1.「ロリータ」と「コスプレ」についての考察 うちのファッション・コーナーで扱っているお洋服は、一般に「ロリータ」と呼ばれているカテゴリーに属するブランドさんのものが多いですが、私自身がこういったフリルやレースのお洋服をよく着るようになった頃には、そもそも「ロリータ」という言葉自体が一般的ではありませんでした。(いったい何年着てるんだとゆーよーな、許されない追及はしないよーに。) 「ロリータ」という言葉そのものはウラジミール・ナボコフの小説のタイトルで、主人公のハンバート・ハンバートというオジさんが好きになってしまう女の子の愛称でもあります。ハンバートさんはオジさんの身でありながら、ずっと年下のロリータにイケナイな感情を持ってしまうわけですが、このストーリー展開から、いわゆるところの「幼女趣味」を「ロリータ・コンプレックス」と呼ぶようになったようです。90年代に一気に一般的になった「ロリコン」という言葉は、もちろんそこから来ているわけですが、80年代ならニューロマンティックとか呼ばれていた種類の、私に言わせれば単に「ドレッシーなお洋服」が、なぜ「ロリータ・ファッション」などと呼ばれるようになったのか。 これはもう推測でしかありませんが、おそらくどちらかと言えば幼い女の子向けのお人形のようなスタイルのお洋服を、十代後半以降の女の子が着るというのは一般的かつ日常的なファッションではなかったために社会的に特殊な存在として分けられ、そのスタイルと当時流行っていた「ロリコン」とか「ロリータ・コンプレックス」という言葉がイメージ的に結びついて、誰言うともなくそんなカテゴライズが成立したのではないかと思ったりします。 つきつめて言いますと、現在「ロリータ・ファッション」と呼ばれている種類のお洋服は今に始まったものではなく、その名前で呼ばれる前からずっと存在していたスタイルであると言えるでしょう。事実、MILKにしてもJane Marple にしても、一応現在そのカテゴリーに入れられることも多いようですが、ブランドが成立した当時は全く「ロリータ」というカテゴリーそのものが存在していなかったと思います。 さて、ロリータ的スタイルのルーツはそんなところにあると思われますが、これとは別に90年代にカテゴライズされたのが「コスプレ」というジャンルです。「コスプレ」というのは「コスチューム・プレイ(costume play)」の略で、元来は「時代劇、史劇」と訳され、つまりは古い時代のファッションを再現した衣裳を身に着けて演じられる演劇のことでした。つい最近、コスプレの世界大会などというものがあって、日本のみならず海外からも愛好家が集まって楽しまれたようですが、90年代に言うところの「コスプレ」とは、この世界大会の例にも見るように、主に日本の漫画やアニメの登場人物に扮して仮装を楽しむことになっているようです。もちろん、それ自体は何も問題はないですし、むしろ日本の代表的な現代文化であるアニメや漫画が、広く世界の人たちに受け入れられ、楽しまれているということは大変喜ばしいことと言えると思います。 ただ、そういった楽しみ方が「コスプレ」の表側であるとすれば、これにはフーゾクと深くかかわるところの裏のコスプレとも言うべきジャンルが存在しており、これはもう全くそれこそ「フーゾク」ですから、決してお上品な存在とは言えないものになってしまうわけです。 けれども「ロリータ・ファッション」というのは、特にこの「裏のコスプレ」とスタイル的にかぶる部分があり、そのために「ロリータ・ファッション」の何たるかについて理解度が足りないと、せっかくドレッシーなお洋服を着ていても、「コスプレ」になってしまうという落し穴に落ちてしまいます。それゆえ、ロリータなお洋服のコアなファンの方は、コスプレと同一視されるのを大変嫌われる傾向がありますし、それは無理ない話でもあると言えるでしょう。
2.ロリータ的精神って何? 私にとっては「ロリータ・ファッション」と呼ばれている種類のお洋服は決して特異なものではなく、先ほども書きましたように、単に「ドレッシーなお洋服」であるにすぎません。元来、こういったお洋服を好まれる方というのは、ファッションに対する意識が高く、文化的にもエレガントで美しいものを愛される傾向にあると思います。もちろん社会的なマナーは率先して守り、立居振舞いも優雅で、つきつめて言えば誰もがイメージする「理想的なお嬢さん」である、もしくはそうあろうとすることのファッション的表現であるとも言えるのではないでしょうか。つまり、それは着る人の内面的なものと直結しており、それゆえその内面性に問題があるとか、意識が低いとかすると、それは「ロリータ」ではなくて悪い意味での「コスプレ」になってしまうのでしょうね。 「コスプレ的ロリータ」というのは、ある意味では「茶化し」であり、「マネっこ」にすぎない世界で、大変「皮相的」であるとも言えます。残念ながらそういう人たちは単に流行りのロリ服を着ているというだけの存在ですから、そういうものを愛する人たちの精神的なものがそもそも理解できず、社会的に白眼視されるような行動も平気でとれば、マナーなどというものもそもそも躾られていませんから、全くハタ迷惑な存在になってしまいもする。しかも、こういったお洋服はただでさえ目立ちます。つまり、正しい方向に目立てば美しいのですが、まちがった方向に目立つと目も当てられない存在に成り果ててしまうということです。 また、目立つということは「周囲の嫉妬も買う」ということを忘れてはなりません。ドレッシーなお洋服を着て堂々と歩けるというのは、それだけでも大変恵まれていることなのですが、残念ながら世の中、それを当たり前に出来る人たちばかりではない。経済的なものももちろんですが、周囲環境の悪さから、したくても出来ないとか、する勇気がないとか、それはもう単にその人たち個人の問題でしかないのですが、困ったことにそうであればあるほど妬みの度合いは深くなります。90年代は特に、ファッションに限らず多方面においてその傾向が突出して出ており、それ自体も社会的に大変問題であると言わざるをえませんが、ともかくそういう社会環境の中で、思い切り「恵まれてる」ということを宣伝して歩いているようなものですから、これはもうそれなりの覚悟はしておかなくてはいけません。例え自分では経済的に、または環境的に恵まれているという意識が特になくても、周りからはそう見えてしまうのです。それゆえ、みっともないと風当たりが異常に強くなりますし、だからこそ誰も何も言えないくらい、きっちり着こなす。美しく目立つ。そのための日ごろの努力が必要になってくるわけですね。つきつめて言えば、人間的な内面性だとか、それの基盤になる教養を養う。エレガントなスタイルを自分のものにしたければ、自分がエレガントな人間になるしかない、ということでしょうか。そしてそれは、単にロリータ・ファッションを着こなすということに留まらず、ファッションそのものを楽しむことの基本だと思います。 とゆーことで、ちょっとキビシイ話になってしまいましたが、コスプレとロリータの境界を引くとすれば、それは内面に由来しているか、単に外側だけマネているか、そんなところにあるのではないかと思います。お品が伴いませんと単なる仮装大会になってしまうとゆー、目的から著しく逸脱した結末に終わってしまうのではないか。 ま、当人が、何を目的にしてるかにもよりますが、それはロリータなお洋服のどこに魅力を感じているか、何故そのスタイルを着たいのか、というところに、端を発する問題でしょう。単にイベントとかで「ごっこ遊び」的に着たいのならそれはそれでいいですし、でも、それによって可愛いとかエレガントとかの印象を周囲に与えたいとか、自己表現のためのファッションとして着るということなら、まずは自分が精進努力するところから始めざるをえないと思います。偉そうなコトを言ってますが、これは自分にも言えることで、オシャレを楽しもうと思ったら、それはやっぱり日々たゆまぬ努力も必要になるってことですね。
3.どんなブランドを着るにも言えること ロリータ・ファッションに限らず、例えばシャネルなどの海外ブランドでも、それなりに高い教養や内面性があるヒトが着るのと、単にお金があるだけの成金さんが着るのでは、これはもう全然問題にならないほど違うわけで、中身が伴わないと単なる仮装になるっていうのは、どんなブランドを着るにも言えることかもしれません。シャネル・スーツの理想的な着方というのが見たければ、「危険な関係」のジャンヌ・モローでも参考にして下さい。あれ見て、その後で恥ずかしげもなく堂々とシャネルが着れる日本人がどのくらいいることか...。 70年代の高度成長を背景に、一気に成金さんが増えた80年代、そこへ持って来て巻き起こった高級ブランドブーム、それはそれでいいんですが、どうもそのへんに成金的勘違いというのはあったようで、私などから見れば、「BMWでパチンコ屋に行くのヤメてくれ」とゆー、まあ、これはクルマの話ですが、あのブランド・ブームってのはそれほど、つくづく情ない現象でしかありませんでしたね。お値段高いからって、それで着てる人間、持ってる人間が良く見えるなんてのは、知的レベルの低い人たちの間でのみ通用することでしかありません。着るものでもクルマでも、それに伴ったマナーや行動、更には内面性、そーゆーものなくして、決して決して、本当のカッコよさは実現できないものだと思います。これと同じことは、ロリータ的なお洋服についてもやはり言えることではないでしょうか。 ロリータなお洋服っていうのは、確かに「何才まで着れるか」って問題がふつー、つきまとうスタイルですが、このカテゴリーに入れられているお洋服でも、ぐっと落ち着いたスタイルのものもありますから、実際に着れる期間はそれほど短いとは言えないでしょう。それにそこで覚えたことというのは、将来的にスタイルを変える年令になった時でも、決してムダにはならないと思います。 90年代、すっかりみっともなくてだらしない人たちが増えてしまった日本ですが、そういうものとは正反対の理想の高いお嬢さん方も決して少なくはないように思われます。教養があって誇り高い、美しいお嬢さんたちにもっと増えてもらいたいものだと、つくづく思ってしまうのは、私だけではないでしょう。誰が一番みっともないかを競っているかのような現在の社会環境の中で、努力と向上心の伴った生き方をするというのは実際なかなか大変ですが、因果応報とも言いますように、ずるずると流されて生きているだけの方たちの末路というのはとっくの昔に見えています。 思えば、あの成金さんたちのブランド狂いは、「お金持ちコスプレ」だったのかなという気もしますし、それは今もあまり変わっていないようですが、せっかくドレッシーだったりエレガントだったりするお洋服を着るなら、そのへんもふまえて皆さま、内面性の伴った素敵なロリータさんになって下さいね。
2006.9.2.-9.3.
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