シルヴァーのデイムラー・ダブルシックスが粛々とした足取りで緑豊かなワインディングを駆け抜けてゆく。この古風なオートマティック・トランスミッションのジャガーが綾の十年来溺愛している親友と言ってもいい愛車である。

スピード狂とも暴走族とも友人一同から陰口をたたかれている彼女なら、マセラーティ、ロータス、フェラーリかランボルギーニでも誰も驚かないところだが、綾はことのほか歴代のジャガーに目がない。今では古いものならXKSSからEタイプ、新しいところでXJ220まで所有するほどで、それもこれも十四才の時に一目惚れして手に入れてもらったこの十二気筒ジャガーに端を発する。他のことでは部屋の中の掃除でさえメイド任せな綾が、この車だけは休みが取れるたびにフロントグリルからタイア・ホイールまでぴかぴかに磨いてやり、ワックスがけまでしやるものだから、マキなど「あのくるま、今にのど鳴らすんじゃないかという気がしてくるわ」と嫉妬するくらいの仲の良さなのだ。

彼女は十七才の頃までこいつとバイク ― その頃乗っていたのはBMW・R65LSだった ― をとっかえひっかえしていたのだが、十代の少女が乗り回すのにはジャガーというのはどうにも似合わない。いつまでたってもちぐはぐだから、修三さんは見かねてもう一台別のを買ってあげるよ、と言ってみた。しかし綾はジャガーが気を悪くするからいらない、と言い張って、バイクまでガレージにしまいこんでしまったのである。以来メンテナンスはさせているが、バイクに乗ることの方が数えるほどだ。

そうこうしているうちに恐ろしいもので、綾とこのダブルシックスは周囲の誰にとっても"どちらが欠けても物足りない"という対になってしまい、十年たっても手入れが行き届いて美しくエレガントなこの車と今では綾は殆ど一体化している。

さて、今日はそのジャガーにマキ姫を乗せて、綾は約束通り週末を一緒に過ごすために山中湖に向けて走っていた。そこに山を切り開いた数千坪の敷地を持つ別邸があるのだ。建物自体はさほど大きくはないログ・キャビンだが、周囲の景観がすばらしく、空気が澄んでいる。マキが助手席で言っていた。

「綾」

「ん?」

「まだこんなもの車に乗せてるのね」

「触っちゃだめだぞ」

マキがグラヴ・コンパートメントから取り出したのは、コルト・ガヴァメント.380オート、口径9ミリの自動拳銃だ。

「しまっときなさい。マキが持つようなもんじゃないから」

「おまわりさんに言いつけてやろうかな。ね、見つかったらどうするの」

「モデルガンだって言うよ」

「わりと軽いね」

「小さいからね」

「前に見たのってもっと重かったわ」

綾は少しスピードをゆるめると、銃をマキから取り上げてグラヴ・コンパートメントに戻した。

コルトの代表的な拳銃に長い間アメリカの軍用拳銃だった1911・A1というタイプがある。それは45口径のセミ・オートだが、そのスケールダウン・モデルが綾がいつも手もとに置いているこの.380オートだ。一般向けのディフェンス・ピストルだが、万一の時の護身用には十分な性能がある。

「どうしてそんなに銃が好きなの」

「好きじゃいけない?」

「そんなことないけど...」

「側に置いとくと安心できるんだよ。これでも、か弱い女の子だから」

「うそだあ、綾のどこが」

「悪かったな。でも冗談ごとじゃないんだぞ。本当に自分でも生まれ間違ったと思ってるけど...。それがあれば確実に自分くらい守れるからね」

「でもこのごろ銃ってますます評判悪いじゃない。アメリカなんかでもガン・コントロールとか言われるようになってるって聞くし」

「ねえ、マキ」

「うん?」

「コルトにね、ピースキーパーっていう拳銃があるんだ」

「ピースキーパー?それってpeacekeeper?」

「そう」

「おかしいのね」

「そう思う?」

「なんか、へん。銃が平和を維持するの?矛盾してるわよ」

「ぼくも子供の頃はそう思ってたよ。だけど銃はあくまで物でしかなくて、使うのは人間なんだよね、結局。銃を作ったのも人間、使うのも人間。犯罪に結びつくのは銃のせいじゃなくて本当は人間のせいだってことさ。銃が守って来たものもたくさんあるんだよ」

「それはそうかも知れないけど...」

「ま、バカに刃物は持たせないに限るけどさ。 ...でも、もともと武器の起源っていうのは...。そうだな、人間ってね、熊やライオンみたいな肉食獣には理屈ぬきで勝てないだろ」

「そうね」

「だから道具を作るのさ。あの爪や牙に匹敵できるだけのね。つまりそれを上回る力がなければ人類自体が存続しえない。基本的には人間だって弱肉強食の法則から免れてるわけじゃないんだから、生き残るためには仕方ないよね。例えばマキにとっては動物園や水族館でかわいい、とか思って見てるぞうやイルカやそれに他の野生生物が人間の生活や時には安全を脅かすことがあるのは現代でも事実なんだ。増えすぎた動物を群れごと射殺するなんてのは残酷かもしれないけど、そこにいる人間にとっては生存にかかわる場合もあるんだよ」

「そんなことがあるの」

「まあね」

「残酷」

綾は笑って続けた。

「まあそれは動物の話だけどさ。人間の世界にも熊やライオンはいっぱいいるってことだよ。確かに銃がなければ突発的で究極的な犯罪は起こらないかも知れないけど、犯罪とは呼ばれない犯罪を水面下で起こし続けているのが人間なんだ。決して性質のいい生き物じゃないからね、人間てのは。日本国内でもよく見てみるといい。確かに生死にかかわるような犯罪の発生率は外国に比べれば低い。だけど爪も牙もない鳩同士だから陰湿な社会問題も起こってくるわけ。どこでも人が集まる場所では何らかの形でね。精神的な犯罪というか...。銃による犯罪の方が余程単純で扱いやすいと思うよ」

「外国だと違うの」

「まさか。根は同じだよ、人間なんだから。例えば今の発展途上国が安定して日本のような社会体制を確立すれば、賭けてもいいけど同じような問題が起こってくるね。今はあんまりひどすぎて生き残るだけで精一杯だからそこまで手が回ってないだけで。...要するにぼくは人間性なんてものにはまるっきり信頼を置いてないってこと。個人主義者だからね。人間全部に価値があるとは思ってないんだ。ま、銃を非難する連中の中には人間という生き物についてまるっきり分かってないんじゃないかとしか思えないのがいるね。本末転倒だよ。犯罪を起こすのは銃じゃなくて人間なのにさ。はっきり言って、ろくなことが起こってないんだから、世の中なんて」

「そんなもんかな...」

マキが無邪気に首を傾げるのへ綾はにっこりして言った。

「いいよ、マキはわかんなくて」

かわいい妹に現実なんか見せないですめば綾にとってはそれに越したことはない。どちらにせよ彼女の方は生来それを直視してしまうように生まれついている。

「ともかくね、ぼくが銃を好きなのはそれが純粋に力だからなんだ。銃ばかりじゃなくて経済もそうだけどね。少なくともぼくはそれを誤用するつもりだけはない。熊もライオンも今や人間の敵ではないけど...。残念ながらそのおかげで最大の敵ができてしまったのも事実だしね」

「最大の敵って?」

「人間自身さ」

綾は笑って答え、そう言えば今夜はマキの手料理をごちそうして頂けるんでしたね、と話題を変えた。

「もちろん!これくらいだもん、あたしが綾に勝てるのは」

マキは張り切って答えた。

prologue original text : 1996.9.9〜10.15.

revise : 2009.6.13.

revise : 2010.11.29.

 

  

© 1996 Ayako Tachibana