娘とも出来上がっていたりする。何も意図するところがあるわけではなく、まるっきりの成り行き任せだ。しかしそれを知った夫人からとうとう「娘を取るの? それとも私?」と迫られて、挙句の果てに別れ話。それで済めばまだしもだったのだが、この親子が透を巡ってその後も火花を散らすことになり、結局母親は旦那と別れるとまで言って家出、娘は透と結婚すると大騒ぎする始末。面子をつぶされたのは当然朝倉代議士で、島津がいなかったら透は今ごろ東京湾に浮かぶハメに陥っていたかもしれない。パトロンがいなくなった上、代議士がらみの騒動に巻き込まれてしまった透は島津のところに転がり込むが、それに首をつっこんでしまったために島津自身も窮地に陥る。いずれは重役から局のトップにと目されていた島津だが、派閥争いも絡んでTV局を去らなければならないまでに追い込まれながら、彼はかねてから準備していた日仏合作映画に起死回生をかけて挑んでゆく。 これだけでも騒々しい透の周りなのだが、これに更にからんでくるのが、かつてのライバルだった今西良だ。巽とのことがある頃までは自分をスターの座から追い落とした張本人としてとことん良を憎んでいた透だが、今ではそれも良の才能が大きすぎたからと悟って昔のような敵意を抱いていないばかりではなく、結局その執着心は良を愛するがゆえだったと結論している。その良の方は巽を射殺するという犯罪を犯していながら、自分を守るために古くからの友人が身代わりで自首した上に自殺する、しかも回りの画策で自分の罪が帳消しにされてしまっている事実に苦しみ続けていて、大スターという地位にありながらお世辞にも幸福とは言えない。しかもその事件のせいで深く関わることになりすぎた作曲家との関係も煮詰まってしまっていて、二進も三進もゆかなくなっているのだ。そんな状態の良が騒動の渦中にいる透に関わってくるのだから、ますます話はややこしくなってくるわけだが、この後の詳しいストーリーについては本で読んで頂ければと思う。ただ、簡単に流れを書いてみただけでも分かってもらえるのではないかと思うが、栗本氏のお話は、善悪だの男女だの真っ二つに割ってしまわれがちなテーマが、絶妙なバランスで混在している。特にこの一連のストーリーはそうだ。 このレヴューを書くにあたって、いくつも盛り込みたいテーマがあってまとめるのに苦労したのだが、それだけ多くの要素を彼女の作品があらかじめ包含しているということでもあり、やはり当代随一の才能のひとつであることを痛感させられた。もちろんこの「朝日のあたる家」やそれに類する一連の作品を所謂「耽美小説」という枠の中に括ってしまうことは簡単だ。しかし作品の種類にもよるのだろうが、栗本氏自身も昨今のそうした小説の中には違和感を感じるものもあると書かれていたように記憶している。同時に私の感覚からしても彼女のそれと一連の三文小説との間には似もつかない徹底した落差がある。それが「愛」に対する理解の落差だと言っていいだろう。また栗本氏は、どのような作品でも必ずはっきりとしたキャラクターを描き出すことにかけて天才的な筆を持つ作家である。彼女にとって自分の小説に出てくる人々は単なるストーリーの登場人物ではなく、ひとりひとりが様々な背景を持った別個の個人であるということだ。だからこそ、彼女の作品において全ての人物は見事に「生きて」いて、ヴィヴィッドでありえるのだとも言える。そしてそれがその作品の魅力を大きく担っている事実を誰も否定できないだろう。例えばこの「朝日のあたる家」は男同士の恋愛などという退屈極まりないものを描いた作品ではなく、森田透と今西良の、もしくは透と島津正彦のラヴ・ストーリーだからこそ、そのへんの耽美小説とは一線を画すのだ。 通常、人間は「普通名詞単位」でものごとを評価したり判断したりする。それが人間の一般的な認識力の限界である限り仕方のないことだと今では私も理解している。だが、現実には男だの女だのという大雑把な括りでは何事も本当の姿を把握することはできない。いつも言うことだが、人間とは一人一人が様々な要素の混在する別個の個人であり、性別ばかりではなく国籍や属する宗教などの大雑把な括り(普通名詞単位)で理解できるはずのない存在なのだ。そして愛というものは、そのような人間の個我という内在のみからしか生まれえない。その意味で栗本氏は「血管の中で愛について理解している」稀少な文筆家の一人であると言えるだろう。 それはそうと、森田透というキャラクターは、私にはどういうわけかアッシュ・リンクスを連想させてしまう存在でもある。「BANANA FISH」のラストで、吉田秋生氏がアッシュを殺してしまったという結末が私には残念でならなかったのだが、それは救いようのないどん底から這い上がった人間は、それ故に人格者となりえる(かもしれない)という仮説を私は持っているから、アッシュの「その先」を見てみたかったからでもある。伊達邦彦にしても、その可能性はあったが、残念ながらこちらは作者の方が先に亡くなってしまった。そういうワケで透は一応生き延びているし、島津正彦からも「この頃オレは、あんたを見てると、あんたは今にもしかすると、えれえ人格者になるんじゃねえかと思うよ」と言われたりしているので期待はしている。要するによほど生まれつきの性質がおめでたくない限り、どん底を見ない者には誰も救えないということだ。何故なら幸福な人間は自ら悟れないという不幸を生涯背負っているとも言えるからである。 この作品にも出てくるが、「富める者が天国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方が優しい」という有名なイエスの言葉がある。これを「財産を持っていると天国に行けない」というような解釈をするバカ者も歴史を振り返ると多かったらしいが(今でもか?)、もとより天国とはギリシア哲学に言う「アタラクシア」、即ち「精神の平穏」を意味する。人間というものは、生まれながらに精神の中に様々な欲求を抱え込んでいるものだ。それは原罪だの煩悩だの言われているが、それが昇華されきった状態が「アタラクシア」と呼ばれるもので、一切の悩みや苦しみから精神が解放された状態を言う。概念を詩句や隠喩に封じ込めてしまうと神秘性が付きまとうことにもなり、時としてとんでもない誤解を招く。しかし同じ概念も論理的に展開すれば何のことはない、誰でも分かるような単純きわまりない真理に過ぎない場合は多い。そう、真理とは実際には単純きわまりないものなのだ。 さて、この有名な一節に戻ろう。Nothing lasts forever、つまり、この世に永遠に続くことなどない。例えば、この現実は恵まれた者に取って絶望であっても、どん底でのたうち回っている者には福音だ。あらゆることが移り変わり、全て生きとし生けるものは死の深淵に沈む定めである。万物は流転し、形あるものは必ず崩れ去ってゆく。どのような苦しみもいずれは終わりを迎える、だからこそこの世の無常は貧しい者にとってこそ福音でありえるのだ。万物流転、死して土に還るのみ。あまりにも計画性もクソもない、いきあたりばったりな毎日を送り続ける透だが、島津に「オレをあてにしてんのか」と尋ねられて、「別に。どうにでもなるだろう。野垂死にするのなら、それでもいいよ」とすんなり答える透には、少なくとも本能的にそのことが分かっている。だからこそ今の彼は風のように自由であることが出来る。そしてピュアで透明であるがゆえに美しい。森田透においても「精神性に裏打ちされない美貌などハリボテに等しい」という私の身勝手な法則は、確固として有効なのである。 昔の透なら本気で惚れる男も女もいなかったかもしれないが、今では島津正彦、朝倉夫人、その娘の亜美、それに良までが透に本気になっている。それは彼が自ら苦しみぬいて超えた壁の向こうにいるからだろう。 人間にとっての最大の悪徳は、人間という存在があらゆる他の存在物より優れているという何の根拠もない自尊心だ。摂理はそのような無謀な自意識を、容赦なく断罪する。 BGM : Nothing to Lose. DATA 「翼あるもの」1981年・文藝春秋刊行...現在文庫本になっているのを見かけたことがありますが、出版社は不明。上巻は今西良、下巻は森田透を中心にしたストーリーを収録。なおこの作品には「真夜中の天使」という主人公(今西良)の名前だけが同じで、人物像、ストーリー全てが違っているいわば姉妹作品があり、こちらも文庫版化されていると記憶しています。 「朝日のあたる家」1988年より光風社出版刊行・全5巻。2001年末、最終巻が発表され、12年越しで完結する。 2001.12.26.-2002.1.22. Workshop Review Vol.1. 「汚れた英雄」<< Workshop Review Vol2. 「野獣死すべし」 <<
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