この季節になると読みたくなる本がある。大藪春彦氏の代表作のひとつ、「汚れた英雄」がそれだ。映画化されたことでも有名な作品だが、残念ながら見る機会がなかった。後になって小説を読んで、見ておくべきだったと地団駄を踏んだ覚えがある。読んだきっかけは全く他愛もない話だが、もともと草刈正雄氏のファンだったからだ。 80年代、グリーン・ガートサイドのファンだったと言うだけでもお察し頂けると思うが、あやぼーはとにかく「いい男」に目がない。それも容姿端麗なだけじゃダメで、頭脳の方もそれに匹敵していなくてはいけないのだ。この作品の主人公である北野晶夫がまさにそれで、ついでに性格までめちゃくちゃ悪い。殆ど理想である。究極の理想を言えば伊達邦彦だがそれはとりあえず置いといて、このキャストに草刈正雄氏というのは、あまりにもハマり役だった。はっきり言って、今に至るも当時の彼以上にキレイな男なんて日本の芸能人の中にはいないし、彼なくしてはこの作品の映画化も在り得なかっただろう。 周知の通り、大藪春彦氏の作品の中でもこの「汚れた英雄」は「野獣死すべし」に匹敵する代表作で、晩年に書かれた「アスファルトのタイガー」よりも私は格段に好きだ。やはりずっと若くてらした頃に書かれた作品だからかもしれないが、そのストーリー、文面から来る気迫がリアルタイムで作者自身の心情と重なる。 ご存知ない方のために少しストーリーをご紹介しておくと、背景となる年代は昭和32年からの約10年間。日本の戦後がやっと落ち着きかけたような時代である。18歳の北野晶夫はオートバイ・レースに夢中だが(もちろん走る方)、その類稀な美貌と頭脳の他は未だ何ひとつ持ち合わせていない。戦争で両親を失った彼は暫く前まで叔父の所に身を寄せていたが、裕福な暮らしではないぱかりでなく虐待されるような環境で育った。大学入試の失敗が原因で叔父とケンカになり、殴り倒して家を飛び出すのだが、ストーリーの冒頭では軽井沢のマクドナルド家に猟犬の世話係りとして住み込み働いている。マクドナルド氏はアメリカから猟犬を輸入して販売する仕事をしていて、犬を訓練するという仕事の性質上、既に猟銃に関しても晶夫のウデは相当なものだ。しかも密かにマクドナルド夫人と出来上がっていたりする。レース若しくは犯罪と、銃と女、これは大藪氏の多くの作品に共通のテーマでもあるが、この作品でも冒頭からわかるように徒手空拳と言っていい主人公が、女を踏み台にしながらレース界で登りつめて行く過程が描かれている。数々のレースで表彰台に輝きながらも、枚挙にいとまがない女性関係、しかも明らかに「女で食っている」というプレイボーイぶりとそのスキャンダラスなブライヴェートゆえに、彼は「汚れた英雄」なのだ。 確かにこの話は始めから終わりまで、とことん暗い。しかし同時に申し分なく美しい。 大藪春彦の主人公においては、彼が恋するのは常に女性ではない。どこまで行っても女は添え物だ。 北野晶夫の場合モーターサイクルが、そしてレースが何者にも変え難い恋人なのである。それはもう究極の純愛で、だからこそプレイボーイだろうが性格が悪かろうがプライヴェートがめちゃくちゃだろうが、その精神性は純潔であり、抜群に美しいのである。外見の美貌というものは、精神性に裏打ちされていなければ何の意味もない。 そして様々なレースの克明な描写もさることながら、ゴージャスな舞台背景がまたいい。話は当時まだ整備もロクにされていない浅間のレース・コースから始まるが、その後全編を通してレースを追いかけるように世界中を駆け巡る。更にクルマ好きの向きにはたまらないほど魅力的なのが晶夫の乗り回す名だたる名車の数々だ。中でもテスタロッサ(もちろん初代。このクルマは現在ヒストリック・フェラーリとして名高いが、取引価格は10億を超えると言われる)とジャガーXKSS (XKスーパースポーツ。そもそもジャガーDタイプから乱暴にも公道が走れるようにコンバートされたもので、殆ど全くのレース・カーだ。工場火災のためにその殆どが失われ、現存するのは16台のみ。)は出色である。どんなクルマか知っていて読むと、シーンのヴィヴィッドな華麗さもいやますというもの。このあたりのチョイス、さすがに大藪春彦である。クルマばかりではなくヨットなど船舶もすばらしいものが出て来るし、添え物とは言え回りの女性もその殆どが美女ばかりだ。あとはもちろん彼一流のベッド・シーン。 大藪氏の作品はよく写実的だと言われるが、しかし私はその大勢において本質的にロマンだと思う。そうでなければ有名なジョークにもあるように、日本人のプレイボーイなんてものは存在し得ない。しかもこの時代にだ。少し話は逸れるが、伊達邦彦にしても、その生き方そのものが正にロマンだと言える。 さて、作品の解説に時間が掛かってしまったが、今回の主題は副題にも掲げたように「いい男」について考察することである。 一体何が人間を美しく見せるのか。 先ほども書いたことだが、美と愛は通底するものだ。そして「愛」は「意志」に通じる。強い意志、それが即ち愛であり、一般的に漠然と信じられているように、偽善的な「善」性などとは無縁なとことん利己的なものでもある。かつてオスカー・ワイルドはイエスを「詩人であり個人主義者」と評したが、イエスが美しいのは自分を捨てて他者に尽くしたからではなく、その神性は心底から弱者を救うことに「利己的な」喜びを見出した点にある。そのような内的衝動なくして「美」もまた成立し得ない。 私が常に美しいと思うのは、確固とした自我を認識し、それがどのような方向に向いたとしても、例えそれが犯罪的な性格のものであろうとも、そのためにのみ突き進むという生き方だ。どれほど抑圧されようが踏みつけられようが、ただその意志のためだけに負荷を強靭に跳ね返す。逆説的な言い方をすれば、そのように生命が輝くためには危機的状況がある意味「必要悪」であるということかも知れない。 モーター・スポーツの黎明期にあたるこの頃、整備さえロクになされていないコースでレースを戦うために、マシンをリヤカーに積んで自転車で曳いて来る。それでもただ走りたいという、その破滅的とさえ言える切望のために、「汚れた英雄」の冒頭のシーンは芸術的でさえある。 もう一度オスカー・ワイルドを引用させてもらいたい。彼は「模倣の終わる所に芸術が始まる」と書いているが、同時に逆も言えるのだ。つまり「模倣が始まる所に芸術は終わる」と。芸術は常に美と共にあり、美は意志と切望なくしては生まれない。晶夫自身、レースの世界で頂点に登りつめた時、自分が戦ってきた軌跡は二輪レースの世界で最もすばらしい時期だったのではないかと回想する。日本という国自体が貧乏で、誰もが夢だけに飢えていたような時代。それはとりもなおさずこの国の夏だったのかもしれない。全てが豊かになった今、この国はすでに「模倣の時代」に入ってしまった。破滅的な意志のみで突っ走るような生き方は既に過去のものとなり、排除される。 しかし「愛」や「情熱」という言葉が死語になるような社会に、また「未来」もない。今この国で、晶夫のような心底「いい男」が簡単には見つからないのも当然のことかもしれない。安定に隷属する家畜は、美に最も遠い生き物でしかないからだ。今は亡い、この国の夏を想起させる作品ゆえに、私はこの季節になるとこの本が読みたくなるのかもしれない。 ところでこの作品のラスト、これがとことんカッコいい。 でもまだ読んだことがない人のために、それは書かないことにしよう。 真夏の昼下がり、クーラーなんか切ってしまって、昭和32年の夏にタイム・スリップしてみてはどうだろうか。私もこの夏はもう一度、始めから終わりまで、この作品を読み返してみたいと思っている。 映画のキャストは草刈正雄、レベッカ・ホールデン、木の実ナナ、浅野温子他。DVDで見つけたら、必ず欲しい作品である。 ※追記 2006.7.18.*2006.7月現在、この作品のDVDが既にリリースされています。Amazon.co.jp 等でお調べ下さい。 2001.6.11.- 6.12.AM 4:38 Writing BGM BY Richard Ashcroft "Alone With Everybody"(ハマりすぎ?)
<DATA>
>> Workshop Review Vol
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